124人が本棚に入れています
本棚に追加
第70話「この世で一番幸せな奴隷」
(UnsplashのAmir Esrafiliが撮影)
あれから1年がたった。
その年の12月初旬、佐江は真乃から電話を受けた。
「佐江、お願いだから今年のクリスマスは、コルヌイエホテルで一緒に食事して?」
「コルヌイエで食事? クリスマスに?」
佐江は頭の中でいそがしくスケジュールをチェックした。
12月はアパレル業界の稼ぎ時だ。佐江のシフトもぎっしり詰まっているが、1日くらいは時間を作れるだろう。
大切な女が時間を空けてくれというのだ。言うなりになる以外に何ができるだろう。
佐江はこの世で一番幸せな奴隷になって、答えた。
「いくわ、もちろんよ」
「ありがとう、お父さんと食事をするのよ。そこにキヨちゃんも呼びたいんだけど、あんたをエサにしないと、どうしても来ないから」
「……清春さん?」
ひくっと、スマホを持つ佐江の手がふるえた。しかしあえて、そのふるえを無視する。
あってはならない震えだからだ。恋しい女の異母兄に対して、持ってはならない揺らぎ。
真乃は佐江の動揺に気づかない様子で続けた。
「クリスマスシーズンでしょ? キヨちゃんはメイン棟レセプションカウンターのアシスタントマネージャーだから、1時間だって休める時間はないんだけど、お父さんがどうしても呼べって言いはるのよ。
まあ、あたしも勝手に家を出て洋輔と暮らしているから、あんまり強いことを言えないのよね」
「……そうね」
佐江は一拍おいてから答えた。内心では、
『じゃあいっそ、あんなろくでなしの浮気男とは別れたら? あの男は、あなたにふさわしくない』
と言いたいのを、こらえる。
1年前から真乃が付き合い始めた『洋輔』という男とは、佐江は会ったことがない。
だが真乃の話の端々から、ろくでなしっぷりは十分にわかった。そうでなくても、佐江は真乃が付き合う男がきらいだ。
ただ男だというだけの理由で、当たり前のような顔で真乃の隣に座る男たちを、殺したいほどに憎んでいる。
真乃を愛するがゆえに……その気持ちは変わらない。
「……いいわ、クリスマスイブの前日ね。コルヌイエホテルへうかがうわ」
「ありがとう、メイン棟のロビーに来たらあたしを呼び出して。その日は、あたしもキヨちゃんも出勤しているから」
真乃の明るい声で電話は切れた。佐江はじっと、真っ暗になったスマホの画面を見る。
……コルヌイエホテルで清春と会う?
1年前、パーティ会場を抜け出してふたりでリネン室にこもってから、佐江は清春と会っていない。
あれきり何の連絡もないからだ。
7年前、はじめて二人でキスをした時と同じだ。清春はいつだって、佐江に爪痕を残したきりどこかへ行ってしまう。
佐江は静かに頭をふった。
忘れよう、ぜんぶ忘れよう。
何もなかった事にして、リセットするためのいい機会だ。
佐江には真乃がいて、いつだって真乃だけが必要だ。このまま、かなわぬ恋を抱いて生きていく。それに不足はない。
なにひとつ不足はない。
ただ、清春のキスと指の記憶をのぞいては――。
「あの黒のタンクドレス……どこにしまったかしら……」
しずかにつぶやいて、佐江はスマホを片付けた。ガラスに囲まれたアパレルショップの外では、イルミネーションが輝いていた。
その日。クリスマスイブ直前ということでコルヌイエホテルはひとで込み合っていた。ロビーには鮮やかな色ガラスの大時計が時を刻んでいて、4メートルを超すツリーが華やぎを加えている。
佐江はまっすぐにロビーのレセプションカウンターにむかった。
数人のスタッフが忙しく働いている中、一人の男が佐江に気づいた。
井上清春。
185センチの長身をダークスーツに包み、シルバーフレームの眼鏡の奥で切れ長の瞳をきらめかせている。
しんと、静まりかえった冬の三日月のような眼だ。
一瞬だけ、佐江の身体がぞくりとした。
佐江は、あの男の指を知っている。指を、吐息を、熱を知っている。
知ってはならない欲情を、知っている。
そしてこの男は、佐江のまだ開かない扉を知っている。この世で、清春だけが知っている秘密だ。
清春は、女性スタッフに二言三言みじかく指示を出した後で、優雅にカウンターから出てきた。
歩いてくる。
その端正な姿に、まわりの女性客が視線を寄せる。
28歳、仕事にすべてをかけている満ち足りた男の姿だ。ただ歩くだけで、あたりを圧するつややかさが全身にまとわりついていた。
「お待ちしておりました。店へご案内しましょう。父と真乃は、もう行っていまして……」
「遅くなりまして、申し訳ございません」
「いいんです、あの二人がせっかちなだけですよ。どうぞ、こちらへ」
清春がエレベーターに誘導する。磨きたてられたエレベーターは鏡のようで、前に立つ佐江と清春の姿を映し出した。
1年前とおなじ組み合わせだ。
佐江は、真乃への片思いとヴァージンの身体のまま何ひとつ変わっていない。
だが、清春はどうなのだろう。
佐江はこの1年間に真乃経由でさんざん聞かされた清春の艶聞を思い出していた。相変わらず、女性が次々と列をなしているんだという。そして清春は、3カ月おきに恋人を取り換えている。
『大丈夫、このひとはもう、何もかも忘れたはず。あれはたくさんの記憶にまぎれてしまったはず。大丈夫……』
佐江が内心でつぶやいたとき、チンという軽やかな音を立ててエレベーターの扉が開いた。
清春が慣れたしぐさでドアを押さえる。
「どうぞ」
言われるがままに、佐江はエレベーターの中に入っていった。
そのままするりと、清春も乗りこむ。
そこで初めて気が付いた。
エレベーターの中は、二人きりだ……。
最初のコメントを投稿しよう!