『たとえばそこにいるだけで』

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 ここ一帯の帝国軍を蹴散らしたおかげで、解放軍はひとつの砦を今宵の寝場所として得る事ができた。  戦士達がめいめいの場所で武具を外し休息を取る中、クレテスは厨房へ向かう。そして、今晩の炊き出しを作っている後方支援の者に頼んで、温かいミルクと、ドライフルーツを混ぜ込んだクッキーを用意してもらった。いつもなら自分で作るのだが、流石に日が暮れ始めた今から、決して広くはない厨房の一角を占領して菓子作りをするのは、迷惑になってしまう。それに、一刻も早く、これを届ける相手のもとへ行きたかった。  解放軍盟主は指揮官室に通される事が多い。今日もそこを目指してゆくと、扉の前に立つ見張りが、気さくに右手を挙げた。 「おっ、どうも。エステル様にご用です? クレテスさんなら顔パスですよ」  ノクリスという、解放軍結成当初からいる、狩人あがりの男だ。馴れ合いは好ましくないと、大人達は渋い顔をするが、農民や狩人から志願してきた戦士は、礼儀作法をすっ飛ばしている者がほとんどである。かくいうクレテスも、身分はグランディア王国騎士の息子だが、騎士としての立ち振る舞いを指南された事など無い。剣の型も、グランディア式ではあるが傭兵のそれなのは、師匠に因る部分が大きい。 「ありがとう」  なのでクレテスも、苦笑をノクリスに返す事で礼として、室内に入った。  春の終わりの風が、開け放った窓から流れてくる。夏を前にして赤みを増した日没の太陽が、燃えているかのように照らしている部屋の中、少女はソファに座り込み下を向いていたが、訪れに気づくと、はっと顔を上げて、ぎこちない笑顔を見せた。 「クレテス、どうしたんですか? お夕飯にはまだ早いと思いますけど」  細めるその目が少し腫れぼったい。クレテスは溜息をつくと、ここまで運んできた盆を彼女の前のテーブルに静かに置いた。 「腹減ってるだろ。飯の前に少し胃に入れて、落ち着かせとけよ」 「クレテスが作ったんですか?」 「いや。流石に間に合わなかった」  故郷――真の故郷はグランディア王国だが、自分達が育ってきたのはムスペルヘイムのトルヴェール村である――にいた頃はよく、木の実パイを焼いてエステルのところへ差し入れに行ったものだ。解放軍が発ってからも、時間と食材に余裕がある時は、様々な菓子を作って、盟主の役目に疲れているだろう幼馴染を労っている。だから今回も、クレテスが用意したものだと思ったらしい。 「いつもと味が違うけど、勘弁な」 「いえ」  肩をすくめてみせると、少女は唇の端にうっすらと笑みを浮かべて、ゆるゆる首を横に振った。そして「いただきます」と丁寧に手を合わせて、クッキーをかじる。  その横顔を見ながら、クレテスは考える。  この少女は、いつから声をあげて泣くところを見せなくなっただろうか、と。  物心ついた頃から他の子供達も交えて一緒にいたこの幼馴染は、心優しく、その分恐がりで、泣き虫だった。男子の喧嘩が始まると怯えて、すぐ叔父に泣きつくような子供だった。  そんな少女が、この大陸の命運という大きすぎる荷を背負って、剣を振るっている。返り血を浴びても動じず、自身が傷ついても(ひる)む事は無い。  だから怖いのだ。いつかどこかで心の支柱が折れ、泣き崩れて立ち上がれなくなる瞬間が来るのではないかと。 「あのさ」  ホットミルクを口に含んで、安堵の吐息をつく彼女の傍らに、同じ目線になるように膝をついて、じっとその顔を見つめる。 「今日みたいな事は、気にするな、ってのは絶対無理だから。せめて、おれ達を頼れよ。嫌な事があったらはけ口くらいにはなるから」  翠の瞳が吃驚(きっきょう)した様子でこちらを向き、真ん丸く見開かれる。  自分はアルフレッドのように、エステルの心の中まで踏み込める身内ではない。だが、彼女の傍にいて、怒りや悲しみ、ままならさを感じた時に、感情を吐き出すのを受け止める役目は、できるだろう。誰よりも優しい少女の心が壊れないように、支える事はできるだろう。  その為に、できる限り多くの敵を斬り捨てる事も。他の誰かを不幸にする事も。覚悟は決めたつもりだ。 「……ありがとうございます」  エステルが、ゆるりと柔らかく微笑む。その目に、夕陽の照り返しではない光があるように見えたのには、気づかない振りをした。
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