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高橋さんと藍くん
「君は高校生で、僕はサラリーマンだから…かな」
優しい笑顔の細い銀縁フレームがよく似合う高橋さんは、そう言って俺を
………振った。
高校に入ってすぐ、バス通学だった俺は買ったばかりの定期を自宅に置き忘れ、なんなら財布ごと忘れたもんだから、乗ったバスの中で大慌てだったんだ。その時、隣りに座っていたのが高橋さん。
「どうかした?」
真新しい鞄をゴソゴソ弄る俺に、優しく声を掛けてくれた。少し高い、透き通った声。でも、ふんわり匂ったタバコの香りがギャップを感じて、弾かれたように顔をあげた俺は、高橋さんに多分凄い顔で詰め寄ったんだ。
「すっすみませんっ!お、お金貸してくれませんかっ?!」
高橋さんは一瞬目を丸くして、柔らかく握った拳を口元に当てクスクス笑った。
「そんなに泣きそうな顔しないで。はい。コレで足りるかな?」
高橋さんはブラウンの革が良い味になった財布から千円札を出して俺に手渡した。
「あっありがとうございますっ!明日っ!必ずお返ししますっ!」
「ハハ、いつでも良いよ。」
「…あの、名前…良いですか?」
「あぁ、僕、高橋。高橋文也です」
律儀に小さく会釈してくれたのを覚えている。
「俺っ!榎木藍です!」
「アイ…って、愛するの愛?」
高橋さんは小首を傾げた。大きく傾いた車内で、思わず高橋さんの腕を掴んでしまい、慌てて謝ったんだっけ。
「うわっ!すみませんっ!そ、その愛じゃないです。俺のは藍染の藍です。母があの色が好きなんです。だから…」
「なるほどぉ…素敵な名前だね」
車内に差し込む朝陽のせいか、ドキッと胸がはねて…息を呑んだ。
高橋さんの言葉と、目尻が垂れたあの優しい笑顔に…。
そこからは毎朝…高橋さんに会うために学校へ通ったと言っても過言じゃない。
自分が男性に恋をするなんて思っていなかった。
でも、その出会いは俺にとっては虹色で、初恋で、とてもとても…煌びやかな宝物だったんだ。
だって俺は、高橋さんに恋をしていたから…。
毎朝、バスに乗り込むとまだ混み合う前の車内では、高橋さんの隣りは空いていて、俺は足早にそこに座った。
高橋さんは本が好き。
高橋さんは映画も好き。
高橋さんは愛煙家で、高橋さんの声は少し高くて透明感がある。
高橋さんは眼鏡男子。笑うと目尻が下がる。
高橋さんはスーツが似合う高身長で…
いつも柔らかそうなブラウンの髪がフワッと揺れて
触れたくなる。
でも…高橋さんは意外にもガードが固い。
大人の武器ってやつなのかな?
言葉巧み?に俺を交わして…翻弄されてる気がしちゃう。
高校3年の秋…。
「高橋さんっ」
「ん?どうしたの?」
あぁ…キュンとしちゃう。首を傾げると、髪がフワッと流れて、良い匂いに混ざってタバコの香り。
「今日、お仕事…何時頃に終わりますか?」
あの日、バスの座席で勇気を振り絞った俺に、高橋さんは膝を揃えてこっちを向いてくれた。
きっと、俺の一生懸命は、この時、既に伝わっていたんだと思うわけで。
「今日?20時には終わると思うよ。藍くん、何か僕に用事がある?」
俺は膝の上で握った拳に力を入れて頷いた。
「そっか…じゃあ、寒くなってきたから学校近くのカフェで待てる?なるだけ早く帰ってくるようにするよ」
「ほっほんとにっ!良いのっ?!」
「…うん。藍くんがそんな風に誘ってくれるなんて初めてだしね。僕に聞ける話なら。」
いつものように、はにかんで笑った高橋さんは眼鏡を指先で押し上げた。
その日の学校での時間は今までで一番長かった。
カフェに着いてからも、ソワソワしっぱなしの俺は、どんな風に告白すれば良いのか、頭を抱えていた気がする。
子供だったのかも知れない。でも、あの思いは本物だったんだ。勢いに任せて、俺は行動に移した。そうするより方法がないと信じて。
優しくて、かっこよくて、素敵な高橋さんを
手に入れたい。
夕暮れ。
携帯の時間表示は十九時を回ったところ。
もうかれこれ三時間はこの店でこうして勉強をしているフリをしている。
ノートには高橋さんの似顔絵。
全然似てなくて苦笑いが溢れた瞬間だった。ノートに影がかかり、顔を上げると、スーツ姿の高橋さんが俺のノートを覗き込んでいた。
「ぅわああっ!ダメッ!ですっ!…見ちゃいましたか?」
高橋さんは向かいの席に腰をおろしながらニコニコ微笑んでいる。
「ソレ、僕?」
「ちっちがいます!高橋さんはっ…もっと素敵じゃないですか…」
銀縁のフレームを押し上げて、高橋さんが笑う。
「似てると思ったんだけどなぁ、ホラ、眼鏡が…」
と、ノートに伸びて来た長くて綺麗な指先を握ってしまった。
「…藍くん?」
「あのっ」
「うん」
「あのっ…俺っ…高橋さんが好きですっ」
握っていた指先がピクンと揺れた。
「ぁ…す、すみません。俺…」
動揺して握っていた高橋さんの指先をゆっくり解いた。
暫く沈黙が続いて、高橋さんはゆっくり俺に話し始めた。
「僕も藍くんの事は大好きだよ。でも、藍くんの言う好きと、僕の好きは…少し違っているのかも知れないね」
高橋さんの言葉に、思わず腰が浮いて、ガタンと椅子が鳴る。
ゆっくり膝を曲げて、椅子に座り直してから俯いたまま顔があげられないでいた。
「藍くん…僕は、本や映画みたいに藍くんの存在もとても大切だよ。僕の好きなものだからね。」
「俺の好きはっ…そうじゃありません」
チクチクと植物の棘でも刺さったみたいに、体の真ん中が痛い。
口が渇いて、グラスに入った水を一気に飲み干した。
「俺の好きは…あなたと付き合いたいとか…キスとか…その先とかも考えちゃう関係の話でっ映画や本みたいなもんじゃないんです。一年の、出会った時から…少しずつ膨らんで…もう、両手でも…抱えきれないくらい…あなたが好きです」
気づいたら、テーブルの上のノートにポタポタと涙が落ちた。止まらなかった。
込み上げた好きという気持ちが、身体で暴れて、苦しい。
「藍くん…ごめんね」
「俺がっ…男だから?」
「…それは…その…ビックリはしたんだけどね、そうじゃなくて…」
高橋さんは困った顔でポケットからハンカチを出した。
深いグリーンのイニシャルが刺繍してある高そうなハンカチ。
それでゆっくり俺の涙を拭いて、また「ごめんね」と透き通った声で謝った。
それから、ハンカチを俺に持たせて、小さく溜息を吐くとこう言った。
「君は高校生で、僕はサラリーマンだから…かな」
大人の理由はわからなかった。
高橋さんはサラリーマンで、俺は高校生。
だから恋愛出来ないの?
「店、出ようか」
まだハラハラと泣き続ける俺の手を引いて、お会計を済ませて店を出る高橋さん。
店員さんも驚いた顔をしてたし、高橋さんはもう恥ずかしくてあのカフェは使えないんじゃないかと思うと、申し訳なくなって、また涙が出た。
暫く手を引かれるまま歩いて、人気のない公園のベンチに座った。
「ちょっと待っててね」
高橋さんはその場を離れて、暫くしたら、缶コーヒーを両手に戻って来た。
「はい。藍くんは微糖で良かったよね」
隣に腰を下ろしながら、俺の嗜好を覚えている事なんて見せつけるから、また勝手に胸がギュッと痛くなった。
「ありがとうございます」
「うん…あったかいうちに飲みな」
「…持って帰っていいですか?」
高橋さんは俺を見つめて苦笑いした。
「どうして?」
「フラれたから…高橋さんがくれた物が…欲しい」
高橋さんは困った顔で微笑んで俺の頭を撫でた。
「もし、藍くんがもっと大人になって、お互いに良い人が居ない状態で、どこかで出会えたら…その時に、藍くんの気持ちが変わってなかったら、また聞かせてくれない?」
俺は温かい缶コーヒーを両手に握りしめたまま顔を上げた。
「もっと…大人になったら?」
「そうだよ。藍くんは、これから沢山の人に出逢って、沢山恋もすると思うんだ。」
「俺が好きなのは高橋さんだよっ!」
「うん…藍くんの気持ちは凄く嬉しいんだよ…でも僕は君の未来で後悔になりたくないし、2年半も仲良くしてきたんだよ?藍くんの事を待ってる新しい出会い達を…台無しに出来ない。」
「それが答え?」
「え?」
「それが高橋さんの答え?…俺は高校生で、高橋さんはサラリーマン…大人と子供で、俺にはまだ高橋さんと肩を並べる資格がないって事っ!?」
捲し立てるように怒鳴って、缶コーヒーを握る手に力を込めたら、返事がなくて、少し焦った。
高橋さんに目をやると、悲しそうな顔をして、それでもまだ優しく、困った顔で微笑んでいて、自分が彼をどんな風に困らせているのかを突き付けられているようだった。
「…じゃあ…希望…くれませんか?」
小さな深呼吸をしてから、高橋さんに膝を向けた。
「一度だけ…キスしてくれませんか」
高橋さんは肩を竦めて笑った。
頰に長い指が触れ、タバコの残香がして、少し長い俺の髪を耳に掛けた彼は、眼鏡をかけたままゆっくり柔らかな唇を重ねた。
ほんの一瞬触れた唇。眼鏡が当たって、カチャッと小さな音を立てたのが耳に残った。
高橋さんは暗がりでも分かるくらい頰を赤くして、視線を逸らした。
「明日から…バスの時間を変えます。受験勉強に励んで、大学に受かって、高橋さんのいう沢山の出会いとか、経験します…そしたら…俺は高橋さんに相応しい大人になれますよね?」
「相応しくなるなんて…冗談言わないで。藍くんは今でも十分、僕には勿体無いんだからね」
「…高橋さんっ…キス…嬉しかった…大好きです…大好きです…」
立ち上がって、深々頭を下げた。
「藍くん…」
公園を抜けて、力の抜けた身体のまま歩いた。
秋の少し冷えた風が、手にした缶コーヒーの温度を奪う。
高橋さんの長い指。柔らかな唇。眼鏡が当たる音。忘れたくない。忘れない。最後まで優しいくせに…最後まで俺を許さなかった。
「君は高校生で、僕はサラリーマンだから…かな」
20歳になった年…
俺はあの人が吸っていたタバコを買いにコンビニへ向かった。
大学生になってから一人暮らしを始めた小さなアパートのベランダで、思い切り吸い込んで付けたタバコの火は、爆弾みたいに肺を満たし、盛大にむせ返り涙目になった。
「ゴホッゴホッ…こんなのっよくっ…ゔぅっ…ケホッ…あんなっ澄ました顔してっ…ゴホッ」
高橋さんの吸っていたタバコに泣かされながら、あの頃がジワジワ蘇る。
あれから
沢山の人に出会って
年を重ねて来たけど
高橋さんの言っていた沢山の恋は
まだ一度もしないまま。
俺の"好き"はあの人の困った笑顔の中に置いてきた。
スーツの似合う高身長。
銀縁の眼鏡。
柔らかな髪。
少し高くて透き通った声。
笑うと下がる目尻。
冷えた公園でした冷たい唇のキス。
高橋さん
覚えていますか?
高橋さん
俺に言った言葉
「もし、藍くんがもっと大人になって、お互いに良い人が居ない状態で、どこかで出会えたら…その時に、藍くんの気持ちが変わってなかったら、また聞かせてくれない?」
高橋さん
聞いてくれますか?
高橋さん
今はお一人ですか?
もし、貴方の隣に、まだ誰も居ないなら…
ちゃんと覚悟して聞いて欲しいんです。
沢山の人に出会っても
沢山の初めてを経験しても
貴方を想った二年半には何も敵わなかった。
高橋さん
あなたが好きです。
ベランダの手すりに身体を預ける。
タバコは吸わないまま指先近くまで灰になった。
灰皿に吸い殻を押し込んで、指先の匂いをクンと嗅ぐ。
高橋さんが俺の頰を撫でた時、薄っすら香ったあの匂い。
ベランダから部屋の中を見ると、あの日貰った缶コーヒーが佇んでいて、それは俺に、困った顔で笑っているように見えた。
end
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