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6 群青の夜のキス
「あぁ……。やっちゃったよ、僕……」
カウンターに両肘で頬杖をつき、掌に顔を埋めて青葉は呻いた。
何なの一体、と呆れ顔でミキトが目の前に運んできたのは、いつものショートケーキとカシオレだ。
「最初が肝心だと思ったんだ」
生クリームの上で煌めくイチゴにフォークを刺して、眺める青葉の瞳が過去へと還る。
兄の死後、青葉には随分と長い間カトラリーとしてのフォークを使えなくなった時間があった。洋菓子のケーキも遠ざけた。それらを道具や食品として再認識出来るようになったのは、つい最近だ。
「あの人がフォークであるように、僕もケーキであることには間違いないと思うんだ」
思う、と曖昧な表現にとどめたのは、青葉が医療機関を受診していないからだ。確定させてしまうことには恐怖を感じるし、兄がそうであったことを鑑みれば、自分もその因子を有していないとは言い切れないだろう。
「キスは凄く良かった。身体の相性もきっといい。だけど、嫌なんだ」
「何が」
ゲイバーの経営者で幼馴染みという立場上、ノロケなら余所でやってくれと言うわけにもいかず、ミキトは呆れながらも訊いた。
「神様か何かに決められた運命の相手! みたいな展開が。そこに僕とあの人の意思はないじゃない?」
舌先でグラスの縁を舐め、青葉は屋上での会話を反芻した。
――フォークは……ケーキだったら誰でもいい……みたいな感じ、なのですか。
自分がケーキだった場合、フォークに流されて望まぬ関係を築いてしまうのではないかと怖れ、迅にそう問いかけた。
兄とフォークに愛があったのか、なかったのか。当時も今も、青葉には判らない。
ただ、誰かと身体を合わせるのならば、そこには気持ちが伴っていなければ嫌だった。
――誰でもいい……わけではないだろ。
愛情のない関係に迅も否定的だったのは、青葉には奇跡的な幸運だと言える。
――合意を得ずに一方的なセックスをする気も全くない。
ゲイバーの常連なのだから、迅はもちろんゲイなのだろう。が、酔い潰れた青葉を最初に部屋へ連れ帰ったときでさえ、着替え以外で青葉の肌に触れはしなかった。
紳士的でストイック。
それが青葉の知る、賀茂川迅という男だった。
「互いの気持ちで繫がっていると信じたいのね。ロマンチックねぇ~」
溶けた氷をグラスの底で揺らめかせるミキトの口調は、歌うようだ。
「真剣に聞いて」
漫画ならば、ギロッ、という文字が付きそうな横目で睨んで、青葉はようやくイチゴを咀嚼した。甘味が口中を満たし、酸味は鼻腔へと抜けてゆく。
美味しいと言いかけた唇が、ふと胸に触れた不穏な思考に動きを止めた。
もしも明日、自分が味覚を失うとしたら。
そして、生涯それを取り戻せぬとしたら。
甘味を感じさせてくれる、ただひとりの誰かに出逢ってしまったら――。
迅は実際にそんな喪失と不安を抱えて生きている。自分だったら堪えきれずに発狂してしまいそうだ。
「あの人、忍耐力と自制心がとても強いのかも」
キスの最中に、決して「甘い」「美味しい」と口走らなかった迅。それは、フォークが怖いと泣いた青葉への配慮だと感じられて仕方がない。まぁ、確かにキスの合間に言われたくない言葉ではあるけれど、と思惟する青葉の手元に突然影が落ちた。
「俺の話か?」
「っ!」
「いらっしゃい、賀茂川さん。何に」
する? とオーダーを受けようとしたミキトの動きが刹那、不自然に止まった。緑色のカラコンを装着した目がこちらへ向いたのに気がついて、青葉はミキトの不安を覚る。
若葉の事件以降、多少の知識を得たとはいっても、ミキトが実在のフォークに出逢う機会はなかった。ごく普通に来店し、毎回何らかの酒類を自然な態度で注文していた迅がそうだと知ったのも、ほんの数十分前。カウンターで悶絶する青葉が、盛大な愚痴を語り始めてからのことである。
ごめん、と声を出さずに青葉が言えば、唇の動きを読んだ迅がミキトに真相が伝わったことを知って浅く頷く。精悍な面に浮かんだ苦笑が切なく、青葉は胸の痛みに耐えながら迅のジャケットの裾を握った。
「賀茂川さん、アタシ」
「ビールを。と、そのケーキは商品ですか。俺にもひとつ、貰えますか」
「え、えぇ。もちろん」
周囲の目を逸らそうと、迅がオーダーを優先させる。青葉の食べかけのケーキを指して問うとミキトは多少なりとも平常心を取り戻したのか、チャイナドレスの背にポニーテールを流して厨房の端へと消えていった。
数分後、背の高いグラスとケーキ皿が迅の前に並んだ。
「……これ、ね」
ショートケーキを細めた目で見下ろすミキトが、誰にともなく話し出す。
「若葉が亡くなって、青葉はケーキが食べられなくなったでしょう。フォークを見ることさえできずにパスタを箸で食べる様子が可哀想で、アタシは何度も物陰で泣いたわ」
「……ミキト」
「だからねっ」
初めて聞く幼馴染みの告白に、青葉が涙ぐみそうになった――瞬間、ミキトは努めて明るく声を弾ませた。
「アタシが製菓学校を選んだのはそういう理由。だって青葉、子どものころからアタシの作る料理が好きだったじゃない? ウチは父子家庭だから台所はアタシの管轄で、一緒に父さんの晩御飯を理科の実験感覚で作ったわよね。美味しいものは滅多に作れなかったけど、凄く楽しかったわ」
「……そんなこと、あったね」
幼少期を懐かしみ、青葉の表情も和らぐ。
「最終的にゲイバーになっちゃったけど、これもアタシらしくていいでしょう」
「うん。ありがとう、ミキト」
細い指で落ちかけた涙を拭う青葉の肩を、迅が隣から抱き寄せる。されるがままの青葉の安堵の表情を見て、ミキトは全てを受け入れようと決意した。
「まさか、賀茂川さんが青葉の職場の先輩だったなんてね」
しみじみと言って頬に片手を当てるミキトに、青葉と迅は目を見交わした。
「アナタがフォークでも、青葉を大切にしてくれるならアタシはいいの。できるでしょ」
イケメンで礼儀正しく温厚な常連の迅をミキトは前々から気に入っており、真実を聞いても悪い印象を持ちはしなかった。
青葉の幸福が自分の幸福。
若葉を喪った日から、ミキトはそれだけを願っていた。決して、青葉に告げはしないけれど。
「さ、食べて……で、いいのかしら」
「食えなかったら死ぬしかないけれど、幸い俺は食えるので」
味覚のない自分へのミキトの気遣いに迅は笑み、ありがたく手を合わせた。いただきます、とフォークを手に取り、青葉の隣で迅がケーキを一口大に切り分ける。本当にそれを幸いと信じているような屈託のなさをミキトへ見せて、柔らかなスポンジを口内に含んだ。
「ずっと言えなくて、すみませんでした」
「そんな……アタシこそ」
年下のミキトへ深く頭を垂れた迅に、カウンターの内側でミキトが慌てた。知らなかったとはいえ、コレ美味しいわよ、と薦めてしまったこともあったかもしれないと、目元に浮かべたのは後悔の涙だ。
「ミキトさんの料理や酒は視覚で十分楽しめるし、味わえるのでありがたいです。今後、俺のことは味覚オンチとでも思ってもらえたら嬉しいのですが」
駄目ですか、と小さく付け足す迅を、隣のスツールに掛けた青葉が黙して見守る。どこまで真面目なのだか、と落とした息に迅への恋情が混ざっているとは気づかないまま。
「味覚オンチ、ね。はいはい。じゃ、アタシのことはミキちゃんて呼んでちょうだいね」
「……みっ」
「ミキチャンっ」
迅と青葉が同時に女装美人につっこんで、ゲイバーの夜は更けてゆく。
純白のショートケーキの甘さを感じ、感じず、それぞれの胃に収めきり、ふたりは揃って店を出た。頭上には満天の星……とは繁華街では言えないかもしれないが、どうせ空など見ないから構わないと足許だけを見て青葉は歩く。その胸を温めているのは、初めて聞いた幼馴染みからの深い友愛だ。
「……は。飲み過ぎました。……て、え?」
元々緩めていたネクタイをさらに緩めようとした手を横から掴まれ、一瞬だけ酔いから醒めた気にさせられた。掴んでいるのは、迅だ。
「どうしてそう無防備なんだ。あんた、自分がどんな顔をしているのか知らないのか」
「顔? どういう意味です? 賀茂川先生ほど格好良くないのは知っていますけど」
「そんなことは俺だって判っている」
「はぁ? 顔自慢大会ですか」
カッコイイとキレイは違うと区別して言ったつもりだったのに、なぜかプイと横を向かれ、迅は一瞬呆気に取られた。一体何が不満なのだか、さっぱり判らない。
「何だそれ。アホ発言大会か。……ったく」
わ、と驚く間もなく、青葉は路地裏へと引き込まれた。ビルの壁に衝いた迅の両腕の間に挟まれて、逃げ道を塞がれている。
今までよく襲われずにいたものだとまでは言えずに、迅は青葉の双眸を覗き込んだ。
先ほどから擦れ違う男女が青葉をチラ見していることに迅は内心で苛立っていたが、青葉自身は全く関知していない。もっと警戒心を持って外を歩けと言ったところで理解しないのだろうと思うとますます腹立たしい。その上、路上でネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを外そうとするなど以ての外だ。
ほろ酔い加減の青葉は平素の柔和さに色気が加わり、数割増しに美しい。フォークにしか感じ取れぬ香りも甘さが強調され、迅は呼吸をすることさえ困難な状態だ。
「俺の我慢も知らないで肌を露出させようなんてどこまで残酷なんだ、あんたは」
「露出って。ボタンをふたつ外すくらい、誰だってすることでしょう。残酷だなんて、大袈裟すぎませんか」
「忍耐力と自制心? そんなもの一瞬で吹っ飛ばないとも限らない。俺は」
「フォークだから?」
「!」
「あなたはそんな人じゃないでしょう」
フライングで台詞を奪い、青葉は迅の切っ先をかわした。血走った迅の双眸がゆっくりと落ち着いてゆくのを待って、自分よりも高い位置にある頬を両手で包む。
「屋上で僕を押し倒す寸前、逃げろと言いたかったんですよね? 飛び掛かってくる直前の賀茂川先生は一瞬、僕に同情していました。ご自身の食欲や衝動よりも、僕の安全を考慮してくれました」
「……買い被りすぎだよ、青葉」
静かな声が、喧噪から外れた暗い路地に零れる。するりと足首に触れた何かに驚いて青葉が地面を見下ろすと、どこかから現れた野良猫が一度だけふたりを見上げて再び歩き出すところだった。
いいえ、と髪を左右に揺らし、青葉は迅を俯けた。
「そういう優しい賀茂川先生が、僕は好きです」
「あ、お」
全てを言わせずに、自分から口づける。初めてのことだ。素面では恥ずかしくてできなかっただろうから、飲み過ぎたのは正解かもしれない。……カシオレ二杯のどこが飲みすぎかと、ミキトはきっと笑うだろうが。
「……んっ、んぅ」
誘ったつもりがいつの間にか形勢は逆転し、青葉の腰には迅の腕がしっかりと巻き付いている。逞しいその首すじに縋って、青葉はさらにキスをねだった。舌を捉えられ、吸い上げられて、ままならない呼吸にさえ欲情を煽られる。迅が感じる甘さを共有することはできぬはずなのに、己の身から溢れ出した花のような芳香が鼻先に触れる錯覚がした。
「……は……ぁあ、青葉」
酸素? と訊いてみたかったが、上下する胸がせわしなく、苦しくて言葉が出ない。酸素が必要なのはやはり自分の方だと気づいて、青葉は小さく迅の胸を叩いた。
息継ぎの合間に目を走らせた腕時計の針は終電の時刻をとうに過ぎており、ふたりは苦笑を交わして口づけを再開した。
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