7 闇色の放課後

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7 闇色の放課後

 順調な交際と言っていいのだろうか。  職員室では同僚として当たり障りのない関係を演じ、夜にはミキトの店で落ち合い、食事をする。  そんな日々を繰り返し、気づけば夏休みが目前に迫っていた。 「四十日間、自由でいられるのは生徒だけだぜ。俺なんて去年……」  突然始まった迅の苦労話を聞きながら、青葉はハムサンドを頬張り、蒼穹を見上げた。  どこまでも続く、澄んだ青空と白い雲。屋上に仰臥した迅の双眸にも、同じ光景が映っている。 「青葉、キス」 「……ん」  求められ、上半身を倒して青葉が応じ、口づけは徐々に深まってゆく。後頭部と腰に掌を当てられ上下が逆転すれば、ここが職場であることさえ忘れてしまいそうにふたりはキスに没頭した。 「……好きです、賀茂川先生」 「俺もだ、青葉」  痺れ始めた唇で囁き合って、身を起こす。真夏の屋上は昼食を摂るだけでも汗をかくほど暑く、肌を密着させられる時間も限られている。 「ここで食うのも、そろそろ限界だな」 「ですね」  予鈴を聞いて立ち上がりながら、ふと青葉は見下ろしてくる迅の視線に物言いたげな気配を感じた。何か、と首をかしげると見透かされたのを知った迅が困ったように笑った。 「呼びづらくないか、賀茂川先生って」 「じゃあ、賀茂セン? 生徒に呼ばれているのを聞きました」 「……あのなぁ」  ふふ、と小さな笑声を上げ、青葉は右手を階段室のドアノブへと伸ばす。陽光に熱された金属は熱かったが、無言で堪えた。 「迅」 「!」 「って呼んでみたかったんです、本当は」  扉に話しかけるように振り返らずに言うと、背後から抱え込まれ、こめかみにキスを落とされた。 「今日もいい香りだ、青葉」 「ほら、昼休みは終わりです。開けますよ」  並んで校舎の内側へ入ると同時に、ふたりは教師の顔に戻った。  五時限目の行き先は、三年A組だ。教壇へ上る指導教諭について入室し、青葉は壇の下に立って教室内を見回した。 「期末考査の答案を返却します」  銀縁眼鏡の男性教諭が重々しく宣言すると、生徒たちに緊張が走った。  高三の夏だ。  進路を決定し、そこへ向かって邁進せねばならない季節は青葉も経験している。ふと兄には出来なかったことだと気づけば辛い気持ちに襲われもするが、今この校内のどこかで迅も同様の仕事をしているのだと考えることで落ちそうになる心を支えられた。 「やべっ。こんな点数、親に見せらんねぇっ」  悲痛な声を上げたのは、雪下弘樹だ。時に強引な一面を見せる少年の苦手を知り、青葉は内心で微笑む。高校生らしい一面があってよかったと、なぜだか思った。  毎日は単調だが平穏で、仕事にもやりがいを感じられる。このまま夏休みを迎え、兄の墓参りをし、迅とは……と、考えているうちに授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。 「青葉ちゃ……じゃなくて」  起立した生徒たちと形ばかりの挨拶を交わして廊下へ出た青葉の背で、呼びかけと独り言を半分ずつ言う誰かの声が聞こえた。  ――青葉ちゃんじゃねぇ。四條先生だ。  少し前に、そんなふうに迅から諭されていた生徒がいたと思い出した直後。 「四條先生!」  今度は正しく青葉を呼んで、雪下が駆け寄ってきた。 「あ、あの。俺に英語、教えてくれませんか」 「僕、ですか」  必死の形相を見せる雪下の手には、直前の授業で返却された期末考査の答案が握られている。名前の横に赤いペンで記された点数は――三十二点だ。  隣に立つ指導教諭へ、青葉は救いを求めて視線を向けた。小柄な老人は、孫と言って過言ではない新米教師と生徒をにこやかに眺めている。 「いいんじゃないかな。四條君も二学期からはひとり立ちして授業を持つのだし、練習も兼ねて」 「……練習、ですか」 「英語科準備室を使うといいよ」  老人の胸ポケットから取り出された小さな鍵が、一対一では授業というより家庭教師だと思惟する青葉の掌へ落とされる。 「暑いから、エアコンを使ってね」  鷹揚に笑み、それきり老人はふたりをおいて職員室へと歩き出してしまった。老いた身に、五十分間の授業は辛かったのだろう。六時限目は彼と青葉にとっては空き時間だ。成績の振るわぬ生徒は新人に任せ、早く冷房の効いた職員室へ戻って座りたいのだと、去ってゆく背が語っているようだ。 「行こ、青葉ちゃん」  呼び方を気楽な方へ戻して、雪下が階段へと上履きを向ける。仕方がなく足を動かしながら、青葉は溜め息を落とした。  次の空き時間は、青葉にとっては貴重な時間だった。現国教師として忙しく一年生の教室を廻る迅と週に一度、唯一重なる空き時間だ。屋上へ行けるわけでも業務に無関係なことを話せるわけでもないが、職員室の自席でそれぞれに仕事をこなし、時折視線を交わすことは青葉の密かな楽しみだった。 「ぅわ、暑ち」  英語科準備室は、職員室のほぼ真上に位置する部屋だ。常に人がいる場所ではないので、エアコンの電源は切られている。壁に設置されたリモコンを手に取り、雪下は自宅のような気安さでスイッチを押した。三年生である雪下も週に一度の五時限上がりで気が緩んでいるのだろうと、青葉はその様子を眺める。 「えぇと、雪下君?」 「青葉ちゃんってさぁ……」  窓のない扉の鍵を後ろ手に掛けて、雪下がちらりと覗かせた舌で自身の唇を舐め回した。 「ケーキだよね?」 「!」  反射的に、青葉は奥歯を噛み締めた。君はフォーク、と一言でも訊いてしまえば雪下の問いを肯定したことになる。手近な棚へ投げられたリモコンが大きく音を立てたが、驚愕に肩を震わせることにも青葉は堪えた。 「期末考査の問題をもう一度……うわっ」 「ごまかしてんじゃねぇよ」 「っ!」  強く肩を押されて、背を壁に叩きつけられた。痛みに浮かんだ涙を、無慈悲なまなざしが食い入るように見つめてくる。 「あぁ、甘くていい匂い……美味しそうだよ、青葉ちゃん」 「ゃ、だ。放して」  右耳を指先で擦られ、思わず声が洩れた。 「オレはフォークだから、残さず食べてあげる。心配はいらないよ」 「嫌だぁっ」  ざらついた舌の感触を首すじに感じて、青葉の脳裏に兄の死がフラッシュバックした。  若葉は最期に何を見たのだろう。  朽ち果てた廃屋。風雨に打たれて崩落した屋根と、倒れて腐った古い家具。目前に立つのは、狂気に囚われた捕食者。ケーキにとっては、その存在自体が凶器で脅威だ。 「ぅわぁぁぁっ」  無残に引き裂かれていたという兄の遺体。それぞれのパーツを、幼い青葉が目にすることはなかった。  故人不在の、しめやかな家族葬。  四十九日にさえ、兄は警察から帰ってきていたのか否か、判らない。白木の箱に納められた陶器の壺に兄は、欠片ほどもいなかったのだろうか。 「っ! 静かにしろっ」 「ぃっ」  頬を張られ、フローリングの床に倒れ込むと、即座に雪下が覆い被さってきた。しゅ、と音を立てて抜かれた制服のネクタイに、背後へ回された青葉の細い手首が縛られてゆく。 「暴れないで、極上のケーキさん」 「……っ……、……!」  ワイシャツの上から胸の突起を搔かれ、耳朶を食まれるたびに青葉は固く目を閉じ、首を激しく振った。全身を駆け巡るのは官能ではなく、不条理に対する嫌悪感だ。声を上げれば雪下の欲情を煽るだけだと、青葉は知っていた。  理不尽な暴力に屈したくない。兄のようになりたくない。  ――迅っ……!  愛しい人の名を心で叫び、自由になる足で空を蹴った。
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