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枳殻峡に棲む鬼
何百年ぶりかの火山噴火が地域一帯に凶作をもたらした。火山性ガスや火山灰が日照を遮り、鬼来村でも棚田の作物の育成が阻害された。翌年は冷夏だった。二年連続の凶作に荒政が求められたが、この地は天領ではなかったので、農民に課せられた年貢は八公二民と苛烈を極めた。藩政府への呪詛の声は領内全域に及び、一揆が多発した。一揆によらず生存権を確保する手段は「逃散」だった。他藩の地、あるいは藩の目の届かぬ未踏の地に村をあげて逃げ出すのだ。
飢餓に苦しむ藩内の農民たちに希望の光を与える男が現われた。村々を巡り、開墾可能な秘境があると告げて回った。
「それは、いずこにござる」
「鬼来村の北東に枳殻峡という地がある。皆、そこに集うがよい」
「あなたは?」
「枳殻峡の村長、松本雅充じゃ」
男の右頬には引き攣れたような傷跡があった。
「餓死するよりは、飢えに耐えながら開墾をするのじゃ。皆で力を合わせれば生きながらえることができよう。神や仏を頼っていてもおぬしらは救われん。村を捨て枳殻峡に参れ」
その言葉に多くの領民がすがった。
藩役人の目を盗んで、松本雅充と名乗る男の先導で、老若男女が雪深い山に分け入った。梢に雪を積もらせ杉やヒノキに囲われた山道を進む。風にあおられ、木々の梢から雪がドサドサと落ちてくる。寒いというより痛いといったほうがいい寒気が人々の体力を奪う。力尽きた者は置き捨てられた。
「この道は、もしかしたら鬼来村に向かう一本道ではありませんか」
領内でも秘境中の秘境と呼ばれ、奉行も足を運ぶことのない自治領のような村の名を口にする者があった。
「いや、この先に分かれ道がある。そこから峠ひとつを超えれば、枳殻峡に至る。皆の衆、あと一踏ん張りじゃ」
松本が皆を鼓舞した。
雪道に足を脛までもぐらせながら、あえぎあえぎ山道を進む一行の前に、二股に分かれる道が現われた。
「右じゃ。右に向かうのじゃ」
松本が声をはりあげたとき、左側の道から杣人が下ってきた。背に大量の薪を背負っている。
「これは、これは、皆様、どちらに行かれるのかな」
突然現われた集団に驚き、杣人が行き先を問うた。だが、問うたその口がすぐに言葉をつなぐ。
「行くも何も、この先、鬼来村しかありませんぞ。その先に人里はない。いったいこれだけの衆が、何用ですかな」
「われらは枳殻峡へ向かっているのです」
逃散をしているとは口にできず、行き先だけを松本のすぐ後ろにいた若者が告げた。松本と杣人の顔がしかめられた。理由はそれぞれに違っている。
「枳殻峡? はて、今、枳殻峡と言いなすったか」
「はい」
「そのような土地は聞いたことがない。本気でそこへ向かわれているのか」
「そのとおり」
「悪いことは言わないなら、それはおやめなさい」
杣人がさらに言い募ろうとしたが、松本がその言葉を遮った。
「これは、これは鬼来村の方ですかな」
親しげに杣人の軀に手をやって脇に寄せた。
「いかにも」
松本は杣人の耳元に顔を寄せた。
「俺は鬼魅の使いだ」
言葉の意味を理解するまで数瞬の間があったが、すぐに杣人の顔に恐怖が浮かんだ。
「邪魔をするな」
無言で、小刻みに首を振り、杣人は松本の視線から逃れるように顔を横に向けた。
「それでいい」
背後を振り返り、不審そうな人々に笑いかけた。
「雪道ゆえ、心配をしていただいたようじゃ。なに、この道をわしは歩きなれておる。心配はいらぬよ」
松本が二股道の右側に足を踏み入れた。
人々が後に続く。怯えたような表情と、痛ましそうな表情が入り混じった名状しがたい顔つきで杣人は彼らを見送った。
最後尾の人間が右側の道に入ると、それまで止んでいた雪が降りはじめ、あっという間に吹雪となり、杣人の視界をさえぎった。風が止むときがあり、その時だけ視界がよみがえったが、今まであったはずの脇道がなくなっていた。道は鬼来村に通じる一本道に戻っていた。
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