3 足許に澱む暗褐色

1/1
45人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

3 足許に澱む暗褐色

 吊り下げられた照明のオレンジ色に染まるホイップクリームにゆっくりとフォークを沈ませて、青葉は一口大に切り取ったショートケーキを口へと運んだ。 「……美味しい」  舌の上で溶けるクリームとスポンジの程よい甘さが疲れた心に優しく染み込んでゆくのを感じながら、吐息とともに声まで零す。 「ちょっとぉ! ナニ当然のことを言っちゃってんの。誰が作ったと思ってんの、アタシよアタシっ」  途端にカウンターの向こうから返った甲高い声は、幼馴染みのミキトのものだ。 「製菓学校の洋菓子科を出たなら、普通はパティシエになるものじゃない? なんでこの店? そもそも実家は継がないの?」 「ゲイバーでケーキを出しちゃいけないって法律はないもの。アタシは料理もケーキもお酒も作れてハッピー、美味しいケーキを食べたお客は恋人同士で甘ぁぁぁい夜を過ごせてハッピー。実家の父はまだまだ元気で、寺はソラトが継ぐから皆ハッピー!」  でしょ、と綺麗に整えた睫毛を揺らして妖艶なウインクをキメるミキトに、青葉は彼の真面目な弟のハッピーを密かに祈った。  門倉天人(かどくらそらと)は、戸籍上は男性でありながらも完璧な美女としての外見でゲイバーを切り盛りする奔放な兄幹人(みきと)を許容する寛大な少年だ。誰よりも平穏無事な人生を送ってほしいと願わずにはいられない。 「今日、行ったよ。お寺」 「なぁに。お墓参り?」  切れ切れに言って青葉は再度銀色に光るフォークをケーキに刺しながら、土曜だしお天気もよかったし、と一日を振り返るミキトに頷き返す。  ミキトは全く寺の息子らしくはないが、父親は人望と信仰心に篤い立派な僧侶で、青葉の実家である四條家も檀家として世話になっており、本堂裏の墓苑の一角では先祖たちが静かに眠っていた。 「もう十六年……ね」 「……だ、ね」  ふたりがともに思い出した故人は、青葉の兄若葉(わかば)だ。十七で夭逝した人を懐かしく哀れに想い、献杯、とグラスを傾け合う。 「……フォークに、会ったよ」  短い沈黙の後、意を決して青葉は口を開いた。と同時にミキトの手元のグラスが、がしゃん、と無様な音を響かせる。 「どういうこと?」  ただひとりだけ、ふたりは過去にフォークと関わったことがあった。その男も若葉同様、既に鬼籍に入ってしまっているのだが。 「いつ会ったの? どこの誰? 本人が言ったの、自分はフォークだって?」  驚愕に上擦る声を聞かせ、詳細を求めてミキトが青葉の双眸を覗き込む。落ち着け、と言う代わりに青葉はケーキを一口、食んだ。 「職場の先輩で、最初は味覚障害だと言っていた。僕をフォークやケーキではないと思って、気を遣ってくれていたのかもしれない」  昼休みの屋上で偶然出逢い、そう聞いたのだと青葉が時系列に沿って説明を始めると、ミキトはカウンターの内側でスツールに腰を落ち着けた。目の高さが同程度に下がり、店内に流れる音楽も周囲からふたりの会話を隠すのに一役買っているようだ。それで、とミキトが先を促した。 「僕、爪を切り忘れていたんだよね。ほら」  未だに切っていないそれを見せるように、顔の高さに片手を上げて青葉が苦笑する。 「全然傲慢な人ではなくて、自分がフォークであることが辛いみたいで自虐発言が多めで、聞いているのも悲しくて、僕もつい……」  拳を握った際に爪で掌を傷つけた。その血を見た瞬間の迅の豹変を、青葉は少しの寒気とともに思い出す。 「素早く手首を取られて舐められた。こんなに小さな傷で、出血なんてほとんどなかったのに、それでも彼は……」  甘い、と。  味覚を感じぬはずの舌を動かし、心底嬉しそうに呟いた。脳を直撃する甘さ。その悦びに瞳を輝かせて。  自分はケーキなのだろうかと口にすることは怖ろしく、青葉はカウンター上のグラスを両手で包み込んだ。 「仕事、辞めた方がいいんじゃない? 週五で同じ建物にいるなんて危険極まりないわ」  そいつと離れた方がいいと遠回しに言うミキトの心配が、青葉には判る。  兄若葉が命を落としたとき、青葉とミキトは十にも満たぬ子どもだった。だからこそ余計に柔らかな心は抉り取られやすく、より一層深い傷痕として残ってしまったのに違いなかった。 「でも、学校には何百人もの人がいるし」 「無理やり連れ込める空き部屋だって、沢山ある場所でしょうっ」 「……声が大きいよ、ミキト」  苦笑とともに青葉が自身の唇の前に立てた銀色のフォークが、ミキトの目前できらりと光る。カトラリーを清潔に保つのは飲食店としては当然の責務だが、今だけはその煌めきを疎んでミキトが小さく唇を噛んだ。 「若葉があんなことになっちゃったから、両親はせめて僕には普通でいてほしいと思っている……と思うし」 「アンタの人生よ」  光沢を放つチャイナドレスのスリットから無遠慮に覗く長い足を組んで、ミキトがカウンターに頬杖をつく。妖艶な顔に嵌め込まれた光る瞳が、青葉だけを強く見つめた。 「僕、教員になりたかったんだよね。名門私学は設備が整っているし、教師たちの質も高い。もちろん収入も、ね」 「それは何より」  真剣な気持ちの最後に茶目っ気を見せられて、ミキトが幼馴染みを過剰に心配するのを諦めた。柔和な外見とは裏腹に、青葉は案外頑固な性格をしている。過ちが含まれぬ限り自身の決断を安易に覆さないそれを、ミキトは誰よりも理解していた。 「じゃあ、これあげるから肌身離さず持ってなさい」 「あはは。子どもみたい」  背後の引き出しから涙型の青い物体を取り出し、ミキトが放る。受け取ったそれに目を落とし、青葉は笑った。掌に着地したものは小学生のランドセルに付けられているような、防犯ブザーだ。  悪戯心で紐を引きたい衝動に駆られたが、非常事態でもないのにゲイバーのカウンターでそんなものを鳴らしては迷惑千万だと思いとどまる。友人の心遣いに感謝して、ありがと、とスーツのポケットに片づけた。 「若葉のことがなければ、僕もミキトもフォークやケーキの存在なんて知らずにいられたかもしれないのにね」 「本当に。同じ人間なのに、どうしてそんなふうになってしまうのかしら」 「……ね」  いつの間にか自分より年下になってしまった兄に手向けた白い花を思い出しながら、青葉は皿に残ったショートケーキをフォークで持ち上げ、口内へと押し込んだ。  ――ご子息はケーキです。  長い髪を緩く編んだ美しい女医が告げた言葉は、七歳の青葉には半分しか理解できなかった。  ゴシソクは息子という意味だ。  では、ケーキとは。  ――若葉君はケーキ屋さんで売ってないよ?  ふわふわきらきらの洋菓子を連想して女医に問いかけると、父親に頭を撫でられた。黙っていなさい、の合図だと読み取り、不本意ながらも口を噤む。  同級生の少年から暴行を受けて酷い怪我を負った若葉は処置を終えて病室で眠っており、談話室というプレートの付いた扉の奥の小部屋には両親と青葉、女医の四人がいた。  ――検査の結果、相手はフォークであることが判りました。  ――何です、それらは。  青葉のみならず、両親も初めて耳にする事柄だったのだろう。愕然と青葉の頭上で問いを発した父親は、驚きのあまり口を閉じることさえ忘れてしまっているらしかった。  茹だるように暑かった、十六年前の夏。  設定温度を低めにした空調の稼働音が、耳鳴りのように青葉の聴覚を侵していた。  二杯目のカクテルを舐めるように飲む青葉の意識は過去と現在を激しく行き交い、最後に獣の如く目を光らせた迅の横顔に辿り着く。  ――若葉があんなことになっちゃったから。  ケーキは、自身がそうであることを知らずに生きている。ゆえに若葉は同級生から向けられる恋心も情動も純粋な気持ちで受け入れようとし、相手が捕食者であるなどとは微塵も考えてはいなかったようだ。肌を傷つけられ、血を啜られても、誰にも相談することをしなかった。  そして、遂にふたりは終焉を迎えた。  否、それを選んだのはフォークだ。若葉は巻き込まれただけの犠牲者に過ぎない。  ――両親はせめて僕には普通でいてほしいと思っている……と思うし。  先程ミキトへ語った気持ちは、嘘ではない。  長男を喪った両親は、残された次男を溺愛した。次男が自分たちと同じ、ごく普通の人間であるようにと切実に願って寺社仏閣を訊ね回っては祈祷を繰り返しているのを青葉は知っている。  一端の社会人として就職し、婚姻によって家庭を築き、老いて死ぬ。  それは、圧倒的大多数の人間が連綿と繰り返してきた、「普通」の人生だ。  長男がケーキでなければ知らずにいられた「非日常」に次男が囚われぬようにと祈りを捧げて日々を送る父母を安心させようと、青葉はミキトを除いて人間関係を最小限にとどめ、生真面目に生きてきたはずだった。  それなのに。  ――俺はフォークだ。  それは、若葉を不幸にした者。一生のうちで、最も出逢ってはいけないはずの人種。  耳の奥で繰り返す低音に、悪寒がする。 「……葉。タクシーを呼ぶから、今夜はもう帰って寝ちゃいなさい」  肩に触れてくる手に顔を上げると、心配そうな表情をしたミキトと正面から目が合った。 「美人だね、ミキト」  幼馴染みが製菓学校を選んだ理由は、何だったろう。高三の春、初めて配布された「進路希望調査」という名のプリントに、ミキトは微塵も迷わず目指す学校名を記していた。 「ありがとう。知ってるわ。……あら」  手元の携帯端末でタクシーを呼ぼうとしたミキトの顔が、画面から上がった。お会計かしら? と常連客に確かめる明るい声が、睡魔に囚われかけた青葉の耳にも淡く届く。 「どうしました?」 「おネムさんをタクシーに放り込もうと思って。ショートケーキにカシオレなんて、女子みたいな味覚の子でしょ?」  電子決済で素早く支払いを終えた客へ笑うミキトに余計なお世話だと言いたい気分で、青葉が高いスツールから腰を浮かす。 「わっ」  床に片足を下ろした瞬間、酔いのせいで視界が回った。 「っと!」  転ぶと思った刹那、屈強な腕に抱き止められた。長身にスーツを纏った、黒髪の男だ。 「この人、俺が送ってもいいですか」 「ホントぉ? 助かるわぁ」  頭上で勝手に進む話に青葉は今度こそ防犯ブザーの紐を引いてやろうかと思いかけたが、ここ数日のめまぐるしい思考に疲れてやめた。ミキトが信頼している相手ならば、問題は起こらない。頭に「新」が付く社会人でも、自分は成人男性だ。初対面の人間とタクシーに同乗するくらい何でもない。運転手に行き先を告げれば、後は黙っていても自宅マンションに辿り着く。  そう思惟して、店を出た。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!