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枳殻峡に棲む鬼
杉木立をたたく雨勢が激しくなった。
雲が低く厚く空を覆い、樹齢三百年から六百年といわれる杉木立に囲まれた狭い道は、日中とは思えないほど暗く鬱そうとしていた。雨に煙る頭上の梢には白いもやがからみ、木々の間にたなびいている。
道は蛇行を繰り返していた。周囲には人工の造作物は一切見あたらない。
森林地帯といっていい深緑の峰が連なる山道を一台の青い軽自動車が走っていた。
「まさしく人煙まれな秘境だな」
ハンドルを握っている男が助手席の女に笑いかけた。どこか作り笑いめいたぎこちなさがあるのは、不安にかられはじめていたからかもしれない。
「スマホの位置情報はあいかわらず?」
「完全に圏外みたい」
スマホを振りながら女が言った。振ったからといってアプリが正気にかえるなんてことはないのだが、テレビのリモコンに対するのと同じ条件反射のなせるわざだろう。
「こいつも役立たずだしな」
男がカーナビの画面を指でたたいた。端から端まで深緑色に染められた画面中央にある青い矢印の自車アイコンが、まさに今の自分たちの状況をあらわしているかのように背景に埋没していた。
「コーディネーターさんへの連絡はしてあるんでしょ」
「日のあるうちに着くとは言っておいたんだけど。こりゃあ、想像以上の田舎だなあ」
都会の距離感ではかっていたことが誤りだったと男は思い始めたらしい。樹木に覆われた山塊の厚さが想像以上だったのだろう。
「暗くなる前に着ければいいけどね」
女も不安そうに窓の外に視線を送る。気が滅入るような鉛色の空から雨滴が絶え間なく降り注ぎ、雨雲を通して地上に届く陽光はほとんどなかった。夜の帳が降りたら、さらに陰鬱な気分になるだろう。
「あ、灯り!」
女が前方を指差して、声をはずませた。
赤い誘導灯を振る作業服姿の男が手を広げていた。車を誘導員の脇に停めて男がウインドウを降ろした。雨しぶきが車内に降りかかる。目をしばたたかせて誘導員を見た男は、フードで覆われた顔の右頬に大きなひきつれた傷跡があることに気がついた。
「この道は、鬼来村へ通じていますよね」
男の問いかけに誘導員は軽く頷いたが、すぐに気の毒そうな表情で言った。
「この先で土砂崩れがありましてね、今、復旧作業中なんです」
「うわ、いつぐらいまでかかりそうですか」
「明日の昼までにはなんとかなりそうですが、今日一杯と明日の朝までは通行止めです」
誘導灯を向けた先の道が二股に分かれており、左側への道が通行止めの看板で塞がれていた。
「困ったなあ。引き返すのも嫌だし、連絡をとろうにも圏外なんですよ」
「鬼来村のどこに行かれようとしているんですか」
「田舎暮らしの移住体験でね、コーディネーターさんの所に行くところなんです」
誘導員は雨の雫が滴り落ちるフードの端をつまんで、顔を隠すようにひっぱった。
「右に行けば、奥に温泉宿がありますよ。そこで夜を過ごされたらどうですか」
「え? そんな情報、はじめて聞いた」
「鬼来村へは一本道だって、コーディネーターさんは言ってたわよ」
「この道をまっすぐ行けば、どん突きに一軒宿があるんです」
誘導員は誘導灯を二股に分かれた道の右側に向けた。
「温泉宿ですか」
「枳殻峡温泉と言います。秘湯中の秘湯です。地元の人間しか知らない所でね。五十年ほど前にはおたくらが来た麓のあたりに私鉄の駅もあったし、そこから路線バスも枳殻峡まで走っていたんですがね」
「きこくきょう?」
漢字が変換できないのかもしれない。男が首を傾げた。
「みかんの親戚にカラタチってあるでしょ。それの別名が枳殻です。漢字では読めない人も多いんじゃないかな」
「カラタチがいっぱい生えていた?」
「さあ、どうかしら」
フードに隠れた顔が左右に振られた。
男が女に顔を向ける。「どうする?」「行ってみましょうよ。どうせ、明日の昼までは道が使えないんだし、温泉に浸かって、宿の夕食や朝食ってのもいいんじゃない」
「その宿は飛び込みで泊まれそうですか」
「今の時期は空いていると思いますよ。リゾートホテルじゃないから都会の人が満足するかどうかはわからないけど」
「わかりました。行ってみます。ありがとう」
ウインドウを降ろして男は右にハンドルを切った。バックミラーに映る誘導員の黒い影が真っ赤な誘導灯をまあるく振っていた。
「深山幽谷の気に触れてリフレッシュしますか」男が女に微笑みかけた。緩めた頬からはさっきまでのこわばりが消えていた。
遠ざかる赤いテールランプを見送る誘導員は執拗に誘導灯を回していた。誘導員の視線の先には車が進む道の先に浮かび上がる山の頂があった。
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