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枳殻峡に棲む鬼
那牙嶺秀柾の本陣は混乱していた。
大木砦から飛び出してきた餓鬼の群れが、前線の兵に喰らいつき殺戮を繰りひろげたからだ。パニックを起こした那牙嶺軍の陣形が崩れたが、餓鬼たちの行動は統一されておらず、一匹、一匹が人に襲いかかるだけだったので、冷静さを取り戻した那牙嶺軍の組織的な反撃にあい、餓鬼どもは五体を切り刻まれて殺された。死ぬと餓鬼は人の姿に戻った。
「とんでもない化け物だったな。鬼島は憑きものの家だったのか」
前線からの報告を受け、委細を承知した秀柾が松本兵衛雅充に語りかけた。
松本は餓鬼の群れが現れると、秀柾を守るべく群れに突入し、獅子奮迅の活躍をした。その際、餓鬼に右頬を齧られ、肉を引き千切られた。生々しい傷跡からはまだ血が滴っている。
「さあ、ただ、大木の集落を襲った兵たちの中に妙な噂が広がっていまして」
右頬に手をあて、顔をしかめながら松本が歯切れ悪く報告した。
「どうした?」
「妖怪を解き放った奴がいて、何人かがそいつにとり殺されたというのです」
「確かめたのか」
「いいえ。戦で死んだのか、妖物に殺されたのかの見極めはそれがしにはつきません。ただ、堂塔、塔頭に火をかけているとき、小さな社殿の中から黒雲のようなものが噴き出して、それにまかれた者が手足を引き千切られて死んだというのです」
「気味の悪い話だな」
「はい」
「ころした…のは」
秀柾の耳元で声がした。
「ん? 何だ?」それが松本の言葉だと思った秀柾が武将に尋ねた。
「は? いえ、それがしは何も」
「今、殺したのは、と言わなんだか?」
「いいえ」
何かを察したのか、松本の目がすばやく周囲を見回した。床机に腰掛けていた秀柾の腰が浮いた。
「殺したのは俺だ」
秀柾の鼓膜がぱん!と破れた。
激痛が耳の中を駆け抜け、悲鳴をあげて耳を覆った秀柾の両手が見えない何者かによってひっぱられ、左右に広げられた。耳から血が吹きだした。言葉にならぬ絶叫が那牙嶺家当主の口から発せられた。
「耳があっ!」
気が狂ったように左右に首を振り、わめき散らす主の姿を松本はあっけにとられて見ていた。
「耳がどうした?」
秀柾にしか聞こえないなにものかの声は、鼓膜を破裂させられた男にはもはや聞き取ることができない。
「うまそうな耳だ。食ってやろう」
耳朶が思いきり伸びた。見えない力が秀柾の耳をつまんでいるかのようだった。繊維組織がぶちぶちと音を立てて断裂した。耳朶が千切れて、血が飛び散った。
「化け物!」
松本が抜刀し、姿は見えぬが明らかに主の軀を掴んでいるであろう空間に白刃を走らせた。周囲にいた警護兵も刀を抜き連れて、空中に宙ずりになっている秀柾のもとに駆け寄ってきた。
「兵衛様!」
「妖異がいる!秀柾様をつかまえるのだ」
武将の言葉に何人かが刀をおさめて秀柾に手をさしのべた。だがそれらの手がことごとく、ぶつん!という音とともに持ち主の軀から引き千切られた。片手や両手を失った兵が悲鳴をあげて地面でのたうっている。
「は、はやくわしを助けろ!」秀柾の叫び声が途中で途切れた。
首が千切られたからだ。
松本の足元に白目を剥いた那牙嶺秀柾の首が転がった。松本の目の前に黒雲がわいた。いや、雲か煙か、霧か、そのあやめがつかない。ただしその黒いわだかまりは生きているかのようにうねっている。煙のように宙で掻き消えることはなかった。それがまるで立ち上がるかのように身を起こした。それを身の丈と言っていいのなら七尺(二.一二メートル)はあろうか。わだかまりは生き物のように秀柾の死骸を包み込んだ。ごりっという音が、ばきばきという音が聞こえる。死骸を喰っているのだ。松本の全身に粟粒が生じた。
黒いわだかまりは、秀柾以外の死骸をも喰った。
「ようやく飢えが失せた」べちゃりとした声が聞こえた。松本は蒼白になって立ち尽くしていた。陣幕の中の異変を外の者は気づかない。松本に向かってわだかまりが近づいてきた。脂汗が額を流れ落ちる。目の前にそれが立ちはだかった。松本の顔を舐めるように見ているかのようだ。
「おまえは助けてやる」そいつはそう言った。
松本は溜めていた息を一気に吐き出した。
「終生、俺のために生きろ」
小さく、小刻みに何度も松本の顎が振られた。震えなのか同意のしるしなのかわからないほどそれは小刻みだった。
「兵を率いて、領内に退け」
松本兵衛雅充は鬼の言に従い、兵をまとめて枳殻峡に戻った。
最後の兵が枳殻峡に入ると、枳殻峡に通じる道が消えた。そして枳殻峡そのものが地上から消えた。
大木砦は陥落を免れた。多くの兵や領民が死んだが、不思議なことにいったい自分たちが誰と戦っていたのかを記憶している者は一人もいなかった。いや、正確には一人だけいた。鬼島右京である。右京は周囲の者が那牙嶺家やその領地である枳殻峡についての記憶をすべて失っていることに驚いた。絢爛をきわめた宗教施設のほとんどを焼失し、唯一残った五重塔を見ながら右京は鬼が枳殻峡を棲み家にしたのだろうと思った。あのとき鬼は右京にこう言った。
「食い物はいい。秀柾の所領に巣くって、領民たちを食い尽くすからな」
どういう術を使ったのかわからぬが、鬼は結界を張るようにして枳殻峡を外部の目から隔離してしまったのだ。それどころか、枳殻峡や領主の那牙嶺家に関する記憶の一切を葬り去ってしまった。そして、もうすぐここ、大木の里に戻ってくる。今年十九歳になる愛娘の玉をさらいに。
玉を妖異がどのように扱うか、想像するだにおぞましく、汚らわしかった。できれば約定は反故にしたかった。だが、鬼の霊力を見せつけられた今、いかなる抵抗の術も残されていないことは認めざるをえない。鬼島右京は懊悩しつつその時を待った。
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