枳殻峡に棲む鬼

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枳殻峡に棲む鬼

 那牙嶺家(ながみねけ)と鬼島家は峰伝いに隣り合う領地を持つ豪族だった。那牙嶺家の本拠地は枳殻峡にある枳殻砦、鬼島家の本拠地は大木の里にある大木砦と呼ばれている。両砦の間には幾つかの、小規模だが永続的に籠もることのできる砦が点在している。那牙嶺領から下界に通じるには、鬼島領を通るか、まるで反対方向に山を下るしかなかった。下りきった麓の町は那牙嶺家と誼を通じていたが、その周囲に割拠する豪族たちとは友好関係を結べてはいない。那牙嶺家も鬼島家も山上の僅かな土地を取り合っていた。  鬼島領内に銀山が見つかったのは二十年ほど前のことだ。その銀山の支配権をめぐる那牙嶺家と鬼島家の諍いは戦にまで発展していた。  都に銀を運び、朝廷からこの地の地頭職を親任されている鬼島家の当代当主の名は右京(うきょう)。都の権威を背景に右京が那牙嶺家当主、秀柾(ひでまさ)に臣従を求めたのが諍いの発端だった。豊富な産出量と純度を誇る銀が御感に預かり、鬼島家はこの地での隆盛を誇っている。だが、銀山を奪ってしまえば那牙嶺家が鬼島家にとってかわることができると、秀柾は挙兵したのだ。 「殿、それがしに兵をお預け下さい」  那牙嶺家の武将、松本兵衛雅充(まつもとひょうえまさみち)が山中を長駆迂回して鬼島軍の後背から奇襲攻撃をかける案を持ちこんだ。険峻な山中を騎行するのは危険きわまりない行為だが、松本はこの案に固執した。 「鬼島の出城を拘束してください。その間にそれがしが率いる兵が大木砦の搦め手から村を焼き払い、砦に襲いかかります」  那牙嶺領は鬼島領の北東方向にある。鬼島軍は唯一の侵入路である峰伝いの道に砦と兵を固めていた。山塊には人の通る道はないと思われているが、獣道は存在した。松本は地元の猟師からその道の情報を入手していた。 「獣が通れるのならば、馬も通れましょう」  地形を克服して、勝機を掴むのだと松本は力説した。秀柾はその言をいれた。 「大木砦の後方に煙があがりましたら、鬼島勢は本拠地を襲われたと動転し、兵を大木砦に返しましょう。殿はその機に乗じて一気に本軍を駆けさせてください」 「わかった」  松本の率いる少数の騎兵が獣道を伝って大木砦の搦め手にある集落の入口に辿りついたのは翌日の昼だった。鬱蒼と茂る杉やヒバの巨木が那牙嶺軍の奇襲部隊の姿を隠していた。  鬼島家が誇る五重塔を中心とした堂塔、塔頭群が見える。まるで空中に出現した一大宗教都市のようだ。  峰の上に建設された大木砦は、那牙嶺領に接する北東に楼を頭上にいただく堅牢な門を擁し、麓の集落に通じる南西面には関所のような簡易な木造りの柵を設けているにすぎなかった。 「突っ込め!」  主将の下知とともに、那牙嶺軍の騎兵がほぼ無防備の大木砦南西面の柵に殺到した。  南西面の守備兵はふってわいたような騎兵集団に仰天し、柵を守ることも忘れて逃げ散った。 「火をかけるのだ」  松本の左右を松明を抱えた騎兵が駆け抜け、周囲の寺院に火を放った。冬期が近づき、乾燥していたせいもあったろう。鬼島家が誇る空中の建造物はまたたくまに猛火に包まれた。黒煙が炎を巻き込みながら空高く吹き上げた。寺院の周囲にあった民家も焼き払われた。  伽藍が崩れた。砂煙が舞う。灰があたりに漂った。視界を遮るもうもうたる煙の中、寺域の最奥部、北東方向に位置する社殿の前で勇敢な巫女が敵兵の前に両手を広げて立ち塞がっていた。社殿の前には鳥居が立っており、札を下げたしめ縄が巻かれている。 「これより先はなんぴとたりとも立ち入ることのできぬ聖域じゃ。この社に手を触れてはならぬ」  だが、その叫びはそれを聞く者にとっては逆効果となった。 「お宝を隠してやがるな」 「どけっ! 邪魔立てするな」  那牙嶺兵が二人、巫女に刀を向けた。 「わからぬか! この社に触れてはならぬの」  言葉が途切れた。刀が巫女の胸を刺し貫いていた。 「……じゃ」  社殿の守り役である巫女は、地に倒れ伏しながら言葉をしめくくった。 「邪魔くせえ」  鳥居に巻かれたしめ縄にぶら下がる札が顔にからみついた兵が、邪険に札をしめ縄から引きちぎった。  一瞬、あたりが暗くなった。「なんだ?」兵は少し怯えたが、明るさはすぐにもどった。 「おい、早くお宝を探そうぜ」  仲間に背中を押されて、兵は小さな社殿の中に入った。 「鬼島の銀がどこかに隠されてるんじゃねえか」 「燃やすだけじゃあ、もったいないってもんだ」  社殿は小さく、狭かった。古錆びた櫃がひとつ置いてあった。櫃の口には紙が貼ってある。紙で封をしているかのようだった。紙に書かれた文字は梵字だろうか、兵たちの目には一丁字もない。櫃の蓋の上に窪みがある。その窪みの上に玉が置かれていた。緑色の透明度の高い玉だった。碧玉と呼ばれたりもする。 「お、さっそくお宝が登場か」  碧玉を取り上げた兵士が頭上にかざしてその透明度を確かめた。  玉を見る兵の耳元で誰かがささやいた。 「出してくれ」 「え?」  顔を上げて左右を見回した一人が仲間に声をかけた。 「今、何か言ったか?」  問われた男は首を振った。「いや、何も言ってねーよ」  空耳か? と周囲を見回す男の耳元でまた誰かがささやいた。 「ここから出してくれ」  声は櫃の中から聞こえたような気がした。 「蓋を開けてくれ」  今度ははっきりと聞こえた。 「おい、この中に誰かいるみたいだぞ」 「馬鹿言うな、誰が好き好んでこんな窮屈なところに入るってんだ」 「だって……」  仲間が言うのはもっともなことだったので、それ以上は主張できなくなった。 「早く! ここから出してくれ」  頭の中に直接響いてきた、頭が割れんばかりの叫び声が男の意識を支配した。玉が地に落ちて転がった。 「櫃の中にもお宝がある」  表情をなくした男が棒読みのように、仲間に話しかけた。   「へ、本当かよ」 「早くこれを開けよう」  淀んだ生気のない目が仲間に向けられ、その目を見た男は少し身震いした。 「なんだよ、怖い顔しやがって」 「早く」抑揚のない声で仲間をせかす。 「わかったよ」  蓋にかけられていた紙が破られた。  紙を破った男が櫃の蓋を開けようと手をかけたが微動だにしない。 「なんだよ、意外と重たいな。おい、そっちを持ってくれ。おまえが開けようって言い出したんだからきっちり働けよ」  声をかけられた男が無表情に仲間の顔を見て、蓋にとりついた。  櫃の蓋があいた。  そのとたん、社殿内が闇に満たされた。入り口から差しこんでいた光が闇に飲み込まれたように消えた。 「な、なんだ? いったい何が?」  漆黒の闇の中で兵が叫んだ。「おい! いったいこれは」  社殿の中で絶叫があがった。  社殿から出てきたのは一人だけだった。空ろな顔には意思が感じられない。ぶつぶつと呟いている。手には碧玉があった。 「はい、わかりました。この玉を持って、ついてまります」  兵の軀を黒いわだかまりが包み込んだ。煙のようなそれが消えたとき、兵の姿もなくなっていた。
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