枳殻峡に棲む鬼

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枳殻峡に棲む鬼

「父上、玉でございます」  部屋の外から声がかけられた。 「入りなさい」  障子越しに右京は娘を招じ入れた。 「失礼いたします」  玉は外廊下で膝をついて正座し、戸を開けて入室した。「あなたは下がってよろしい」右京の命で自分を呼びに来た家臣を下がらせ、玉は戸を閉めた。右京に向き直ると「何用でございますか」と短く問い、そのまま黙って父の言葉を待った。 「実はな」  右京は娘の目を正視できず、部屋の隅を見ながら言った。 「おまえを迎えに来るものがいる」 「私を迎えにですか。それはどなたでしょう」 「それは……」苦渋に満ちた顔を娘に向けた右京は次の言葉に詰まった。  これまで見たこともない、父親のなんとも名状しがたい表情に娘は怪訝な顔をした。 「実はな」  さきほどと同じ言葉が父親の口から洩れた。 「どうした? 何をためらっているのだ」  父と娘しかいないはずの部屋で第三者の声がした。驚いた二人は部屋を見回した。誰もいない。父は観念し、娘は驚愕した。 「何者です!」気丈な娘の誰何に姿を見せないそれが応えた。 「鬼魅」 「誰か! 誰かある!」  玉が叫びながら障子を開けようとした。しかし、さきほどはからりと滑らかにすべった障子が釘でうちつけたかのように微動だにしない。 「誰か! 誰かある!」 「無駄だ」  面白がっているような声がして部屋の隅に黒いわだかまりが沸きはじめた。みるみるうちにそれが大きくなる。 「父上! これは?」  ただならぬ事態にもかかわらず、慌てた様子のない父親に娘は不審を憶え、問い質した。 「父親はおまえを売ったのだ」わだかまりが楽しそうに言った。 「嘘!」  わだかまりと父親の顔を交互に見ながら、玉は否定の言葉を期待しているようだった。だが、右京は何も言わない。いや、言えなかった。那牙嶺家との戦の記憶は玉にはない。一族を、娘を守るために鬼と交わした約定は、誰からも理解されず、右京は妖異に娘を売ったという汚名を甘んじて受けざるを得ない立場に立たされていた。いかなる弁明も、自己正当化もできないだろう。絶望的な気持ちで右京は目を閉じ、左右に首を振り続けた。 「許せ」  歯ぎしりをしながら搾り出した言葉を聞いた娘の顔が蒼白になった。 「許せ、玉。こうせざるを得なかったのだ」  わだかまりが夏雲のように室内で渦巻きながら成長した。夏雲と違うのは色が禍々しいまでにまっ黒なことだ。 「誰か!」  頑として開こうとしない障子に体当たりをした玉は、逆に弾き返された。畳の上に投げ出された玉の目の前にわだかまりが近づいた。 「嫌っ!」  不浄なものに触れるのを拒否するように玉が身を引く。黒い、煙とも雲ともつかぬものがさらに近づく。 「俺と一緒に来い」  わだかまりの中から腕が伸びて、玉の右手を掴んだ。  予想に反して、その腕が以前に見た剛毛に覆われた荒々しいものではなく、どこか優男めいた白く、滑らかな肌であることに右京は驚いた。  捕まれた右手を我が身に引きつけようと抵抗する玉だったが、見た目と違って腕の力は強いらしく、歯を食いしばる玉の額に汗が浮かんだ。 「無駄だ。おとなしくすれば怪我をせずにすむ」  不意に、わだかまりの中から顔が現れた。玉の目が見開かれる。  顔のあとから首が、肩が、胸が、腹が現れた。何も身につけていない裸の軀があらわれた。  男だった。  人間の男、それも玉が目を見張ったほど、美しい顔立ちをしていた。ただし、その美しさには優しさや温かみが欠けていた。大理石を削ってできたようなどこか作り物めいた冷たい、感情をうかがうことの出来ない顔だった。  男の股間に目をやった玉は息を呑んですぐに視線をはずした。  男――鬼――は一瞬、抵抗することを忘れた玉の軀を抱え上げた。「何を!」玉の言葉が途切れた。鬼が玉の唇を吸ったからだ。玉の顔から生気が失われ、目がとろんとまどろむように蕩けた。頭が反り、目が閉じられ、喉首が美しいアーチを描いた。鬼の手の中で玉は気を失った。 「約定のとおり、娘をもらい受ける」  鬼が右京をぎらりと睨んだ。その瞬間だけ、顔がかつて見た異形のもののそれになった。  わだかまりの中に玉を抱いた鬼が吸い込まれると、わだかまりは雲散霧消し、鬼と玉の姿が消えていた。  鬼が玉をさらってから一ヶ月後、大木砦の北東門に倒れている玉が発見された。  神隠しにあったとされていた姫様が帰ってきたことに砦や里の者は皆喜んだ。何があったのかを一様に知りたがったが、領主の一人娘の身に生じたことを下手に詮索するのは表向きでは憚られた。だが、噂話をとめることはできない。人々は寄ると触ると、玉を話の種にした。  玉が妊娠していることが分かると、鬼島家では厳しい緘口令が敷かれた。だが、人の口に戸をたてることはできない。さらには、誰が言い出したことなのか、玉は鬼の元に嫁いで、鬼の子を宿して帰ってきたのだと、まことしやかな話が里中に流布されるようになった。  右京は玉に鬼と過したであろう一ヶ月のことをおずおずと問い質した。だが、玉の記憶はその間のことがぽっかりと抜け落ちていた。何一つ思い出せず、困惑の表情を浮かべる娘を見て、右京は鬼の霊力に支配されたのだろうと推断した。右京だけが、必要な情報を持っており、かつ、それを余人に洩らすことができずにいた。  十月十日(とつきとおか)の後、玉は出産した。  母子ともに無事との報にとりあえず右京は安心した。だが……産屋から出てきた産婆の顔を睨みつけた領主の顔は極度の緊張で強ばっていた。 「右京様」  産婆が領主の名をおずおずと口にした。唇が震えるように動いた。 「娘は、玉は何を産んだ?」  産婆の顔に躊躇いが浮かんだ。 「かまわぬ。ありのままを申せ」産屋に入り直に母子に会えばいいのだが、右京の足は硬直し、前に踏み出すことを拒否していた。  何を生んだ? という領主の言葉は奇妙に聞こえたようだが、産婆は唾を飲み込みながら事実を告げた。 「女の子でした。五体満足でございます。おめでとうございます」  最後の『おめでとうございます』という語は多少の躊躇いと戸惑いが含まれているように感じられた。 「女児か? 五体満足で生まれてきたのだな」それまでの焦燥しきった顔が喜悦の表情に変化した。 「はい」  ただならぬ気配の領主に気後れしている様子の産婆の脇をすり抜け、右京は産屋の扉を開けた。 「玉!」  赤子を抱いた、紅潮した顔色の玉がいた。出産で体力を消耗したのだろ。 「父上」 「女児だそうだな」  口にはできなかった。鬼の子ではなく、人の子でよかった、とは。 「はい」 「見せてくれ」  手を伸ばし、右京は娘から赤子を抱き取った。赤子の顔をのぞきこむ。赤子は目を開けていた。祖父の顔をじっと見つめている。大木の里の領主は息を呑んだ。  赤子の瞳は緑色だった。そして生え揃わぬ産毛は見間違いようもなく真っ赤だった。    女児は綺羅(きら)と名付けられた。  髪が真っ赤で、瞳が緑色であること以外、綺羅は普通の女児だった。  なぜ、そのような身体的特徴を持って生まれ出たのか、人々は噂しあった。そのすべては根拠のない妄言の類だったが、近隣の領主の子息に玉を嫁がせるか、婿を迎えるかして政略結婚により鬼島家の勢力を広げようとする右京の思惑はすべて失敗した。玉の出生に関する噂話に尾鰭がつき、玉との婚儀を望むものはあらわれなかった。  瞬く間に時が過ぎ、二十年がたとうとしていた。  右京はいまだに鬼島家の当主だったが、十八歳から二十歳までの年齢にある直系の女子は綺羅だけだった。  右京は懊悩した。  約定のとおり、鬼がやってくれば綺羅を差し出すしかない。だが、綺羅はおそらく鬼の子なのだ。鬼は自分の子と交わるつもりなのか。鬼畜のような、と思い、なるほど鬼だからな、と妙な納得もした。  右京はかつて、枳殻峡からの那牙嶺軍の侵攻に備えて築いた北東門の楼上の一角を鬼を迎える部屋として使うことにした。母親の玉には何も告げず、綺羅を楼閣のその部屋に留め置いた。そして鬼門を開け放った。  鬼は約定のとおり二十年後のその日に現れ、綺羅を連れ去った。  一ヶ月後、玉のときと同じように綺羅が帰ってきて、女児を生んだ。その子も髪が赤く、瞳は緑だった。  これが繰り返されるのだ。右京は覚悟を決めざるをえなかった。  何よりも次期党首を定めなければならない。そしてその当主にのみ、鬼島家の秘事を口伝によって一子相伝する。それを鬼島家代々のしきたりとするのだ。家臣の中から、これはと思う者を召したてて、もはや政略結婚の具にはならぬ玉の婿とした。老境に入った右京は婿に秘事を告げ、鬼が現れるときに立ち合わせた。  こうして鬼島家は代々、二十年に一度、鬼を迎え、直系の娘を鬼に捧げ続けた。  いつの頃からか、二十年に一度、北東の方角から鬼が現れ、鬼島家の直系の血筋の姫を連れて行くという話を、里の者皆が知るようになった。誰もそのことを口にはしないが、里の禁忌として共有するようになった。  話が現実味を帯びだしたのはある日、北東門をたたいて入領を請うた生き証人が現れたときからだ。枳殻峡という里から命からがら逃げ出してきた月下玄雅康友(つきしたげんがやすとも)という武将が、人々から忘れ去られた地があり、そこは鬼によって支配され、人々は鬼の食料として、牛馬や豚、鶏のごとく扱われていると訴えたのだ。月下が口にした鬼の里、枳殻峡などという土地の名は誰も知らなかった。  気の触れた男としてあつかわれた月下だったが、訴える話以外はしごくまっとうな常識人であったことから、一部の者は話半分ではあったが月下の話を真に受けた。枳殻峡という地名はその人々に鬼哭峡と呼ばれるようになった。同時に、いつの頃からか、大木の里は、鬼が来る里として鬼来村と呼ばれるようになった。
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