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結局、日勤の日と同じ時間に帰宅。昨夜に続いて食事が食卓に用意されていた。そこまではよかったが、メニューはすき焼き。茉利子としては精一杯のごちそうを用意したつもりなのは分かるけど――
そうか。不倫発覚の日に茉利子がウザ男と食べていた昼食のメニューがすき焼きだったことをシタ側の茉利子は覚えてないのだ。そういえば、すき焼きの鍋もあれから買い替えてないから、目の前にある鍋はそのときの鍋だろう。サレ側は死ぬまで忘れられないかもしれないのに、シタ側は気楽なものだ。
同じことはまだ中学生だった茉利子を弄んでいた不良高校生たちにも言えることだ。彼らは茉利子がいまだにフラバに苦しんでることなど知らず、今も好き勝手に人生を楽しんでるに違いない。
悠もおいしいおいしいと言って喜んで食べてるし、七年前の件は触れないことにした。そこを問い詰めて、別の日の夕食が実は昼のウザ男の食べ残しだったとか、そんな未知の事実が判明したらダメージを受けるのはこっちだし、それより何より茉利子はまだ自分の精神の立て直しでいっぱいいっぱいだろうから。
まず悠のことから。
「学校、今日はどうだった?」
「何もされなかった。先生たちの目が光ってていじめっ子たちが近づいてこないから、ふだん話さない子に話しかけてもらえたりして楽しかった」
「よかった。悠は何も悪くない。いつも堂々としていればいい」
「ありがとう、お父さん」
悠は上々の再スタートを切れたようだ。次は僕ら夫婦のこと。
茉利子の方から話しかけてきた。
「今日の保、カッコよかった」
「いつもカッコよくないみたいだね」
「そうじゃない。いつだって保は私を守ってくれた。今日みたいに」
「惚れ直した?」
「ああ。浮気してもいいと言ったのは取り消す。浮気したら相手の女を殺す。悠を殺人犯の娘にしたくなかったら、女は私一人で我慢することだ」
やや上から目線なのは気になるが、どうやら僕はふたたび茉利子の心を取り戻すことができたようだ。
「ところで、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「改まって聞かれると怖いな」
「いや、君、おととい法律事務所に行ったよね? 弁護士に何の用があったのかって気になってさ」
「知ってたのか?」
茉利子が苦笑いを浮かべる。意外な反応だ。
「保のことで行ったわけじゃない。毎日私と悠に嫌がらせしてくるおばさんたちをなんとかできないかと思って。最初は警察に行って相手にされなかったから、弱者の味方だと思って次に弁護士に頼った。でもあの弁護士、勉強はできるんだろうけど日本語が通じねえんだ。子ども連れて家出しろとか、わざと夫を怒らせて大きな声を出したら録音しろとか、私がスマホを持ってないと言ったら夫にスマホを持たせてもらえないことにしろとか、そういう相談に行ったんじゃねえのに、話を全部そっちに持っていくから呆れちまったよ」
「あのおばさんたちに嫌がらせをやめるように通達してもたいして儲からないけど、君が悠を連れ去れば僕から巻き上げた婚姻費用から弁護士報酬を毎月払わせることだってできるからね」
「なんでも金か……」
「彼らにとってはね。僕らは違う」
そうだなと茉利子が答えた辺りから僕の記憶はあいまいになる。そういえば昨日は夜勤で、夕方に出勤してから丸一日以上一睡もしてなかった。僕はぜんまい仕掛けのロボットのように動きを止め、そのまま不倫発覚前の頃のような深い眠りに落ちた。
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