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今から100年ほど昔。
青年は、定住して久しいこの山で、不覚にも遭難してしまったことがある。
もはや自分の庭とさえ言えるほどに慣れ親しんだ山道を歩いていたのに、なぜか見覚えのない道が続き、迷ってしまったのだ。
既に日没を迎え、空は暗くなってゆくばかりだ。さすがに焦りを抱きつつ、鬱蒼と緑が茂る道無き道をひたすらに進んでいたとき、青年は足を滑らせて崖から転落した。
幸いなことに大した高さはなかったようで、大きな怪我を負うこともなく、やれやれと腰を上げながら周囲を確認したとき、世界から色彩が失われてしまったのかと思った。
そうでなければ、転落の衝撃で目がおかしくなったのかと思って、慌てて瞬きを繰り返す。
青年が邂逅したのは、群生する白百合が一面に広がる花園だった。
妖しい月明かりに照らされた純白の花々は、美しいはずなのにどこか不自然さすら感ぜられる不気味さをはらんでいた。
青年は、眼前に広がる突如現れた白の世界にしばし圧倒されていた。魅了されていた、と言い換えても良い。なにかこの世のものではない不可思議な力が働いているように思われた。
見ているだけで、視界に入れているだけでこの世の苦という苦から解放されるような気がするのだ。見ているだけで心は安らぎに包まれ、生きていく希望に満ち溢れ、優しい慈愛の光に照らされているかのような心地になる。
白百合に見蕩れているうち、時間感覚が曖昧になってくる。
いつまでも眺めていたいという欲求が、脳を麻痺させているかのようだ。
月の光が反射する真白な花びらを見つめていると、どれくらいの時間こうしているのか、よくわからなくなってくる。
生まれた時からずっと、この花園にいたような気さえしてくる。
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