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第70話「おれがかならず、最初の扉を開けてやる」
(UnsplashのAli Pazaniが撮影)
やがて、こん、と小さなノックがした。
佐江がスチールのドアから身体を出す。
コルヌイエホテルの廊下に立つ清春はボウタイの乱れもなにもなく、いつものようにひんやりした美貌そのままに佐江から1メートル離れて立っていた。
そして優雅に一礼する。
「お客さま。女性用のパウダールームはこちらでございます」
ゆっくりと歩いていく清春の背中には、数分前の甘い名残は寸分もない。有能な若手ホテルマンそのままだ。
異母妹からも同僚からも、およそ佐江の知るすべての人から頼りにされ、あてにされている27歳の男。
佐江は、少し寒いような視線を清春の後ろ姿にあてた。そして、はっとした。
清春の制服に、かすかな皺が寄っている。
佐江のキッド革の手袋に包まれた手が、清春のジャケットを握り締めて精いっぱい作った小さなしわ。それを清春は、知りもしないで広い背中につけている。
論理と正論だけで出来上がっているような井上清春という男が、佐江の前で若いケダモノとしての熱を抑えきれなかった痕跡が、小さな皺として残っていた。
あんなナイロン素材のジャケットでは、しわなんて、すぐに消えてしまう……。
切ないような痛みが胸にさしこんでくる。
だがその感情は、あってはならないものだ。
清春が自分の混乱を太陽の香りがするリネン室に置いてきたように、佐江もこの惑乱を閉じ込めねばならない。
佐江には真乃がいるから。
十二の時から狂おしいほどに恋してきた女がいるからだ。
ふたりは静かに歩く。コルヌイエホテルの廊下には厚いじゅうたんが敷いてあり、足音を綺麗に消してしまう。
ためらいも、途切れた言葉もすべて吸い取っていく。
これで終わりだ。
女性用のパウダールーム前に来ると、清春はもう一度、丁寧な礼をした。かっきりした腰のかがめ方は、完璧なホテルマンの角度。
清春自身が考え抜いてえらんだ仕事の角度だ。
この人は、生粋のホテルマンだ、と佐江は思う。
清春はホテルオーナーである父親と、愛人だった母とともに、このコルヌイエホテルで育った。
ホテルで育ち、職場に選び、ここで仲間とともに生きてゆく道を選んだ。
清春のような男がいったん腹を決めたら、なにがあってもゴールまでやり抜くのに違いない。
この人はどこまで行くのだろう。どんな男になっていくのだろう。
清春の行く末を見届けたい、と佐江は思った。
ありがたいことに佐江は、井上清春というたぐいまれな男の進んでいく行程をつぶさに見ることができる場所にいる。清春の異母妹の親友と言う立ち位置だ。
いつか、清春が結婚するときはきっと真乃とともに招待客のテーブルに座るだろう。
ちくり、と、今度は明らかな痛みが佐江の胸に刺しこむが、それは無視することにきめた。
この恋は、あってはならない恋だ。
すくなくとも、佐江にとっては。
佐江はかすかに微笑み、すっきりと背筋を立てた。そして
「ありがとうございました」
とゲストの声で礼を言った。清春の広い肩がぴくりと動く。
「助かりました。あの道案内は、今の私に必要なものでした」
清春は目を閉じ、細く細く息を吐いた。
女性用パウダールームへ入ろうとする佐江に、最後の声が聞こえた。
「佐江。おれがかならず、最初の扉を開けてやるから……」
『最初の扉』という時、清春の声が一瞬だけ苦しそうに狭まった。
喉の気道が締め付けられたように声がかすれた。
思わず佐江が見ると、清春がニヤリとした。
「それまでは、ほかの男に指いっぽん触れさせるな」
佐江はつんと顔を上げた。顎を引き、くっきりした目で清春を見据える。
「もちろんよ。真乃をのぞいては――」
「ああ、そうだ。真乃をのぞいては」
清春は満足げに微笑んで、立ち去った。
佐江の身体に、黒い鳥が鋭く行き過ぎたあとを甘く甘く残したまま。
清春の深いくちばしの跡は、佐江の奥に快楽の記憶となって沈んでいった。
いつまでたっても、ぜったいに消えない悦楽の記憶。
佐江と清春だけの記憶が、今、佐江の黒いタンクドレスの奥にしまい込まれた。
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