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枳殻峡に棲む鬼
領主、鬼島右京に戦況を報告する使い番が次々と現れた。
「敵が南西面から現れ、集落に火をつけました」
「那牙嶺軍に対峙していたお味方の兵は陣をはらい、大木砦に帰陣すべく撤退を開始しました。那牙嶺軍主力がその背後から猛追している模様!」
「砦の周囲に陣を構え、那牙嶺の軍を防ぎます」
「砦の外の陣が次々に破られています」
大木砦は裸城になった。那牙嶺軍が砦の周囲を取り囲み、まさしく蟻一匹這い出るすきまもなかった。しかし、砦としての防御力は失われておらず、城砦内にこもる鬼島軍は度重なる敵の侵入を阻止していた。
那牙嶺秀柾は兵糧攻めで大木砦を落とす作戦に出た。
籠城一ヶ月、兵糧が尽き、砦の内部は飢餓に襲われていた。木の根、昆虫、死肉など口に入れられるものはすべて兵の胃の腑に落ちていった。やがて餓死者が続出しはじめた。砦内の凄惨な光景を見た鬼島右京は歯噛みした。
「おのれ、那牙嶺秀柾。なぜ攻めて来ぬ。攻めてきさえすれば最後にひとはな咲かせて散っていくものを」
「秀柾めは我らが餓死するまで高見の見物を決め込むつもりに相違ありませぬ」
家臣の言葉に右京はかさかさに乾いた唇を噛んだ。
「卑劣な!」
兵は皆、痩せ衰えていた。
「まるで餓鬼のようじゃ」右京は呟いた。
夜、砦の外ではあかあかと篝火が輝き、闇に紛れて逃亡を企てる者の企図を挫いている。
右京は落ち窪んだ眼窩の奥にある真っ赤な目をぎょろつかせていた。もはや人の顔ではなかった。死相、あるいは鬼相が浮かんでいる。
一人で砦の一室にこもる右京の周囲に灯りはない。油は早い時期から皆に飲まれていた。漆黒の闇の中、右京の目の中に怒りと怨みの炎が燃え盛っていた。
右京は自刃するつもりだった。
明日には皆の前で命を絶つ。今宵が今生で最後の夜だ。
刀の鯉口を切り、刀身をわずかに鞘から出した。そのとき何かの気配を感じた。
「誰だ?」
周囲を見回したが、誰もいない。だが確かになにものかの気配が部屋に満ちている。
鞘をはらい、刀を抜いた。
「何者だ」
不意に平衡感覚が失われ、右京は両膝を畳につき、左手で軀を支えなければならなくなった。
目の前にまっ黒なわだかまりがあった。
黒い雲が渦巻いているようなわだかまりから声が聞こえる。
「おまえの望みをかなえてやる」
「なに?」
「おまえの望みをかなえてやる」
「誰だ?」
「長い間、閉じ込められていた。俺は腹がへっている」
右京の問いには答えず、わだかまりが軀を持ったかのように立ち上がる気配がした。
「誰だ? おまえは」
「鬼魅さ」
わだかまりから言葉が発せられた。あの黒い気体の中に誰かが隠れているのか。
「傀儡師?」
「違うな」
その言葉を信じろというのか。無理だ。右京の理性が目の前の現象を否定した。
「こっちへ来い」
わだかまりの中から手が伸びてきた。剛毛に覆われた逞しい腕だ。指の数は五本、鋭い爪が伸びている。腕は右京の手を取り、立ち上がらせ、外廊下に連れ出した。
「見ろ」
眼下に痩せさらばえた兵たちが蠢いていた。
「あれらは餓鬼だ」
鬼がそう言ったとたん、もがいていた兵が皆、餓鬼になった。
餓鬼たちは立ち上がり、砦の壁にとりつき、乗り越えていった。何匹もの餓鬼が砦から外に飛び出した。
篝火が倒され、火の粉を撒き散らすと同時に那牙嶺軍の陣から悲鳴があがった。ばりばりという骨が砕けるような音がここまで聞こえてきた。
「化け物だ!」
下界で阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられた。
言葉を失っている右京の目の前にわだかまりの中からにゅっと顔が飛び出した。前頭骨が異様なまでに前にせり出し、太い眉毛にそって眼窩をひさしのように覆っている。落ち窪んだ眼窩の中の瞳が縦に長く緑色に光っている。眼球は上まぶたによって半分以上覆われていた。左右に広がった鼻翼の下に耳元まで避けた口があり、両脇には牙が上下に生えている。
「あ、あやかしか?」右京は悲鳴を呑みこみ、なんとか言葉を搾り出した。
「鬼魅さ」先ほどと同じ言葉が発せられた。
「鬼か?」
「そう呼ばれたこともある。呼びたければ、そう呼べばいい」
「まことにこの世のものではないのか」
右京の頭を掴み、那牙嶺軍の本陣に向けた鬼が耳元でささやいた。にちゃり、と湿った音とともに右京が望んでいたことを口にした。
「那牙嶺秀柾を食ってやろう」
「餓鬼たちはすぐ人に戻る。人の姿に戻って死ぬ。だから秀柾の陣までたどりつくことはできぬ。だが俺は自由に奴のもとに現れることができる」
「お、おまえはどこから来たのだ」
「無意味な問いだな。だが、教えてやろう。何百年も前に唐から渡ってきたのさ。俺の意思で、ではない。ある奴に捕りこめられ、封印されたままこの地に運ばれたのよ」
「な、何が望みだ」
慈善事業をする存在であるはずはない。右京は交換条件があるのだろうと推し量った。
「食い物はいい。秀柾の所領に巣くって、領民たちを食い尽くすからな」
「では?」
「女を用意しろ。俺の伽をする女だ。おまえの娘だ。いるか?」
右京の喉が大きく鳴った。唾を飲み込むと、搾り出すように答えた。
「いる」
「名は?」
「玉」
「玉を俺によこせ」
「連れ去るつもりか」
「返してやるさ。一ヶ月で。それだけあれば十分だ」
何が十分なのだ? 右京は様々に想像を巡らせた。だがそのどれひとつとして歓迎すべきものではなかった。
「娘を、娘を抱いてどうするつもりだ」
「おまえが心配することではない。だが、おまえが諾といえば、おまえの里は滅びずにすむ。それだけのことだ」
「それだけ?」
「いや、そうでもないな。俺は二十年に一度、この里にやってくる。そのときにおまえの直系の娘を必ず差し出せ。齢は十八から二十までの娘だ」
「娘がいなければ?」
「おまえたち一族に災いがふりかかる」
「玉を……」
「ほっておけば、どのみちお前たち一族は滅びる。娘は秀柾にいいようにされるだろうな。あるいは自害して果てるか」
選択の余地はないのだ、と鬼は右京に覚らせた。
ぎこちなく右京の首が何度か、震えながら縦に振られた。
「覚えておけ。冬至の日に玉を迎えに来る」
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