4 白と黒のフォーク

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4 白と黒のフォーク

「住所を言う前に寝落ちたのはあんただ」  一夜明け、リビングの真ん中に設えたソファに高々と足を組んだ迅は、出てきたばかりの寝室の扉を背にして立つ青葉を睨みつけた。路上に捨てなかっただけ有り難く思え、と口には出さずに真顔を向ければ、青葉は言い訳もできずにただ萎縮する。  怒りの理由は、酔っぱらいの世話をさせられたことではない。他者の目を引く整った外見に頓着せず、外で無防備な姿を晒すことが問題なのだ。と、言ったところで通じるか否かは甚だ怪しい。 「申し訳ありません、賀茂川先生……」  しゅんと肩を落として、青葉はようやく自分が黒いスウェットを着せられていることに気づいたらしい。どうして、と言うかのように首を傾げる様子が、子リスのようだ。 「あんたはきちんとしたジャケットと襟のついたシャツを着ていたし、スラックスに皺が寄るのも嫌だろうと思って俺の新品のそれを着せた。買ってすぐに洗濯したから、清潔だ。下着まではさすがに脱がせていないし、合意を得ずに一方的なセックスをする気も全くない。酔っていたからベッドを譲っただけで、俺はソファで寝た。今日は日曜で学校は休み。他に質問は」 「……ないです。お世話になりました」  立て板に水の如く説明し終え、迅はようよう目元を緩めた。 「木曜以来、ですね」  久し振りに顔を合わせたと気づいた途端に緊張を覚えたのか青葉が震える指先をこっそりと握り締めるのを、迅は見逃さない。  昼休みの屋上で迅が身の上を語り終えると同時に降り出した雨は金曜になっても止まず、ふたりはそれぞれ職員室の自席で昼食を摂った。栄養補助食品をぼそぼそと 食みながら、迅は離れた場所に座った青葉を密やかに観察した。  本当に食が進まないらしく、青葉は売店でひとつだけ購入したおにぎりを半分ほと食べたところで袋に戻し、後は茶ばかりを飲んでいた。 「先日の話だが、続きを聞いてくれるか」  青葉が何事かを言いかけた途端に昼休み終了のチャイムが鳴ったことを迅は憶えていて、今ならば時間の制約も他者に邪魔をされる心配もないと言外に滲ませ、青葉を見た。 「聞きたく、ない、です」 「なぜ!」  予想外の返答に思わず跳ねた身体が勢いもそのままに、扉の前から離れぬ青葉に歩み寄る。ひゃ、と小さな悲鳴を上げて防御の姿勢を取った青葉に気づいた脳が、遅ればせながら制止の命令を全身に送って迅は止まった。  両手で頭を抱えた青葉が、ずるずるとその場に座り込む。 「僕は普通でいたいんです。そうでなければいけない。僕に、それを望む人がいるから」 「四條?」 「聞かなくても判るんです」 「何を言っている! 判るって何が……いや、まずはコーヒーだ」  要領を得ぬ呟きに迅は苛立ちを覚え、青葉の細い肩に指を伸ばしかけた。が、ふたり揃って混乱に陥っても碌なことにはならない。  抱え上げた青葉をソファに落ち着かせて対面式のキッチンへ向かうと丁寧に計量した豆と水をコーヒーメーカーにセットし、スイッチを押した。どう淹れようと味は感じぬから平素は適当だが、青葉のためを思えばそうはいかない。室内に流れ出したのであろう香りに気づいて、青葉がキッチンの迅を見た。 「滅多に淹れないぞ。普段は水だ」  感じないのならば、初めから味のないものを選べばいい。そう思ってキッチンの隅にはミネラルウォーターの箱を積み上げている。 「でも、ミキトの店に……」 「雰囲気は味わえる」  酒の味は判らなくても、と言えば悲しい表情をさせそうで、言葉を選んだ。思い返せば出逢いの瞬間には自分は青葉の顔が好きだと感じていた、と意外なことに気づいて前髪をかき上げる。 「熱いぞ、気をつけろ」  飾り気のない白いマグカップを右手で差し出し、左手に握ってきた数個のスティックシュガーとミルクをテーブルに置く。 「い、いただきます」  目を瞬かせてカップにミルクを注いだ青葉の思考を深読みすることはせず、迅も隣に腰を掛けて己のカップに息を吹きかけた。 「……さっき、うっかり聞き流してしまったのですが」 「ぅん?」  絞り出される青葉の言葉は、まるで羞恥を含んでいるかのように小さい。聞き逃すまいと迅が首ごとそちらへ耳を傾けた――直後。 「合意のないセックスをする気はないって、本当ですか」 「ごふっ、けほごほっ」  投下された爆弾に、迅は咳き込んだ。 「何だ、いきなりっ。したいのかっ」 「そんなわけないでしょうっ」  怒鳴って、怒鳴り返されて、ふたりは同時に大きく息を吐いた。 「だって、賀茂川先生はフォークだから」 「……あぁ」  俯く青葉に、迅も屋上での一件を思い返す。青葉の掌にできた、微細な傷。そこに滲む僅かな血液に、迅は発狂しそうなほどの情動を感じて舌を這わせてしまっていた。とんでもない失態だ。 「あのときはすまなかった。俺も初めての経験で、フォークとしての衝動があれほど制御し難いものだとは知らなかったんだ。怖がらせて悪かった」  若干迷ってから琥珀色の髪に載せた掌を、青葉は振り払わなかった。そうする代わりに首を左右に小さく振って、いいえ、と言う。 「フォークだからといって、いや、フォークだからこそ相手の気持ちを無視した行為をしてはいけないと思っている。たとえそれがフォークであるがゆえの、本能的な欲求だとしても」  持ちうる限りの真摯さを込め、迅は青葉を見つめた。味覚を失い、フォークと診断された日の恐怖と絶望は、今も変わらず胸の底にある。「普通」ではなくなってしまった自分。だが、心まで得体の知れぬものに変化したわけではないと信じ、正しい道を行くことはできる。  現にそうして生きてきた日々が、今も迅を強く支えていた。 「……賀茂川先生は、真面目な人ですね」  青葉の視線が、膝の上に置いたカップへ流れた。半分ほど減ったコーヒーの表面に、天井の照明が映っている。丸いそれを見下ろす青葉の目の中で、白い灯りが妖しく煌めいた。 「けれど、フォークはケーキを捕食する者。その甘い香りと味には、決して逆らえない」 「四條?」 「ケーキは己がケーキであることを知らぬ、愚かで哀れな……」 「四條!」  薄い唇から零れたケーキという単語に迅は瞠目し、機械的に言葉を紡ぎ続ける青葉の肩を今度こそ強い力で掴んだ。 「……あぁ。すみません、僕」  虚ろになりかけていた琥珀色の双眸に、ふと意思の光が灯ったようだ。  この青年の華奢な身体の内側に隠された何かを見つけようと迅はさらに目を凝らし、好きだと最初に思った顔を凝視した。  見た目から始まる恋の、何が悪い? フォークにも、純粋な恋心は許されて然るべきものだ。自分がそれを証明してやる。そう思った。 「聞かなくても判ると言ったな」 「えぇ。……身内の話で恐縮ですが」  前置きをする青葉の目が数秒、何事かを逡巡するかのように室内を彷徨い、やがて静かに迅の瞳へと舞い降りた。 「僕の兄は、ケーキだったんです」 「な、に」  想定外の台詞を語られ、迅の理解が一瞬遅れた。 「高校入学直後から、兄が制服を汚したり怪我をしたりして帰ってくることが増えました。気づいた僕は小学生ながらも兄がいじめにあっているのではないかと心配になりましたが、兄は大丈夫だからと笑って、両親には秘密だよと繰り返すので何も言えませんでした」 「……まさか」 「一度、両親が不在の日に兄が自室で同じ制服を着た男に組み敷かれているのを見てしまって……そのときには意味が判らなかったのですが、今になって思えば……」  嘔吐感を堪えるように身を丸めた青葉の背を、迅は擦った。 「お兄さんは、その後」  問う声が、知らず震える。 「高二の夏、兄はそいつに酷い怪我を負わされ、入院しました。警察沙汰になったあげく検査を受けさせられて、奴はフォーク、兄はケーキであることが発覚しました。両親はとても戸惑っていましたが、学校が夏休みに入ったこともあり、兄は順調に回復していきました」  物理的にも性的にも青葉の兄がフォークに喰らいつかれていたのだろうと想像し、迅の胸中にも昏いものが渦巻いた。どこまでもケーキの尊厳を重視し、白い気持ちでいたいと思う心が見知らぬフォークを嫌悪する。  そいつのような者、自分のような者。  一口にフォークと言っても様々な人間がいるということに、改めて気づかされる話だ。 「両親は兄を説得し、転校の手続きを取りました。フォークも警察にマークされ、兄に接触できなくなっていたはずでした。それなのに、最後にもう一度だけ会って謝りたいとでも言ったのか、退院の翌日、フォークは自宅にひとりでいた兄を呼び出し……」  四條、と制止しようとした迅の声が青葉の頬の白さにたじろいで一拍遅れた。 「街外れの廃屋でようやく警察に発見されたときには兄は、兄だったもの、としか言いようのない食い散らかされた残骸となり果て、フォークは非合法的に入手した拳銃で頭を撃ち抜いていたそうです」  幼い青葉が最後にどんな兄を見たのか、迅には判らない。が、今も消えぬ恐怖に震える身体を抱き締めてやることはできる――はずだった。 「四條?」  が、そのために伸ばした迅の指先が触れる寸前で青葉はびくりと肩を揺らし、身を引いた。 「すみません。すみません、僕はあなたが、というよりフォークが怖い……っ」 「!」  早口に言って顔を覆った青葉の指の隙間から、流れ落ちたものは涙だ。凄惨な過去を語らせたことを後悔し、迅もかけるべき言葉を失う。 「あなたのせいではないことは判っています。でも、兄が、兄を殺した男が、あぁぁあっ」 「……っ」  錯乱し落涙する青葉を前に、迅はソファの肘掛けに拳を打ちつけた。 「俺は、何のために……っ」  己の身の上を知った日に、常に正しくあろうと決意した。いつかケーキに出逢っても本能の赴くままに貪ってはいけないと、努力で自制心を身につけた。相手がケーキであろうとなかろうと、ごく普通の恋をして、温かい関係を築きたいと願ってきた。それなのに、想う相手はフォークという存在そのものを怖れている――。 「申し訳ありません。酔ってご迷惑をおかけしたばかりか、こんな話までして勝手に泣いて……。お世話になりました。帰ります」  ひとしきり泣いて落ち着いたのか、平常心を取り戻したらしい青葉が手の甲で涙を拭ってソファを立った。自分の着替えは寝室だろうかと、オーク材の扉を振り返る。自身の身体よりもだいぶ大きなスウェットの裾に足を取られぬようにと注意して、最初の一歩を踏み出した。 「青葉」  ソファから下ろした両足の裏をしっかりとフローリングの床につけ、背すじを伸ばして迅は初めてその名を声にした。泣き濡れた瞳で無理に笑んで離れてゆこうとする初恋の人を、黙って見送ることなど到底できない。  そう、初恋なのだ。  自分を律して生きてきた迅の交友関係は、浅く広くがモットーだった。友人と食事に行っても、自分だけが楽しめない。美味いと言い続ける演技には、いつかきっと限界が来るだろう。気まずく疎遠になるかもしれない仮初めの友人よりは全てを話せる、とわの相手が欲しい。  初対面の日。  普段は細心の注意を払って咀嚼するはずのあの菓子を、迅は何げなく口に運んで噎せ返った。不注意の理由は隣に来た青葉があまりに自然で、懐かしい友人と食事をしているような気分を感じたからだ。背を擦ってくれたり、水やゼリー飲料をくれたり。それは彼も迅に親しみを覚えているからこそ、できることだ。  ――俺は味覚障害なんだ。  彼がケーキであると気づく前に、そんな言葉を自発的に発してしまっていた。  高校大学時代、教員としての生活が始まってからも、誰にも味を感じないと言ったことはないというのに。  恋愛に困難はつきものだ。  「普通」も「フォーク」も「ケーキ」も、きっと同じだ。  そう気づいてしまえれば、自分は持ち前の前向き思考で進んでいける人間だった、と迅は己の性格を再確認した。 「……え」  素足で一歩先へ進んだ青葉が、聞き慣れぬ呼び名に気づいて立ち止まった。ぎくしゃくと旧式の機械のように振り向いた琥珀色の双眸に、ソファにいる迅が映る。 「賀茂川先生、今」 「青葉、と呼んだ」  何と言いました、と問われることを予想して先回りをしてやると、困ったように上がった青葉の右手が自身の前髪を軽く掴んだ。  オーバーサイズのスウェットは萌え袖になっていて、座ったままの迅からは白い指先がほんの少し見えるだけになっている。 「どうしてですか」  号泣の直後で目元も頬も赤くなった青葉は平素よりもさらに美しく、しかも本人は無自覚なのだから罪深いこと、この上ない。  ケーキであった兄の死後、彼は彼なりの努力を重ねて生きてきたのだろうと思うと、溢れ返る愛しさで、迅の胸は熱くなる。 「呼びたかったから、だよ」 「だから、それはなぜ」  立ち上がり、迅は二歩分の距離を一歩で縮めて青葉の前へまっすぐに立った。 「ごめん、好き……痛ッ!」  身をかがめ、軽く触れるだけの甘いキス――は、渾身の平手に阻止された。
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