さつきの依頼

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さつきの依頼

 東京湾に沈められました。  あ、実況中継風に言い直しましょうか?わーたーしーはー、いーまー、とうきょうわんにー、しずめられておりまーす!こんなことでも言わなきゃやってられんですよ。本当に沈めるんだもの、あの人たち。「東京湾に沈めるぞ!」って漫画やドラマの台詞では聞いたことあるけれども、本当に沈めるんだもの、あの人たち。死にゃしないですよ?それは分かってるんです。でも苦しいのは苦しいからね。昼間はまだ残暑で暖かい日があるとはいえ夜の海はさすがに冷たいしさ。あ、でも東京湾に沈むのは初めてだな。千年以上も不老不死やってるとね、斬られたり殴られたり埋められたり色んなひどい目に遭います。でもやっぱ息ができない窒息系はだめだね。殴られたり斬られたりはね、意外と痛みが麻痺すんの。すごい剣の達人に斬られたときなんかは、あれ?私今斬られました?って感じだったからね。まぁさすがにそれは大げさなんだけれども。  あーあ。苦しいな。目隠しもされてるしね、猿ぐつわもされてるし後ろ手に縛られてるし、それにこれは毛布かな?毛布的なもので包まれてテープか何かでぐるぐる巻きにされてるね、たぶん。あ、この毛布大丈夫だろうか 。衛生的な面で。ろくに歯も磨かないような脂ぎったおっさんが使ってたヤツだったら最悪だな。  あーあ。苦しいな。せっかくだから何か話しましょうか?生い立ちとか。あ、私の弟ね、すごい有名人なんですよ。安倍晴明。知ってます?陰陽師の。私は兄の孔明。まあね、私なんかは彼ほどの才能はなかったんで有名でもないし、十四の年、養子に行くことになりまして。分家の方にね。あ、分家と言っても後に晴明の師匠となる賀茂保憲様のところ、賀茂家のの分家ね。当時から息子のみっちゃん連れてウチに遊びに来ては、ついでに陰陽道教えてくれてたの。で、私は十四の年、大坂のいなかにある賀茂の分家で陰陽道を学びながら楽しく暮らすようになるわけです。おじさんおばさんも本当の息子のように優しくしてくれたし、娘の弥生ちゃんともすごく仲良くなったしね。ところがね、……、あー、だめだ、やっぱこれ話そうとすると泣けてきちゃうな。泣けてくると同時に怒りがこみ上げてきちゃうな。ある日、賊が来て一家皆殺しですよ。みんなまとめてね。私だけがね、なんとか逃げられたって寸法ですよ。正確に言うとおじさんとおばさんが無理矢理逃がしてくれたってことなんだけどね。当時は警察なんてないし、京都には検非違使がいたけど警察とは違うし大坂だし。でもね、暗かったし昔のことだから顔は分からないけれども、賊の声だけは今でもはっきりと思い出せるよ。まあ今となっては何の意味もないけど。わたしはもうどうしていいかも分からず、ええい、とにかく京の本家へ行くしかねえってんで道順も分からないまま京を目指す冒険が始まったわけです。ところがね、私、陰陽道かじってるくせしてずいぶんな方向音痴でね。いやね、夜、星が出てればさすがに私だって「あ、北極星があそこにあるんだからあっちが北だな」とか分かるんですけどね。申しました通り分家は田舎の方だったもので山の中に迷い込んじゃいまして。そうなったらもう夜なんて怖くって動けやしない。だからといって昼間は方向が分からない。川の水を飲み、野草を食べ、迷いに迷ったり三年間。たぶん。もう時間や年月なんて分かりゃしないですよ。後半ほとんど錯乱状態だもの。三年ってのも後々答え合わせして、多分そんくらいだったんだなってことだからね?だから「おおごろ様」を目の前にしたときも当然、夢、幻の類いだと思ったね。そりゃそうだよ、あんな二メートルをゆうに超す毛むくじゃらの熊みたいな生き物、いるわけないもん。額にも目みたいなものがあるしさ、化け物じみてるよね。あ、こんなこと言ったら怒られちゃうな。まぁでももう死ぬんだなって覚悟しましたよ。現実であれ幻であれ。で、実際襲いかかられた。襲いかかられたと感じましたよ。覆い被さってきたしね。目の前には私の顔より大きな、鋭い牙がずらりと並んだ口。私はほとんど抵抗する力もなく、自分の顔がその口の中へ入っていくのを、抜けた魂で外から眺めている気分になった。痛くはなかったけれど、恐怖のあまり私は気を失った。むくり。目が覚めた。生きてるじゃなぁーい。私、生きてるじゃなぁーい。やっぱりあれは幻だったのか。変なキノコでも食ったのかしら。気を取り直して起き上がろうとするじゃない?でもなんか変なんだよね。うまく説明できないけど自分のようで自分じゃないみたいな。自分の中にもう一人別の自分がいるみたいな。変だなーと思いながらふと前を見るとそこに真っ白い猫。あらー、かわいいニャンニャン、なんつって微笑み掛けんだけどそのニャンニャン、怒っているような悲しんでいるような絶望しているような、なんとも言えない表情してんの。で、「なんでこんなことを」って言うじゃない?「出てきてください!おおごろ様!」とも言うじゃない?「どしたの?」って聞くと、おおごろ様という神様がお前、つまり私ね、の中に入って一体化してしまったと。おおごろ様って?ってそりゃ聞くよね。「おおごろ様は人間が誕生したころから存在する山の神である」だって。ってかこのニャンニャン、人間の言葉喋ってるじゃない!何者!?「名を天正法位伝朝霧。おおごろ様に仕える猫又の一族である」だって。て、てんしょう……?まぁいいや。で、おおごろ様と一体化した私はどうなんの?「不老不死の力を手に入れる」すご!やった!やった?……やったなのかな?これ。それってつまり私は物の怪の類いになっちゃったってことじゃないの?「少なくとも普通の人間ではない」困ったな。いやね、当時弟の晴明はまだ有名でもなかったし正式な陰陽師ですらなかったんだけれども、やっぱまずいよね。周りはそういう力を持った人ばかりだし、ウチだって一応貴族の家柄なんだから物の怪になった長男がひょっこり帰ってくるって……、ね?まぁよく分からないけど他人の体なんて居心地いいわけないんだし、すぐ飽きて出て行ってくれるでしょう。ところでニャンニャン、この山から出る道分かる? で、今に至る。至るまで千年ほどはしょりましたけれども。 さあ、もうずいぶん時間もたったでしょう。一日?二日?一週間?さすがにそれはないか。でもそろそろ助けが来るはずなんだけどなあ。来ると思うんだけど。来るといいなぁ。……まあいいや。寝ちゃおう。今日はもう寝ちゃおう。なんだか疲れちゃった。 薄れゆく意識の中で孔明は、今度こそこのまま死ねないものか、と願うがやはりそれは叶わなかった。  安倍孔明が目が覚ますとそこは高級ホテルのスイートルーム。自宅ではないが見覚えがないわけではない。以前にも気を失ったり危険な目に遭ったとき、連れてこられた部屋だ。寝転んでいるベッドは孔明が住んでいる部屋と同じ広さで、なんだかスラスラした肌触りのいいパジャマに着替えさせられていた。  体を半分だけ起こす。夜が真っ暗闇の時代をながくいきたくせに普段から明るくても眠れる体質だが、不慣れなシャンデリアの明かりで思わず目を細めた。白い肌に切れ長の目。おおごろ様と会ったときで年齢は止まっているから十八歳くらいのはずだが、当時の十八歳はもう立派な大人であったし、千年以上ある人生経験のためかそれなりの格好をすれば二十代後半くらいには見える。背も当時としては大きかったが最近になってようやく目立たなくなり、むしろ自分は現代人向きなのかも、と思い始めていた。  「ちっ、起きたのかよ」  視線を足下に向けると真っ白い猫が鋭い牙を口の端からちらつかせ、顔をしかめていた。 「相変わらず君は口が悪いな。君が着替えさせてくれたのかい?」 「んなわけねえだろ。それにな、何万回言わせんだ。俺ら一族は元々お前の中に居るおおごろ様に使えてんだ。お前にじゃねえ。従って俺がお前に丁寧な口をきく必要はまったくねえ!」  そう言って白猫は太くて長い尻尾をベッドに叩きつけた。尻尾だけが妙にふさふさして太く見えるのは、二つに分かれている尻尾を一本にまとめて誤魔化しているからだ。彼は猫又なのだ。名前を天正法位伝長光、あるいはタマ、ともいう。孔明が不老不死になった日に出会った天正方位伝朝霧の孫にあたる。彼らの一族は寿命が三百年から四百年くらい。ある程度は記憶の遺伝もあるようで、孔明に関すること、とりわけおおごろ様を奪った不届きなヤツ、という悪感情まできっちり申し送りができているようだ。  彼、長光殿の言う通り彼ら一族は孔明に忠誠を誓って色々と力になってくれているわけではない。千年と少し前、山の神おおごろ様と一体化して不老不死となったことは彼ら近習の者さえ全く知らされていなかった突然の行動で、外部から引き離す方法は誰にも分からず、おおごろ様が自らの意思で離れてくれるのを待つしかない状況なものだから、彼らも渋々ながら孔明の力になったりならなかったりといった案配なのである。 「ってまさか君、私の心の独り言、ずっと聞いてたんじゃないだろうね?」 「あぁ、実況中継風がどうとかってくだらねぇやつ?聞きたかねぇけど聞かなきゃ探せないんだからしょうがないだろ?」 「うわー、やだやだ、恥ずかしい。一方通行のテレパシーって何かずるいよね。もう禁止ね、禁止」 「禁止されなくても、こんなことでもなかったら好き好んでお前の心の中なんて見やしねえよ。大体お前……」 長光は突然言葉を止め、体を強張らせた。広すぎて部屋の入り口が遠く孔明の耳には聞こえなかったが、扉のノブを回す音が猫の耳には聞こえたのだろう。素早く部屋の隅にある化粧台へ飛び移り、警戒心を強めている。 「あらー!タマちゃん、二日ぶりだねぇ!?」  部屋の戸が開く音と同時に侵入者はドカドカとバスドラムのような足音を響かせ、真っ直ぐ長光へと向かった。 「寄るな!触るな!タマと呼ぶな!!」 長光は尾を二つに分け、背中の毛を逆立て、牙を剥き出しにして敵意をあらわにしているが、男は全く気にする様子もない。尾を二つに分けているときの長光の言葉は普通の人間でも聞き取れる。故に男にも聞こえているはずだが耳を貸そうとしない。 頭を撫でようと手を出し、長光は得意の猫パンチでそれを阻止しようとするが、柔道家でもある男は抜群の反射神経でパンチを躱し、再び手を出す。それをまた長光が払いのけようとし、男が躱す。それを何度も繰り返し、堪らず孔明は声を掛けた。 「幸太郎くん、よしなさいよ。タマちゃん困ってるじゃないの」  松下幸太郎はハッと孔明の方を振り返り、先生、起きてらっしゃったんですか!と言って百八十五センチの巨体を申し訳なさそうにすぼめた。対する長光は助け船を出されたにもかかわらず、孔明を恨めしそうに睨んでいる。人間より上であることを自負している長光は、人間にベタベタと触られることをよしとしないばかりか、フルネームで呼ばないと露骨に嫌な顔をした。しかし人間社会に紛れて生きるのなら、そんな大層な名前で呼ぶわけにもいかない。せめて人前でだけでも「タマ」という名前にしようという孔明の提案を渋々受け入れたのだが、未だに孔明が「タマ」と呼んだときはあからさまに不機嫌な顔をする。 「すいません、起こしちゃいましたか」  幸太郎が枕元まで歩み寄ってくる。 「起こしちゃうよ。もし私が今死んでたとしても、あの足音聞けば起きちゃうよ」 「またまたー。先生が死ぬだなんて冗談がお上手なんだから」 「その先生ってのも止めてくんない?昔みたいに孔明のおじちゃん、とかでいいよ。君も小さい頃はあんなに可愛かったのにね」 「そんな。表向きの年齢はもう私より年下なんですからね?年下におじちゃんはおかしいでしょう?」  孔明は返す言葉もなかった。  松下家とはもう百年以上の付き合いになる。たまたま孔明の占いによる助言がきっかけで商売が繁盛し始め、日本茶の輸出から始まった商売が今やホテル、私鉄、デパートなど松下グループだけで一つの街ができるくらいにまで成長した。戦後の財閥解体も孔明の助言をきっかけに逃れることができ、以来、義理堅く何かと世話を焼いてくれるので、孔明も時折、と言っても本当に一年に一度くらいのことだが陰陽道に基づいた占いで助言を行っている。松下家はそんな孔明をコンサルティングという名目で籍を置き、十分な給料までくれるし、副業で助けが必要なときは助けてくれる。中でも幸太郎は特によく孔明に懐き、自社の仕事をほっぽらかしてでも孔明を手伝いたがる。松下家は孔明の不老不死を知り、信じる数少ない一族である。 「やっぱり探偵なんて危ないですよ。」  探偵は三ヶ月前に始めたところだ。千年以上生きていく上で、転職と引っ越しは欠かせない。 「ま。私の場合探偵じゃなくても何故か命に関わるトラブルに巻き込まれることが多いけどね」 「今回は何が原因なんですか?」 「ヤミ金で困ってる人がいてね。本人の依頼ではないし、依頼内容はそこの違法性を証明する証拠を見つけてくれってことだったんだけれども、たまたま事務所に忍び込むことができちゃったもんだから、ついでに借用書捨てちゃえってな感じでそこにあった借用書、全部シュレッダーにかけちゃったの。それが見つかっちゃって」  そう考えるとやはりここ数百年の私は死なないからと言うか死に慣れてしまっているというか、危険に対して鈍感になっていることは否めないなあ、と孔明はぼんやり考える。元々ビビりな性格であるはずなのに麻痺してしまっているのだ。 「危険なことに首を突っ込むときは一人で行動しないようにしてください。ってかやっぱり占いやりましょうよ。その方が絶対安全だし儲かりますって」 「ならん。やだよ。私占いとかあんまり好きじゃないからね」  そう言って孔明は露骨に嫌な顔をする。  そもそも孔明はずいぶん早い段階で陰陽師と名乗ることをやめている。山を下りられるようになったあとも化け物になった自分を恥じ、なかなか街に入ることができず山の中や麓でウロウロしていた孔明は、修験者や山伏、僧、などと知り合い、独自の陰陽道を発展させていった。この力を使って人々の役に立ちたい。そう思っていたことも確かにある。しかし日々過ぎてゆく中で感じるのは自分の無力さばかりである。  自然災害を予測するのはそれほど難しいことではない。災害は木火土金水、五行のどれかに属しており、天体などにはっきりその兆候が見て取れるからだ。しかし何時、どこでなど細かい情報まで読み取ろうとするのは至難の業である。ましてやそんな曖昧な情報で人々を説得、逃がしたり対策を立てさせたりするのは不可能に近い。それぞれに生活があり、住処を手放すことのできないそれぞれの事情がある。晴明の時代のように国に陰陽寮という機関があり、役人として直接天皇や政府に訴えかけられればいいが、一個人ではそうもいかない。 「そもそも陰陽道なんてのは個人を占うものじゃなくてもっと……、ほ、は、……いっぷし!!」 「風邪ですか?何か温かいものでも食べますか?」 「そうだね。そんな大層なものじゃなくてよいよ。おうどんがいいな」 「しかしやっかいですね。死なないのに風邪とかは引くんだから」 「ねー。風邪は引くしお腹は空くし、悲しい別れは繰り返すし。ほんとろくなことないよ、不死なんて」  幸太郎は祖父を看取ったときの、孔明の悲しそうな顔を思い出した。考えてみればうちの祖父だって小さい頃から孔明に可愛がられていたはずであり、孔明にしてみれば可愛がっていた子供が先に亡くなったような気分なのかもしれない。そしてそのうち自分も……。少し悲しみの混じった笑顔を浮かべ、内線でフロントにうどんをよこすよう言った。このホテルも松下グループの経営だ。 「そういや前から思ってた素朴な疑問なんですが聞いてもいいですか?」 「気が乗らないね。今じゃなきゃ駄目?」 「もしも腕とか首が切り落とされた場合はどうなるんですか?爆弾でバラバラにされたときとか」 「うわ、ヘビーな質問。でも確かにそうだね。今まで刃物で殺されたときは全部袈裟切りか刺されてたもんな。爆殺なんてさすがにまだ経験してないし……。ほんとどうなるんだろうね。手とかまた生えてくんのかな。わ、なんかそれってやだな。ねえ?」 「あ、そういや今日、依頼の来客がありましたよ?」 「思いつきが過ぎるよ君!一つ一つの会話を処理していくって概念がないのかね君には」  長光が鼻でふふっと笑った。その声に反応して幸太郎は振り返るが、尾は一本に戻っており、彼には普通の鳴き声が聞こえただけである。長光にとって人間はそんな労力を使ってまで話したい相手ではないらしく、孔明以外の人間と話すことはあまりない。しかしそれも相手が男に限ったことで、女性だとやたら話したがる。あまりに節操なく正体を明かして話すので孔明が注意したこともあり、その場では文句を言いながらも、以来、女性でも限られた人間としか話さなくなった。 「高校生の女の子でした。制服だったんで学校帰りだと思うんですけど夕方くらいに事務所へ。今日は先生いないからまた明日来てほしいと言っておきましたよ?」 「高校生の女の子か……。彼氏の浮気調査かな?そういえば今日の昼間だったら私すでに行方不明だったよね?明日来てくれなんてよく言えたね?」 「ま。いつものことなんで」  確かに。探偵を始める前から、教師をやってもクラブのボーイをやっても、果ては漫画家のアシスタントをやっても何故かトラブルに巻き込まれ、よく拉致られた。  ケロッとした顔で答える幸太郎の顔を見て、意外とこの一族の中で一番大物になるのはこの子かもしれないな、と孔明は思った。  五木さつきはドアノブに伸ばした手を止めて、そのまま思案した。  何も問題はないはずだ。昨日応対してくれた大男は確かに明日来てくれと言った。体がごつくて少し頭が弱そうだが悪い人間には見えなかった。時間の指定はなく、昨日とほぼ同じ時間で向こうとしても予測しやすい時間だろう。古い雑居ビル特有のカビや埃の混じった苦い匂いがさつきの鼻先をくすぐった。いかにもテレビドラマの影響で探偵を始めた人間が事務所として選びそうな場所である。おそらく古い映画館の屋上なんかも候補として上がっていたに違いない。  ここを選んだのは同じ高校に通う友人に聞いたからだ。その友人は付き合っている男の浮気を疑い、素行調査を頼んだ。女子高校生が恋愛問題で探偵を雇うとは聞いたこともない話だが、とにかく安価であるからダメ元で頼んでみたらしい。結局その彼氏はクロもクロ、クロ中のクロの真っ黒けっけで五股が判明し友人は別れることとなったわけだが、それはつまり探偵の仕事としてはきちんと完遂されたということだ。ただ、その友人から注意事項として伝えられたのは、時々訳の分からないことをいう少し変わった探偵だから気をつけろ、ということだった。どんなことを言うんだ、と聞くと、何やら江戸時代はどうだったとか安倍晴明と話してどうとか、タイムスリップしてきた人間みたいなことを言う、と。なるほどそれは結構なクセのある人物かもしれないなということで、さつきも警戒せざるを得ないわけである。  さつきは掴んだままのドアノブをゆっくりと回した。回してから、あ、ノックも何もしていないや、と思ったが、キィーッと鉄の軋む音がブザーのように鳴り、続いてドアを押すと来客を知らせる喫茶店のような鈴の音がチリンチリンと鳴った。 「はーい」  最初に出てきたのは昨日応対してくれた背の高い大男だった。「先生はただいま行方不明なんですが明日には戻ってると思うので明日事務所に来てください」という高校生でも言わないようなくだらない冗談はさつきの不安を増幅させたが、こうして改めて見るとやはりあまり頭は良くなさそうだが人懐っこい笑顔で、がっしりした体つきは荒っぽいトラブルにも対応できそうな頼もしさを感じる。 「せんせい!昨日話した依頼者さんです!」  入り口近辺はトイレや給湯室があり、男は奥の部屋に向かって声を掛けた。やはりこの男は助手か何かなのだろう。その割には身につけているものがどれも高級品で、さつきの疑心がまたふわっと湧いた。お世辞にも繁盛しているとは言いがたい零細な探偵事務所の一従業員が身につけられるものではないことは、ブランドに詳しくないさつきにも一目で分かった。 「はーい、どうぞー」  左奥の部屋から軽薄な声が聞こえた。玄関前通路の突き当たりは小さな窓があり、ブラインドから夕暮れの光が漏れている。大男に突き当たりを折れて左の事務所へ入るよう促されたが、さつきは同時に最悪の事態を考え武器になりそうなものを探す。さつきは武道を習っている。中学までは合気道を、高校に入ってからは少林寺拳法を習っていて、どちらも県の大会に出れば必ず上位に食い込む腕前である。ジャッキー・チェンとジェット・リーが大好きで、漫画も刃牙や修羅の門など格闘ものを好んで読む。そのせいか常に最悪の状況を想定し、それに対する対処法を考えるのがクセになっていた。ボーイッシュなショートカットも武道の邪魔にならないように心掛けてのものである。腕っ節には自信があったがさすがにこの体格差で捕まれたらおしまいだ。傘、シャッターを下ろすための棒、給湯室にもナイフくらいはあるだろう。緊張した面持ちで握りこぶしの中に汗を滲ませ事務所に入ったさつきを迎えたのは、なんとも緊張感のないとぼけた表情をした若者だった。  二十歳前後にも見えるが三十近くにも見える。さつきくらいの年頃が大人の年齢を判別するのはやはり難しい。切れ長の目に薄い唇、スリムな体型は見る人によっては男前の部類に入るだろうが、ロングのTシャツに下はジャージ、しかもどこに売っているのか白地にでっかく「おんみょうじ」とプリントされたシャツを着るセンスは、残念な部類の男である証明にも思えた。 「ぶふふっ」  緊張感から解放されたさつきが思わず吹き出すと、若者は照れくさそうに笑みを浮かべた。 「ごめんなさいね、こんな格好で。何しろ昨日まで海に沈められてたもんだから一張羅が乾かなくて。あ、こういうものです」  受け取った名刺を見ると、「安倍探偵事務所所長、安倍孔明」と書いてある。 「あべ……、こうめい?」  友人が言っていた「安倍晴明」という名前が頭に浮かぶ。 「本名……?」 「本名です。安倍晴明のパクりかってよく言われます。顔も似てるでしょ?」 「いや、安倍晴明の顔知らないんで……」 「だよね。で、この大きな人は幸太郎くん。たまに私の仕事を手伝ってくれるけど助手ってわけじゃない」 さつきの頭に再び一抹の不安がよぎる。が、ここはあえて強めの一歩を踏み出し、相手の反応を見て本性を見極めた方が得策のように思えた。 「あの、わたし、五木さつきって言います」 「いつきさつき?……ほ……」 「本名です!」  孔明が言葉を続ける前にさつきは手のひらを前に突き出し、強めの口調で押し止めた。 「どっちも名字みたいでどっちも名前みたいですよね。分かってます。まったくね。子供に名前をつけるときは離婚するときのことも考慮してつけてほしいもんですよね。そんなつもりないのに、ちょっと韻を踏んでる感じも鼻につくし」  さつきがフルネームを言うと相手は大概同じような反応を見せ、似たようないじり方をしてくるので、最近は先回りして自分から言うことにしている。孔明と幸太郎は少し困ったように、まだ何も言ってないんだけどな、と言いたげな表情で顔を見合わせた。 「で、今日はどういったご相談で?」 「その前に費用のことを話したいんですけど。見ての通り私は学生なのでお金がありません。出せてせいぜい一万円くらいです。後から経費がいくら掛かってもこれ以上は出せません。それでもいいですか?」  さつきの声にはまだ警戒心がたっぷりと含まれていた。 「あー、いいのいいの。どんな依頼か知らないけど高校生の一万円は大金でしょう?」  孔明は手をひらひらさせながら笑ってそう答えた。  ただほど怖いものはないが、激安も十分に怖い。さつきは昔、激安ショップで買ったTシャツが一度の洗濯でボロボロになった出来事を思い出した。だからといってここまで来て引き下がるつもりもない。 「じゃあ……」  さつきは仕切り直しの意味も含めていったん言葉の間を空け、話し始めた。 「わたし、団地で母と二人暮らしをしているんですけど隣に一人暮らしのおばあさんがいまして」 「隣に。おばあさん」 「まあ血縁があるわけでも何でもなくてただのお隣さんってだけなんですけど、ほら、ウチは離婚した父方の親族はほとんどが京都だし、母の両親は早くに亡くなってるでしょ?」 「いや、知らないけどそうなの?」 「小さい頃はお母さんが仕事でいなくて寂しいとき遊んでくれたりしてね。私にとっては本物以上に本物のおばあちゃんって言うか……」 「はあ……」 「そのおばあちゃん、わたしは絹江ちゃんて呼んでるんだけど、絹江ちゃんがオレオレ詐欺に遭ったの」 「あらま」  さつきは腕を組み、口を一文字に結んで鼻から息をふんっと鳴らした。喋っているうちにずいぶん乗ってきたらしく、孔明たちの本性を暴いてやろうなんて思惑もあっさり吹き飛び、身振り手振りも加え、表現豊かに話を進める。孔明と幸太郎は圧倒されて相づちを打つのがやっとである。 「絹江ちゃんだってね、息子さんのふりしたヤツに騙されるほどボケちゃいないんだからね。まだ六十代なんだから。六十八なんてもうほとんど七十代。立派なおばあちゃんじゃないなんて言ったら本気で怒るんだから」 「なんと」 「でもさ、話には聞いてたけど最近の詐欺ってほんとに巧妙なのね。あれはきっとうちの団地に住む人間の個人情報を前もって手に入れてたんじゃないかなと思うの。役所関係者のふりした人間が電話してきてさ、老朽化した手すりやゴミの集積所、その他諸々改装するから住民から集金してるって言うの、一世帯あたり三万円。うち、区営の団地だからあり得ない話しじゃないなって思うじゃない?」 「さんまん」  さつきの口調がいつの間にか砕けていることに孔明はようやく気づいたが、何も言えなかった。 「で、電話の三十分後くらいに取りに来たらしいの。スーツ着た真面目そうな若い男が。その時は何の疑いもなく三万円渡しちゃったらしいんだけどさ、ウチには来てないし、他に話聞いてみたら年寄りの世帯ばかり来てるみたいだからこりゃおかしいってなって役所に問い合わせたらやっぱりというか案の定というかそんな話ないって」  そこで言葉を止め、唾を飲み込み喉を鳴らす。それを見て孔明はお茶の一つも出していないことに気づき慌てて幸太郎に「冷蔵庫にペットボトルのお茶があったはずだから出してあげて」と言った。  さつきは出されたお茶を一気に半分ほど喉に流し込み、ふう、と大きな息を吐いた。 「でもさ、さつきちゃん」  この隙を逃してなるまいと、孔明は口を挟む。 「その詐欺師を見つけてくれ、とか捕まえてくれ、ならそれは警察屋さんの仕事じゃないの?私に逮捕権はないし仮に犯人にたどり着いたとしてもお金を取り返すのは難しいと思うよ?」 「三万円って金額が絶妙なのよね」 「え?」 「警察には言わなくていいって言うのよ、絹江ちゃんが。騙された私も悪いから三万円は授業料だと思うことにするって」 「バカな。騙された人は悪くないよ」 「でしょ?でもさ、実際騙されたことが恥ずかしいって気持ちもあると思うんだ。年寄りの烙印押されたみたいで。他にもたくさんいるはずだけど名乗り出ない人も多いみたいだし。騙されたことを知られたくないって気持ちと天秤に掛けたとき、知られたくないって気持ちの方がギリギリ勝つのが三万円って金額だと思うの。団地だからきっと一日三十件は回れるしね」 「むむむ」  ほんの数秒間ではあるが、三人とも押し黙って天井を睨みつけた。うっかり敵である詐欺師を褒めてしまいそうになって思いとどまったのだろう。 「で、私は何をすればいいの?」 「もちろん犯人を捜す。それも受け子程度じゃなくて大本締めをね」 「難題だなあ。南北の朝廷を仲直りさせて一本化しろってレベルの難題だよ?それは」 「何それ?無理ならさ、手がかりだけでもいいの。大本にたどり着きそうなヒント」 「で、その情報を元に警察に動いてもらうってわけ?」 「どうだろう。分かったらその時考える。被害者が被害届出さないって言ってるし。本当は見つけて一発ぶん殴ってやりたいんだけどね」  そこでさつきの目がギラリと光った。それはカンフー映画を見た後の少年のように正義感と興奮が入り混じったもので、孔明はこの少女が犯人のアジトに殴り込むつもりではないかと思い、その疑問をそのまま口にした。 「君、まさか殴り込むつもりじゃないよね?」 「…………」  さつきは口をつぐんだが、ほんのわずかに唇の端が上がっている。当たり前でしょ?とでも言わんばかりだ。 「危ないよー。危ない危ない。私のように不死身ならまだしも高校生の女の子が……」 「私強いよ?多分孔明ちゃんよりずっと」 「孔明ちゃんて……」 「あー、ごめんなさい。なんだか同い年くらいの子と喋ってる気になっちゃって」 「ぷっ」  ずっと黙ってやりとりを聞いていた幸太郎が思わず吹き出し、それを孔明が睨みつける。普通の人間なら若く見られて喜ぶことの方が多いだろうが、千年以上生きている孔明にとってずっと十代の見た目というのはコンプレックス以外の何物でもない。 「まあね。君が危ないことしないって約束するならそりゃ調べるけどね?」 「あー、しないしない」  こいつ、しよるな、と思う。 「じゃあとりあえず明日にでも絹江ちゃんだっけ?その人に話を聞きに行くことにしますか」  東京湾に沈められました。  あ、実況中継風に言い直しましょうか?わーたーしーはー、いーまー、とうきょうわんにー、しずめられておりまーす!こんなことでも言わなきゃやってられんですよ。本当に沈めるんだもの、あの人たち。「東京湾に沈めるぞ!」って漫画やドラマの台詞では聞いたことあるけれども、本当に沈めるんだもの、あの人たち。死にゃしないですよ?それは分かってるんです。でも苦しいのは苦しいからね。昼間はまだ残暑で暖かい日があるとはいえ夜の海はさすがに冷たいしさ。あ、でも東京湾に沈むのは初めてだな。千年以上も不老不死やってるとね、斬られたり殴られたり埋められたり色んなひどい目に遭います。でもやっぱ息ができない窒息系はだめだね。殴られたり斬られたりはね、意外と痛みが麻痺すんの。すごい剣の達人に斬られたときなんかは、あれ?私今斬られました?って感じだったからね。まぁさすがにそれは大げさなんだけれども。  あーあ。苦しいな。目隠しもされてるしね、猿ぐつわもされてるし後ろ手に縛られてるし、それにこれは毛布かな?毛布的なもので包まれてテープか何かでぐるぐる巻きにされてるね、たぶん。あ、この毛布大丈夫だろうか 。衛生的な面で。ろくに歯も磨かないような脂ぎったおっさんが使ってたヤツだったら最悪だな。  あーあ。苦しいな。せっかくだから何か話しましょうか?生い立ちとか。あ、私の弟ね、すごい有名人なんですよ。安倍晴明。知ってます?陰陽師の。私は兄の孔明。まあね、私なんかは彼ほどの才能はなかったんで有名でもないし、十四の年、養子に行くことになりまして。分家の方にね。あ、分家と言っても後に晴明の師匠となる賀茂保憲様のところ、賀茂家のの分家ね。当時から息子のみっちゃん連れてウチに遊びに来ては、ついでに陰陽道教えてくれてたの。で、私は十四の年、大坂のいなかにある賀茂の分家で陰陽道を学びながら楽しく暮らすようになるわけです。おじさんおばさんも本当の息子のように優しくしてくれたし、娘の弥生ちゃんともすごく仲良くなったしね。ところがね、……、あー、だめだ、やっぱこれ話そうとすると泣けてきちゃうな。泣けてくると同時に怒りがこみ上げてきちゃうな。ある日、賊が来て一家皆殺しですよ。みんなまとめてね。私だけがね、なんとか逃げられたって寸法ですよ。正確に言うとおじさんとおばさんが無理矢理逃がしてくれたってことなんだけどね。当時は警察なんてないし、京都には検非違使がいたけど警察とは違うし大坂だし。でもね、暗かったし昔のことだから顔は分からないけれども、賊の声だけは今でもはっきりと思い出せるよ。まあ今となっては何の意味もないけど。わたしはもうどうしていいかも分からず、ええい、とにかく京の本家へ行くしかねえってんで道順も分からないまま京を目指す冒険が始まったわけです。ところがね、私、陰陽道かじってるくせしてずいぶんな方向音痴でね。いやね、夜、星が出てればさすがに私だって「あ、北極星があそこにあるんだからあっちが北だな」とか分かるんですけどね。申しました通り分家は田舎の方だったもので山の中に迷い込んじゃいまして。そうなったらもう夜なんて怖くって動けやしない。だからといって昼間は方向が分からない。川の水を飲み、野草を食べ、迷いに迷ったり三年間。たぶん。もう時間や年月なんて分かりゃしないですよ。後半ほとんど錯乱状態だもの。三年ってのも後々答え合わせして、多分そんくらいだったんだなってことだからね?だから「おおごろ様」を目の前にしたときも当然、夢、幻の類いだと思ったね。そりゃそうだよ、あんな二メートルをゆうに超す毛むくじゃらの熊みたいな生き物、いるわけないもん。額にも目みたいなものがあるしさ、化け物じみてるよね。あ、こんなこと言ったら怒られちゃうな。まぁでももう死ぬんだなって覚悟しましたよ。現実であれ幻であれ。で、実際襲いかかられた。襲いかかられたと感じましたよ。覆い被さってきたしね。目の前には私の顔より大きな、鋭い牙がずらりと並んだ口。私はほとんど抵抗する力もなく、自分の顔がその口の中へ入っていくのを、抜けた魂で外から眺めている気分になった。痛くはなかったけれど、恐怖のあまり私は気を失った。むくり。目が覚めた。生きてるじゃなぁーい。私、生きてるじゃなぁーい。やっぱりあれは幻だったのか。変なキノコでも食ったのかしら。気を取り直して起き上がろうとするじゃない?でもなんか変なんだよね。うまく説明できないけど自分のようで自分じゃないみたいな。自分の中にもう一人別の自分がいるみたいな。変だなーと思いながらふと前を見るとそこに真っ白い猫。あらー、かわいいニャンニャン、なんつって微笑み掛けんだけどそのニャンニャン、怒っているような悲しんでいるような絶望しているような、なんとも言えない表情してんの。で、「なんでこんなことを」って言うじゃない?「出てきてください!おおごろ様!」とも言うじゃない?「どしたの?」って聞くと、おおごろ様という神様がお前、つまり私ね、の中に入って一体化してしまったと。おおごろ様って?ってそりゃ聞くよね。「おおごろ様は人間が誕生したころから存在する山の神である」だって。ってかこのニャンニャン、人間の言葉喋ってるじゃない!何者!?「名を天正法位伝朝霧。おおごろ様に仕える猫又の一族である」だって。て、てんしょう……?まぁいいや。で、おおごろ様と一体化した私はどうなんの?「不老不死の力を手に入れる」すご!やった!やった?……やったなのかな?これ。それってつまり私は物の怪の類いになっちゃったってことじゃないの?「少なくとも普通の人間ではない」困ったな。いやね、当時弟の晴明はまだ有名でもなかったし正式な陰陽師ですらなかったんだけれども、やっぱまずいよね。周りはそういう力を持った人ばかりだし、ウチだって一応貴族の家柄なんだから物の怪になった長男がひょっこり帰ってくるって……、ね?まぁよく分からないけど他人の体なんて居心地いいわけないんだし、すぐ飽きて出て行ってくれるでしょう。ところでニャンニャン、この山から出る道分かる? で、今に至る。至るまで千年ほどはしょりましたけれども。 さあ、もうずいぶん時間もたったでしょう。一日?二日?一週間?さすがにそれはないか。でもそろそろ助けが来るはずなんだけどなあ。来ると思うんだけど。来るといいなぁ。……まあいいや。寝ちゃおう。今日はもう寝ちゃおう。なんだか疲れちゃった。 薄れゆく意識の中で孔明は、今度こそこのまま死ねないものか、と願うがやはりそれは叶わなかった。  安倍孔明が目が覚ますとそこは高級ホテルのスイートルーム。自宅ではないが見覚えがないわけではない。以前にも気を失ったり危険な目に遭ったとき、連れてこられた部屋だ。寝転んでいるベッドは孔明が住んでいる部屋と同じ広さで、なんだかスラスラした肌触りのいいパジャマに着替えさせられていた。  体を半分だけ起こす。夜が真っ暗闇の時代をながくいきたくせに普段から明るくても眠れる体質だが、不慣れなシャンデリアの明かりで思わず目を細めた。白い肌に切れ長の目。おおごろ様と会ったときで年齢は止まっているから十八歳くらいのはずだが、当時の十八歳はもう立派な大人であったし、千年以上ある人生経験のためかそれなりの格好をすれば二十代後半くらいには見える。背も当時としては大きかったが最近になってようやく目立たなくなり、むしろ自分は現代人向きなのかも、と思い始めていた。  「ちっ、起きたのかよ」  視線を足下に向けると真っ白い猫が鋭い牙を口の端からちらつかせ、顔をしかめていた。 「相変わらず君は口が悪いな。君が着替えさせてくれたのかい?」 「んなわけねえだろ。それにな、何万回言わせんだ。俺ら一族は元々お前の中に居るおおごろ様に使えてんだ。お前にじゃねえ。従って俺がお前に丁寧な口をきく必要はまったくねえ!」  そう言って白猫は太くて長い尻尾をベッドに叩きつけた。尻尾だけが妙にふさふさして太く見えるのは、二つに分かれている尻尾を一本にまとめて誤魔化しているからだ。彼は猫又なのだ。名前を天正法位伝長光、あるいはタマ、ともいう。孔明が不老不死になった日に出会った天正方位伝朝霧の孫にあたる。彼らの一族は寿命が三百年から四百年くらい。ある程度は記憶の遺伝もあるようで、孔明に関すること、とりわけおおごろ様を奪った不届きなヤツ、という悪感情まできっちり申し送りができているようだ。  彼、長光殿の言う通り彼ら一族は孔明に忠誠を誓って色々と力になってくれているわけではない。千年と少し前、山の神おおごろ様と一体化して不老不死となったことは彼ら近習の者さえ全く知らされていなかった突然の行動で、外部から引き離す方法は誰にも分からず、おおごろ様が自らの意思で離れてくれるのを待つしかない状況なものだから、彼らも渋々ながら孔明の力になったりならなかったりといった案配なのである。 「ってまさか君、私の心の独り言、ずっと聞いてたんじゃないだろうね?」 「あぁ、実況中継風がどうとかってくだらねぇやつ?聞きたかねぇけど聞かなきゃ探せないんだからしょうがないだろ?」 「うわー、やだやだ、恥ずかしい。一方通行のテレパシーって何かずるいよね。もう禁止ね、禁止」 「禁止されなくても、こんなことでもなかったら好き好んでお前の心の中なんて見やしねえよ。大体お前……」 長光は突然言葉を止め、体を強張らせた。広すぎて部屋の入り口が遠く孔明の耳には聞こえなかったが、扉のノブを回す音が猫の耳には聞こえたのだろう。素早く部屋の隅にある化粧台へ飛び移り、警戒心を強めている。 「あらー!タマちゃん、二日ぶりだねぇ!?」  部屋の戸が開く音と同時に侵入者はドカドカとバスドラムのような足音を響かせ、真っ直ぐ長光へと向かった。 「寄るな!触るな!タマと呼ぶな!!」 長光は尾を二つに分け、背中の毛を逆立て、牙を剥き出しにして敵意をあらわにしているが、男は全く気にする様子もない。尾を二つに分けているときの長光の言葉は普通の人間でも聞き取れる。故に男にも聞こえているはずだが耳を貸そうとしない。 頭を撫でようと手を出し、長光は得意の猫パンチでそれを阻止しようとするが、柔道家でもある男は抜群の反射神経でパンチを躱し、再び手を出す。それをまた長光が払いのけようとし、男が躱す。それを何度も繰り返し、堪らず孔明は声を掛けた。 「幸太郎くん、よしなさいよ。タマちゃん困ってるじゃないの」  松下幸太郎はハッと孔明の方を振り返り、先生、起きてらっしゃったんですか!と言って百八十五センチの巨体を申し訳なさそうにすぼめた。対する長光は助け船を出されたにもかかわらず、孔明を恨めしそうに睨んでいる。人間より上であることを自負している長光は、人間にベタベタと触られることをよしとしないばかりか、フルネームで呼ばないと露骨に嫌な顔をした。しかし人間社会に紛れて生きるのなら、そんな大層な名前で呼ぶわけにもいかない。せめて人前でだけでも「タマ」という名前にしようという孔明の提案を渋々受け入れたのだが、未だに孔明が「タマ」と呼んだときはあからさまに不機嫌な顔をする。 「すいません、起こしちゃいましたか」  幸太郎が枕元まで歩み寄ってくる。 「起こしちゃうよ。もし私が今死んでたとしても、あの足音聞けば起きちゃうよ」 「またまたー。先生が死ぬだなんて冗談がお上手なんだから」 「その先生ってのも止めてくんない?昔みたいに孔明のおじちゃん、とかでいいよ。君も小さい頃はあんなに可愛かったのにね」 「そんな。表向きの年齢はもう私より年下なんですからね?年下におじちゃんはおかしいでしょう?」  孔明は返す言葉もなかった。  松下家とはもう百年以上の付き合いになる。たまたま孔明の占いによる助言がきっかけで商売が繁盛し始め、日本茶の輸出から始まった商売が今やホテル、私鉄、デパートなど松下グループだけで一つの街ができるくらいにまで成長した。戦後の財閥解体も孔明の助言をきっかけに逃れることができ、以来、義理堅く何かと世話を焼いてくれるので、孔明も時折、と言っても本当に一年に一度くらいのことだが陰陽道に基づいた占いで助言を行っている。松下家はそんな孔明をコンサルティングという名目で籍を置き、十分な給料までくれるし、副業で助けが必要なときは助けてくれる。中でも幸太郎は特によく孔明に懐き、自社の仕事をほっぽらかしてでも孔明を手伝いたがる。松下家は孔明の不老不死を知り、信じる数少ない一族である。 「やっぱり探偵なんて危ないですよ。」  探偵は三ヶ月前に始めたところだ。千年以上生きていく上で、転職と引っ越しは欠かせない。 「ま。私の場合探偵じゃなくても何故か命に関わるトラブルに巻き込まれることが多いけどね」 「今回は何が原因なんですか?」 「ヤミ金で困ってる人がいてね。本人の依頼ではないし、依頼内容はそこの違法性を証明する証拠を見つけてくれってことだったんだけれども、たまたま事務所に忍び込むことができちゃったもんだから、ついでに借用書捨てちゃえってな感じでそこにあった借用書、全部シュレッダーにかけちゃったの。それが見つかっちゃって」  そう考えるとやはりここ数百年の私は死なないからと言うか死に慣れてしまっているというか、危険に対して鈍感になっていることは否めないなあ、と孔明はぼんやり考える。元々ビビりな性格であるはずなのに麻痺してしまっているのだ。 「危険なことに首を突っ込むときは一人で行動しないようにしてください。ってかやっぱり占いやりましょうよ。その方が絶対安全だし儲かりますって」 「ならん。やだよ。私占いとかあんまり好きじゃないからね」  そう言って孔明は露骨に嫌な顔をする。  そもそも孔明はずいぶん早い段階で陰陽師と名乗ることをやめている。山を下りられるようになったあとも化け物になった自分を恥じ、なかなか街に入ることができず山の中や麓でウロウロしていた孔明は、修験者や山伏、僧、などと知り合い、独自の陰陽道を発展させていった。この力を使って人々の役に立ちたい。そう思っていたことも確かにある。しかし日々過ぎてゆく中で感じるのは自分の無力さばかりである。  自然災害を予測するのはそれほど難しいことではない。災害は木火土金水、五行のどれかに属しており、天体などにはっきりその兆候が見て取れるからだ。しかし何時、どこでなど細かい情報まで読み取ろうとするのは至難の業である。ましてやそんな曖昧な情報で人々を説得、逃がしたり対策を立てさせたりするのは不可能に近い。それぞれに生活があり、住処を手放すことのできないそれぞれの事情がある。晴明の時代のように国に陰陽寮という機関があり、役人として直接天皇や政府に訴えかけられればいいが、一個人ではそうもいかない。 「そもそも陰陽道なんてのは個人を占うものじゃなくてもっと……、ほ、は、……いっぷし!!」 「風邪ですか?何か温かいものでも食べますか?」 「そうだね。そんな大層なものじゃなくてよいよ。おうどんがいいな」 「しかしやっかいですね。死なないのに風邪とかは引くんだから」 「ねー。風邪は引くしお腹は空くし、悲しい別れは繰り返すし。ほんとろくなことないよ、不死なんて」  幸太郎は祖父を看取ったときの、孔明の悲しそうな顔を思い出した。考えてみればうちの祖父だって小さい頃から孔明に可愛がられていたはずであり、孔明にしてみれば可愛がっていた子供が先に亡くなったような気分なのかもしれない。そしてそのうち自分も……。少し悲しみの混じった笑顔を浮かべ、内線でフロントにうどんをよこすよう言った。このホテルも松下グループの経営だ。 「そういや前から思ってた素朴な疑問なんですが聞いてもいいですか?」 「気が乗らないね。今じゃなきゃ駄目?」 「もしも腕とか首が切り落とされた場合はどうなるんですか?爆弾でバラバラにされたときとか」 「うわ、ヘビーな質問。でも確かにそうだね。今まで刃物で殺されたときは全部袈裟切りか刺されてたもんな。爆殺なんてさすがにまだ経験してないし……。ほんとどうなるんだろうね。手とかまた生えてくんのかな。わ、なんかそれってやだな。ねえ?」 「あ、そういや今日、依頼の来客がありましたよ?」 「思いつきが過ぎるよ君!一つ一つの会話を処理していくって概念がないのかね君には」  長光が鼻でふふっと笑った。その声に反応して幸太郎は振り返るが、尾は一本に戻っており、彼には普通の鳴き声が聞こえただけである。長光にとって人間はそんな労力を使ってまで話したい相手ではないらしく、孔明以外の人間と話すことはあまりない。しかしそれも相手が男に限ったことで、女性だとやたら話したがる。あまりに節操なく正体を明かして話すので孔明が注意したこともあり、その場では文句を言いながらも、以来、女性でも限られた人間としか話さなくなった。 「高校生の女の子でした。制服だったんで学校帰りだと思うんですけど夕方くらいに事務所へ。今日は先生いないからまた明日来てほしいと言っておきましたよ?」 「高校生の女の子か……。彼氏の浮気調査かな?そういえば今日の昼間だったら私すでに行方不明だったよね?明日来てくれなんてよく言えたね?」 「ま。いつものことなんで」  確かに。探偵を始める前から、教師をやってもクラブのボーイをやっても、果ては漫画家のアシスタントをやっても何故かトラブルに巻き込まれ、よく拉致られた。  ケロッとした顔で答える幸太郎の顔を見て、意外とこの一族の中で一番大物になるのはこの子かもしれないな、と孔明は思った。  五木さつきはドアノブに伸ばした手を止めて、そのまま思案した。  何も問題はないはずだ。昨日応対してくれた大男は確かに明日来てくれと言った。体がごつくて少し頭が弱そうだが悪い人間には見えなかった。時間の指定はなく、昨日とほぼ同じ時間で向こうとしても予測しやすい時間だろう。古い雑居ビル特有のカビや埃の混じった苦い匂いがさつきの鼻先をくすぐった。いかにもテレビドラマの影響で探偵を始めた人間が事務所として選びそうな場所である。おそらく古い映画館の屋上なんかも候補として上がっていたに違いない。  ここを選んだのは同じ高校に通う友人に聞いたからだ。その友人は付き合っている男の浮気を疑い、素行調査を頼んだ。女子高校生が恋愛問題で探偵を雇うとは聞いたこともない話だが、とにかく安価であるからダメ元で頼んでみたらしい。結局その彼氏はクロもクロ、クロ中のクロの真っ黒けっけで五股が判明し友人は別れることとなったわけだが、それはつまり探偵の仕事としてはきちんと完遂されたということだ。ただ、その友人から注意事項として伝えられたのは、時々訳の分からないことをいう少し変わった探偵だから気をつけろ、ということだった。どんなことを言うんだ、と聞くと、何やら江戸時代はどうだったとか安倍晴明と話してどうとか、タイムスリップしてきた人間みたいなことを言う、と。なるほどそれは結構なクセのある人物かもしれないなということで、さつきも警戒せざるを得ないわけである。  さつきは掴んだままのドアノブをゆっくりと回した。回してから、あ、ノックも何もしていないや、と思ったが、キィーッと鉄の軋む音がブザーのように鳴り、続いてドアを押すと来客を知らせる喫茶店のような鈴の音がチリンチリンと鳴った。 「はーい」  最初に出てきたのは昨日応対してくれた背の高い大男だった。「先生はただいま行方不明なんですが明日には戻ってると思うので明日事務所に来てください」という高校生でも言わないようなくだらない冗談はさつきの不安を増幅させたが、こうして改めて見るとやはりあまり頭は良くなさそうだが人懐っこい笑顔で、がっしりした体つきは荒っぽいトラブルにも対応できそうな頼もしさを感じる。 「せんせい!昨日話した依頼者さんです!」  入り口近辺はトイレや給湯室があり、男は奥の部屋に向かって声を掛けた。やはりこの男は助手か何かなのだろう。その割には身につけているものがどれも高級品で、さつきの疑心がまたふわっと湧いた。お世辞にも繁盛しているとは言いがたい零細な探偵事務所の一従業員が身につけられるものではないことは、ブランドに詳しくないさつきにも一目で分かった。 「はーい、どうぞー」  左奥の部屋から軽薄な声が聞こえた。玄関前通路の突き当たりは小さな窓があり、ブラインドから夕暮れの光が漏れている。大男に突き当たりを折れて左の事務所へ入るよう促されたが、さつきは同時に最悪の事態を考え武器になりそうなものを探す。さつきは武道を習っている。中学までは合気道を、高校に入ってからは少林寺拳法を習っていて、どちらも県の大会に出れば必ず上位に食い込む腕前である。ジャッキー・チェンとジェット・リーが大好きで、漫画も刃牙や修羅の門など格闘ものを好んで読む。そのせいか常に最悪の状況を想定し、それに対する対処法を考えるのがクセになっていた。ボーイッシュなショートカットも武道の邪魔にならないように心掛けてのものである。腕っ節には自信があったがさすがにこの体格差で捕まれたらおしまいだ。傘、シャッターを下ろすための棒、給湯室にもナイフくらいはあるだろう。緊張した面持ちで握りこぶしの中に汗を滲ませ事務所に入ったさつきを迎えたのは、なんとも緊張感のないとぼけた表情をした若者だった。  二十歳前後にも見えるが三十近くにも見える。さつきくらいの年頃が大人の年齢を判別するのはやはり難しい。切れ長の目に薄い唇、スリムな体型は見る人によっては男前の部類に入るだろうが、ロングのTシャツに下はジャージ、しかもどこに売っているのか白地にでっかく「おんみょうじ」とプリントされたシャツを着るセンスは、残念な部類の男である証明にも思えた。 「ぶふふっ」  緊張感から解放されたさつきが思わず吹き出すと、若者は照れくさそうに笑みを浮かべた。 「ごめんなさいね、こんな格好で。何しろ昨日まで海に沈められてたもんだから一張羅が乾かなくて。あ、こういうものです」  受け取った名刺を見ると、「安倍探偵事務所所長、安倍孔明」と書いてある。 「あべ……、こうめい?」  友人が言っていた「安倍晴明」という名前が頭に浮かぶ。 「本名……?」 「本名です。安倍晴明のパクりかってよく言われます。顔も似てるでしょ?」 「いや、安倍晴明の顔知らないんで……」 「だよね。で、この大きな人は幸太郎くん。たまに私の仕事を手伝ってくれるけど助手ってわけじゃない」 さつきの頭に再び一抹の不安がよぎる。が、ここはあえて強めの一歩を踏み出し、相手の反応を見て本性を見極めた方が得策のように思えた。 「あの、わたし、五木さつきって言います」 「いつきさつき?……ほ……」 「本名です!」  孔明が言葉を続ける前にさつきは手のひらを前に突き出し、強めの口調で押し止めた。 「どっちも名字みたいでどっちも名前みたいですよね。分かってます。まったくね。子供に名前をつけるときは離婚するときのことも考慮してつけてほしいもんですよね。そんなつもりないのに、ちょっと韻を踏んでる感じも鼻につくし」  さつきがフルネームを言うと相手は大概同じような反応を見せ、似たようないじり方をしてくるので、最近は先回りして自分から言うことにしている。孔明と幸太郎は少し困ったように、まだ何も言ってないんだけどな、と言いたげな表情で顔を見合わせた。 「で、今日はどういったご相談で?」 「その前に費用のことを話したいんですけど。見ての通り私は学生なのでお金がありません。出せてせいぜい一万円くらいです。後から経費がいくら掛かってもこれ以上は出せません。それでもいいですか?」  さつきの声にはまだ警戒心がたっぷりと含まれていた。 「あー、いいのいいの。どんな依頼か知らないけど高校生の一万円は大金でしょう?」  孔明は手をひらひらさせながら笑ってそう答えた。  ただほど怖いものはないが、激安も十分に怖い。さつきは昔、激安ショップで買ったTシャツが一度の洗濯でボロボロになった出来事を思い出した。だからといってここまで来て引き下がるつもりもない。 「じゃあ……」  さつきは仕切り直しの意味も含めていったん言葉の間を空け、話し始めた。 「わたし、団地で母と二人暮らしをしているんですけど隣に一人暮らしのおばあさんがいまして」 「隣に。おばあさん」 「まあ血縁があるわけでも何でもなくてただのお隣さんってだけなんですけど、ほら、ウチは離婚した父方の親族はほとんどが京都だし、母の両親は早くに亡くなってるでしょ?」 「いや、知らないけどそうなの?」 「小さい頃はお母さんが仕事でいなくて寂しいとき遊んでくれたりしてね。私にとっては本物以上に本物のおばあちゃんって言うか……」 「はあ……」 「そのおばあちゃん、わたしは絹江ちゃんて呼んでるんだけど、絹江ちゃんがオレオレ詐欺に遭ったの」 「あらま」  さつきは腕を組み、口を一文字に結んで鼻から息をふんっと鳴らした。喋っているうちにずいぶん乗ってきたらしく、孔明たちの本性を暴いてやろうなんて思惑もあっさり吹き飛び、身振り手振りも加え、表現豊かに話を進める。孔明と幸太郎は圧倒されて相づちを打つのがやっとである。 「絹江ちゃんだってね、息子さんのふりしたヤツに騙されるほどボケちゃいないんだからね。まだ六十代なんだから。六十八なんてもうほとんど七十代。立派なおばあちゃんじゃないなんて言ったら本気で怒るんだから」 「なんと」 「でもさ、話には聞いてたけど最近の詐欺ってほんとに巧妙なのね。あれはきっとうちの団地に住む人間の個人情報を前もって手に入れてたんじゃないかなと思うの。役所関係者のふりした人間が電話してきてさ、老朽化した手すりやゴミの集積所、その他諸々改装するから住民から集金してるって言うの、一世帯あたり三万円。うち、区営の団地だからあり得ない話しじゃないなって思うじゃない?」 「さんまん」  さつきの口調がいつの間にか砕けていることに孔明はようやく気づいたが、何も言えなかった。 「で、電話の三十分後くらいに取りに来たらしいの。スーツ着た真面目そうな若い男が。その時は何の疑いもなく三万円渡しちゃったらしいんだけどさ、ウチには来てないし、他に話聞いてみたら年寄りの世帯ばかり来てるみたいだからこりゃおかしいってなって役所に問い合わせたらやっぱりというか案の定というかそんな話ないって」  そこで言葉を止め、唾を飲み込み喉を鳴らす。それを見て孔明はお茶の一つも出していないことに気づき慌てて幸太郎に「冷蔵庫にペットボトルのお茶があったはずだから出してあげて」と言った。  さつきは出されたお茶を一気に半分ほど喉に流し込み、ふう、と大きな息を吐いた。 「でもさ、さつきちゃん」  この隙を逃してなるまいと、孔明は口を挟む。 「その詐欺師を見つけてくれ、とか捕まえてくれ、ならそれは警察屋さんの仕事じゃないの?私に逮捕権はないし仮に犯人にたどり着いたとしてもお金を取り返すのは難しいと思うよ?」 「三万円って金額が絶妙なのよね」 「え?」 「警察には言わなくていいって言うのよ、絹江ちゃんが。騙された私も悪いから三万円は授業料だと思うことにするって」 「バカな。騙された人は悪くないよ」 「でしょ?でもさ、実際騙されたことが恥ずかしいって気持ちもあると思うんだ。年寄りの烙印押されたみたいで。他にもたくさんいるはずだけど名乗り出ない人も多いみたいだし。騙されたことを知られたくないって気持ちと天秤に掛けたとき、知られたくないって気持ちの方がギリギリ勝つのが三万円って金額だと思うの。団地だからきっと一日三十件は回れるしね」 「むむむ」  ほんの数秒間ではあるが、三人とも押し黙って天井を睨みつけた。うっかり敵である詐欺師を褒めてしまいそうになって思いとどまったのだろう。 「で、私は何をすればいいの?」 「もちろん犯人を捜す。それも受け子程度じゃなくて大本締めをね」 「難題だなあ。南北の朝廷を仲直りさせて一本化しろってレベルの難題だよ?それは」 「何それ?無理ならさ、手がかりだけでもいいの。大本にたどり着きそうなヒント」 「で、その情報を元に警察に動いてもらうってわけ?」 「どうだろう。分かったらその時考える。被害者が被害届出さないって言ってるし。本当は見つけて一発ぶん殴ってやりたいんだけどね」  そこでさつきの目がギラリと光った。それはカンフー映画を見た後の少年のように正義感と興奮が入り混じったもので、孔明はこの少女が犯人のアジトに殴り込むつもりではないかと思い、その疑問をそのまま口にした。 「君、まさか殴り込むつもりじゃないよね?」 「…………」  さつきは口をつぐんだが、ほんのわずかに唇の端が上がっている。当たり前でしょ?とでも言わんばかりだ。 「危ないよー。危ない危ない。私のように不死身ならまだしも高校生の女の子が……」 「私強いよ?多分孔明ちゃんよりずっと」 「孔明ちゃんて……」 「あー、ごめんなさい。なんだか同い年くらいの子と喋ってる気になっちゃって」 「ぷっ」  ずっと黙ってやりとりを聞いていた幸太郎が思わず吹き出し、それを孔明が睨みつける。普通の人間なら若く見られて喜ぶことの方が多いだろうが、千年以上生きている孔明にとってずっと十代の見た目というのはコンプレックス以外の何物でもない。 「まあね。君が危ないことしないって約束するならそりゃ調べるけどね?」 「あー、しないしない」  こいつ、しよるな、と思う。 「じゃあとりあえず明日にでも絹江ちゃんだっけ?その人に話を聞きに行くことにしますか」  さあさあ。車さんですよ?慣れないよねー、くるま。怖いよねー、くるま。まあ私はほとんど山で育ったようなもんだから牛車にもほとんど乗ったことないし、駕籠にもほとんど乗ったことないけどもさ、どちらもスピードとしては全然じゃない。早く移動するというより楽に移動するためのもんだからね。初めて馬に乗ったときもかなりビビったけどねー。そもそも平地で全力疾走とかしたことないし。それに鉄だしね、これ。これ、鉄だしね!だいたい納得いってないの、私。何でこんなにスピード出る必要あんの?どこ行ったって百キロ以上出せるところなんてないのに、百八十キロ、二百キロまで出せるくるま作ってさ、スピード出やすいように道をアスファルトで綺麗きれいに舗装しちゃってさ、で、どうして事故は無くならないんでしょう?ってバカじゃないの?って思うよね。こけると痛いの、アスファルト!痛いのよ、こけると、アスファルト!あれ?そういや昨日、女性の客だったのに長光殿、顔出さなかったよね?あ、そうか。昨夜は松下家に泊まりに行ってたんだった。そっか。…………、聞かれて……、ないよね?この心の声。 「さつきちゃん、でしたっけ?確かに強いみたいですよ?合気道と少林寺拳法の大会上位常連みたいです」 「なるほどね。だからといって危ないことには変わりないよ。犯罪を生業にしてる連中なんだから。普通の人は刺されたり撃たれたりしたら死んじゃうんだからね」  絹江ちゃんの住む団地、それはつまりさつきの住む団地でもあるわけだが、そこに向かう車中での会話である。黒い軽のミニバン。幸太郎が複数台所有している車の中の一つで、運転も幸太郎がしている。本当はクラシックなクラウンやベスパなどに乗って移動したいが孔明は免許を取ることもできないため、移動は幸太郎の車、または公共交通機関を使っている。一応テレビの影響で、車を格好いいと思う気持ちはあるのだ。最近はようやく自転車に乗ることができるようになり、自転車移動も多くなった。 「馬の移動も認めてくれればねえ……」  心の声が思わず漏れ出た。 「やっぱり法律上駄目なんですかね?馬移動」  車内が狭いため、小さな呟きも聞こえるらしい。 「あ、馬に乗れるんなら探偵の次は競馬選手なんかどうですか?やったことないでしょう?」 「ダメダメ。あんな立派な馬、乗る自信ないもの。わたしが言う馬はもっと小さなポニーみたいな日本馬だからね?」 「ところでどうです?今日は方(かた)違(たが)えして行きますか?」  言われて孔明は車のナビゲーションを操作し、広域に広げる。 「んー、今日はいいや。このままナビ通り行ってもらって構わないよ」  一般的に東北の方角は鬼門、凶方位である。厳密に言えば他にも凶方位はあり、しかもそれらは日や時期によって変わるのだが目的地が凶方位にある場合、いったん別の方角へ移動して目的地の方向を変える。陰陽道の基本とでも言うべき考えであるが昔は一般庶民にも浸透しており、大事な用事の際には一般庶民も方違えをして出かけることもあったという。今日はその必要がないと孔明は言っている。  寸の間、会話が途切れ、孔明は幸太郎に作ってもらった資料に目を落とす。 「鈴木絹江ちゃん……、六十八歳か。わたしが言うのも何だけど本当に長寿の時代だよね」 「やっぱり先生から見ればどんな高齢のお年寄りでも子供に見えてしまうもんですか」 「そんなことはないよ」  いま「絹江ちゃん」と言ってしまったのは、さつきがそう呼んでいたのにつられてしまったからだと断ってから、孔明は話を続ける。 「お年寄りに限らず、それなりの年齢だと年上として接しちゃうよね。ただ、松下家みたいに小さな頃から見てるとさ、君の父上の良雄くんにしても未だに『よっちゃん』て感じだもんね」  ふーん。と、さほど興味もなさそうに鼻で返事をする。 「そういや昨日、南北朝の話が出てましたけど、先生、あの出来事にも噛んでるんですか?」 「まさか。その出来事自体、後々知ったくらいだよ。そりゃね、こんだけ長く生きてりゃ歴史的事件に巻き込まれた経験もあるけどさ。私は晴明みたいに高い位をもらったこともないしさ。大抵一般市民としてですよ。あ、でも戦には何度か参加したことあるよ?関ヶ原も出たし。ま、私には人を殺すなんてことできなくて毎回すぐ殺されちゃうんだけどね」 「着きました」 「あ、そう」  指定された番号の駐車スペースに車を止め、やはり指定された棟の前まで歩いた。十階建て。ボロボロ、とまでは言わないが、それなりに年季は入っている。築二十年らしい。孔明の人生からすれば一瞬に等しい時間だが、建造物が疲弊するには十分な時間のようだ。白い壁はくすみがかり、手すりやベランダなどの金属部分には錆も見受けられる。大規模な修理が必要、と言われればなるほどと思ってしまうのも無理らしからぬところである。  五木さつきの部屋は六階だと言っていた。つまり絹江ちゃんの部屋も六階。孔明と幸太郎はエントランスの前に立ち、なんとなく建物全体を見上げた。 「年寄りを騙す人間なんて許せないよねえ」 「わあっ!!」  突然足下から人の声がしたので幸太郎は驚いて飛び上がった。見るといつの間にか幸太郎の隣にA四サイズのスケッチブックを小脇に抱えた小柄な男が立っていた。幸太郎とあまりに身長差があるため足下から声が聞こえたと勘違いしたのだ。 「だ、だれ!?」 「僕?僕は手島おさむ」 「て、手塚治虫!?」 「て、じ、ま、おさむ。やっ、孔明くん久しぶり」 「お久しぶりです手島さん、もう着いてたんですね?」 「孔明くんは本当に変わらないね。不老不死だなんて君のホラ話もなんだか真実味を帯びてきちゃうね」  大きく動いた心臓がまだ静まりきらない幸太郎は二人の間に立って目玉を左右にキョロキョロと動かしている。 「あ、こちらの方。手島おさむさん。私が漫画家目指してアシスタントしてたときの兄弟子だね。この近所に住んでるんだって。全然デビューはできないんだけど似顔絵がすごくうまくてね。それもまた正直に特徴を捉えすぎるから似顔絵師としてもやってけない人なんだけど、今回、受け子の似顔絵を描いてもらうのにぴったりの人材じゃないかと思って」 「孔明くん、キツいこと言うなあ」  そう言って推定四十半ばの男は寝癖が付いたままの頭を照れくさそうに掻いた。  さつきに連絡してから六階に行くと、さつきはもう絹江ちゃん宅の前で待っていた。呼び鈴を押すと返す刀で返事があり玄関の扉が開く。顔を出したのは品の良さそうな、物腰の柔らかい白髪の女性だった。 「わざわざすいませんね。この子にも言ったんですけどお金はもう授業料だと思って諦めるので、本当に無理はなさらないでください」  熱いものと冷たいもの。その時の気分により、どちらが良いとも言いがたい微妙な気温の時期ではあるが、出されたのは熱い緑茶だった。やはりなんだかんだでこれが一番だな、と孔明は思う。 「駄目よ!そうやって絹江ちゃんみたいにみんなが諦めるからそいつらが調子に乗るんじゃない」  絹江ちゃんは眉毛を少しハの字に下げて困ったように微笑んだ。髪はほとんどが白くなっているので外見こそ確かに老人のものだが、澱みのない動きや知性の高さをうかがわせる口調からは、六十八歳という年齢を感じさせない。 「まあ確かに、そんな連中を野放しにしておくわけにも行かないので、できる限りのことはやってみようと思います。で、現段階で一番の手がかりと言えば、絹江ちゃんが会った受け子の男です」  突然五十ほど年下であろう若い男から「ちゃん」呼ばわりされ、絹江は目を丸くした。孔明も、しまった、という顔をしたが、絹江ちゃんが若い人からちゃん付けで呼ばれるのは嬉しいというので、そのまま続けることにした。 「そこでこちらの方」  視線が一斉に集まり、猫背で丸まった背中をすっと伸ばす手島。 「こちらの方は似顔絵の達人です。覚えてる限りで良いので受け子の特徴を彼に伝えてください」 「えー、困ったな。そうね、どうだったかな……」  絹江ちゃんは部屋の中空を見つめ、記憶の中の人物を映像化しようと、人差し指を目の前で走らせる。 「年はね、若かったと思う。スーツ着てたんだけど二十歳にもなってないんじゃないかな?って思った。可愛い顔してたな。アイドルみたいな。髪はサラサラのふわふわで。そうそう、そんな感じ。もう少し前髪は長くて横に流してた気がする。眼鏡も掛けてたわね。黒縁の。優しそうな顔だったからねえ。目はどちらかと言えば垂れてたんじゃないかなあ。……いや、そこまでじゃなくもう少し……、そう。そうそう、近くなってきた。で、唇は厚めで口元に小さなほくろがあったの」  その後も微調整を繰り返し、一時間後ようやく似顔絵は完成した。 「そうそう、こんな感じ。かなり近いと思う」  孔明は手渡された似顔絵を見てみる。確かに整った顔立ちの美少年だが、それ故に大きな特徴がないとも言える。これは探偵として上級者編の捜査になりそうだな、と思うのと同時に、長い人生の中で困難というのはやはり絶対的に必要なスパイスだな、とも思い、綻びそうになる表情をきゅっと引き締めた。 「しかしなんだな。人間どもの描く絵ってのも進化っつーか変化するもんだな」  手島の描いた少し漫画チックなタッチの似顔絵を見て長光が呟いた。尾は一つだ。 「珍しいじゃない。長光殿が人間の文化に興味を示すなんて。そういや浮世絵の時代ってのは君の青春時代にあたるわけか」 「タマさん、何ですって?」  駐車場に車を止め、遅れて事務所に入ってきた幸太郎が鍵をチャラチャラ鳴らしながら言った。 「なんかね、絵に興味あるみたいよ?」  孔明がそう言うと、長光は鼻をふんっと鳴らして奥の寝室へと入っていった。  ここは孔明の住居も兼ねている。玄関から入って右手側に給湯室とトイレ、左手側にバスルームがあって壁を隔てたその奥に寝室があり、隣が事務所、といった案配である。 「そういやまた依頼の電話がありましたよ?明日の予定が分からなかったんで明後日の十六時くらいにここへ来るようお願いしました。それでよかったですか?」  事務所への電話は留守の場合、幸太郎の携帯電話へ転送されるようになっている。孔明は携帯電話を持っていない。そろそろ一歩踏み出し携帯せねばと思ってはいるが、最近ようやく電話という文化に慣れてきたと思ったら今度はそれを携帯することになり、さらにはスマートフォーンへと進化。実際、感覚がついていかないというのが正直なところである。 「いいよ、それで。急に忙しくなってきたね」  孔明はそう言って依頼者と面談するとき用の三人掛けソファーにごろりと横になって似顔絵を手に取った。事務所の窓側には孔明がこだわって選んだ重厚な木製の机と社長が座るようなふっかふかの一人掛けソファーがある。しかし孔明がそちらに座ることはほとんどなく、今では長光のベッドと化していることがほとんどである。 「それにしても先生、漫画家だったこともあるんですね?」 「漫画家志望ね、志望。なれてないしね。漫画家はホントなりたくてね。何度も挑戦しては諦め、挑戦しては諦めしたなあ。本物の手塚治虫先生に会ったこともあるしね」 「へえ。先生でもどうにもならないことがあるんですねえ」 「そりゃそうだよ。いくら死なない体で長く生きてようが占いで少々先のことが分かろうが、どうにもならないことの方が圧倒的に多い。残酷だよ、ほんと。でもさ、そうやって失敗や挫折があるからこそ新しい発見や出会いもあるわけで、だからこそ人生は面白いとも言えるんじゃないかな」 「深いですね。先生が言うと。でも先生、死なないんだからしようと思えばいくらでも努力できるわけで、たっぷり時間掛けて人の何十倍何百倍も努力すればできないことなんてないんじゃないですか?」」 「違うんだよ。分かってないな、君は。全くの逆。努力ってさ、限りがあるからできるんだよ。物事はさ、突き詰めれば切りがないわけ。努力してればいつかはできるようになる。それはそうかもしれない。じゃあ何年?何十年?何百年?いつまだ続ければいいの?そう考えるともう駄目だよ。嫌んなっちゃう」  孔明は深いため息を交えてそう言った。  そう。どうにもならないことはある。果たしてこの犯人捜しはどうか。この特徴のない似顔絵一つでどうにかなるものだろうか。無理だと思う。孔明は早くも半分、いや、三分の二ほどは気持ちの中で諦めていた。
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