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枳殻峡に棲む鬼
長大な脊梁山脈の、人煙もまれな奥地にある鬼来村は、広大な敷地面積を誇っている。しかしそのほとんどは山塊であり、鉄道は無論のこと、路線バスすらもない。近隣の町から村へ通じる一本道は杉やヒバが茂る山襞の中で蛇行を繰り返し、あちこちに崩落危険箇所や断崖ルートがあり、道幅が狭く、対向車とのすれ違いに細心の注意を要する場所がそこここにあった。
集落は山塊を削ってできた渓谷のわずかな平地に点在する。一番広い平地が村の中心地だった。そこには、『鬼来村には、雛にも似合わぬものが二つある』と言われている建造物がある。一つは鬼来村五重塔。もうひとつが村長の家系である鬼島家の館だった。
五重塔の建立は西暦九百年代と謳われている。柿葺の屋根が昨日の雨に濡れて、鈍く輝いている。かつては周囲に多くの寺院もあったらしいが今ではこの五重塔のみが山深い村の中でひとり佇んでいる。
鬼島家の館は砦のような造りになっていた。集落の上部にある、南から北に伸びる尾根のピークに築かれている。南西と北東の方向へ尾根が下っていて、南西の方角に集落がある。集落へ通じる門はさほど大きくない。常に開放されており、村人は自由に館の中に入ることができた。北東に向かって建てられているのは分厚い頑丈な門で上部には楼が載っている。今は使われていないその門の先にはかつて杣道があったと言われているが、今は生い茂る草木に塞がれ、通行は不可能となっていた。
鬼島家の長女、美月姫は今年十八歳になる。通信制高校を卒業する予定だった。黒い髪と黒い瞳の少女だった。美月姫は母の部屋に向かって外回りの縁側廊下を歩いていた。鬼島家の館に内廊下はない。襖で仕切られたそれぞれの広さの畳の部屋が十区画ほどあった。すべての襖を取り払えば百畳敷の広間になる。かつてはそこで村人を集めて鬼島家の当主が村落内のさまざまな問題に対処していたという。
渡り廊下にめぐらされた板を踏むとキュッ、キュという音がする。館が相当昔からあるという証だ。経年劣化で床板を留めたかすがいが弛み、きしるのだ。美月姫はこの可愛い音が好きだった。
渡り廊下の先にある家族の居室は洋風建築になっている。
「お母さん」
ドアをノックして声をかけると、「どうぞ、お入りなさい」という返事があった。
「失礼します」
室内に入ると、母の彩香がアルバムを開いていた。
「あなたたちの写真を見ていたの」彩香の指が愛おしそうに、貼られた写真をなでている。
鬼来村がどんなに人里と離れているといっても、電気、水道、電話は通じているし(ガスはプロパンだが)、村内にはスーパーもある。店には定期的に食料品や日常雑貨が配送されている。呼べば、宅配業者だってやってくる(料金は割高だが)。スマホだって使えるのだ。ネガフィルムをプリントして昭和レトロなアルバムを作っているのは彩香の趣味だ。美月姫はスマホの画像をパソコンに取り込んだり、クラウドにあげたりしている。
「竜ニイの写真ね」
兄の竜司が美月姫の髪をくしゃくしゃにしているカットを見て言った。美月姫は竜司のことを『竜ニイ』と呼んでいる。
「あなたの髪がとっても羨ましくって、とっても妬ましかったのでしょう」
竜司の髪の色は真っ赤だった。
染めているわけではない。生まれついての天然の髪だ。そして、母、彩香の髪も真っ赤だった。
「小さいころは自分と違うあなたをいじめていたわね」
目を細めて笑う彩香が美月姫を見た。その瞳の色は緑だった。
鬼島家の者は赤い髪と緑の瞳を持つ。全員ではないが、ある遺伝形質を受け継いだ場合、皆、そのような軀で生まれてくる。
「あなたは特別なのよ」
どこか憂愁の色をたたえた瞳で彩香は美月姫を見た。
「もうすぐ十八歳ね」美月姫の黒髪をなでながら彩香が言った。
「スクーリングを終えたら、私、高卒資格をもらえるわ」
「そうね」
「そうしたら、私、大学に行きたい!」
「いつも言っているわね。街に住みたいのね。東京だっけ? 住みたい街は」
「うん」テレビで見る大都会は美月姫の憧れの地だった。
「行かせてあげたいわ」
不意に彩香は美月姫を抱きしめた。「お母さん?」彩香の胸に黒髪をあずけて、目を閉じる美月姫に赤い髪の母は言った。
「もうすぐ二十年になるのね」
鬼来村田舎暮らし居住体験コーディネーターの西牟田満はぼやいていた。
「おっかしいなあ」
「どうした?」
西牟田に事務所スペースを貸している村議会議員の山野辺義彦が、一年前に都会からこの山峡の村へ越してきた酔狂な男の顔をのんびりと眺めながら聞いた。
場所は山野辺の事務所だ。その一画を西牟田に無償で貸している。山野辺の本業は開店休業状態の炭造りだった。土地の古老である山野辺は体力的に炭を焼くのはきつくなっている。
「昨日、居住体験でやってくるはずだったカップルが来ないんです」
「おまえさんが、自分と同じようにここに住まわせたいと思っている連中か?」
「ええ」
「何が嬉しくて、こんな山里にやってくるのかね」
山野辺の口調に、歓迎の色はあまり含まれていなかった。
「フリーのルポライターだそうです。仕事場を選ばない職業だからここに住んでみたいんですって。都会の喧騒から抜け出したがっていました。それにここでの生活を手記にするんだって意気ごんでたんですがね」
「気が変わったんじゃないのか」
「いいえ、昨日の朝、これから発つからって電話があって、その後、十五時頃、麓の町についたって電話があったんです。昼を食べそびれたので軽食を摂ってから行くって言ってました」
「だったら、昨日中に着いていないといけないな」
「昨日の雨はけっこう強かったですけど、慎重に運転したとしても夜には間に合うはずです」
「電話に出ないのか」
「ええ」
「麓の町からは一本道だ。迷うような箇所はないのにな」
「もしかしたら、崩落に巻き込まれたり、誤まって、崖に落ちたってこともあるかも」
西牟田の表情が険しくなった。
「俺、ちょっと行ってみます」車のキーを握り締めると、開きのガラス戸を開けてコーディネーターは駐車場に向かって走り出した。
「おまえも気をつけろよ!」遠ざかる背中に山野辺は怒鳴った。ポットが湯気を噴いて湯が沸いたことを告げている。インスタントコーヒーをマグカップに入れながら村の上に聳える鬼島家の館を見ながらひとりごちた。
「そういえば、もうすぐ二十年だな」
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