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最終話 黄金色の月に酔う
五時限目の授業を終えて職員室へ戻った迅が最初に目にした人物は、ひとりの老人だった。共有スペースの古びたソファで、悠々と朝刊を読んでいる。同じくらい古いローテーブルには、彼が愛用しているマグカップだけが置かれていた。
「白石先生、おひとりですか。四條先生は」
行動を共にすることの多いふたりが一緒にいないことを不審に思い、迅がそっと探りを入れる。分厚い眼鏡を載せた顔を上げ、白石は柔らかな笑顔を迅へと向けた。
「四條君は生徒から教えを請われて、準備室で指導中だよ。穏やかで真面目で、いい教師になってくれそうだと楽しみにしているよ」
「……そうですか」
恋人が褒められることは、素直に嬉しい。が、先日の雪下との一件もある。どこか釈然としない気分でさらに質問を重ねようと口を開きかけたそのとき、迅の後ろを数人の三年女子が声高に話しながら通り過ぎた。
「雪下、ズルいよね。青葉君独り占め」
「悪知恵だけは働くんだよ、三十二点のくせに」
「あいつのゲイ疑惑が本当だったら、準備室にふたりきりなんて青葉君ピンチじゃん!」
「……なっ」
何だと、と叫ぶよりも早く、迅は身を翻した。白石と女子生徒らの話した内容は、一致している。導き出される答えは、雪下と青葉が英語科準備室でふたりきり、だ。
校内全ての部屋の合鍵を納めた壁掛けの収納箱から目当ての部屋の鍵を引っ掴み、迅は職員室を飛び出すと目の前の階段を全速力で駆け上がった。
準備室と名のつく部屋の扉には、普通教室のそれのようなガラスの入った窓がない。中から鍵を掛けてしまえば、外界からは完全に遮断された密室になる。
あと一歩というところで室内から大きな物が倒れる音が響き、迅の不安を最大レベルへ引き上げた。青葉! と叫びたいのを堪えたのは、そうすることで雪下が武器になるものを掴むのを避けるためだ。無事に扉を開けられても、青葉が ペンやカッターを突き付けられた人質状態では意味がない。
汗で滑る鍵を静かに鍵穴へ差し込み、一息に回すと、迅は扉を勢いよく引き開けた。
「迅っ」
飛び出してきたのは、青葉の叫び声だ。どこか嬉しそうな、迅が救出に来ると信じきっていたかのような。とはいえ、その身は床に組み敷かれ、生徒用のネクタイで手首を縛られている。着衣の乱れは普段通りに外されたワイシャツの第一ボタンと、彼自身のネクタイの位置がズレている程度。裂かれたり脱がされたりは、していない。
青葉の足の先にパイプ椅子が一脚、倒れている。さっき聞こえた音はこれだろう。蹴ったのは、ふたりのうちのどちらだったのか。
「雪下、貴様」
安堵に胸を撫で下ろすと同時に、迅の心中には激しい怒りが込み上げた。黒い瞳をぎらつかせ、大きな一歩で室内に踏み込むと、即座に雪下の胸倉を掴んでその背を壁へと打ち付ける。
「いってぇ。教師が生徒に暴力を振るっていいのかよっ」
「生徒なら教師に何をしても許されると思っているのかっ」
譲らずに怒鳴り合い、雪下を放り出して迅が青葉を床から起こす。束縛を解いてやった手首にくっきりと痕が残って、新たな怒りを誘発されそうになった。
「そいつは教師じゃねぇ。ケーキだっ」
「ケーキだって教師だよっ」
間髪いれずに叫んだのは青葉だ。不意を衝かれた迅と雪下が一瞬、目を見張る。自分でも驚いたようにまたたいて、それでも気が治まらなかったのか、青葉は琥珀色の瞳で雪下をきつく睨めつけた。
「僕がどれだけ努力をしてここまで来たと思ってるの。常識も正気も平常心も簡単に失える境遇育ちを舐めんなよっ」
叫ぶと同時に、見開いた双眸から大粒の涙が止めどなく溢れ落ちる。クリームイエローの遮光カーテンから鈍く射す午後の陽射しが照らす肩へ迅が掌を置いてやると、その力強さに勇気づけられたのか拳で涙を拭い、まっすぐに青葉は雪下を見据えた。
「フォークやケーキという言葉に惑わされず、どちらも同じ人間なのだと覚えていてほしい。味覚を持たないフォークには辛いことも多いだろうけれど、君の人生はまだ長い。ケーキを蹂躙しない優しい人間になり、穏やかな恋ができるよう頑張った方がいい」
「そ、んな綺麗事……っ」
「この件はまだ、俺と四條とおまえしか知らない。どうする」
冷静な迅の問いに身体の両脇で悔しそうに拳を握り、俯いたまま雪下はいくつかの涙を落とした。青葉の説得が心に染みたのか、やがて足許からネクタイを拾い上げると、ゆっくりと乱れた服装を直して戸口に立った。
「申し訳ありませんでした、四條先生」
深々と腰を折り、振り返らずに退室してゆく少年を、迅と青葉が無言で見送る。静寂はいつまでも続くかと思われた――が。
「……くっ」
突如、右手で顔の下半分を覆って迅が数歩、よろめいた。慌てて支えようとした青葉の手をさり気なくかわした肩が、勢い任せに壁へと寄り掛かる。
「迅? どこか苦しいですか」
「……くそ。あのガキ、やっぱ一発くらい殴っておくべきだった」
理不尽な恐怖から救われた安心感のためか、青葉の全身からは平素よりも激しく甘い香りが溢れ出している。閉め切った室内で濃度を増してゆくそれはまるで、水責めのようだ。
「え、ちょ、迅」
確かめていない怪我の有無と物騒な発言の両方に慌てる青葉を、迅は長い腕で力任せに抱き竦めた。ほっそりとしたその肩に額を落とすと息遣いまでもが甘く感じられ、迅は極上の香りを胸の奥深くへと吸い込んで、青葉の耳朶に舌を這わせた。
「抱きたい、青葉」
「……!」
目を合わせて希求すると、琥珀色の瞳が驚愕に大きく見開かれる。答えを待つこと数秒間。強めに発された、ダ、という謎の一音が迅の鼓膜にぶつかった。
「駄目に決まっているでしょうっ、ここは学校ですよっ」
胸の前で両手を左右に振る青葉の頬は、狼狽しきって赤くなっている。口では拒否しながらも、内心では嬉しそうだと読み取れてしまう様子が微笑ましい。
知っている、と吐息を耳に注ぎ込むように囁いてやれば、膝の力が抜けたように両手が迅のワイシャツに縋りついた。
「六限はふたりとも空き時間だ。おまえは立っていられぬほどの体調不良、俺が送っていくことになったという設定で早退しよう」
「さ、策士っ」
「だろ?」
楽しげに片目を閉じて、迅は青葉を軽々と抱え上げた。
※ ※
「……待っ、迅……」
伸びてきた指に手首を掴まれ、迅は我に返った。懐かしい飴玉に似た味がする青葉の胸の飾りに、つい夢中で舌と右手を使ってしまっていた。赤く色付いたそこから顔を上げると、抗議をするような青葉の目がこちらを向いている。潤んだそこへ唇を落としてやると、青葉は満足そうに目蓋を伏せた。
どこを噛んでも舐めても甘い味のする身体を隅々まで堪能し、やがて迅の舌は青葉の中心へと到達する。細身に似合いの小振りなそれを口に含み、キスよりも濃厚な蜜を吸い上げると、華奢な腰がびくりと波打った。
「……あ、あ、迅っ」
緩急を付けての愛撫に、青葉の肢体が絶え間なく跳ねる。白いシーツを握り締めていた指が迅の黒髪へ移動して、くしゃりと柔らかく掻き乱した。
二度目に訪れた迅の住まいは今回もゆっくりと眺める余裕はなく、慌ただしく一緒にシャワールーム浴びて今はベッドの上だ。
「青葉……ぁあ……」
「いいですよ、甘いって言っても」
僅かに身体を離して息を吐いた迅を抱き寄せながら、青葉は微笑を浮かべた。誰だって美味しいものを食べれば、思わず美味しいと声に出す。ごく当然のことだ。フォークである迅に美味しいと感じられるものは、ケーキである青葉だけ。その歓喜を表現する自由を奪いたくないと、今の青葉には素直に思えていた。
「優しいな、青葉は」
もう二度とフォーク側に属する人間に出逢いたくなかっただろうし、ケーキとしての自分を自覚したくもなかったに違いない。それでもこうして全てを受け入れ、手を差し伸べてくれた青葉に迅は深い感謝の念を抱き、丁寧に愛を育もうと心に誓う。
「怖くなったら引いていいぞ」
「え、いつの間に」
長い指が摘まんだストラップ、その先で揺れているのは、涙型をした青い防犯ブザーだ。ミキトが青葉に渡したそれを、迅は帰宅するなり青葉のスーツから抜き取っていた。
「策士ですから?」
「……んぁ……っ」
に、と一瞬だけ口元で笑んで、迅が五指を青葉の敏感な場所へ絡ませる。耳朶を噛んだ唇が首すじを辿り、鎖骨を滑って、再度胸の飾りを掠めていった。
「ゃ、あぁ……いっ……」
胸と性器を同時に愛され、青葉が髪を振り乱して身悶える。息が上がって苦しいはずなのに、大きな掌に触れられた箇所は悦びに支配され、近づく限界に頭の芯が痺れ始める。
「……青葉……ここ、甘い……ここも」
双丘を揉みしだかれ、先走りの蜜を絡め取った指を口に含む艶めかしい動作を見せつけられ、青葉も昂揚感に我を失う。痛いほど張り詰めた箇所を熱い掌で包み込まれると思考力が灼熱の渦に飲み込まれていく感覚に陥って、とろりと潤んだ視野に、ふと迅の昂りを映してしまう。
「……あぁ」
どく、と心臓が震えた。見事な腹筋に触れそうなほど雄々しくそそり立ったそれは、青葉の貧相なそれとは全く違う。あれがもうすぐ自分とひとつになるのかと想像した青葉の身に刹那、愉悦とは逆の震えが走った。
引くか、と枕元のブザーに視線を流し、迅が内心で身構える。気持ちの伴わぬ行為ならば迅には幾度も経験があるが、青葉にとっては愛情の有無にかかわらず何もかもが初めてのことなのだ。知識は持ち合わせていても、心の準備までもが万全とは限らない。ましてや、兄の最期を思えば――。
だが、予想に反して青葉の指はブザーへとは動かなかった。迅、と小さな声が恥じらうように発されただけだ。怖くなどないという思いを込めて、青葉は迅の瞳を見上げた。
初めて屋根で組み伏せられたときには驚いたが、おかげで迅への気持ちに気づくことができた。今はもう、彼が愛しくて堪らないとしか言いようがない。怖いことがあるとすれば、初体験で己自身がどんな痴態を晒してしまうかという一点だけだ。
「フォークやケーキなんて、僕は知らない」
「青葉?」
「この恋は運命なんかじゃない。……ですよね?」
ブザーを鳴らさぬ指は代わりに迅の黒髪へと流れ、恋人に洋菓子よりも甘い言葉をねだった。
「あぁ。俺の心が青葉を好きだと言っている」
「僕も、迅が好き」
交わした吐息に青葉が照れて頭から毛布を被った直後、迅も素早く後を追いかけた。
※ ※
「一緒に来るの、初めてね」
カウンターの向こう側で、ミキトが艶やかに笑んでふたりを迎えた。チャイナドレスの大海を思わせる青色は、照明が光の粒となって転がり落ちていきそうに美しい。
そうだっけ? と迅を仰ぎながらスツールに腰掛けた青葉が、いつもの、とオーダーを口にすると、俺も、と迅が続けた。
「ショートケーキふたつと、カシオレとビールね」
厨房へ消えてゆくミキトを見送り、ふたりは並んで座って軽く触れるだけのキスをした。ここはゲイバーだ。その程度のことなど、誰も気にしない。
「カシオレはどんな味なんだ?」
ネクタイを緩めながら、迅は常々気に掛かっていたことを遂に訊いた。
「カシスとオレンジ。甘いよ? 女子ウケ確実。因みにビールは苦い」
俺は苦手、と眉を潜める青葉と目を合わせながら、やはりカシオレは女性向けなのかと、あのときのミキトの言にようやく頷く。
一方でカウンターに肘をつき、決して経験できぬ味を想像しているのであろう恋人に青葉は一抹の寂しさを覚える。
けれど、それは「普通」のことだ。
どれほど愛し合っていても、人間の感覚はひとりひとり違うのだ。相手と全く同じように感じることは、誰にもできない。味覚に関してはそれでいいと自分に言い聞かせ、その他の共通点を見つけようと前向きに考えた。
「はい、お待たせ」
そうだ。ミキトの料理や酒は視覚で味わえる、と迅が先日言っていた。飲食にはそういう楽しみ方もある。
煌めくイチゴ、純白の生クリーム。四角い皿はノーブランドだが、ミキトが時間をかけて選んだ気に入りのものだ。
「今日、お寺に行ってきた。お父さんにも会ったよ」
「そう。ウチの親父、元気だった?」
「同じこと言ってる」
さすが親子、と青葉は法衣を纏ったミキトの父親を思い出した。
「相変わらず豪快に笑って、ミキっちは元気かー! って」
「……ミキっち」
青葉が住職の口調を大袈裟に真似て、迅がそのメルヘンな呼び名に額を押さえる。
実父のそんな様子に慣れきっているミキトだけが冷静に、己のワイングラスを傾けた。
「若葉に色々報告してきたよ」
ひとしきり他愛のないことを話した後で、青葉は静かにミキトへ告げた。
「ご挨拶をしてきたのね」
新緑の色のカラコン越しに迅を見て、ミキトが泣き笑いの複雑な表情を浮かべる。若葉はきっと、ミキトにとっても兄のような存在だったのだろうと感じ取り、迅はただ頷きだけで応えた。
「フォークもケーキもその他の人も、結局はただの人間よね。どう生きるかは自分次第だわ」
「……うん」
ショートケーキに沈んでゆくフォークを見下ろして、青葉は胸を埋め尽くす言葉のどれも選べない自分に惑う。
「あ、そういえば」
恋人の乱れる心をどう掬い上げようかと思案していた迅が、不意に昼間の寺でのことを思い出した。
「ご住職がご本尊を磨きながら俺を指さしてそっくりな男前だと仰ったが、ご本尊は何という仏様?」
「そうそう、それ! ご本尊は微っ妙な美形だし、そもそも男性なのか疑問だし、素直に喜んでいいのか判らないよね」
「アンタたち、変なところに引っ掛かるのね。男前って言われたならいいじゃない」
気にするポイントはそこかしら、とミキトがカウンターから僅かに身を引いてゆく。
「ま、そのうち訊いとくわ、ソラトに」
本尊の名称を父親に訊けば、仮にも寺の長男が、と激怒されるとは青葉も判って親友の呟きに苦笑を返す。弟に頼ることを選んだミキトに笑いかける青葉を見て、迅も温かな心持ちでビールを飲んだ。平素は冷たいだけの液体が、今夜は何故かとても爽快に感じられるのが不思議だ。
賑やかに続く幼馴染み同士の会話を聞くとはなしに聞く耳に、こういうことになりましたと兄の墓へと語りかけた青葉の声が返った。
――僕のフォークは誠実な人だよ。
だから何も心配しないでと、蒼穹へ吸い込まれてゆく線香の煙に願いを託した。琥珀色の双眸が、いつまでも合掌したまま動かぬ迅を見つめていた。
「青葉」
身の内に湧き上がる恋情に任せた呼びかけが、酷く甘い響きを持って店内を巡る音楽に載る。何、と言わせる隙も与えずに、迅は恋人の艶やかな唇に己のそれを重ね、貪る。
「そっちを向いていてください、ミキっち」
「ミキちゃんよっ」
そこはかとなく住職に似たミキトの顔が、それでも気を遣って背後の棚へと向き直っていった。
今日は大丈夫、と謎の自信に彩られ、青葉が高らかに宣言したのは、店を出た直後のことだ。胸の前へ上げた右の掌、五本の指はピンと伸ばされて空へと向いている。
「今夜は飲み過ぎていないし、ボタンも外さないし、泣かないし寝ない」
そんなことをつらつらと並べている時点で既に酔っているだろうと迅は言いたいが、青葉は全く気づいていないらしい。
「住所は聞いたし、送るし、タクシーに乗ったら寝てもいいぞ」
同様に片手を上げて言い返し、ミキトが手配してくれた車に青葉を押し込み、迅も乗り込む。行き先を告げるとタクシーはなめらかに車道へ合流し、交差点を右折した。予想通り、五分と経たぬうちに青葉の柔らかな髪が迅の肩へと落ちてくる。否、まだ完全には眠っていなかったようだ。ほっそりとした指が迅の手を探し、強く握って確かな体温で包み込んでくる。
味覚を失ってフォークであることを知り、己の人生に意味を見出せなくなってどんな夢も描けぬまま、もうどこへも行けないと歩くことをやめてしまった少年の日。
若葉を心身ともに喰い尽くして身を滅ぼしたフォークには1ミリの共感も覚えないが、唯一の人を放したくない気持ちだけは迅にも判る。
「……迅」
無意識に恋人を呼んで、青葉は小さく身じろいだ。兄がそうでなければ知ることもなかった、「普通」とは異なる者たち。その苦悩。自身も同じだと知っても絶望しなかったのは、相手が「賀茂川迅」だったからだ。自分が迅を癒やせているか、今はまだ自信がない。それでももう、知らずにいたころに戻りたいとは思わない。
――愛している。
揺れる車内で同時に同じ言葉を思惟したのだとは気づかずに、迅は流れる景色の煌めきを視界に映しながら青葉の呼吸を耳元に聞き、青葉は握った迅の指の温かさに安らいで夢路を辿る。
神を呪い、己を疎んで生きてきた。
この先も、ずっとひとりきりだと思っていた。けれど。
「迅……好き」
呟きは走行音に紛れ、迅の耳にだけようやく届く。
「キス、するか」
青葉が聞いていてもいなくても構わない。どちらだろうと結果は同じだ。迅は自ら顔の向きを変え、形のよい青葉の甘い唇をふわりと舐めた。
迅の隣に青葉が、青葉の隣に迅が。
ともに在ること自体が、生きる意味。
――もう、どこへでも行けるに違いない。
完
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