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第一章 呪い
葉山真人は微睡みから目を覚ますと、窓の外に目を向けた。知らない景色が流れている。ビルの立ち並ぶ見慣れた景色から一変して、辺りは背の高い木々が生い茂っている。山の中だろうか。思えば遠くまで来たものだ。東京発の特急電車から、地方のバスに乗り替えて一時間くらい経っただろうか。
乗り込んだ時は四、五人の乗客がいたと思ったが、今はもう真人一人だけだった。うとうとしている間に、他の乗客たちは降りてしまったのだろう。
目的地まではまだ少しかかりそうだ。
泊りの荷物で膨らんだリュックを抱きかかえ、もう一眠りしようと思っていると、ズボンのポケットに入れていたスマホが震えた。
見当ならついている。どうせ母だ。真人の行動のすべてが気に食わない母は、夏休みだからとずっと家にいた真人を遂に追い出したのだ。そんな暴挙に出て、一体何の連絡だろうか。
重い息を吐き出して、スマホを取り出した。画面を確かめると、案の定、『母』と表示されている。
『もうすぐ着くころだと思います。くれぐれも粗相の無いように。念のため、もう一度詳細を送ります』
その文章を皮切りに、箇条書きにされた短文がずらりと連投されてくる。
鬱陶しいと思いながらも、見てしまったからしょうがない。既読が付いてしまったため、一通り目を通す。
『1.片白寺に向かうこと。(村の入り口からまっすぐ行けばいいですが、分からなければ村の人たちに聞いてください)』
『2.住職さんにご挨拶して、人形を渡し、供養してもらってください』
『3.言うことを聞いて揉め事を起こさないこと』
『4.母さんの顔に泥を塗らないように』
最後まで読み終えて、もう一度息を吐き出した。適当にスタンプを送ってスマホを伏せる。
どうしてわざわざ夏休みに東京から半日以上もかかる田舎の片白村などという場所にいかないといけないのか。こうなると分かっていたなら、適当に部活に勤しんでいただろうし、母から暇かと聞かれた時に、嘘でも夏期講習があるなどと答えていた。
そう後悔しても時すでに遅い。三度目のため息をつきかけた時だった。
「次は片白村入口、片白村入口」
車内に目的地を告げるアナウンスが響いた。真人は停車のボタンを押して、リュックを背負った。隣の座席に座らせていたウサギのぬいぐるみを抱える。
片白村は森の中にあるようだった。道路だけが真新しく舗装されている。バスは、鬱蒼と茂った木々の中にポツンと立つバス停の前で停車した。バスの前側のドアが開く。促されるまま、荷物を持って出口に向かう。田舎だからか、バスはICカードに対応していないため、支払い口に整理券を突っ込んで、運賃分の小銭を機械に投入する。運転手に教えてもらいながら支払いを終え、礼を言って降りようとした時だった。
「もしかして片白様に行く子?」
運転手が、真人の抱えているウサギのぬいぐるみを指差した。真人は俯いて、ウサギを掴む手に力を込める。
「……そうです」
「もうすぐお祭りの季節だからねえ」
運転手はにこやかにそう言った。男子高校生だというのに、ウサギのぬいぐるみを持っているのが恥ずかしくなってくる。真人はいたたまれなくなって、曖昧な相槌を打ってバスから降りた。背後でバスのドアがゆっくり閉まり、山道を登っていく。息を吐き出して、古びたバス停を確かめた。『片白村入口』とちゃんと書かれている。八月だというのに辺りは冷たい空気が流れている。蝉の声は、なぜか聞こえてこない。こんなに木々が茂った森の中なら、蝉の大合唱のはずだろうに。東京にも喧しいくらい蝉はいる。
片白村の入口は、入口というわりにただの砂利道だった。舗装された道路の横に整備されていない道が伸びているだけだ。
真人はウサギのぬいぐるみを抱え直し、砂利道を歩き始めた。
またスマホが震える。鬱陶しく感じながら確かめると、案の定母だった。
『良い子にしてないと、カタシロ様に帰してもらえないからね』
届いた文章に首を傾げる。カタシロ様というのは、バスの運転手が話していたように、この村で祀っている神様のような存在だと聞かされていた。村の名前にもなるほどだ。村人からは手厚く信仰されているのだろう。
「良い子にしてないと、カタシロ様が帰してくれない、ねえ」
届いた文面を読み上げて、肩を竦める。
子ども騙しの迷信だ。サンタが来ないのと同じ原理だ。確かに村までの道のりは、まるでオカルト掲示板に出て来そうなほど薄気味悪いけれど。だからと言って帰してもらえない、なんて。
「……ばかばかしい」
思わず呟いて、スマホをポケットに突っ込んだ。
しばらく歩くと拓けた場所に出た。民家が立ち並び、途端に人里らしくなる。ここが、件の片白村だろう。道端には木で出来た小さな社があり、その中にお手玉が三つ重なっている。
「カタシロ様か」
真人は呟いて、また歩き出した。
母からのメッセージにあったとおり、砂利道は砂道に代わり、村の中央まで伸びていた。まっすぐ歩いていくと、すぐに大きな寺が目に飛び込んできた。立派な門には『片白寺』と彫られた木の板が掲げられている。ここが母に行けと言われた片白寺で間違いないらしい。ずらりと続く石段を登り、門をくぐる。境内を見回すと、掃き掃除をしている人物と目が合った。頭を剃り、紺色の作務衣を身に着けている。彼は真人に気付くと、掃除の手を止めて、こちらまでやってくる。
「えっと……葉山真人です」
名乗ると彼はぱっと顔を輝かせた。
「片白村住職の片白円雲と申します。お待ちしていました、葉山さん。長旅ご苦労だったでしょう」
円雲と名乗った住職が真人に向かってにこやかに語り掛けてくる。頭を丸めて、丸い眼鏡をかけた柔和な風貌に、なんでも見透かされているような、そんな錯覚に陥る。
「ちゃんと持ってきていますね」
住職は真人が持っているウサギのぬいぐるみを見た。家を出る前、母から口酸っぱく言われていたことだった。片白寺に預けられる子どもは、自分の身代わりとなる人形を一体持参しなければならない。
それも迷信だと思ったけれど、母の圧に負けて結局ウサギのぬいぐるみを持ってきてしまった。
「ご母堂からお話は聞いていますよ。盆の間だけですが、どうぞよろしくお願いしますね」
どこまでも腰の低い人だ。ご母堂、なんて言い方、現実では初めて聞いた。やや遅れて、真人も「よろしくお願いします」と返した。
住職の言う通り、真人は盆の間だけこの片白村にある片白寺に預けられることになった。
片白村とは、まるで有名ではない場所だが、どうやら母方の祖母の出身地らしかった。祖母の出身地と聞いて、てっきり親戚の家に預けられると思ったのだが、どうにも違うようだった。
「うちではいたずら小僧をよくお預かりしていましてね。葉山さんもそうですか」
住職が真人の顔を見ながら微笑む。いたずらっ子、と言われると途端に恥ずかしさが増す。
母の説明では、この片白村には真人のように、親を困らす子どもを、カタシロ様に預ける風習があるらしい。そのカタシロ様というのが、この片白寺だった。祖母の女学院時代の
親友も、とある旧家の子息との逢引がバレて片白寺に預けられたという話をかつて聞いたことがある。祖母の代からあるということは、かなり古い風習だろう。
「先にカタシロ様に身代わり供養をいたしましょう」
大荷物を持ったまま、住職の後について境内を歩く。どこも手入れが行き届いていて、葉の一枚も落ちていない。さっきまで住職が掃き掃除していたのだから当たり前ともいえる。
住職は大きな建物の前で足を止めた。
「こちらは離殿・形代殿と申します。本堂はまた別にございますよ」
ここが寺なのかと思ったが、違ったようだ。住職の説明に、相槌を返しながら、真人は離殿を眺めていた。壁には龍や植物などが彫られている。靴を脱ぎ、離殿の入口に続く階段を上がる。外廊下のような場所に立つ。
「身代わりをお預かりしますね」
言われるまま、真人はウサギのぬいぐるみを住職に手渡した。所々糸がほつれて、全体的に黄ばんでいる。住職はぬいぐるみを恭しく受け取って、耳の裏やら足の付け根やら、あちこちをまじまじと見た。そうして「手縫いですか?」と聞いてきた。
「……そうです」
それが何の関係があるんだろう、と思いながら、リュックを背負い直し、汚れた靴先を見る。住職から目を逸らしたのは、このぬいぐるみについて詳しいことを話したくなかったのもあるかもしれない。なぜなら、これを見るたびに、真人は自分のバカさ加減を思い出すのだから。
「葉山さんはそちらでお待ちください」
住職はそう言い残して、離殿の中に入って行った。重苦しい扉が閉じていく。真人は離殿の様子を外から眺めていた。リュックを背負い直し、手すりに寄りかかる。
ほどなくして、扉の向こうから読経の声が聞こえてきた。だが、良く聞く経文では無いようだ。南無妙法蓮華経でも南無阿弥陀仏でも無い。宗派によって文言が違う、と歴史の授業で聞いたことがある。片白寺の宗派は真人の知るものとは違うのだろう。
蝉の声も聞こえず、じわりと汗が滴ってくる。手すりから眼下に広がる境内を眺めても、特に面白そうなものは無い。奥に納屋と、平屋があるくらいだ。人影はなく、聞こえてくるのも住職の読経だけ。
真人は境内から視線を戻し、離殿の扉を見つめた。そうして、読経に耳を澄ませる。
「カタシロ様」
そのフレーズがはっきりと聞き取れたと同時に、読経はすぐに終わってしまった。衣擦れの音と、足音が近付いてくる。扉が内側から開き、住職が顔を出した。その手にはもうウサギのぬいぐるみは無い。
「お預かりしたウサギのぬいぐるみは、カタシロ様に身代わりとしてお捧げしました」
住職がにこりと微笑みながら、離殿の扉を閉める。また、重苦しい音が響く。
「そう、ですか」
真人は離殿の扉を一瞥した。そうして、住職を見る。
「あの……」
「どうかしましたか?」
住職が微笑みかけてくる。真人は息を吸い込んで、口を開いた。
「こういう儀式? って……俺も立ち会わなくて良かったんですか? こういうのって、俺も一緒に受けるんじゃ……」
真人はネット掲示板やホラー映画のワンシーンを思い出していた。そういう時は預けたものと一緒にやってきた人物もお祓いを受けていた。今回はお祓いと違うと言われたらそうなのだが。
住職が歩き始めたので、真人も後に続いた。階段を降りて靴を履き直し、離殿を離れ、境内を歩いていく。
「良いんですよ、これは身代わりの儀式なので。葉山さんのお祓いをするわけではありませんから」
そう言われて、真人はやっぱりと思った。真人の思い出したものは、お祓いのシーンだ。今回の儀式とは違うのだろう。真人は話を変えてみることにした。
「あの離殿って何があるんですか?」
住職が足を止めて振り返った。口角は下がり、鋭い眼差しが真人を見据える。真人は息を飲んだ。今までの優しそうな住職の雰囲気から一変して真顔になっている。
住職はすぐに口角を上げ、目元を緩めた。
「離殿にはカタシロ様がおられますよ」
「そう、ですか」
真人はそれ以上何か言うのを止め、住職の後について行った。
「先ほどご案内した場所が離殿。そしてあちらが本堂です」
住職は離殿の向かいに見える大きな寺を示した。離殿に劣らず、大きな建物だ。しかし、住職はさらに境内を進んでいく。
「葉山さんに生活していただくのはこちらの建物です」
住職に連れられてやってきたのは、離殿から見えていた平屋だった。
「葉山さんの他にあと四人預かっていましてね。別でうちの子たちがおりまして、全員で七人になるのですが……みなさん盆の間一緒に生活なさいますから、仲良くなさってくださいね」
「はい」
住職ががらりと引き戸を開けた。玄関に足を踏み入れると、そこには複数の靴が並べられていた。スニーカーやローファーを見る限り、真人と同様に学生なのだろう。
真人はスニーカーを脱ぐと、厚底ブーツの隣に並べた。一際威圧感があり、およそ寺には似つかわしくないように思われたが、黙っていた。住職に続いて、長い廊下を歩いていく。
住職は、廊下を歩き、ひとつの襖の前で足を止めた。ゆっくり襖が開かれる。そこは大座敷のようだった。縁側に面した障子は全開に開かれて、庭先のアジサイが見えた。宴会場のような広い畳の部屋に、真人と同じくらいの年頃の子どもたちが六人いた。みんな一斉に真人を見る。一際目を惹いたのは、部屋の奥に座っているゴスロリ服を着た少女だった。真人と同じ年ごろの、高校生に思われた。ゴスロリも確かに目を惹いたが、彼女の顔立ちにも釘付けになった。肌は雪のように真っ白で、長い髪は艶やかな黒。日本人形にも見えたがゴスロリというファッションのせいか、西洋人形に似ていると感じた。
「東京からいらした葉山真人さんです。みなさんと一緒に盆の間生活なさいます。仲良くなさってくださいね」
住職がにこやかに子どもたちに語り掛ける。真人もぺこりと頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
みんな真人を一瞥し、それ以上話しかけてこようとはしない。それならそれで別にいい。人間関係も面倒だし。とりあえず荷物を置きたい。パンパンのリュックをずっと背負っていたから、そろそろ肩が痛くなってきた。
そう思っていると、目の前に座っていた長身の優男と目が合った。彼は優しく微笑んで立ち上がった。
「あいにくそこまで部屋数は無いから、この辺りを荷物置きとして使ってもらえるかな」
優男が言う通り、部屋の隅には黒いリュックや、キーホルダーがじゃらじゃらついたスクールバッグが置かれている。真人は一つ頷いて、素直にリュックを下ろし、端っこに置いた。
「東京からって大変だっただろう? 今日はやることもないしここでくつろいでいてよ」
優男はにこにこ笑って、畳に腰を下ろした。手持無沙汰になってしまったし、やることも無いと言われたので、真人も素直に隣に腰を下ろす。
「……ありがとうございます、えっと……」
ちらりと優男に目をやった。高校三年生くらいだろうか。真人より幾分か背が高く、顏立ちも整って見える。いわゆるイケメン、というやつだろう。ふふ、と彼が笑ったから、見すぎていたことに気が付いた。気まずくて目を逸らす。
「俺は神田聖生。他の子たちとは違って、ここでずっと生活しているんだ」
「この……お寺の人、なんですか?」
そう尋ね、そういえば住職がうちの子、と言っていたことを思い出した。だが、神田と名乗った青年は、どうにも 坊主には見えない。茶色の髪が、柔らかく流れている。
真人が寺を訪れたのは、中学の修学旅行で鎌倉に行った以来だ。そのときも境内を散策してお参りをしたくらいで、中まで見たわけでない。だが、この片白寺は、住職と子どもたち以外に誰もいないように思えた。小さな村にある小さな寺だから人も少ないのかもしれないけれど、だからといって住職一人だけなんてことがあるのだろうか。寺には普通弟子がいるのでは、と思ったが、真人は結局、さほど寺というものを知らなかった。
真人が考え込んでいると、神田がくすりと微笑んだ。
「ううん。俺も真人くんと同じように預けられてるんだ。お盆の間以外もね。で、あちらが住職の娘さん」
神田はそう言って、部屋の奥にいるゴスロリ少女を示した。真人たちの会話が聞こえていたのか、彼女が顔を上げる。長い睫毛に縁取られた黒目勝ちの瞳が真人を見据える。
「片白紫陽花。よろしく」
彼女はそれだけ言って、また目を伏せた。面食らったけれど、神田は真人の隣で苦笑している。
「お嬢さんは人見知りなんだ」
あれが人見知りの範囲で収まる態度かと思ったが、神田が気にしていないようなので真人も気にしないことにした。揉め事を起こすのも面倒だったし、母からもお達しが来ている。それに、良い子にしていないとカタシロ様に帰してもらえないらしい。
「……そうですか」
どうせ一週間の付き合いだ。そう思った時だった。
「東京モンねェ」
男の声が聞こえてくる。茶色に染めた髪をワックスで立たせた、いかにも遊んでいそうな風貌の男だ。真人と同い年くらいだろう。
「なんでわざわざこんな田舎の村にまで来たんだァ? 向こうでヤバいことでもしたとか?」
「……ヤバいことって?」
男の言動に腹が立ち、思わず睨みつけてしまう。視界の端で神田が、真人と男とを心配そうに見ている。それでも男はお構いなしにヘラヘラ嗤った。
「色々あんじゃん。イジメだのヒボーチューショーだの」
「ちょっと久世、止めなって」
男の隣に座っていた金髪の少女が顔を上げ、男を制止した。久世と呼ばれた男は、それでもニヤニヤ笑っている。
「気になんじゃん。オレはいつでもネタを求めてんだからさァ」
「ネタって……」
「オレのこと知らない? 動画配信見たりしねえの? ほら、暴露系とかいんだろ?」
久世が首を傾げてくる。
「AMAって名前で活動してんだけど……」
真人は首を左右に振った。アマ、という名前にも聞き覚えが無かったし、動画配信はもっぱらゲームの実況ばかりしか見ていない。口ぶり的に久世は暴露系、というか迷惑系配信者の類だろうから、真人の知らない畑の人間だ。
「まあいいや。オレは久世周。チャンネル登録して再生数に貢献してよ」
「……ああ、うん」
絶対してやらねえ。真人は内心そう固く誓って、代わりににこやかに微笑む。
険悪な雰囲気を察したのか、久世の隣に座る半袖姿の少女が微笑んだ。
「あたしは白石涼花。高二。久世とは……腐れ縁ってやつかな。でこっちが……」
涼花と名乗った少女が、部屋の隅に座っていた少女を示した。涼花や紫陽花に対して、その少女はボーイッシュな印象を受けた。黒い髪は肩口で切りそろえ、服装もジーンズだった。
「……」
彼女は真人を一瞥し、すぐに視線を逸らした。その様子を、涼花が苦笑いしながら見つめている。
「本郷海春ちゃん。『海』に『春』って書いて『みはる』って言うんだって。可愛いよねぇ」
代わりに涼花が彼女の紹介をした。海春は、ずっと黙りこくっている。これがデフォルトなのか、誰も彼女に何も言わない。
「でそっちにいるのが……」
言いながら涼花は、海春から少し離れた先に座っている少年を示した。彼は真人と目が合うと、パッと視線を逸らした。眼鏡をかけた、大人しそうな風貌の少年だ。真人より年下だろう。まだ中学生かもしれない。
「……い、五十嵐和希です」
五十嵐は震える声でそう言って、両手の指を絡ませていた。
「二人は中学生なんだって」
予想通りだ。
「よろしく」
真人は二人に向かってそう言った。五十嵐とは相変わらず目が合わず、海春からは無視される。
このメンバーで、盆の間、上手くやっていけるのだろうか。
不安ばかりが募っていく。
このメンバーの中で一番まともそうなのは神田に見えた。久世は言動からしてヤバそうな男であり、関わらない方が賢明だ。紫陽花は関りを拒んでいるように見える。それは海春も同じだ。五十嵐という少年からも怯えられているようだし、涼花という少女は明るすぎて、ずっと話しているのは疲れそうだ。
親切に接してくれ、話していても疲れないのは、神田だけだろう。
「俺は、何をしたらいんでしょうか」
消去法で、一番関わりやすそうな神田に声を掛けた。神田は顎に手を当てて考え込む素振りをする。だが特に何も閃かなかった様子だ。
「真人くんは来たばかりだし、まだお願いすることはないかなあ。今日の分はみんなが来る前に俺とお嬢さんでやっておいたし。明日になったら本格的にお手伝いしてもらうけど」
「……手伝いって……何の手伝いですか? 俺、お寺のこととか全然知りませんけど」
考え込む真人に、神田がにこやかに笑いかけてくる。
「大丈夫だよ。そんなに大変なことは頼むつもり無いし。お祭りのお手伝いくらいだからさ」
「ああ、聞きました。もうすぐお祭りがあるって」
真人は、バスの運転手から聞いた話を思い出していた。片白村では盆の時期に祭りを行うらしい。カタシロ様を祀るらしいが、詳しいことは母からも聞かされていなかった。
「片白祭ね。とはいっても飾り付けとか、しまってあるものを出すとか、当日の準備とか、それくらいだけど」
「……屋台とかは、無いんですか?」
真人は開け放された縁側から、庭先を見た。広い庭には、あちこちにアジサイの花が咲いており、離殿と本堂も見渡せる。しかし、それ以外に目立ったものは見られなかった。屋台があるなら、今頃骨組みらしいものがあるはずだ。
「ああ、夏祭りみたいな?」
真人の言葉に神田がくすりと笑った。
「それも良いよね。でも、片白祭はカタシロ様をお祀りするものだからね。質素だよ」
そんなものなのか、と真人が考えているときだった。
がらがらと襖が開いて、住職が顔を出してきた。どこかに出掛けるらしく、何やら荷物を持ち、作務衣から法衣に着替えていた。
「みなさん、今から出掛けますので、その間仲良くしていてくださいね。紫陽花、留守を頼みます」
「はい」
紫陽花が小さく頷くと、住職は満足そうに襖を閉めた。遠くの空から、チャイムのようものが聞こえてくる。
「……もう五時か」
神田が呟いた。と、同時に紫陽花が立ち上がる。紫陽花は真っ黒なワンピースを翻して、真人たちの方を振り返った。裾から、白いレースがふわりと揺れた。
「……夕飯」
紫陽花はそれだけ言って、襖を開けてどこかに行った。
東京を出たのは昼前だったが、電車を乗り継いでいるうちにすっかり夕方になっていたらしい。夏は日の入りが遅いため、時間感覚も曖昧になってくる。
「住職さんはどこに出掛けたんですか?」
「ああ、檀家さんだよ」
神田の話では、お盆の時期になると、住職は檀家を回って読経をしているそうだ。
「こんな夕方に出掛けるのは珍しいけどね」
神田が不思議そうに言う。真人は寺のことなど何も知らないので、そんなものなのかと納得した。
寺に預かられているとはいうものの、特に決まりがあるわけでは無かった。料理は紫陽花を筆頭に、涼花と海春が手伝っている。台所はさほど広くないため、真人たちは神田の指示を受けながら座敷の準備をしていた。
押し入れから七人分の座布団を引っ張り出し、宴会場のように、七人分のローテーブルを並べていく。その間も久世は手伝う素振りを見せず、ずっとスマホを眺めていた。
「あ、あの、お手伝い、しないんですか……?」
久世に声を掛けたのは五十嵐だった。意外だなと思いながら、真人は作業の傍ら二人の様子を眺める。五十嵐は真人にすら怯えていたから、久世に声をかけるとは思わなかった。真人すら、久世のことは関わりたくない人種だと思っているというのに。久世はスマホから顔を上げて、五十嵐をじっと見た。久世は何か言いたげに口を開いたが、すぐに口を噤んだ。誰かが来たからだ。
座敷に足音が近付いてくる。すぐに襖が開いて、紫陽花が顔を出してきた。ゴシックロリータの重そうな服を着ているけれど、足音は静かだ。装飾の音も聞こえない。紫陽花は真人たちを一瞥すると、神田に目を向けた。
「神田さん、門を閉めてきてくれない?」
「もうそんな時間?」
神田さんが座敷の柱にかけられた時計を一瞥する。真人もつられて時計を確かめた。五時のチャイムが鳴ったばかりだからまだ六時にもなっていないだろう。寺の門はこんなに早く閉められていただろうか。それには神田も不思議そうな顔をしている。だが紫陽花は目の前で不思議そうな顔をしている男二人を特に気にした様子もない。
「さっき父から連絡があったの。予定が出来たらしく、今日は帰って来ないそうだから」
「なるほど。じゃあ……葉山くん、一緒に来てくれる?」
「はい」
どうして自分が指名されたんだと思ったが、これも手伝いの一環なんだろう。それに部屋の空気は少し重い。紫陽花が入って来なければ、きっと久世は、五十嵐を煽るような発言をしてただろう。神田も、そう思ったのだろうか。
神田が部屋から出ていくから、真人も後について行った。平屋を出て、山門へと向かって行く。離殿と本堂の間を抜けながら、真人は口を開いた。
「……住職さん、帰って来ないんですね」
「お盆で忙しいみたいだからね」
確かに盆の時期は、寺にとって繁忙期なのだろう。この村に寺は片白寺だけのようだし、坊主も住職だけだ。一人で回らないといけないのは色々不便だろう。
開け放されている門に近付く。神田が開かれた扉を引いて閉めはじめた。重そうな音が響く。石段の下には、片白村が広がっていた。夕暮に染まる片白村は、のどかな田舎の風景だ。
じわりと熱を孕んだ風が吹いてくる。
「……そういえば、こんなに自然がいっぱいなのに、蝉っていないんですね」
なんとなくそう聞いてみる。この村に来てからというもの、夏だというのに蝉の声が聞こえない。
神田は黙って耳を澄ませた。そうして考え込む素振りをした。
「確かに……東京は蝉鳴いてるの?」
「喧しいくらい」
神田が不思議そうな顔をする。
「そうか、東京の方が鳴いてるのか」
そうまで言われると、本当に今の状況がおかしいような気がしてくるから不思議だ。ただ蝉が鳴いていない、ということがとんでもなく不吉なことの前触れに思われる。
何か、嫌な予感がする。
真人はひとつ身震いをした。
「もう行こうか」
神田がそう言って、踵を返す。
「閂とかしないでいいんですか?」
真人は閉められた門を振り返りながらそう尋ねた。
「ああ、しなくていいんだって。門を閉めるのは形だけらしい。ここは田舎だからね」
また、神田が微笑んでくる。
「そうなんですか」
真人はそれ以上何も聞かず、神田に続いて本堂に戻った。
平屋の玄関を開けると、美味そうな匂いが漂ってきた。味噌汁だろう。座敷に向かうと、すでに七人分の食事が用意されていた。すでに他の五人は座布団に座っている。真人は空いている隅に座った。目の前にいるのは久世と涼花だ。隣に神田が座る。
白米に、たくあん、湯豆腐に味噌汁と実に質素な料理だ。精進料理というらしい。
「そうだ、片白祭って具体的に何するんです? 準備って?」
全体に問いかけてみたが、皆食事に目を落としている。
「この村には『カタシロ信仰』ってのがあんだよ」
返答してくれたのは意外にも久世だった。
カタシロ信仰、といわれると、実に田舎の迷信めいている。そう思いつつも真人は久世の話に耳を傾けていた。母は何も教えてくれなかったし、住職たちも説明をしてくれる気は無いようだ。だが、久世の隣に座っている涼花は興味を持ったようだった。
「カタシロ信仰ってあれでしょ? カタシロ様が守ってくれるってやつ」
「そうそう! 村の入り口にある祠とかは全部カタシロ様を祀ってるものってやつな」
久世が高いテンションでそう言った。真人は村に来た時の様子を思い出していた。確かにバス停から歩いてきたときにそれらしいものを見かけた覚えがある。
「ああ、あの木でできたやつ?」
「……見たの?」
尋ねてきたのは紫陽花だった。驚きながらも、真人は頷きを返す。
「はい。来るときに。木のお社みたいなやつの中に、お手玉が三つくらい重なってて……」
「そう」
「そのお手玉みたいなのが、カタシロ様なんですか?」
「……私は詳しく知らない。ただ、好奇心は身を滅ぼす」
紫陽花がぴしゃりとそう言って味噌汁を飲み始めた。それ以上は詳しいことを聞けそうにない。代わりに説明を引き継いだのは、やはり久世だった。
「カタシロ様ってのは人形なんだよ。お前もここに来るとき身代わり持ってきたんだろ? 片白寺ってのは人形供養の寺だからさァ」
「ああ、だから……」
「かつて持ち主に捨てられた人形が、人間に恨みを持ったことがあるんだよ。それをこの寺の住職が供養したことで善の心を持つようになって、この村の守り神になったらしい。だから今でもこの村では形代様を信仰してるってワケ」
「良く調べてるのね」
また紫陽花が口を開いた。嫌味に聞こえたが、久世はヘラヘラと笑ってみせる。
「情報網はあるからなァ。で、そのカタシロ様っていうのがこの寺に祀られているらしいんだよ。東京クンも気になるか?」
「それは……」
「絶対に探さないで!」
紫陽花が大きな声を上げた。突然のことに、久世も面食らったようだった。
「な、なんだよ……」
「……良いから」
「ちッ、萎えるわァ」
久世がガシガシと頭を掻いた。隣にいる涼花が肘で小突く。
「余計なこと調べたりしないほうが良いよ。それが原因でアンタ謹慎してるんでしょ」
「……配信者、なんですよね。AMAさん」
切り出したのは五十嵐だった。それまでずっと黙っていただけに、突然の発言は意外だ。それに、AMAこと久世は暴露系配信者らしく、涼花の言葉も参照すると、相当危ない配信をしている様子だ。そんな彼の配信を、大人しそうな五十嵐が知っているとは。意外に感じたのは久世も同じだったらしい。
「お前、俺のこと知ってんの?」
目を丸くしながら、五十嵐に問いかけている。
「良く動画、観てました。過激なネタが多かったですけど……」
五十嵐の返答に、久世はみるみる表情を綻ばせていく。配信者であることを自慢に思っているらしい彼にとって、偶然知り合った人間がリスナーだったという状況は、まさに感動的だっただろう。
「せっかくだし自己紹介しようぜ」
機嫌が良くなってきたのか、久世はさらにそう提案してきた。
自己紹介なんてさっきしただろ、と真人は思ったが、向かいに座っていた涼花が「賛成!」と表情を綻ばせて乗っかる。
「改めて、あたしは白石涼花。高校二年生で久世とは保育園からの腐れ縁」
「クラスひとつしかないからなァ」
「田舎だもん。あたしと久世は隣の村から来たんだけど、真人くんはなんでここに来たの? 東京からでしょ?」
急に話が振られると思っていなかったから面食らってしまう。真人は俯いたまま、みそ汁に目を落とす。
「……ばあちゃんがここの出身らしくて……それで」
「それでなんで片白様に預けられんだよ。何やらかした? ネットニュースになってる? 炎上してバズった?」
久世が意気揚々と尋ねてくる。まるで掴かるような勢いに気圧される。
「それはアンタでしょ」
「え?」
「久世、動画配信してるんだけどそれで炎上したんだ」
涼花が呆れ気味に息を吐き出して、肩を竦めた。
「酷いよなァ。俺はちょ~っと面白いことやっただけなのに」
対して、当の本人はさほど気にしていない様子だ。
「な、何したんだよ」
「ちょっと配信やりすぎただけ。別に気にするようなことじゃねえよ」
「誰彼構わず喧嘩吹っ掛けて、ありもしないことを暴露ネタですって言って炎上したの。それで謹慎処分を受けて、配信できない間ここに送られてるってわけ」
「そういうお前だってパパ活してたのが姉ちゃんにバレて送られてんだろうが。良い子ぶるんじゃねえよ」
「……うるさい」
久世からの反撃に、涼花はそれ以上彼に何か言うのをやめたようだ。代わりに真人の方を見る。
「真人くんが送られた理由は?」
涼花からの問いかけに、真人は俯いた。味噌汁の椀を持ち上げて、箸でかき回す。暗い顔をした真人が水面に映っている。
「俺は……まあ、ずっと引きこもりだったから、かな」
「つっまんねーの! いじめたとかいじめられたとか、不正入学したとかねえの?」
「悪かったなつまんなくて」
久世の言葉に突っかかってもしょうがない。真人はそれだけ答えて、味噌汁を飲み干した。
「で、他の奴らはどうなんだよ。お嬢サマは分かってるから良いとしてさ」
「海春ちゃんと和希くんって中学生でしょ? ここに送られてくるって……」
涼花が口を噤んだせいで、場には妙な空気が流れた。涼花が勘繰りたくなるのも分からなくはない。中学生で、寺に預けられる、と聞けば、よほどのことをやらかしたと思いたくもなる。だが、中には真人のような理由で預けられている場合もある。
特に誰かが口を開くわけでもなく、静寂が流れていく。その静寂を破ったのは当の本人だった。
「……本郷海春。中学二年生。男が嫌。でも直しなさいってここに来た」
細切れのような言葉で、海春が淡々と告げる。しかし、彼女の発言に、真人は首を傾げた。
「ここに預けられるのって問題児なんですよね? 男嫌いってだけで?」
「……」
海春は何も答えない。ファーストコンタクトの時から真人に何の反応も見せなかったのは、ひとえに彼女が男性嫌いだからなのだろう。全くと言っていいほど目が合わない。
「えっと……海春ちゃんは男が嫌いだからって理由だけで預けられたの?」
全く同じ質問を、今度は涼花が投げかける。
「……うち、町の中学に通ってる。共学の。夏休みに入る前、男子を本で殴った」
「ありゃ」
女性からの質問には、ちゃんと回答するようだ。
「なァんかあったなァ。そいつ、脳震盪起こしてぶっ倒れたんじゃなかったか? 階段から落っこちてどうのって聞いたけど」
久世がペラペラ語り出す。さすがに情報網があると豪語するだけある。
「……」
しかし、海春は頑なだ。頑なに真人たち男との会話を避けている。今だって涼花の隣で黙々と食事を続けていた。
「な、なんで殴ったとか、聞いても良い?」
「……急に話しかけきたから」
やはり海春は女性からの質問には答えるようだ。
「そんだけの理由で?」
「ちょっと久世!」
口を挟んだ久世を、涼花が小突いた。また、妙な空気が流れる。
「五十嵐くんは?」
涼花が気まずそうに、黙々と食事を続ける五十嵐に話を振った。
「は、はい……い、五十嵐和希です。中学二年生で、本郷さんとは、別の中学に通っています。深山の……」
「マ? 深山に通ってんの? めちゃめちゃ頭良いんだ!?」
深山、と聞いて、涼花が目をキラキラ輝かせた。紫陽花や久世たちも驚いているように見える。真人が首を傾げていると、隣で神田が耳打ちしてくれた。
「深山は深山中学のことだよ。私立校なんだ。ここからだと車で一時間くらいかかるかな。確か」
「へえ」
つまり五十嵐は地元で有名かつ偏差値の高い私立校に通っている、ということだろう。だが当の本人はぶるぶる首を振っている。
「……いえ……。僕は、たまたまで……こ、ここに来たのは……」
そう言って、五十嵐は俯いた。離れている真人にも、五十嵐が緊張して震えているのが伝わってくる。
「良いんだよ無理に言わなくても」
涼花が優しく声を掛ける。だが、五十嵐は首を振った。
「ぼ、僕は……できそこないなので……だからここに来たんです……」
五十嵐は絞り出すようにそう言って、はぁっ、と息を吐き出した。一仕事終えたような様子だ。
気になる部分は多々あるが、涼花も、久世も、他のメンツも、特に詳しいことを聞こうとしなかった。
「聖生さんも気になります」
涼花が今度は神田に話を振った。確かに神田は、物腰が柔らかく、何かをやらかして寺に預けられるような人物には見えない。
「俺は……その、ね?」
神田は誤魔化すように笑っている。
「なんだよ、言えねえって?」
噛みついたのは久世だった。彼を、涼花が宥める。
「いや、神田さんって片白寺にずっといるんだよ? お坊さん目指してるとかかもしれないじゃん。うちらみたいなやらかし組じゃなくて」
そのやらかし組に自分も入っているのか、と真人は思ったが、実際預けられてしまっているので何も言えない。
「俺は知ってるけどなァ。神田の兄さんがそんな良い奴じゃないって」
久世がヘラヘラ嗤う。隣で神田が息を飲んだのが分かった。
「まあまあ、二人とも落ち着いてさ」
神田が嗜めようとするも、涼花も久世も聞く耳を持とうとしない。
「神田さんは久世とは違うし、どうせお得意のでっち上げでしょ」
涼花の言葉を、久世がせせら笑った。
「俺はちゃんと反省してんだ。確かに適当言って配信してたから嘘だのでっちあげだの言われたからな。だから、これは本当のことだ。神田の兄さん、人殺したからここにいるんだろ」
「……どうしてそれを?」
神田の声が、低くなった。それまでの空気から一変して、場がピリつく。
神田が人殺し?
神田の顔を盗み見る。そこには人の良さそうなにこやかな笑みは無くなっていて、鋭い眼差しで久世を睨みつけていた。思わず背筋が伸びる。向かいにいた涼花はそれまでの明るい様子か一変して俯き、黙々と豆腐を食べている。五十嵐も、背を縮こませていた。真人だって、今の神田は怒っているように思える。紫陽花と海春は怯えた様子が無いけれど。
「どうしてって、おかしいと思ったから調べたに決まってんだろ? お嬢サマならともかく、関係ないやつが寺に住み込みなんてさ。そんで色々調べたらヒットしたんだなあコレが」
久世がスマホの画面を拡大して、畳に放った。思わず覗き込む。ネットニュースの記事だ。八年ほど前のものらしい。
『小学生の長男、両親を殺害か?』
インパクトのある見出しに思わず息を止めてしまう。
「隣村で小学生の長男が両親をめった刺しにして殺したってニュースだ。八年前ってことは、これアンタだろ? 妹も殺したかもしれないともある。三人も殺ったのか?」
まるで鬼の首でも取ったように誇らしげに久世が笑った。その瞬間、バン、と隣で大きな音が立った。神田がテーブルを叩いた音だ。
「違う! 茉莉はあいつらに……!」
「マリは、ってことは親殺したのは認めるんだな」
「それは……」
「待ってよ!」
がたん、と大きな音を立てて、涼花が立ち上がった。
「ホントに人殺しってこと!? そんな人と一緒にいれるわけないじゃん!」
そう叫ぶなり、涼花は真人たちの横を走って行った。
「ちょっと……」
引き留めようと声を掛けたけれど、涼花は大きな音を立てて襖を開けて、廊下を走って行く。玄関の開く音が聞こえた。
座敷はしんと静まり返っている。
「はは、逃げてくとかヤバすぎんだろ!」
久世だけが笑っている。
「マジで面白いことになりそうじゃん!」
久世はスマホを操作して、また嗤うと、涼花を追いかけて座敷から出て行った。
「もしかして……離殿の方に行った? 門はもう閉めたんでしょう?」
紫陽花が慌てた声を出しながら神田に尋ねる。
「……閉めました」
神田の声には覇気が無い。
「……離殿に行かないと!」
紫陽花が声を荒げた。ゴスロリ服のまま廊下に飛び出す。つられた様子で海春も立ち上がり、部屋から出た。
「……あの、探しに行きますか……?」
どうしたらいいか分からず迷っていると、神田と目が合った。神田は眉を下げて、寂しそうに笑った。
「俺はパスするよ。今会うと面倒なことになるだろうし」
「そうですか……」
神田が真人を見ている。真人は五十嵐の言葉に頷いた。玄関を飛び出して、境内に出る。もう陽は落ちていて、辺りはすっかり暗くなっている。
五十嵐と共に、紫陽花たちの後を追いかける。辿り着いたのは、昼間住職に連れて来られた離殿だ。靴を脱いで、木製の階段を上がる。重い扉はすでに開かれていた。覗き込んだ瞬間、息を飲んだ。そこに広がっていたのは、無数の人形が並べられている光景だった。手前には、真人が納めたウサギのぬいぐるみが座らされていた。目の前には仏壇のような物が置かれ、その手前に置かれた台に木の箱らしきものが載せられている。
そんなおびただしい場所の中央で、涼花が膝を抱えて座り込んでいた。金髪が、月明かりに良く見える。涼花は真人たちに気付いて顔を上げた。
「ダメでしょう、離殿に勝手に入ったら!」
紫陽花が真っ先に飛び込んで声を掛ける。
「ごめん、あたし……」
「良いから早く戻りましょう」
紫陽花は涼花を立ち上がらせると、出口まで向かい、外廊下にやってきた。と、入れ違うように離殿の中に久世が飛び込んだ。
「やっぱり噂は本当だったんだ!」
久世が弾んだ声を上げながら離殿の中に入っていく。その手にはスマホが握られていた。
「ちょっと、」
「『どーもAMAっす! 今日はウワサの真相を確かめるためにあの片白寺にやってきたぜ』」
配信してるのか? この状況で?
真人は久世を止めようと近付いたが、カメラを向けられ、手で退くように指示された。久世に手で制止され、真人も、海春も、五十嵐も、眺めているしかなかった。久世はずかずか本堂の中に入っていく。
「あんた、何してんの?」
そう声を掛けたのは涼花だ。しかし久世は気にした様子もない。
「お前も映るかァ? 生だけど」
そう言われ、カメラを向けられると、さすがに涼花も飛びのいてしまった。久世はなおも並べられたぬいぐるみたちをカメラに収めながら、何か感想を言っているようだ。
「『で、これが噂の箱っすね! マジで今から閲覧注意っす!』」
久世が笑い、仏壇の前に置かれた長机に近付いた。そこには木箱が置かれている。
久世の手が、木の箱に伸びる。箱が、開けられた。
「ん? なんだよ」
久世が首を傾げる。それも無理はない。箱の中身は空っぽだった。
「ダメ! 今すぐしまって!」
紫陽花の叫び声が響いて、彼女が離殿の内部に掛けてくる。紫陽花は顔を歪ませながら長机に手を突き、久世の手から蓋をひったくった。蓋でカメラを塞ぐようにしながら、久世に迫る。
「今すぐ配信やめて!」
紫陽花のあまりの形相に、久世も気圧されたようだった。久世は最初蓋をスマホでどかそうとしていたが、息を吐き出してスマホを閉じ、蓋を閉めた。紫陽花が、ほっと息を吐き出したのが分かった。
「紫陽花ちゃん? どうしたの?」
涼花が紫陽花に尋ねる。紫陽花は首を振った。
「もう戻りましょう」
紫陽花がそう言って、スカートを翻した。
騒動の後、真人たちは涼花を連れて平屋へと戻ってきた。
座敷に顔を出すと、待っていた神田がほっと表情を綻ばせた。
「良かった、みんな無事だったんだね」
神田の言葉に、しかし紫陽花が首を振る。
「いえ、箱を開けられた」
「……カタシロ様の箱を!?」
神田も大きな声を上げた。そうして、取り繕うように、ひとつ咳ばらいをした。
「やっぱあの桐箱がカタシロ様の箱だったのかァ。もうちょっとで全世界に配信して登録者ウナギ上りだったのにさァ」
一人だけ、久世は先ほどと同じ調子でけらけら笑っている。カタシロ様のことについて何も知らない真人でさえも、さすがに何か禁忌を犯したのだろうことくらい分かる。
紫陽花が廊下に姿を消し、すぐに戻ってきた。
「だめ。父は帰ってこれないみたい」
紫陽花が首を振った。
「用事が長引いているとかで……」
「何があったんですか? 箱って……何も入ってなかったけど」
二人の様子を見ながら、真人はそう尋ねてみた。だが、返答は明後日の方向からあった。久世だ。
「カタシロ様を封印してるって言われてる箱だ。まさか空っぽだなんて思わなかったけどなァ」
「封印って……」
真人は言葉を失った。その話が本当なら、神田や紫陽花が慌てるのも無理はない。
立ち尽くしている五人に、神田が困ったように笑いかけた。
「話さないといけないことはたくさんあるんだけど……ひとまず俺の話をするよ」
座るよう促され、真人たちはその場に腰を下ろした。
「みんなとは一週間一緒に生活するからね。久世くんの見せてくれたニュースは本当。俺の起こした事件のことだ。両親を殺したのは八年前、十歳のころ。俺には下に妹……茉莉がいたんだ。あの子はまだ、四歳だった。きっかけは父の事業が失敗したこと。片白村の隣で小さな店を経営していたんだけど、破産した。それから、父は酒に溺れて、母は癇癪を起すようになって俺たちを殴るようになった」
神田は、淡々とした調子で語る。まるで何度も、そう話したことがあるように。
「それで、あの日、茉莉が浴槽に浮いていたのを見つけたんだ。水が張られた浴槽に、服を着たまま。お気に入りのぬいぐるみを持った状態でね。首を絞めると、痕が残るって知ってる? 鬱血した痕が残ってた。俺は慌てて茉莉を風呂から引き揚げた。でも冷たくて、固まってて。あの人に助けてくれって頼んだら……。あの人たちの虐待のせいで、茉莉が死んだんだ。だから殺したんだよ」
そこまで話して、神田はまたいつものように柔らかい笑みを浮かべた。だが、今は神田のことをただの優男とは思えない。それは彼が人を殺めたことがあるからではなく、彼が暗いものを抱えていたと知ったからだ。
「同情してほしいわけじゃない。茉莉が喜ばないだろうことも知ってるよ。現にあの子は殺人鬼の妹になってしまったからね。でも……許せなかったんだ。茉莉を殺したくせにヘラヘラ生きてる両親も、あの子を助けられなかった自分も」
「……ごめんなさい!」
神田の話を遮るように、涼花が深々と頭を下げて謝罪した。
「あたし、何も知らないで一緒に居られないなんて言って飛び出して……」
神田は一瞬目を瞠って、そうして涼花に笑いかけた。
「白石さんの思ったことは正しいよ。俺だって、人を殺したことがある人間が一緒にいたら怖いと思うし」
「そっち側の人間が言ったって説得力ねえぜ、兄さん」
場の空気を壊すように、久世が口を開く。
「元はと言えばアンタが余計なこと言うからでしょ! 離殿のなんかヤバい箱も開けちゃうし!」
涼花と久世がまた言い合いを始める。パンパン、と手を鳴らす音が響いた。
「もう寝ましょう。明日も早いから。寝る場所は……」
そう言って紫陽花が海春を一瞥した。
「男女で分けましょう。この部屋、仕切り襖があるから、それで二部屋に分けようと思うのだけど、問題はない?」
紫陽花が海春に尋ねる。彼女がひとつ頷いた。
女性陣が食器を片付けている間に、真人たちは押し入れに座布団とテーブルを戻して、代わりに布団を取り出した。
「……お布団、六組でいいんですか?」
五十嵐が声をかけてくる。押し入れから取り出されたのは六組の布団だ。一人分足りない。
「ああ、いいよ。俺は自室で寝るから。その方がみんなも安心だろ?」
神田がそう言いながら笑った。
神田が人を殺したなんて、真人にはまだ信じられなかった。だが、神田の話は本当なんだろう。人を殺すのは良くない。それは当たり前のことだが、もし自分が幼い妹を両親の虐待で亡くしたら。神田と同じ立場だったらどうしただろう。だが、兄弟がいない真人に、妹のことを考えるなんて難しい話だった。
でも、俺も、親を殺したいと思ったことはある。
なんて、本当に親を殺した神田の前では口が裂けても言えないけれど。
結局神田だけ自分の部屋で眠り、真人は久世と五十嵐と同室で寝ることになった。襖を隔てた先では、紫陽花と涼花と海春が一緒に寝ていた。
深夜を回り、物音がしなくなった頃。静まり返った廊下を、神田は足音を忍ばせながら歩いていた。洗面所の扉を開ける。先ほどまで誰かが使っていたらしく、少し熱気が残っている。換気扇の回る音が聞こえる。
他の子どもたちの後に風呂に入ろうと思ったのは、今日の騒動があったからだった。少年院を出てから久しぶりに自らの罪を吐露した。本当は隠し通すつもりだったが、そういうわけにもいかなくなってしまったからだ。
だが、不思議と肩の荷が下りた気分だった。両親を殺害したことに、後悔は無かった。茉莉を守るためならなんでもしたかったし、生きている両親を見ているのは苦痛だった。次は自分が殺される、と怯えるのもこりごりだった。だから後悔はしていない。院の中で、十分反省はしたけれど。
だから普段は人を殺したことなんて、吐露することはなかった。今回はイレギュラーだったとはいえ、本当はあの場で否定しても良かった。だがそれをしなかったのは、今までと違う空気を感じたからだったのかもしれない。特に東京から来た真人という彼は、神田が両親を殺したと知ってもなお、歩み寄ろうとしてくれた。それだけで、十分な気持ちだった。
洗面所の鍵をかけ、服を脱ごうとした時だった。
嫌な空気を感じていた。まるで誰かに背後から見つめられているような、そんな気配だ。カタシロ様の封印が解かれたと聞いたからだろうか。怪談話を聞いた後、誰かに見られている気配がするというのは定石だ。それとも、心臓がこんなに喧しく鳴り、感覚がやけに研ぎ澄まされて感じられるのは、久しぶりに八年前の話をしたからだろうか。茉莉の話をしたからだろうか。
『マサにい』
どくり、と心臓が鳴り、神田は脱ぎかけていたシャツのボタンを握りしめた。
幼い少女の声が聞こえた。聞き覚えのある、少女の声だ。舌足らずに自分のことをそんな風に呼ぶのは、あの子しかいない。
普段なら、聞き間違いか何かだと思っただろう。しかし、神田は振り返った。
きっと、自分の罪を告白したからだった。茉莉のことを忘れた日は一度たりともなかったが、彼女の話を誰かにしたのは本当に久しぶりなことだった。
だから、振り返ってしまった。
「――ッ!?」
そこにいたのは、ぬいぐるみだった。二本足ですっくと立ち、まっすぐ神田を見つめているクマのぬいぐるみだった。茉莉の大切にしていたぬいぐるみだ。クマの黒い瞳に見つめられ、神田は足がすくんで動けなかった。浴槽にうつぶせで浮かんでいた茉莉が、ずっと抱きしめていたぬいぐるみ。片白寺に預けられた時から、ずっと形代殿に預けていたはずだった。
それが、どうしてここに?
そう考えたところでもう遅かった。突然、ぬいぐるみの顔が間近に迫った。目はつり上がり、口は耳元まで引き裂けている。あ、と思った瞬間には視界が真っ暗になった。
『マサにい、なんでたすけてくれなかったの?』
「まり、ちゃ……」
息が苦しい。全身が焼けるように熱い。
神田の意識はそこで途切れた。
鐘の音とけたたましいアラームの合唱に、真人は顔を顰めながら目を覚ました。時刻は七時。寺と言えばもっと早起きなイメージがあったが、ここは違うらしい。
目を擦りながら身体を起こす。枕元に置いていたスマホを手に取ろうとした時だった。視界に、ウサギが映り込んだ。黄ばんでいて、ところどころほつれている、祖母の作ったあのぬいぐるみ。
目を擦って、もう一度枕元を見る。でもそこにはスマホが置かれているだけだった。気のせいだ。だってあのぬいぐるみは、住職さんに預けてある。形代殿に身代わりとして供養されているはずだ。一人で動くわけでもあるまいし。そう思って、俺は昨日の出来事を思い出した。形代殿に置かれていた桐箱を開けてしまった。開けてはいけないと言われている桐箱だ。あの紫陽花が慌てて止めて、話を聞いた神田も取り乱すくらいの出来事だ。もしかしてとんでもないことをしてしまったのかもしれない。
「あの……そろそろご飯の時間ですよ」
五十嵐が遠慮がちに真人に声をかけてくる。
「ああ」
立ち上がって布団を畳む。仕切りになっている襖を形ばかりノックする。
「あいつら飯作ってるぜ」
久世が声をかけてきた。
真人は遠慮なく襖を開ける。広くなった座敷に、五十嵐が座布団を並べていく。朝食もこの座敷で食べるようだ。
「男ども~!」
明るい声が響き渡り、座敷の襖が勢いよく開いた。顔を出してきたのは涼花だ。涼花は襖を見回して、首を傾げる。
「あれ、神田さんは?」
部屋を見回して不思議そうに声をかけてくる。確かに朝から神田の姿を見ていない。別室で寝ていたから当たり前だろう。
「まだ起きてないとか?」
涼花の言葉に紫陽花が首を振る。
「……あの人はいつも早起き」
「早朝ランニングしてるとか」
「まさか」
淡々と紫陽花が否定するせいか、涼花はそれ以上何も出てこないようだった。代わりに真人が尋ねる。
「神田さんに何か用事だった?」
「門を開けてもらおうと思って」
「それなら俺が行ってくるよ」
昨日、神田と一緒に門を閉めていた。閂をしていないことも知っているから、開けるのはそう難しくないだろう。
「……じゃあお願いする」
紫陽花の言葉に頷いて立ち上がる。
「ご飯前にシャワー浴びてきて良い? メイクも直したいし」
真人が玄関に向かって廊下を歩いていると、背後から涼花の明るい声が響いた。
「平気。本郷さんもいてくれるし。ご飯出来たら呼ぶから」
「りょ~!」
涼花は元気よくそう言って、シャワーの支度を始めた。
山門までの距離はさほどない。すぐに門を開けて、真人は平屋まで戻ってきていた。平屋の引き戸を開けたその瞬間だった。
「きゃああ!」
絶叫が響き渡った。途端空気が張り詰める。
「……すずちゃんの声!」
真っ先に反応したのは海春だった。
「お風呂場!」
遠くから海春の声が聞こえてくる。真人もはっとして、風呂場に向かった。涼花に何かあったのかと、神田がどこに行ったのか。言い知れぬ不安が押し寄せて、洗面場までの廊下がやけに長く感じられる。一歩一歩進むごとに、妙な臭いが鼻を突く。鉄臭い臭い。
「……まさか、だって……そんなはず……」
洗面所の前では、紫陽花が立ち尽くしていた。
彼女の声が震えている。悲鳴と、血の臭いがするんだから当たり前だ。洗面所の前に来たものの、真人も、紫陽花も、みんな扉の前で固まってしまった。
「すずちゃん! 大丈夫!?」
海春が何度もノックして涼花に呼び掛ける。でも、中からは返答が無い。海春がドアノブに手を掛けた。その手も震えている。
「いんだろ? 開けんぞ」
遮るように久世が扉の前に立ちはだかり、ドアを開けた。洗面所では、涼花が座り込んでいるのが見えた。
「すずちゃんどうしたの!? 何があったの?」
慌てた様子で海春が涼花に駆け寄った。
涼花は怯えたような表情を浮かべて風呂場の摺り硝子を指差している。みんな、摺り硝子の向こうがおかしいことは気付いている。誰もドアを開けようとしない。
意を決してドアを開けようと立ち上がった時だった。
「もっとはっきり言えよなァ。それだけじゃ分かんねえだろ」
久世は相変わらずの様子でそう言って、躊躇う素振りも無く風呂場のドアを開けた。
ぶわり、と籠った空気が外に出る。熱を孕んでいて、鉄臭い。目に飛び込んできたのは真っ赤に染まった床タイルだった。浴槽に張られた水は真っ赤に染まり、ぷかりと何かが浮かんでいる。腕のように見える。
「うわァ、もしかして神田の兄さんか?」
久世の言葉に、心臓が凍り付く。認めたくない事実を突きつけられる。赤く染まった浴槽には、見覚えのある茶髪が浮かんでいた。
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