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第三章 衝突
紫陽花が白湯を持ってきてくれた。湯気の出ている湯飲みは、夏に不釣り合いに見えたが、今は丁度良かった。温かい湯飲みを両手で抱えるように持つと、少しずつ気分が落ち着いていくようだった。食事用のテーブルを紫陽花と海春と囲んでいると、五十嵐が顔を出してきた。寝る時のように座敷を二つに仕切り、もう片方では久世を休ませていた。
「もう、眠ったみたいです」
五十嵐の報告に、薄く安堵の息を吐き出して、真人は湯飲みに口を付ける。食道に白湯を流し込むと、強張りが和らいでいくように感じられた。
「贄って話は本当なの?」
口火を斬ったのは海春だった。真人は一つ頷く。
「久世を連れてくるとき、そう聞いた。俺たちはカタシロ様の贄だって」
久世を追いかけた時のことを思い出す。現れた村人は、真人たちを責め立てて、そう言ったのだ。
「僕たちは、どうしてここに、いるんでしょう」
五十嵐も白湯を飲みながら、俯きがちに呟いた。
「……更生かなんかで預けられてるんじゃないの?」
「そうですが……違う気もします。それこそ、生贄として、選ばれたのではないかと」
五十嵐の言葉を、否定できない。それは紫陽花や海春も同じようだった。重苦しい空気が流れ、息が詰まりそうになる。
「じゃあ、あの人が聞いた話っていうのも、怪しくなってくるね」
海春が呆れたように続ける。
「仮定だけど。村人たちは、うちたちをカタシロ様の生贄にしようとしてて、多分お寺から出したくない。だから久世さんや五十嵐に嘘を吐いた。寺にいれば安全って」
「寺から出したくない……ここでカタシロ様に殺されるのを待ってるってことか」
「仮定だけど」
海春が念押しするように繰り返す。だが今は、その説が一番有力に思えた。
「……カタシロ様は、本当に人間になりたいのかもしれない」
黙りこんでいた紫陽花が、ようやく口を開いた。
「……さっきの久世くん、おそらくカタシロ様に乗っ取られてた」
「さっきって、出ていく前?」
真人の言葉に、紫陽花が頷く。確かに久世の様子はおかしかった。目の焦点はあっておらず、訳の分からないことを口走っていた。そして、真人や紫陽花が詰め寄った時の怯え切った態度。今までの久世からはおよそ想像がつかず、何かがあったと考えるのが自然だ。
「体を返してって言ってたけど……」
紫陽花が小さな巾着袋を取り出した。その中から何かを取り出す。それは、茶色いぬいぐるみの片腕と、ミカちゃん人形の頭部だった。
「どうしたらいいか分からなくて、一応持ってた。これを探してたのかも」
「それは、どうしたんですか」
五十嵐が尋ねてくる。確か五十嵐は、遺体が見つかった時すぐに久世に連れ去られていた。詳しい情報共有ができていなかったようだ
「ああ、神田さんと涼花の遺体から発見されたんだ」
神田の左腕が見つからなかった代わりに、彼の右手がぬいぐるみの片腕を持っていたこと。涼花の頭部が無くなっていた代わりに、首の切断面に人形の頭部が差し込まれていたこと。そして、そのぬいぐるみと人形は、二人が身代わりとして寺に預けた物であること。
真人の説明を聞きながら、五十嵐は顎に手を当てて考え込む仕草をしていた。
そうしてぽつりと呟いた。
「……違う気がします」
「なにが?」
噛みつくように聞いたのは海春だ。彼女の視線と声音に押され、五十嵐が委縮する。
「い、違和感があるんです。体を返してって、いうのは、神田さんや、涼花さんみたいに、呪い殺すって、意味じゃないと……」
震える声で、彼が呟く。
「次はあーちゃんだってこと!? あいつじゃなくて!?」
海春が襖の向こうを指差した。その先にいるのは久世だ。
「落ち着いて。五十嵐、続けて」
「……だって、カタシロ様は、わざわざ遺体にぬいぐるみや、人形を、残したんですよね? どうして、そんなことしたのかなって……。離殿から持ち去った方が、良いはずです」
五十嵐の言葉に、真人も頷いた。
「確かに、人形を返してほしいって変だよな。元々カタシロ様にあげてるのに」
「……誰も人形は持ち出してないはずだけど……」
ちらりと紫陽花が襖の向こうを見た。確かに、と真人も思う。神田が殺害された時、真人は紫陽花たちと共に離殿に訪れていた。その時すでに、真人たちの預けていた身代わりたちは消えていた。誰かが、持ち去った可能性があるとしたら――。
「久世さんと一緒に行動してましたが、箱を開けて以来、一度も離殿には、立ち入っていません。寝ている間とかは、分かりませんが……」
五十嵐の言葉もしりすぼみになる。久世の行動が、いまいちわからない。カタシロ様のことを面白がっていたかと思うと、いきなり逃げ出そうとした。よほど怖い目にでも遭ったのだろうか。だが、詳しいことは久世に聞くしかないだろう。今はまだ無理そうだが。
真人は考え込むと、大きく頷いた。
「俺は、五十嵐の説を推すよ。カタシロ様は人間になりたいから、人間を襲って、体の一部を持って行ってる。で、奪った部位の代わりに、身代わり人形の一部を置いて行ってる」
紫陽花も納得したように目を伏せた。対して海春が首をひねる。
「久世さんが乗っ取られたのはなんで? あーちゃんを襲ったのは?」
「分かんないけど……」
「うん。分からないことがたくさんある。だから、調べに行きましょう」
紫陽花がにこりと微笑んだ。何か考えがあるようだ。その眼差しが力強く見える。
「調べるって?」
「本堂の奥に、書庫があるの。そこにならカタシロ様に関する何かがあるかもしれない」
「書庫か……」
それはいいアイデアかもしれない、と真人は考えた。真人たちは、カタシロ様について何も分かっていない。状況から仮説を立てているだけだ。書庫で何かしらの資料が見つけられれば、もしかすればカタシロ様の呪いに立ち向かう方法があるかもしれない。
だが、紫陽花の言う本堂は、真人たちが今いるこの平屋から少し離れた場所にある。それに、まだ夜中だ。五十嵐が、押し殺すように欠伸をした。紫陽花が、くすりと笑った。
「今日はもう遅いから、明日行動しましょう。もう、村の人たちの思い通りにはなりたくないから」
「そうだね」
紫陽花の言葉に同意して、立ち上がろうとした時だった。
「葉山くん? どこに行く気?」
なぜか紫陽花に引き留められる。紫陽花が首を傾げているが、真人も首を傾げた。
「えっと……もう寝るんですけど……」
突然のことに、真人は思わず五十嵐を見た。彼も驚いているのが分かる。
「ああ、ごめんなさい。葉山くんと五十嵐くんも、ここで寝た方が良いのではと思って」
「えッ!?」
紫陽花の提案に真っ先の驚きの声を上げたのは、真人たちではなく海春だった。ジトっとした眼差しで真人たちを見据えてくる。そういえば海春は男嫌いだった、と思い出す。初めて会った時は無視されるくらいだった。多少改善されているとはいえ、さすがに男と同室で寝るのは嫌らしい。
だが紫陽花は、隣で鬼のような形相をしている海春にお構いなしで続ける。
「今の久世くんと同室は、危ないでしょう。怪我をしているからって油断はできない。彼はカタシロ様に乗り移られたばかりだから」
「……そう、だけど……」
海春はそれだけ言って口を噤んだ。紫陽花の言うことはもっともだ。つい先ほどまで久世はカタシロ様に乗り移られ、紫陽花に危害を加えようとしていた。真人が止めに入らなければ、どうなっていたか分からない。このまま久世と真人や五十嵐が同室で休み、襲われない可能性が無いとも言い切れない。いくら本人が怪我をしているといっても、カタシロ様はそんなことを気にしてはくれないだろう。
「これ以上仲間を失うわけにはいかない。それこそ、カタシロ様の望んでいることだから」
「あーちゃんがそこまで言うなら……」
これ以上、反論できることはないらしい。代わりにじろりと睨みつけられる。目が合い、真人は苦笑した。
「俺たちは隅っこにいるからさ」
なあ、と五十嵐に目配せする。意図が伝わったのか、五十嵐もぶんぶん首を縦に振った。
「じゃあ、いいけど……」
それだけ言って、海春は紫陽花の影に隠れた。
紫陽花と海春が布団で眠り、真人と五十嵐は畳に雑魚寝する。目を閉じて、息を吐き出した。一日のうちに、多くのことがありすぎた。神田が殺され、涼花が殺され、カタシロ様に乗っ取られた久世が紫陽花を襲い、村人に騙されていたらしいことが発覚した。
結局未だ、カタシロ様の目的が分からず、カタシロ様から助かる方法も分からない。住職とも、連絡付かずだ。
〈夢が見つかったら一番にあたしに教えてよ〉
涼花の言葉が甦る。
何をすべきか、分からない。何が正しいのかも分からない。
それでも、前に進まなければならない。
それが、遺された者の使命だ。
そんな、ホラー映画の主人公のような前向きな決意を固めたのは、涼花との約束を思い出したからだ。
息を吐いて、吸う。
深呼吸を繰り返しているうちに、いつの間にか眠っていた。
翌朝、早々に朝食を食べ終えると、真人と海春は紫陽花に連れられて本堂に足を踏み入れていた。
久世はどうにか起き上がれるまでに回復していたが、まだ本調子では無いようだ。それに、カタシロ様に乗っ取られたこともある。念のため五十嵐に付き添いを頼み、平屋から出ないよう言いつけていた。
本堂は、離殿とは違う様相だった。板張りの廊下を歩くたびに、軋むような音が聞こえる。廊下は、本堂の中央部を囲むように造られていた。だが、中央部に繋がる扉はどこも閉ざされ、様子をうかがうことはできない。
「……ご本尊があるらしいけど、私も拝見したことない」
紫陽花が扉を一瞥してそう言った。
「ご本尊ってカタシロ様?」
海春の言葉に、紫陽花は首を傾げた。
「だと思うけど……それも良く分からない。でも、今から分かるかも」
そう言って、足を止める。廊下の突き当りに、下へ続く階段が伸びていた。その先に書庫があるのかもしれない。
紫陽花に続いて、海春が降りていく。真人は階段の手すりに手を掛けて、振り返った。本堂の扉は依然閉まっている。薄く息を吐き出して、真人も階段を降りて行った。
地下は埃臭い。立ち入る者が少ないのか、はたまた人手が足りていないのか、隅には埃がたまっていた。
螺旋状の階段を降りると、重厚そうな扉が目に入った。鍵などはかかっていないらしく、紫陽花が押しただけで簡単に開いた。壁際のスイッチを押すと、天井の電球が明滅した。その書庫には木製の棚がずらりと並べられ、書物がぎっしり詰め込まれていた。一歩踏み込むと、途端に埃臭さに咽た。古い文献もあるらしく、和綴じにされたものも見える。ここになら、何かヒントもありそうだ。
「すごい! 蔵書の山! 図書館みたい!」
棚の間を歩きながら、海春が目を輝かせる。
「海春は本が好きなの?」
「……うん。いつも持ち歩いてる。だから、あのときも咄嗟に殴ったし」
そう言えば、そんな話をしていたな、と海春の自己紹介を思い出した。確か、片白寺に送られた理由を打ち明ける流れになり、海春は男子生徒を本で殴ったことが理由だと話していた。
「これを片っ端から読むのは骨が折れそうだなぁ」
棚を見つめながら、真人は息を吐き出す。書庫の内部はそれなりの広さがある。棚は真人の背丈ほどあり、四段構成だ。そのすべてに、それなりに厚みがある本が詰め込まれている。まさに海春の言った通り、小さな図書館だ。この蔵書全てに目を通していたら、日が暮れるどころか、盆が明けかねない。それで何事もなく盆が明ければ問題は無いのだが、現実はそういうわけにもいかない。
「……カタシロ様について書かれている本はそんなに多くない。でも……」
紫陽花が棚に置かれた本の背表紙をなぞりながら凝視する。
「多分、全部無くなってる」
「は?」
思わず、素っ頓狂な声が出る。確かに所々、本が抜けているように見える部分もある。
「誰かが、持ち去った?」
紫陽花が首を傾げた。つられて真人も首を傾げる。
「誰かって、誰が?」
カタシロ様のことを知りたい人物が、先回りして持ち去ったというのか。それとも、真人たちが地下の書庫まで来ることを想定して、あらかじめ抜いていたのか。村人たちの様子を思い出すと、後者の可能性が高そうだ。しかし紫陽花は首を振った。
「……心当たりがないわけではないけれど、理由が分からない」
手詰まりだ。紫陽花も海春も、それは感じているだろう。だが今は、ひとつでも情報を得たほうが良い。真人は本棚に寄りかかった。海春も本棚に寄りかかり、紫陽花は床に膝をついた。
「紫陽花さんは、カタシロ様のことで知ってること、ないんですか?」
紫陽花は一瞬真人を見ると、考え込んだ。かなり熟考している。何を話すべきか考えているのか、はたまた思い出そうとしているのか。しばし沈黙が流れる。
そうして紫陽花は、ようやく口を開いた。
「……父が、ずっとカタシロ様の身体を探してた」
「身体を?」
紫陽花の父は、片白寺の住職だ。住職がカタシロ様の身体を探していた、とはどういうことだろうか。
「私は本来、カタシロ様になるはずだった」
「……待って、どういうこと!?」
海春が声を上げる。それでも紫陽花は落ち着いた様子で続けた。
「そのままの意味。父はずっとカタシロ様の身体を探していたの。それで、私の身体をカタシロ様に捧げる儀式をした」
「……捧げる儀式?」
「乗っ取らせるということ。昨晩の久世くんのように」
昨日の久世の様子を思い出す。確かにあのときの久世は乗っ取られているようだった。しかし、目の前の紫陽花は、誰かに乗っ取られているような雰囲気は無い。
紫陽花が、薄く笑みを浮かべた。
「失敗だった。カタシロ様は私の身体を乗っ取らなかった」
「儀式が間違っていた可能性は?」
「あるかもしれない。でも、今となっては分からない。ただ私はカタシロ様の依り代になるはずだったのに、なれなかった」
そう言って、紫陽花が口を噤んだ。住職は何かを知っていたのだろうか。嫌な方向にばかり考えが行く。真人や久世を『カタシロ様の贄』と呼び、寺から逃げ出さないよう見張っている村人たち。そして、『カタシロ様の贄』である真人たちがそろったタイミングで外出し、未だに帰って来ない住職。
絡んでいると考えてしまうのは仕方が無いことだろう。
「でもカタシロ様は人間になりたがってる……?」
「だからよくわからない。昨日は身体を返せって言われたし」
「確かに」
真人も考え込んだ。分からないことが増えてしまった。カタシロ様が人間を襲い、身体の一部を持ち去っているのだとしたら、人間になりたい、というのも分からなくない。別々の部位を持ち去っていることを考えると、まだカタシロ様の被害は続く可能性がある。だが、昨日は久世の身体を乗っ取れていた。わざわざ住職が紫陽花の身体を乗っ取れるよう手配をしたこともあるという。人間になりたいのなら、人間の身体を乗っ取るのが一番手っ取り早いのではないだろうか。
考え込んでいるのは、海春も同じようだった。それから何かに閃いたらしく、「あっ!」と声を上げる。
「年齢とか? 儀式の時ってあーちゃんはいくつだったの?」
「小学三年生。それともカタシロ様は私の顔が気に入らなかったのかも」
顔、と聞いて真人は考え込んだ。カタシロ様は涼花を殺して頭部を持ち去った。神田も同じだ。だが、儀式では紫陽花の身体に乗り移らなかった。乗り移るというと、やはり昨日の久世のことが思い起こされる。なぜ久世は、乗っ取られたのか。
「そうか!」
「ちょっと!」
声を上げた真人を、海春が肘で小突いた。はっとして、慌てて訂正する。
「ああ、紫陽花さんの顔が、とかじゃなくて、カタシロ様ってもしかしたら呪い殺した相手の一部しか持って行けないのかもって」
「どういうこと?」
紫陽花が首を傾げた。真人は続ける。
「カタシロ様は人間になりたい。それは間違ってない気がする」
「……ラノベのタイトルみたい」
海春の言葉に一瞬場が凍る。真人はひとつ咳払いして、無視することにした。
「カタシロ様が人間になりたいなら、人間の身体を乗っ取るのが手っ取り早い。実際紫陽花さんは儀式でカタシロ様に身体をあげようとした」
「でもダメだった」
紫陽花が俯く。真人も頷いた。
「そうなんだよ。でもカタシロ様って人間を乗っ取れないわけじゃない。昨日の久世がそうだったし」
「でもあーちゃんは乗っ取られなかった」
「そこが不思議なんだよ」
「やっぱり顔が気に入らなかったとか」
紫陽花はどうやら自分の顔を大層気にしているらしい。そんなことはないのに、と真人は彼女の顔を見た。切れ長の瞳に、すらりと通った鼻筋に形の良い唇。一般的に、美人の部類に入ると思う。少なくとも真人の目からはそう見えた。
「顔がっていうのは違うと思うけど……。仮説の話をすると、カタシロ様が身体を乗っ取れるのは一時的なのかも」
そうかも、と海春が隣で同意する。
「久世さんも葉山さんがタックルしたら元に戻ったし」
そうなのだ。真人もそこは気になっていた。確かに久世は昨晩カタシロ様に乗っ取られていたようだが、すぐに元に戻った。タックルという衝撃を加えてはいるが、久世自身にダメージが及んだほどではない。ということはカタシロ様の乗っ取りは、軽い衝撃ですぐ追い出されるくらい微弱だったのかもしれない。
「紫陽花さんは儀式のことどれくらい覚えてる?」
真人の問いかけに、紫陽花が考え込んだ。小学生のころの話というと、今から六年近く昔のこと。そんな前のことを鮮明に覚えているだろうか、と思ったが、すぐに真人はかぶりを振った。真人も、そんな昔のことを、まだよく覚えていた。
紫陽花は考え込む素振りを見せた後、ひとつずつ思い出すように言葉を紡いだ。
「儀式が始まったことは、覚えてる。でも、気が付いたら布団の上だった」
「じゃあやっぱり、乗っ取られたことはあると思う。でも、一時的だった」
「だから儀式が失敗した?」
「うん。でも神田さんや涼花みたいに、呪い殺したら持って行けるのかもしれない。一部分だけって制約もありそうだけど……」
「じゃあ、身体を集め終えたら終わる?」
「可能性は高い。俺の説があってれば」
「確かに人間になりたいなら、久世君みたいに乗っ取っていれば良かっただろうし、一理ある」
「でも結局犠牲者は出るってことだ。まだ頭と片腕だけだし……」
「残りのパーツ、作るとか」
それまで黙り込んでいた海春が、そう呟いた。
「それってどうなの?」
「カタシロ様を成仏させる。本体をおびき出すでも何かに乗り移らせるでもいい。で、お焚き上げで燃やす。久世さんに乗り移らせてってわけにはいかないから、人間っぽいものを作る」
真人は考え込んだ。確かにカタシロ様を成仏なり退治するしか今のところ方法はなさそうだ。封印が出来ればいいのかもしれないが、今の真人たちに、カタシロ様を封印する術は無い。だとしたら、後は成仏くらいだろう。幸い、お焚き上げとやらは、盆の最終日に行われる予定だ。
そこに、おびき出す。
「上手くいくか?」
相手は怪異。すでに二人が殺され、乗っ取られたこともある。失敗したら、タダでは済まない。最悪の場合、怒らせて全滅、もありうる。それに相手は容赦なく惨殺してくる。いたぶられる可能性だってある。
「でも、何もしないよりは良いと思う。このままじゃ、他に何も思いつかない」
紫陽花が、凛とした声音でそう言った。彼女の言葉は、まさにその通りだ。封印はできない。これ以上犠牲者を出すわけにもいかない。となれば、出来ることをするしかない。
「……でも人間っぽいもの作れる?」
「ここは人形を供養する寺。時々修復もするから、道具と材料はある」
紫陽花が自信満々に答える。先ほどまで顔がどうと落ち込んでいたのが嘘のようだ。
「最終的に呪物生まれたりしない?」
半分冗談で、真人は尋ねてみた。怪異に立ち向かうために作り出したものがいわくつきになった、なんて笑えないけれど。
「……多分平気。材料持ってくる。二人は先に戻ってて」
紫陽花が立ち上がり扉に向かって歩き出す。真人も海春も寄りかかっていた姿勢を元に戻した。書庫から出ると、階段を上るよう促された。紫陽花はまだ地下に用があるらしい。材料とは地下にあるのだろうか。紫陽花に言われた通り、真人は海春と共に先に階段を上がっていく。板張りの廊下を歩く。相変わらず重苦しい扉は閉まったままだ。
本堂を後にして、庭を歩く。海春と二人きり、というのはもしかすれば初めてかもしれない。いつもは紫陽花や涼花といたから平気でも、二人きりはどうだろうか。そう思いながら、海春を見る。
「何してんの、早く」
海春に急かされる。彼女はさほど気にしていないようだ。状況が状況なのかもしれないが。
だが真人は、特に指摘せず、海春に続いて歩き出す。
「上手くいくと良いけどなあ」
真人が呟くと、隣で海春がムッとした。
「上手くいくって。そう信じないと何にも出来ないよ」
「……そうだね」
前向きな言葉に。少し気持ちが軽くなる。
「うん。きっと上手くいくよね」
真人の言葉に、海春は、今度は笑顔を返してくれた。
平屋に到着し、真人たちが座敷に顔を出すと、久世が起き上がっていた。怪我はすっかり良くなっているらしい。昨日はあんなにボロボロの状態だったのに、とその回復力に驚く。
だが、どうにも様子がおかしい。この間までの飄飄とした態度はどこにもなく、何かに怯え切った表情が浮かんでいる。良く見ると額には脂汗が浮いている。
どうしたんだと五十嵐に尋ねる前に、久世がふらりと立ち上がって、真人の胸倉をつかんできた。
「なあ! 桐の箱! どこにある!?」
声には覇気が無く、シャツを掴む手にもあまり力は籠っていないようだ。明らかに憔悴しているらしい。
「……何があったの?」
五十嵐に視線を送ると、彼は眉を下げて俯いた。両手の指を絡ませている。
「起きてから、ずっと、この調子で……。桐の箱を、探しているようで……」
五十嵐の説明を聞き終えると、真人はもう一度久世に向き直った。
「どうして桐の箱がいるんだ? 今度は何を企んでる?」
「このままじゃ殺される! その前にどうにかしないと……」
「殺される? 何に?」
聞き返すと、久世は一層怯えた表情になり、顔をひきつらせた。真人の胸倉を掴む手が、ガタガタ震え始める。久世の様子がおかしいことは、目に見えて分かった。
「殺されるって何にだよ。村の人たちならここまで追いかけて来ないって」
「違う!」
叫ぶように久世が声を上げた。身体はまだ震えている。
「村人じゃないなら、カタシロ様?」
真人の隣で海春がそう問いかけた時だった。
「そ、そッ……おれは、おれはッ……!」
それまでの態度が一変し、久世は声すらも震わせ始めた。歯がガチガチと鳴っているのが聞こえる。尋常ではない怯え方だ。
真人は海春と五十嵐に目配せをした。久世はカタシロ様に怯えているようだ。これ以上怯えさせたところで埒が明かない。真人は震える久世の背中に手を回した。びくり、と久世の身体が跳ねる。
「……桐の箱をどうするつもりだ? 中身は確か空っぽだ。もう一度封印する方法でも知ってるのか?」
「それは……」
久世が口ごもって俯いた。そうして何やらブツブツ呟き始める。これはいよいよヤバいかもしれない、と真人はもう一度五十嵐と海春に目をやった。
そうして、真人が震える久世の背中を撫でていた時だ。
「じゃあどうすればいいんだよ! このまま殺されるのを待てって言うのか!?」
再び久世が爆発した。今にも泣きそうな声で、真人に掴みかかる。
「そういうわけじゃないけど……」
今度は真人が口を噤んだ。どうしたらいいか分からないのは、真人も同じだ。ただ、このまま殺されるのを待つのはごめんだ。そのための策を、練らないといけない。
「同じだ! お前らだって俺が犠牲になりゃ良いって思ってんだ!」
「んなわけないだろ! お前は確かにいけ好かないけど、だからって殺されたらいいって思うのは違うだろ」
「はは、どうだかな……」
久世はすっかり疲れ切った顔で笑うと、真人に肩をぶつけながら廊下に出て行った。
真人と海春は顔を見合わせる。一体久世に何があったというのか。カタシロ様に乗っ取られ、村人に追い詰められたのが相当堪えたのかもしれない。
どうするべきかと、真人は廊下を歩き去っていく久世の後ろ姿を眺めながら考える。
「……追いかけます。こちらのことは、任せてください」
そう言ったのは五十嵐だ。五十嵐は今日もずっと久世についてくれていた。今は彼に任せた方が良いだろう。真人は五十嵐に頷きを返した。
五十嵐はすぐに座敷を飛び出して、久世の後を追いかけて行く。真人は座敷に入ると、息を吐き出した。どっと疲労感が押し寄せてくる。
「久世さん、なんかヤバくなってる?」
「相当参ってるっぽいなぁ」
久世が怯えているとは思わなかった。震えている背中の感触が、まだ残っている。歯をガチガチ鳴らして、カタシロ様の名前に声すら出せなくなる姿は最初の久世からは到底想像できない。いや、もしかしたら、彼は臆病な部分を、虚勢やプライドで覆い隠していただけなのかもしれない。
「……最初から仲良く出来てたら、もうちょっと協力し合えたかもしれないのにな」
畳に座り込みながら呟くと、海春もしゃがみこみながら頷いた。
「うちだって、犠牲になれば良いなんて思ってない」
「だよなあ」
久世に言った言葉は本当だ。だが、久世がぶつけてきた言葉もまた、彼の本心なのだろう。
蘇るのは、浴槽に浮かんだ神田の顔と、涼花の断末魔だ。彼らと同じように凄惨な運命をたどれば良いとは、さすがに思わない。
二人がため息をついていると、 玄関が開く音が聞こえた。続いて、厚底ブーツの音が聞こえてくる。足音が近付いて、開いたままの襖から紫陽花が顔を出してきた。
「疲れ切ってるみたいだけど、どうしたの?」
紫陽花が心配そうに尋ねてくる。無理もないだろう。
「いや……久世と揉めてさ……」
そう言うと、紫陽花は辺りをキョロキョロ見回和した。
「その久世くんと五十嵐君くんは?」
「久世さんはどこかに行った。五十嵐が後を追いかけてる」
「そう」
紫陽花が廊下を一瞥する。紫陽花が知らないということは、玄関から出て行ってはいないのだろう。平屋にはまだ座敷や部屋があるらしいから、別室にいるのかもしれない。
「で、材料は集まった?」
「ええ。あるものを全部持ってきた」
そう言って紫陽花が座敷に入ってくる。手には大きな布や綿の塊を抱え、裁縫箱を腕に提げていた。
「これなら……それなりの形になるか」
「葉山くんってお裁縫できる?」
「いや……」
紫陽花に尋ねられて、首を振った。家庭科の授業で裁縫を習ったものの、今できるかと言われたら別だ。それに、真人は手先が器用な方ではなかった。祖母からの遺伝は無かったらしい。
「いいよ。うちが出来るし」
海春がいそいそと布を広げ始める。
「葉山さんは綿でも詰めてて」
「じゃあ、そうするよ」
海春と紫陽花が相談しながら、布を切り出していく。ミシンは無いから全て手縫いらしい。大変だと思ったが、どうやらそこまで大きなものを作るつもりもないらしい。
しばらくは布を切り出すハサミの音と、衣擦れの音が響いていく。まだ特に何もやることがない真人は、畳に手を突きながら、開け放たれたままの縁側から見える庭を眺めた。
「……紫陽花さんって、どうして紫陽花さんっていうの?」
庭の向こうでは、青いアジサイの花が咲いている。
「うちも気になる」
ちくちくと針で布同士を縫い合わせながら、紫陽花は手を止めずに薄く笑った。
「それが名前だから」
「そうじゃなくて! 紫陽花って名前の由来!」
驚いたように海春が付け足す。紫陽花はやっと合点したのか、ああ、と何か思い出しているようだった。
「私がここに来た時、父が紫陽花を植えたらしい。本堂脇の庭に咲いているものだけれど」
ほらあれ、と紫陽花が縁側の向こうを指差す。庭先に広がる青いアジサイの花だ。
「誕生木とか記念樹ってやつ?」
真人の言葉に、紫陽花が頷く。
「その名前を付けられるなんて、これじゃあどっちが記念なのか分からないけれど」
もしかしてまずいことを聞いてしまったのかもしれない。俯いてしまった紫陽花から目を離し、視線をさまよわせていると、海春と目が合った。彼女は真人を睨みつけ、俯いたままの紫陽花を顎で示した。別の話題を出せ、とでも言いたいのだろう。
「ここに来た時って……生まれた時じゃないの?」
いまいち逸らせ切れなかったが、気になったことを聞いてみた。紫陽花は気分を害した様子もなく、また薄く口角を上げている。
「私と父に血のつながりはないの。捨て子だった私を父が引き取ってくれた。その時アジサイを植えて、紫陽花の名前をくれた」
「そうだったんだ……」
海春が手を止めて庭を眺める。
「なんでうちらが生贄になんかされないといけないのかな」
「……要らない子だったからかもしれない」
「そんなことないよ」
紫陽花が顔を上げ、海春もこちらを見た。二人に見つめられ、真人は目を逸らした。
「……いや、俺は微妙なとこだけどさ。二人は、要らない子なんかじゃないよ。要らない人なんていないよ。……道具じゃないんだから」
そこまで言うと、座敷に沈黙が流れた。すると、ぷっと海春が噴き出した。
「クサいね、葉山さん」
「だって……まあ、そうかも」
「みんな葉山さんみたいに優しければ良かったな」
海春はそう呟くと目を伏せた。彼女は男性が嫌いだと、自己紹介の時話していた。普通に話せているから忘れそうになるが。
「小学生の時、いわゆる変質者に遭遇した。そこから男が嫌いになった。変わりたいと思うけど、上手くいかない。本で叩いたのも、反射だった。男に話しかけられると、ぞわっとして、逃げたくなって」
「葉山くんとは話せているようだけど」
確かにそうだ。海春との初対面は、あまりにもひどかった。男嫌いだと公言していたが、男子の発言はことごとく無視し、目も合わさないほどだった。思い出したのか、海春は気まずそうに笑った。
「最初は、状況が状況だったし。でも、今はそんなに怖くない。二人で本堂から平屋まで来られた」
海春の声音が、どこから嬉しそうに聞こえる。きっと、彼女も避けたくて避けていたわけでは無いのだろう。きっと、彼女の語った変質者の問題は、それほどまでに海春にとってショックな出来事だったのだろう。
「……海春だって、色々事情があったんだよな」
呟くと、隣で海春が目を丸くしていた。何か間違ったことでも言ってしまったか、と指先を弄ぶ。そういえば五十嵐にも、こんなような癖があったな、と思った。
ふひ、と海春が隣で擽ったそうに笑った。
「葉山さんは、なんとなく話しても良いなって思った」
はにかむような笑顔は、今までの海春からは想像が出来ない。
彼女の笑顔が、やけに眩しい。真人は目を伏せた。
「俺は、誰かに否定されるのが嫌なだけなんだと思う」
そう前置きして、話を始めた。いきなり自分語りをして引かれるかと思ったが、紫陽花も海春も、真剣に聞いてくれる。
「俺はさ、ずっと夢が無いんだ。やりたいことも無くて、ただ生きてるだけ。母さんの言う通りに」
「え、葉山さんマザコン?」
「違う違う」
自嘲気味に、真人は肩を竦めた。マザコン、と呼べる存在は、むしろ真人にとって一種の憧れだった。
「あの人は俺を思うとおりにしたいだけだよ。だから大学だって自分の行かせたいところじゃないと認めない。あの人は自分の理想の息子が欲しいんだ」
そうだった。母は昔から、真人の言うことは何でも反対してきた。自分のやることが正しいと信じて疑わず。自分の理想と違う道を進もうとするなら何でも却下する。自分で選択しても無駄だと思い知らされて、だからいつしか、何も望まなくなった。
本当はウサギのぬいぐるみを祖母から作ってもらった時、素直に嬉しかったのだ。祖母が自分のために作ってくれたことが。しかし、母は違った。小学生の息子が、ウサギのぬいぐるみという可愛いものを愛でていることを良く思わなかった。
『真人は要らないでしょ、こんなの』
そう言われた時、結局自分の意志は無いのだと思った。母に逆らうから、空しいのだと思った。だから言ってしまったのだ。祖母に向かって、要らない、と。
その時の傷ついた祖母の顔が、今でも忘れられず、祖母の遺品整理をしていた時に、あの時のウサギがまだ残っていると知って、引き取ってきたのだ。永遠に忘れられないトラウマの一部として。
「母さんが俺をここに送ったのって、もしかしたらそれこそ俺がいらなくて、捨てようとしたのかも、なんてね」
乾いた声で笑いながら顔を上げると、紫陽花の真剣なまなざしと目が合った。
「……考えたところで分からない。でも、私たちは今、生きるために行動してる。きっとそれが全て」
「確かに、そうかも」
そうだった。真人たちは今、生き残るために作戦を立てて、立ち向かおうとしている。それは、自分が誰かにとって必要とされているからではなく、自分が生きたいと思っているからだ。
「縫い終わったから綿詰めて」
ぽい、と海春から縫い終わったパーツを渡された。人形の腕のようだ。
「へいへい」
真人は綿を千切って、袋状になったパーツの中に詰めていく。衣擦れや、綿を千切る音が室内に響く。
「お祭りが終わったら、三人で出掛けない?」
しばらく沈黙が流れたのち、今度は紫陽花が口を開いた。一瞬、意味が分からず、真人は目を丸くした。
「三人って、俺たち?」
思わず紫陽花と海春を交互に見てしまう。目が合った紫陽花は、何を当たり前なことを、とでも言いたげに、大仰な頷きを返してきた。
「葉山くんが東京を案内して」
紫陽花の言葉に、海春も目を輝かせている。作業の手もそっちのけで、身を乗り出した。「東京行くの!? 面白そう!」
「案内って……。紫陽花さんはともかく、海春は大丈夫なのか?」
「なにが?」
「東京って男がいっぱいいるけど」
「えっ」
カエルが潰れたような声が聞こえた。海春が、困ったような表情を浮かべている。しかし、数回頷いた。
「大丈夫、東京行ける!」
「んな無理して行くもんじゃないけど」
「大丈夫だって! あーちゃんもいるし、葉山さんもいるし」
「あんまり期待とかされてもなあ……」
真人は久しぶりに、東京の景色を思い浮かべた。二人ならどこを気に入るだろうか。原宿か、表参道か、渋谷も気に入るだろう。新宿の駅前にある大型のショッピングモールも好きかもしれない。あれこれ考えを巡らせていると、紫陽花が薄く笑った。
「でも、葉山君に恋人がいたら迷惑になるね」
「いないから別に構わないけど」
「じゃあ約束!」
「約束」
紫陽花が手を止めて、真人と海春にそれぞれ小指を差し出してきた。真人は差し出された左の小指に、自分の小指を絡めた。同じように海春も、紫陽花の右手に自分の指を絡める。
「約束、か」
真人は、じわりと胸が暖かくなるのを感じていた。
「完成~!」
海春が声を上げると同時に畳にひっくり返った。外はもうすっかり夕方だ。人形は、やっと完成した。人型をした、真人の膝丈ほどの大きさだ。
「形代殿に持って行ってくれる?」
紫陽花から差し出された人形を受け取る。紫陽花と海春と立てた作戦では、出来上がった人形を形代殿に置くことで、カタシロ様の目に留まり、新しい身体として持って行ってくれるのではないか、ということだった。その最終ミッションを任されたのが真人だ。紫陽花も海春も、ぶっ続けで細かい作業をしていたため、疲労がたまっているようだった。それに、形代殿はカタシロ様がいると思われる場所だ。何が起きるか分からないところに、二人を連れて行けない。
「分かった」
人形を抱えて立ち上がる。
「これで上手くいくと良いけどな」
「きっと平気」
「うん」
紫陽花と海春と頷き合い、真人は平屋を後にした。
形代殿に向かうのは、随分久しぶりなことのように感じられた。色々なことが、この短時間で起こりすぎたせいだろう。真人は手作りの人形を抱え、離殿の下で靴を脱ぐと階段を上がった。一人で来るのは初めてだ。恐ろしいことが起こりませんように、と祈りながら、黒く重そうな扉を押した。すんなりと扉が開き、籠っていた熱気が押し寄せる。熱気に思わず咽そうになりながらゆっくりと中に入っていく。一歩、また一歩と踏み出して、中央へと近付いた時だった。何かが落ちているのが分かった。それは頭の無い人形だった。すらりと長い脚にべっとりと血がこびりついていた。
涼花の預けたミカちゃん人形だと瞬時に察した。その瞬間。涼花の遺体を思い出した。首が切り落とされ、代わりにミカちゃん人形の頭部が付けられていた、悪趣味極まりない遺体。
真人は顔を顰めながら、作り上げた人形を仏壇前の長机に置いた。そうして、仏壇に向かって手を合わせた。振り返る。ミカちゃん人形は頭が無い状態で、両手両足も明後日の方向を向いていた。真人はミカちゃん人形にも手を合わせ、離殿を後にした。
平屋に戻ってくると、廊下を海春と紫陽花が掛けてきていた。料理の最中だったのか、紫陽花は手におたまを持っていた。
「良かった! 無事?」
「うん。ただ……」
真人は靴を脱ぎ揃えながら、紫陽花に声を掛ける。
「離殿に、涼花が預けたミカちゃん人形が落ちてた。血まみれで。神田さんのクマと多分一緒」
見たことを素直に報告すると紫陽花はおたまを口許近くに寄せながら考え込んでいた。
「葉山くんと本郷さんに、伝えておきたいことがあるの」
いつになく真剣なまなざしに、ごくりと唾を飲み込む。
伝えておきたいこと、などという文言に、他意はないだろうけれど、状況が状況だ。緊張が走る。
「葉山くんは、ウサギのぬいぐるみで、本郷さんがイルカの抱き枕。神田さんがクマのぬいぐるみで、白石さんがミカちゃん人形。久世君が女の子のフェルト人形で、五十嵐君が戦隊モノのレッドのフィギュア」
そうして紫陽花は、ポケットから巾着を取り出した。それは、神田の持っていたクマのぬいぐるみの腕と、涼花の持っていたミカちゃん人形の頭が入っている袋だった。その袋を、真人に差し出してくる。
「これは、葉山くんが持っていて」
真人は紫陽花と、巾着とを交互に見つめ、受け取る。
「私に何かあった時のために共有」
そこまで告げて、紫陽花が真人と海春を交互に見た。
「なんでそんなこと言うの!? 縁起悪いって!」
真っ先に声を上げたのは海春だ。
「そうだって……そんな、今から何か起こるみたいな……」
そう言って真人は口を噤んだ。胸騒ぎがするのは、紫陽花がやけに落ち着いているからだろう。
「でも、本当のこと。この先何かがあった時のために」
「……紫陽花さんの身代わり人形は?」
真人の問いかけに、紫陽花は微笑んだまま首を振る。
「無いの」
「片白寺の人は必要ない、とか?」
海春の言葉に、紫陽花が首を振った。
「必要ないって言った。元々人形って好きじゃないし、カタシロ様の依り代になるはずだったし」
その紫陽花の言葉に、真人は彼女に感じていた違和感の正体がわかった気がした。紫陽花は、ずっと、諦めているのだ。カタシロ様の依り代になるはずだったからと、生きることを。
「……紫陽花さん、三人で、行くんだろ、東京」
真人は声を絞り出した。そうだ、東京を案内して欲しいと言ったのは、紫陽花だ。その本人が、ここを出ることを諦めるなんて、そんなの、あってはいけない。
見つめると、紫陽花が困ったように目尻を下げた。
「そうだね。今は、身代わり人形、あった方が良かったかもってちょっと思う」
「あーちゃん、本当に身代わり人形が何なのか知らないの?」
「本当に知らない。ただ、捧げておいた方が良いとは聞いてる。でも、御利益みたいなものは分からない」
「なさそうだけどな、御利益」
「ね」
真人が言うと、海春も同意する。
「で、片白祭の準備もしないとだっけ」
真人は紫陽花から預かった巾着袋を丁寧に折り畳んでポケットにしまった。三人で廊下を歩いていく。
「後は平気。当日、お焚き上げをすればいいだけ」
「お焚き上げってどうするの? 火をつけるやつとか」
「納屋の裏にまとまってる薪がある。当日はそれを組んで、平屋にある着火ライターがあるから、それを使って。靴箱の中にある」
当日のことまで伝えてくる紫陽花に、やはり嫌な予感を感じてしまう。紫陽花は、何か分かっているのだろうか。
「……あーちゃん、変なこと考えてたりしないよね?」
「大丈夫。嫌な予感がするだけだから」
「大丈夫じゃないって」
茶化すようにそう言ったが、それは本心でもあった。
夕食も滞りなく終わり、後は寝るだけになった頃。
「今日は、まとまって寝ない?」
真人は五十嵐、紫陽花、海春にそう提案していた。
「えっ」
さすがの海春も、寝室が一緒なのは厳しいらしい。明らかに顔を顰めている。昼間、割と打ち解けたと思ったが、それとこれは別のようだ。
「いつカタシロ様に襲われるか分からないからさ。昨日みたいに俺たちは隅で雑魚寝とかで構わないし」
なあ、と真人は五十嵐に目配せする。五十嵐もこくこくと頷いた。
「昨日のように、カタシロ様が誰かを使って、襲いに来る可能性も、あります。その際に、同室者が多い方が、撃退はしやすいかと」
「……久世さんは?」
海春の言葉に、五十嵐は首を振った。
「非常に難しい、判断なのですが、久世さんと同室で眠ることは、リスクを伴います」
五十嵐は冷静に続ける。
「久世さんは、恐らくカタシロ様と、遭遇しています。しかし、殺害されず、乗っ取られています。また、乗っ取りにあった後も、危害を加えられていません」
「確かに……」
言われてみるとそうだ。久世がカタシロ様に乗っ取られていた時、久世は恐らくその前にカタシロ様と遭遇していると見た方が自然だ。それに、乗っ取られた後の久世は様子こそおかしかったものの、カタシロ様に襲われていないようだ。
「しかし、久世さんが、再び乗っ取られ、誰かに危害を、加える可能性はあります。その場合、きっと真っ先に、真人さんを、狙うのでは、ないでしょうか」
「俺……?」
名指しされてドキリとする。だが五十嵐もただあてずっぽうで真人だと言ったわけでは無い。
「前回久世さんが乗っ取られた時、真人さんが、攻撃したことで、乗っ取りが終わりました。そうなると、次に乗っ取ったら、真っ先にあなたを、狙うと思います。そうすれば、僕も、紫陽花さんも、本郷さんも、誰も力じゃ久世さんに、敵いません」
「それは困るんだけど……」
海春が仕方なさそうに首を振った。
「分かった。でもその代わり超離れて。襖の真横とかにいて」
「……わかったわかった」
ようやく話がまとまったところで、真人たちは布団を敷くことにした。四人が頭を突き合わせるような状態ではなく。真人が襖のほぼ横に布団を敷き、その隣に五十嵐が布団を敷いた。対して海春は縁側すれすれに布団を敷き、その隣に紫陽花が布団を敷いた。絵面としては実にシュールだ。
それでも、海春が歩み寄ってくれた距離感だ。文句は言うまい。
「おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
口々に言い合って、照明を落とす。
明日も何もありませんように。
そう祈りながら、真人は布団に潜り込み、目を閉じた。
かたん、と物音で目が覚めた。目を擦りながら音のしたほうへと向ける。目を凝らすと、紫陽花がすぐ横で襖を開けていた。黒いサテンの生地に、薔薇をあしらったレースがぼんやりと見える。
「……紫陽花さん?」
小さな声で名前を呼ぶ。幸い、音に気付いたのは真人だけのようだ。紫陽花が困った顔をして口許に指を立てた。
「どこか行くつもり? ダメだよ。明日の朝にしよう」
「大丈夫、すぐ戻るから」
紫陽花が困ったような表情を浮かべる。きっと真人も同じような表情をしているに違いない。このまま紫陽花を行かせて、良いのだろうか。彼女はどこに行こうとしているのだろうか。
「でも……」
「お手洗いなの。だから、平気」
彼女の声音が少し変わった。引き留めようとパジャマを掴みそうになった手を慌てて引っ込める。
「……何かあったらすぐ叫んで」
「うん。だから、大丈夫」
薄く開いた襖の間に、紫陽花が身体を滑り込ませる。かたん、と襖が閉じられた。
「あーちゃん? どこ?」
泣きそうな声が聞こえて目が覚めた。廊下から、海春の声がする。目を擦りながら、真人は起き上がった。襖が開け放たれている。海春が、廊下を行ったり来たりしているのが見えた。
「どうしたの?」
声を掛けると、海春は真人に飛びつくように近付いてきた。目にはうっすら涙が滲んでいるように見える。
「あーちゃんがいないの! やっぱりなにかあったんだ……」
「紫陽花さんが?」
そう言われて、思い当たることがあった。昨晩のことだ。
「トイレに行くって言って出て行ったのは見たけど……」
素直に昨日あったことを告げながら、真人は座敷を見回していた。布団は四組そのままだ。五十嵐の姿が見当たらないが、隣の部屋からうっすらと話し声が聞こえてくるから、そちらにいるのだろう。
だとしたら、やはり見当たらないのは紫陽花だけか。
「マジで?」
「心配だったから声掛けたんだけど、そう言われちゃったし、付いてくるなってオーラがすごくて」
「それで一人で行かせたの!? ちゃんと戻ってきてた!?」
むんずと海春が真人の両肩を掴み、がくがくと揺らす。
「いや……気づいたら寝てて」
「絶対何かあったって……。うちも気づけばよかった……。あーちゃん、昨日おかしかった。自分に何か起きるって気付いてたみたいで……」
そこまで言って、海春が動きを止めた。どこか一点をずっと見つめている。真人もつられて振り返った。それは、縁側から広がるアジサイだった。青色の株が、幾つも植えられている。紫陽花がこの寺に来た時、植えられたというものだ。それが、どうしたというのだろう。すると、海春が一点を指差した。
「あのアジサイだけ色が変じゃない?」
確かに海春の言葉通り、彼女が指さした先にあるアジサイだけ、なぜか不気味なほどに赤く染まっていた。まるで血でも塗ったかのように。
「……本当だ。昨日まで青っぽかった気がするけど」
嫌な予感が渦巻く。どうして今に限って、『色が変わった紫陽花の下には死体が埋まっている』などという都市伝説を思い出してしまうのだろう。そんなこと、あるわけがないのに。
だが海春も、同じことを考えていたようだ。
「何か掘り起こせるもの持ってきて。シャベルでも何でもいい」
「掘り起こすって……」
「この下、絶対おかしい」
海春に言われるまま、真人は平屋の中にある物置部屋に向かった。いつも紫陽花がブルーシートを持ってくる場所だ。そこにはブルーシートの他に、工具や道具が一通りそろっていた。その中に、シャベルもあった。真人は使いやすそうなシャベルを二本見繕い、縁側まで戻った。紫陽花の様子を見ていた海春にシャベルを手渡す。
「……このアジサイ、血が付いてる。変色したわけないじゃいみたい」
「血が付いてるアジサイって絶対おかしいから」
海春が、シャベルを受け取った。柄を掴む手は震えている。真人は彼女の震えに気が付かないふりをして、シャベルを地面に突き立てた。アジサイを掘り起こそうとすると、存外簡単に動かせた。
「……多分、元々植えてあったのを抜いて、真下に何かを埋めて、アジサイを置き直しただけななんだろうな」
「……最ッ低……。いくら怪異だからって、これは、あーちゃんの……紫陽花ちゃんの大切な花なのに……」
海春がボロボロと涙を零し始めた。それでも彼女は、シャベルの手を止めない。
真人も、もう一度地面にシャベルを突き立てた。
何度も何度も、土を掘り返す。ゆっくりと、慎重に。土は柔らかく、簡単に掘り返せる。もう一度シャベルを入れると、妙な感触がした。土とは異なる、固い感触。背筋が強張って、真人はシャベルを放り投げた。縁側にいた海春も駆けてくる。
「嘘だって、マジで……」
声が震える。真人は地面に両膝を突いて、無心で土を掘り返していく。黒いサテンの布地が見えた。
「やだ、やだ……」
海春も、譫言のように呟きながら、土を掘り返していく。薔薇をあしらったレースが見えた。そうして、黒い髪が見えて、紫陽花の白い顔が見えた。
「あーちゃん……」
呆然と、海春が呟いた。声が震えている。真人も、土を掘り返す手が震えた。それでも、ひたすらに繰り返す。
紫陽花が、土の中に眠るように横たわっていた。ただ、違和感があったのは、彼女の胴体だ。パジャマの、胸や腹部だけ、ぺしゃんこに潰れているように見えたのだ。
「どうなってるの……」
恐る恐るといった様子で、海春が紫陽花の腹部に手を伸ばして、服を掴んだ。その瞬間だった。
紫陽花の頭が、右腕が、左腕が、右足が、左脚が、まるで人形のパーツのように、宙を舞った。鈍い音を立てて、バラバラになった身体が地面に落ちる。人形さながらだが、断面からは赤黒い肉が覗いていた。
「……からだが、ない」
海春が、震える声で呟いた。そう、紫陽花は、胴体が無かった。どこかに消えてしまった。
「持ち去られたってこと……?」
「かもしれないけど……」
真人はさらに土を掘り返してみた。しかし、紫陽花の遺体以外に何かが埋められているような形跡はない。
「あーちゃんは、身代わり捧げてないって言ってたよ」
海春が、真人の肩を叩いた。はっとする。そうだった。紫陽花は、昨日、身代わり供養をしていないと話していた。だから、彼女の遺体からは、ぬいぐるみらしきものは見つからない。
「やっぱり、あの時……あーちゃんは分かってたのかな」
「次は自分だって?」
「……五十嵐は、カタシロ様は久世さんじゃなくて葉山さんを狙うって言ったけど、違ったんだよ。確かに乗っ取ってるときは葉山さんが脅威かもしれないけど、でもカタシロ様は久世さんを乗っ取って、一回あーちゃん襲ってるんだよ」
海春が鼻を啜った。そうだ、紫陽花は一度、カタシロ様に狙われたいたのだった。最近彼女の様子がおかしかったのは、この異変を察知していたからなのかもしれない。
紫陽花は、次に自分がカタシロ様に狙われると分かっていたのだろう。
真人は物置からブルーシートを運んできた。広げた上に、紫陽花の頭部と、両腕と、両脚を並べる。そうして空っぽの胴体を隠すように、彼女のパジャマを被せる。そうして海春と納屋に運んだ。
これで三人目だ。ブルーシートに遺体を乗せて、納屋に運ぶ作業にもう手慣れてしまった気がする。
真人が納屋に並べられた三人の遺体を見つめていると、海春が先に納屋から出て行こうとしていた。
「うち、もう一回書庫に行ってみる。もしかしたら何かあるかもしれないから」
「俺もついていくよ」
「ダメ!」
海春が大きな声を上げた。
「それは絶対効率悪いって。葉山さんは調べたいところないの?」
「俺は……」
そう言われて口を噤む。他にどこか見たい場所は無いだろうかと考える。
〈……心当たりがないわけではないけれど、理由が分からない〉
紫陽花の言葉を思い出した。書庫の蔵書を持って行ったと思われる人物の話をした時だった。
真人は少し考えこんでから、頷いた。
「俺は、神田さんの部屋に行ってみるよ」
「神田さんの?」
海春が目を丸くする。
「紫陽花さんが言ってただろ、誰かがカタシロ様の文献を持ち去ったって。紫陽花さんの心当たりにありそうなのは住職と神田さんだけど、持ち去る理由が分からないって言い方からして神田さんかなって」
そう伝えると、海春も納得したようだ。
「そっか。分かった。何かあったら教えて」
「海春も、気をつけて」
「うん」
海春の後ろ姿を見送って、真人も納屋を出た。
「……大丈夫、きっと終わるから」
呟いて、扉を閉める。その呟きが、犠牲になった三人に向けたものなのか、それとも自分に言い聞かせた言葉だったのか、真人にはもうよく分からなかった。
平屋に戻ってくると、真人は手当たり次第に扉を開けてみることにした。というのも、神田にも紫陽花にも、平屋の間取りについてちゃんと聞いていなかったからだ。とはいえ、平屋である以上。廊下に面した扉を開けて行けば、きっと辿り着くはずだった。知らない扉を開けていく。物置や、荷物が詰めこまれた部屋や、何もない伽藍とした部屋が出てくる。廊下を歩きながら、ふと、作りのしっかりしたドアの前で立ち止まった。ゆっくりと、ノブを回して押し開けてみる。
「……勝手にすみません」
ほんのりとルームフレグランスの香りがした。この状況に、場違いな匂いだ。血液の鉄臭さばかり嗅いでいた鼻が正常さを取り戻していく錯覚に陥る。
どうやらこの部屋が、神田の部屋のようだった。全体的に、物が少ない部屋だった。シンプルと言えば聞こえがいいが、言ってしまえば殺風景だ。あるのは、勉強机と、メンズ物の服が数点、パソコンと、ベッド。それくらいだ。真人は神田の部屋を見回して机に近付いた。
「……やっぱり」
勉強机の上には、本が数冊積み上げられている。そのどれもが古く、紙は黄ばみ、表紙はボロボロに破けていた。一番上に積み上げられた本を手に取る。それは片白村の歴史書のようだった。
『一×××年。片白村で飢饉が発生した。この災害を治めるべく、当時の村長が、村人の中から生贄を選定した。その中で、十六歳ほどの子が贄として選ばれ、その躰を頭、右腕、左腕、右脚、左脚、胴の六つに分けた。そのうち、四肢は村の東西南北に埋められ、頭は村の入口の祠に安置され、胴は寺にて供養されることとなる。
しかし、贄の霊魂が彷徨い、自らを贄とした村人たちを祟り殺すようになる。寺の住職は、贄の呪いを納めるため、新たに贄となる子どもたちを集めた。霊魂は六人の子どもたちを祟り殺し、それぞれ、頭、右腕、左腕、右脚、左脚。胴を持ち去り、繋ぎ合わせ、ひとつの躰と成している。これを形代様と呼ぶ。
以来、形代様の祟りは静まったものの、百年に一度、贄の身体を取り換えるため。新たな贄の子を欲している』
真人は言葉を失った。書かれているのは。今まさに真人たちの身に起きたことと同じだ。神田が左腕を持って行かれ、涼花が頭部を持って行かれ、紫陽花が胴体を持って行かれている。贄、という言葉も、村人たちが発したものと同じだ。つまりこの文献によると、真人たちは百年に一度、カタシロ様が新しい身体になるための生贄として集められ、現在新しい身体になるため狙われている、ということになる。
ということは、カタシロ様はまだ誰かを狙うということだ。
「……海春にも見せないと」
真人は読んでいた本を抱えると、神田の部屋を後にした。
神田の部屋から持ち出した文献を抱えて、真人は本堂に向かっていた。
靴を脱いで、本堂の廊下へ一歩踏み出した時だった。もうすっかり慣れてしまった血の臭いが、鼻を掠めた。気のせいだと思ったが、臭いは一層濃くなっていくようだ。鼻を擦っても、臭いは強まっていく。
一歩だけ、廊下を進んだ。
「海春……?」
静寂が恐ろしくなり、彼女の名前を呼び掛けた。神田の白目を剥いた顔が、涼花の断末魔が、宙を舞った紫陽花の身体が、脳裏にフラッシュバックする。吐き気が込み上げてくる。それでも、もう一歩進んだ。海春を、見つけないといけない。それが今の真人を突き動かしている。
ちょうど、廊下の突き当りを曲がった時だった。
本堂の中央部。黒い扉が、薄く開いているのが目に入った。以前来た時は、扉は固く閉ざされていたはずだ。それがどうして、今は開いている。
「海春……いないの?」
もう一度、名前を呼んだ。帰ってくるのは静寂だけだ。
どく、と心臓が耳元で鳴る。それでも、真人は黒い扉に近付いて、隙間を覗いた。
目が合った。
「ッ!」
思わず後ずさりする。扉の隙間から、何かがこちらを覗いている。見開かれた、黒い目だ。心臓が張り裂けそうになるのをどうにか押さえつけて、真人は足元を見ながら、扉の取っ手を探りながら掴んだ。そうして一思いに引いた。
ぶらん、と眼前で何かが揺れた。
海春の、上半身だった。腰から下は無く、床に乾いた血だまりが出来ている。そう思った瞬間。
どた、べしゃ、ごとん。
鈍い音を響かせて、海春の上半身が床に落ちた。呆然と、真人は彼女の変わり果てた身体を見下ろした。細い首はへし折れていて、下半身は千切れられていた。良く見ると海春の右腕も千切られていた。
「なんで……」
呟いても、何も返って来ない。辺りはどこまでも静寂だ。
床に出来た血だまりの中に、何かが落ちていた。白くて、三角形のものだ。白イルカのヒレだと気付くのに、数秒かかった。拾い上げる。ヒレはすっかり血を含んでいて、血だまりに面していた部分が赤く染まっていた。
呆然としながらも、真人は海春の遺体を納屋まで運び終えていた。海春の下半身は、上半身のすぐ近くで見つかっていた。立ち入った本堂の中央部はただ伽藍としていて、まるで体育館か何かのように、一面床が広がっているだけだった。本尊なんてものは、どこにもなかった。
真人はかぶりを振って、もう一度納屋に目を向けた。海春の遺体と、紫陽花の遺体。そうして涼花の遺体と、神田の遺体。これで四人だ。持って行かれたのは、右腕と、胴体と、頭部と、左腕。だとしたら、あと必要なのは、両脚だ。そこまで考えて、真人ははっとした。この異常な光景に慣れてしまったのかもしれなかった。
両脚ですべてがそろうとしたら、犠牲になるのはあと二人。
真人はすぐに平屋に向かった。
座敷を勢いよく開けると、久世と五十嵐が座り込んでいた。真人は息も絶え絶えに、畳に膝をつく。五十嵐が驚いた顔をした。
「どうかしたんですか?」
「……カタシロ様に、紫陽花さんと、海春が殺された」
久世が顔を顰めるのが分かった。聞いていて気分のいい話ではないだろう。それでもかまわず続ける。
「紫陽花さんはそこの縁側で。海春は本堂で……。遺体はもう、納屋に運んだんだけど……」
「で? 何を言いに来たんだよ。犠牲者の報告か?」
久世に睨みつけられる。真人はかぶりを振って俯いた。正直色々なことがありすぎて、まだ試行が上手くまとまっていない。それでも伝えなければいけないことがある。
「……そうじゃないんだ。このままじゃ、最低でも後二人殺されると思うから」
「なんでそんなことが分かる?」
真人は震える手で、抱きしめていた文献を広げた。神田の部屋から持ち出したものだ。
「後は脚だけなんだ。神田さんが左腕で、海春が右腕で、涼花が頭で、紫陽花さんが胴体を持って行かれたから」
「だから後は両脚だって?」
久世の声はせせら笑うようだった。久世は真人に近付くと、視線を合わせるようにしゃがみ込む。
「で、俺らに何しろって言うんだよ」
「カタシロ様を、お焚き上げしないと……」
言いながら、しりすぼみになる。正直、焚き上げたから上手くいくという保証はない。文献を見ても、カタシロ様を成仏させようと考えたことはないらしい。
「焚き上げるって? どうやって燃やすんだよ。お前、カタシロ様に会ったことあるのか? 動いてるとこ見たことあんのかァ?」
久世に詰められ、真人はうなだれたまま首を振る。久世が鼻で笑うのが分かった。
「じゃあ無理じゃねえか。燃やせねえんじゃ話にならねえ」
「でも……」
「そもそもさ。お前、本当に俺と協力してええの? 邪魔だなって思ってたんだろ、ずっと」
「……いまはそんなこと話してる場合じゃ」
ぐ、と胸倉を掴まれる。思っていたよりも強い力に、首が閉まりそうになる。
「大事なことだっつの!」
久世は吠えると、真人を畳に放った。態勢を崩し、背中から倒れ込む。久世は真人を一瞥し、様子を見ていた五十嵐に目をやった。
「てめえもそう思うだろ」
鋭い眼光で久世に睨みつけられ。五十嵐が身体を竦ませる。だが、彼はまっすぐ久世を見た。
「でも僕は……真人さんに協力します」
「ハァ? 頭やられちまったの?」
「違います。助かるかもしれない道があるなら、そっちの方が良いと思います」
いつになくはっきりとした口調で、五十嵐は久世に告げた。
久世は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべると、ケラケラと笑い出した。
「バッカみてェ」
久世はそう吐き捨てると、真人に向き直った。
「後二人死んだら終わりってのは、きっとそうだろうなァ。でも、死ぬのは俺じゃない。お前らバカ二人だ」
言いながら、久世は座敷から出て行こうとする。
「待ってくれ」
真人は、久世の足首にしがみついた。しかし、久世が冷めた目で見降ろし、真人の肩を蹴った。反射で手を離してしまう。
「お前、本当は俺ら二人を犠牲にして、助かろうって思ってんだろ? 残念だったなァ。あのバケモンは俺じゃなくてお前を殺す。だって俺は、あいつに会っても助かったんだ」
「……会った? やっぱり乗っ取られた時に?」
「お前には関係無いだろうが!」
久世は襖に手を掛けると、もう片方の手をひらひらと振った。神田の遺体を見つけたときの、あの洗面所での光景が重なる。引き留めようと思うのに、言葉が上手く出てこない。
ばたん、と背後で襖が閉められた。
「あの、真人さん……」
五十嵐が近付いてくる。
「……ごめん、上手くいかなくて」
真人はうなだれた。結局あれから紫陽花と海春を犠牲にしてしまった。そのくせ、それらしい成果を何も挙げられていない。封印する方法も、対処する方法も、結局何も分からない。分かったのは、カタシロ様が六人の生贄の身体を求めていることと、その生贄が真人たちということだけだ。
うなだれる真人に、五十嵐も頭を下げた。
「そんなこと、ありません。僕こそ、ごめんなさい」
「なんで五十嵐が謝るの?」
驚いて、顔を上げる。真人が顔を上げると、五十嵐も顔を上げた。
「僕、全然お役に立てなくて。今日だって、お二人が……」
「ううん。紫陽花さんと海春が殺されたのは、俺のせいだ。俺が助けられなかった」
そうだ、口に出すと尚更、自分の不甲斐なさを痛感する。やはりあの時、紫陽花を止めておけばよかった。海春について行けばよかった。真人さん、と名前を呼ばれて、もう一度顔を上げる。今度は真剣な表情を浮かべた五十嵐と目が合った。
「……止めましょう、カタシロ様。紫陽花さんも海春さんも、そのために行動、してたんでしょう。真人さんに、託したんでしょう」
五十嵐が、真人の手を握りしめてくる。その手が微かに震えているのが、伝わってきた。
「……五十嵐くんって強いよね」
言いながら、真人は五十嵐の手を握り返す。
「真人さんも、十分強いですよ」
五十嵐がほっとしたように顔を緩めた。
真人は気持ちが落ち着いてくると、ポケットから巾着袋を取り出した。紫陽花から託されていたものだ。そうしてもう一つ、海春の亡くなった本堂で見つけたものを取り出す。すっかり血は固まっているようだ。これなら巾着袋を汚す心配もない。
「それは?」
五十嵐が手元を覗き込んでくる。
「海春の遺体の近くで見つけたんだ。シロイルカのヒレだって」
「なるほど。でも……おかしいですね」
五十嵐は、ヒレをまじまじと見た後、巾着袋を覗き込んだ。中身は、神田が持っていたクマのぬいぐるみの腕と、涼花の首に刺さっていたミカちゃん人形だけだ。
「おかしいって何が?」
「遺体の傍で身代わりの一部が見つかるんですよね。頭は涼花さんで、ぬいぐるみの腕が神田さん。そのヒレが海春さん……」
「ああ、紫陽花さんのは見つからなかったんだ。身代わりを預けてなかったらしいから」
「そういうことですか」
「とりあえず、作戦会議しよう。紫陽花さんと海春と考えてたことなんだけど……」
真人が座ると、向かいに五十嵐も座った。真人の話に耳を傾けてくれる。
「お焚き上げをするんだ。薪とかは用意されてる。一応カタシロ様をおびき出そうと思って人形を作ってみたんだけど、それは多分効果ない。でも、お盆は明日で終わりだ。少なくとも俺たちは今日明日一緒に行動して、カタシロ様が出てくるのを待ちたい」
結局、離殿に人形を納めたところで、紫陽花も海春も殺されてしまった。となれば、もう向こうから来るのを待つしかない。
「出てきますか、カタシロ様」
「分かんないけど、もう方法も無いし……」
カタシロ様が身体を求めるのは盆の時期。百年周期で何かがあるということは、その期間中に新しい身体になるためにカタシロ様も動くはずだ。現に今日は紫陽花と海春と立て続けに犠牲になった。カタシロ様も焦っているのかもしれない。
「確かに、そうですね。僕もカタシロ様に、遭遇したことは、まだ無いので、おびき出すとしたら、襲われるのを、待つしかない」
「……はっきり言っちゃうとそうなんだよね」
「でも、それしかないんですよね」
「文献を調べたけど、結局封印する方法も見つからなかったし」
真人はまた重苦しく息を吐き出した。
「では、平気です。それで行きましょう」
「ごめん、五十嵐。こんなことしか思いつかなくて」
「良いんです、謝らないでくださいって」
そう言って、五十嵐が真人の背中を撫でてくれる。
五十嵐は協力してくれることになったものの、久世はどこかに行ってしまった。
胸騒ぎはずっとする。それは、状況が状況だからだろうか。
夕飯も早々に、真人は床に就くことにした。もう明日、お焚き上げをすることになる。もし上手くいかなかったら? 明日目が覚めたらすでに久世と五十嵐がいなかったら? そもそも真人が寝ている間に襲われるかもしれない。
そんな不安が頭を渦巻く。真人は布団に潜り込むと、掛布団を頭まで掛けて目を閉じた。
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