5 ひたすらに、透明な

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5 ひたすらに、透明な

 週が明け、天気も回復した昼休み。  迅は屋上のフェンスに寄り掛かり、グラウンドを見下ろした。  眼下では、生徒たちが食後の運動と言うには激しすぎる勢いでサッカーやバスケに興じている。授業とは違う自由な時間を、誰もが楽しんでいるようだ。  中学三年生までの自分も、あんな集団の中のひとりだったと思うと懐かしい。  高校の昼休みは母親の手による弁当を、人目を忍んで罪悪感と一緒にダストシュートへ投げ込む毎日で、全力で打ち込める何かを見つける心の余裕はなかった。 「信じられませんっ、僕は泣きながらフォークが怖いと言ったのに!」  突然、背後から怒声が響いた。金属製の重い扉を押し開けて現れたのは、青葉だ。 「職員室には必ず誰かの目があって、食べずにいると年配の先生方に心配されるんです」  それだけならまだしも、と続けながら、確かに心配したくなるような細い肢体が扉とフェンスの中間地点の熱いコンクリートに座り込む。 「ダイエットをしているのか、とか、それ以上どこの肉を落とせるんだ、とかっ。女性陣の追及は本っ当に迷惑極まりないですよ」 「……そうだな」  それが女という生き物だとはコンプライアンスに引っ掛かりそうで、迅も迂闊に口にはできない。  先日の会話で青葉には兄しかいないことが判った。話の流れで母親はどんな女性だと問おうかとも思ったが、家庭のことを訊けば自然と兄の一件に繫がって青葉を苦しめそうで、相槌を打つだけにとどめる。 「静かな場所で少しでも食べようと思ってここへ来れば、今度は賀茂川先生が」 「俺の方が先にここを見つけ、何年も通っている」 「どうせ僕は新人ですよ」  怖いと言えば、迅は青葉に関わらなくなるとでも思っていたのだろうか。あの一言で火を点けられたのだとは微塵も想像していないらしい青葉は、拗ねたような顔をしてサンドイッチのフィルムを剥がすと丸く白い歯で無心に噛み付いた。どうやら今日は人並みの空腹を感じていたようだとその様子から察して、迅が密かに安堵の息を吐く。 「玉子サンド? 美味そうだな」 「ひっ」  珍しくまともな食べ物を持っている、と歩み寄って見下ろせば、それは迅にも少年のころの記憶から味を探し出せる品だった。 「た、食べますか」 「あぁ、貰う」 「ちょっ……」  ふたつ入りのパッケージから手をつけていないサンドを取り出そうとした青葉を、迅は待たない。腕時計の嵌まったその手首を押さえ、食べかけの方に口を付けた。パンと具の柔らかさは判る――が、それだけだ。 「美味い、と言いたいところだが」  声にしない続きは、「残念ながら」だ。 「……そうですか」  落ち込ませただろうか。  パンや玉子の味の代わりに青葉の首すじからはケーキである人間特有の甘い香りが立ち上り、迅の鼻腔をくすぐった。 「もう、これは差し上げますから」  屋上へ来た直後の髪も逆立ちそうな怒り方ではなく、端に困惑を含んだ小さなクレームといった風情で食べかけのサンドを迅へと押し付ける青葉の耳はほのかに赤い。  美味そう、舐めたい。  刹那、素直にそう思惟した迅の心臓がワイシャツの下で大きく跳ねた。いや、違う。今言うべき台詞はそれではない、と考え直す。青葉に関する事柄にだけ情緒不安定に陥る自分に、疲れるやら呆れるやらと小さく思い、嘆息した。 「さんきゅ」  間近で囁けば、鮮やかな色はさらに頬や首にまで範囲を広げていく。細い顎を掴んで、わざと逸らされた視線をこちらへ向けてやりたい衝動に堪えながら迅はふたりがかりで食んだ玉子サンドを受け取った。 「僕はミキトの作るイチゴショートが好きなのですが」 「ん?」  何の話が始まったのかと聞き耳を立て、迅は虚空に流しかけた目を隣へ戻す。先日訪れた行きつけのゲイバーのカウンターには、確かに青葉のためのケーキ皿が置かれていたと思い出した。  ――ショートケーキにカシオレ。  未成年のころに味を失った迅には、カシスオレンジという名のカクテルは未知の液体だ。女子みたいな味覚の子、と愛しげに笑ったミキトに軽い嫉妬を覚えたことまで生々しく思い起こし、てめぇのせいだカシオレ、と胸中で意味不明な八つ当たりをした。 「賀茂川先生は……いえ、フォークは……ケーキだったら誰でもいい……みたいな感じ、なのですか」 「ぁん? そっちの話か」  好きな洋菓子の話題と予想し、カフェのメニューのように過去に食べたケーキの姿と味をいくつか思い返していた迅は不意打ちを食らってたじろいだ。 「誰でもいい……わけでは、ないだろ」 「そぅ、なのですか」  世間には時折、誰でもいい、と相手を選ばすに事件を起こす輩が現れる。が、フォークといえども基本的な感覚は一般人と同じはずだと思って、迅は生きてきた――つもりだ。 「何事にも例外はあるが、普通の男ならば女なら誰でもいいと思って性行為に及びはしないし、逆もそうだろう。恋愛感情に基づいているのだから、当然フォークにだって好みはある」 「……そぅ……ですか」  青葉が俯き、呟いた。  そう、だろうか。  ふと、心中に疑念が湧いた。  迅が出逢ったケーキは、青葉だけだ。比較対象が存在しない以上、青葉を「選んだ」とは言えないのではないか。彼の兄を襲ったフォークは、どうだったのか。  風が強く吹き、青葉から放たれる甘い香りが迅を取り巻く。窒息しそうなそれに眩暈を感じ、痺れる右手で迅は顔を覆った。  駄目だ、理性を手放すな。  奥歯を噛み締め、必死に己へ言い聞かせる間にも、額にじわりと汗が浮かぶのが判る。 「賀茂川先生? どこか具合でも……」 「!」  離れろ、と言いたかった。逃げろ、と言うべきだった。が、気遣いに満ちた温かい手と声が肩へ触れてきた刹那、迅の体内で日常と非日常のスイッチが切り替わり、屈強な腕は香りの発生源である青葉を一瞬で固いコンクリートの上へ組み伏せてしまっていた。 「……痛っ」  肩か背か、後頭部。どこかを打った青葉が小さく呻いたときには、全てが手遅れになっていた。  ごく、と鳴った迅の咽喉を、屋上に仰臥させられた青葉は見てしまったに違いない。 「すまない、青葉。キスをさせてくれ」  胸を焼く激情に、雰囲気作りもできずに迅が請う。 「何が、すまないんですか」  ふ、と青葉の右肩が動いた。また平手打ちを食らうだろうか。それはそれで、目が覚めて正気に戻れそうだと思う迅を、渾身の力を込めて青葉が見上げる。右腕は上がってこないまま、琥珀色の瞳が迅の視野の中央で僅かに震えた。迅の脳裏を掠めたのは、先日聞いたばかりの陰惨な事件だ。  青葉は兄を、フォークに惨殺された者。フォークという存在自体を憎み、怖れ、いつかは己も同様の目に遭わされると、怯えていても不思議はない。 「一度だけでいい、青葉」  消滅寸前の理性をどうにか保ち、迅は懇願した。視野が明滅し、長くは待てそうにない。この忌まわしい宿命を、誰よりも呪っているのは自分自身。そう思い続けて生きてきた。が、きっと青葉も正反対の角度からフォークを恨んでいるはずだと、今になって気がついた。 「ただでは、駄目です」 「……何」 「僕が今、何を考えているか判りますか」  青葉は迅の求めた許しを口にしなかった。  猛獣に要求されるまま餌を与えては自分が危険だと覚ったような顔に浮かぶ警戒心が、青葉をフォークが怖いと泣いた無力なケーキではない何かに変えているようだ。  この状況で青葉に心境の変化があったのならば、それは迅にも大いに感興をそそられる話題に違いはなかった。たとえ予鈴が鳴るまでの時間稼ぎだとしても。 「兄はフォークに殺されました。けれど、それは全てのフォークの罪ではありません」 「……――」  意想外の発言に迅が数度またたく間だけ、青葉が黙る。深く息を吸う胸の上で揺れる濃紺のネクタイを、静かに上げた右手で押さえた。 「そして、僕は兄のような弱いケーキになりたくない。普通に生きて普通に死にたいと願う、普通の人間です」  見下ろす迅の影になりながらも、暗くはなりきらない琥珀色の瞳がまっすぐに迅を射抜いてゆく。 「賀茂川迅という人について、僕なりに真面目に考えました。あなたはいつでも真摯で優しく、フォークの持つ性質に抗って正しく在ろうと心掛けている。見ているこちらが辛くなるくらいに」  ゆらりと上げた右手で黒い髪を撫でられ、迅の欲情の波が一段、高まる。煽るな、と言いかけた唇に、髪から滑り降りた青葉の親指が故意に触れた。 「……ケーキに載せられた、兎の味だ」  舌先で舐めたそれは、迅に砂糖菓子の味を思い出させる。 「バースデーケーキの飾りですね」  迅の表現したものを正しく理解した青葉が淡く笑み、直後に真剣な顔をした。 「誰でもいいわけではないのなら、フォークとしての宿業ではなく賀茂川迅の明確な意思によって僕を選んだのだと言ってください」 「……な、に」 「フォークでもケーキでもなく、ただ好きだと言って、普通の恋人のキスをください。それが僕からの条件です」 「あぁ……」  真率な口調で何を言い出すのかと黙って聞いていれば、それは迅にとっては、いとも容易い条件だった。何しろ自分は、とうに青葉に惚れてしまっているのだから。 「好きだ、青葉」 「もう一度」 「好きだ」  普通にこだわるのは、普通ではない証左に違いない。が、そんなことはもうどうでもいいと、迅はネクタイを掴まれ引き寄せられるまま、青葉の唇に己のそれを落とした。  甘い、美味い、という食事を連想させる言葉を理性で飲み込んで、何度も角度を変え、薄い唇を舐めては噛み、やがて舌を絡ませあった。 「……あお、ば……」  合間に名を呼ぶと、苦しげに伏せられていた目蓋がふわりと上がる。平素は青白いそれが朱を帯びて見える様子が堪らなく、いい。  極上の蜂蜜の味をした青葉の唾液に、脳が痺れる。思うさま貪る迅の胸に、こん、と拳が当てられた。 「……んぅ、待って、酸素……」 「ふ……ははっ」  キスの最中にはあまり使わぬ直接的な単語で息継ぎを要求する青葉に、迅が笑う。離れたふたりを繋ぐ唾液の糸が、陽光を受けて金色に輝いた。 「青葉は俺が選んだ。大丈夫だ」  真正面から見つめ、癖のない髪を指先で掬うと、青葉が目蓋を伏せて頷いた。  満たされたのは恋心と、強烈な空腹感。後者を思えば複雑な心境に陥るが、それでも口中に溢れる甘味に心底満足して、迅は五時限開始五分前の予鈴を聞いた。
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