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枳殻峡に棲む鬼
長い登り坂が続き、本当にこの先に温泉郷があるのかと不安にかられはじめとき、『枳殻峡温泉駐車場』と書かれた看板がヘッドライトの光の輪の中に浮かび上がった。
「ふー、やっとついたか」ハンドルから手を放した男は安堵の溜息をついた。
車を停めて外に出て傘を差したが、周囲にそれらしき建物はない。
「ねー、こっちがそうじゃない?」
駐車場から下に向かって石段があった。女が上から覗き込んで男に声をかける。
「そうだな、ここからどこかに通じていそうな道はそこしかないな。それにしても不親切だな。案内板ぐらい設置すればいいのに」
二人は石段を降りはじめた。
石段はまっすぐに下っている。
石に叩きつけられた雨粒が跳ね、水冠がいくつも踊っている。
長い下りだった。
「本当にこの先に宿なんてあるのか?」
男が再び不安にかられはじめた声になる。
石段は下りつづけている。
やっと谷底のような平地にたどり着いた。道は赤い欄干の太鼓橋に繋がっている。轟くような底鳴りが橋の下を流れる渓流から聞こえてくる。雨のために増水し、茶色の濁流となった渓流が渦巻いていた。
渡しのむこうに滝が白く輝いている。滝も増水しているようだ。勢いよく白い水を吐き出していた。
道は渓流沿いに続いていた。
さらに奥へと進む。
周囲の木よりもどっしりと年輪を重ねた杉の巨木が現れた。しめ縄を巻かれたそれは、樹齢どれほどのものなのか見当もつかなかった。巨木のむこうにやっと建物のシルエットが見えた。
赤い桧皮葺の屋根が濡れて輝いていた。屋根は白い飛沫に覆われている。三階建ての木造建築だった。趣のある玄関に人影があった。煌々とした灯りを背にして、まっ黒なその人影が頭を下げたようだ。近づいても逆光になって表情が見えづらい。そんなはずはないと目をこらすのだが、目と鼻と口があるのはわかるのだが、その表情をとらえようとすると曖昧な印象しか得られない。和服を着ており、女性であることは間違いないのだが。この宿の女将だろうか。ほかに従業員らしい者の姿は見えなかった。
「いらっしゃいませ」
陰の濃い女が言った。口が小さく動いたように見えた。だが、口の動きよりも後から声が聞こえたような気がした。
「予約をいれていないんですが、今日、部屋は空いていますか」
男の耳朶にべちゃりと口を寄せたような、湿った声が鼓膜を震わせた。声に輪郭が感じられない。
「たっぷりとございますよ」
どこか、からかっているかのような含み笑いとともに女の口が動いた。
「二人、お願いしたいんです」
「ご案内いたします」
微笑したのだろうか、左右の口角がすっと上って、三日月のような形の口が目についた。
飴色に磨き込まれた木の床が真っ直ぐに伸びている。思ったよりも大きな宿のようだ。奥に広がっているのだろう。天井も凝った造りの格子天井で、紙製のペンダントライトが淡い橙色の光をぼうっと放ちながら廊下の尽きる先まで幾つもぶら下がっていた。
「ねえ、なんだか夢の中にいるみたいじゃない?」
電気を消す男に向かって、床の中で女が言った。
自分が思っていた同じことを女が口にしたので、男の背にゾクリと粟が生じた。
通行禁止となっていた二股の道を右に折れてから、今までのことが何とも現実味に欠けたもののように感じられていた。
宿帳へ必要事項を記入した。食堂で山のものを主体とした夕餉をすませた。大浴場と露天風呂に浸かった。部屋に戻ってくれば、床がのべられていた。その間、玄関で迎えてくれた女性以外の誰とも出会わなかった。客の姿も従業員の姿も見あたらなかった。食堂では配膳が終わっていたし、風呂場への案内もなく、「あちらへどうぞ」と女に誘われただけだった。浴場の入口の上には『禊の湯』と書かれた古い扁額が掛けられていた。
男は、灯りを消して床に横になったが寝付けなかった。さっき女が口にした夢の中にいるみたいだという言葉が妙に頭から離れない。
「夢幻か」男が呟いた。「ねばつくような嫌な夢、悪夢に近いかもしれんな」口に出すとあらためて今の不快な心境が増幅されるように感じられた。
「私も同じ」
男の独白に女が同意した。起きていたのだ。やはり寝付かれないのかもしれない。
雨だれの音が聞こえる。宿のそばを流れる渓流の音も。
いつしか男は眠りに落ちた。
息苦しさを感じたからか、何かの気配に気がついたからか、男は目をさました。暗闇の中で耳をすます。
足音が聞こえた。
廊下の奥から自分たちの部屋に向かって誰かが歩いてくる。
磨き込まれた木の床を思い浮かべた。その床の上を歩いてくる。だが、スリッパや靴の足音ではなかった。
ぺたり、
ぺたり。
近づいてくる足音は、はだしのように思われた。
ぺたり、
ぺたり。
男の軀を鳥肌がはしりぬけた。
ぺたり、
ぺたり。
足音が大きくなる。
ぺたり、
ぺたり。
男は息をとめていた。ぺたり、ぺたり、ぺたり、ぺたり。
足音が部屋の前を通り過ぎた。
奥に向かって遠ざかっていく。男は安堵の溜息をつく。
ぺたり、ぺたり。
遠ざかった足音が再び近づいてきた。
ぺたり、ぺたり、ぺたり、ぺたり。
部屋の前で立ち止まった。
「おい」
男は女に声をかけた。
「起きてるわ」脅えた女の声がした。
布団をはねあげ、男は電気をつけようと照明のスイッチを入れた。
パチン。
照明が灯らない。何度も押す。部屋は真っ暗なままだった。ほかのスイッチも闇雲に押した。
何も変らない。真っ暗なままだ。
「どうしたの?」
もはや女の声は悲鳴に近かった。
ガチャリ。
部屋の鍵が開けられる音がした。
入口の扉を開けると踏込がある。靴を脱ぎ置く場所だ。自分たちがいる主室と踏込の間に前室があり、主室との間が横開きの襖で遮られている。
襖ごしに入口の扉が開く音がした。
「誰!」
女が叫んだ。
「宿の人なの?」
返事はなかった。だが、襖の向こう側に誰かがいる。あるいはなにかがいる。
ぎしっと、踏込から前室に上る音がした。
「誰だ!」
男が叫んで、襖を乱暴に開いた。
襖の向こう、前室には誰もいなかった。
開けられたはずの入口の扉が閉まっている。鍵もかかっていた。
男が鍵を開け扉を思いきり引いた。真っ暗な廊下が広がっている。しかし、そこには誰もいなかった。
「誰もいないよ」
扉を閉めて部屋にいる女に向かって振り向いた男の目の前に何かがいた。
女の絶叫が宿中にこだました。
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