姉妹

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姉妹

 お祭りがあるわけでもないのに、大きな街の通りは人であふれていた。  ただでさえ人ごみは苦手なのに、長旅で疲れてフラフラのウツロは目が回りそうだった。  なにやら早足で歩いてくる男に道を譲ろうと後ずさった途端、背中と後頭部を思い切り何かに打ち付けた。 「いった~!」  振り返ると、家財道具を積んだ荷車がある。 古いスタンドや着物を入れるつづら、中に入った食器がのぞく竹で編まれた箱。そのほか細々(こまごま)としたものが載せられていた。そこのタンスの角に頭と背中を打ち付けたらしい。 「ああ、大丈夫ですか!」  荷車をひいていた若い男は、慌てて駆け寄ってきた。  どこかふんわりとした、気弱そうな雰囲気の青年だった。  紺の着物からのぞく手足はほっそりとしていて、顔は整っている。 「ああ、平気平気」  ウツロはそう言ったけれど目がチカチカする。思わず頭に手をやると、指先に濡れた感触がした。  見てみると、血が付いている。どうやら、運悪く角の金具の所が当たってしまったらしい。  慌てたのは、荷車を引いていた青年だった。 「ああ、大変だ。どうぞ家で手当てをさせてください」  確かに頭から血を流したまま、あてもなく街を散策、と言う気分にはなれない。 「そうしてくれればありがたいです。お言葉に甘えさせていただきます!」  道々聞いたところによると、男は春潟(はるかた)と言う名前らしい。父の会社を手伝っているという。少し話しただけだが、なかなか好青年のようだ。  案内された家は、小さな庭のある、この辺りで標準的な大きさだ。 「どうぞ。といっても、ここは僕の家ではないけれど」 「え?」  困惑しているウツロをよそに、春潟は庭の隅に荷車を置く。 「戻ってきたよ」  春潟は家の方へ大きく呼びかけた。 「遅かったのね、春潟さん」  庭と接している掃き出し窓から、春潟と同じくらいの歳の女性がひょっこりと顔を出した。 (わー、きれいな人)  ほっそりとした顔の輪郭。大きな瞳とかわいらしい小さな鼻に、艶っぽい唇がアンバランスで、それが不思議な色気をかもし出していた。 「家財道具は売れませんでしたの? あら、お客さん?」  女性はウツロを見て小首をかしげた。 「あー、実は、彼――ウツロ君って言うんだけど――にケガをさせてしまって」 「本当?」  女性はいったん家の中へ引っ込んでいった。庭に出てきてくれるようだった。 「彼女は、鈴音さん。ここの家の娘さんです」  女性が出てくるのを待つ間に、春潟が説明してくれた。  玄関から出てきた鈴音が、ウツロに歩み寄ってきた。傷口を押さえた手の方を心配そうに見上げる。  別嬪(べっぴん)さんに間近で見つめられ、ウツロはちょっとどきどきした。 「大丈夫ですか? ケガって、なにがあったんです?」 「実は、荷車にぶつかってしまって」  ウツロが今まであったことを説明する。 「まあ、春潟さん、気をつけないと」  春潟はバツが悪そうな顔をした。 「ウツロさん、家に入って、ちゃんと手当していってくださいな」 「は、はい。そうさせてもらいます」  鈴音について家に向かいながら、ウツロは庭に停められているに荷車をチラリと目をやった。 「そういえば、大荷物ですけど、お引っ越しでもするんですか」 「いえ、そういうわけでは」  軽く振り向いた鈴音の頬には、ぽっと赤みが差していた。  春潟は優しくほほ笑んだ。 「彼女は、僕と結婚することになりまして」  その言葉を鈴音が補足する。 「ですから、私の私物を売って整理しようかと。春潟さんは、それを手伝ってくれていて」  つまり、春潟は要らないものを売りに行った途中でウツロに出会い、戻ってきたらしい。 「ああ、そうだったんですか。ご結婚、おめでとうございます」  ウツロの言葉に、二人は少し恥ずかしそうに笑った。  その様子は幸せそうで、なんだかこっちまでニヤニヤしてしまう。 「本当はもう一人、お友達がお手伝いに来てくれるはずだったんですが、遅れているみたいで」 「へえ」  ウツロは、大きな和室に通された。  大きな四角い卓があって、その周りに座布団がいくつか置かれている。 「どうぞ、お座りになって」  鈴音に勧められるまま腰を下ろすと、春潟が髪の毛をかき分け、傷を確認してくれた。 「よかった。結構血が出ていますけど、傷は思ったより大きくないです。深くもないし」  いつの間にかいなくなっていた春潟が、たらいに貼った水と、手ぬぐいを持ってきてくれた。もう夫婦のようになれた分担作業だ。  春潟がかたく絞った手ぬぐいで傷を拭ってくれる。 「いてて」  冷たい水が傷口に染みる。 「おや」  傷口を見た春潟が、顔をしかめる。  手ぬぐいについたウツロの血は、鮮やかな赤ではなく、かすかに墨を混ぜたようにドス黒かった。 「ああ、驚きましたか。実はボク、ちょっと病気を持っていて。あ、でも血を触ってもうつる物ではありませんので安心してください」  うつらない、と言ったとき、春潟は少しほっとしたようだった。  その正直な反応に、ちょっと苦笑した。 「おい、いるか」  その時、庭で威勢のいい声がした。  あいさつ代わりに片手をあげてやってきたのは、明るい感じがする青年だった。茶色の強い短髪に、大きな目。  春潟が優しそうな雰囲気なら、この青年は豪快な感じで、体もがっしりしている。 「なんだよ、咲朗(さくろう)。今頃来たのか。もう全部家具を荷台に積みこんじゃったよ」  春潟は少し怒ったように言った。 (そういえば、もう一人友人が来るとか言ってたっけ) 「悪い悪い」  咲朗というらしいその男は、悪びれもしないで家に上がり込むと、畳にどっかりとあぐらをかいた。 「あれ? この人は?」  そこでようやくウツロに気付いたらしい。  ウツロは会釈をした。 「いや、それが。荷車をぶつけてしまって……」  春潟が、ウツロがここにいる理由を説明する。 「ぶつけたって。春潟、気をつけろよ。こんなに大ケガさせて」  ウツロの頭は、ガーゼを固定するために包帯が巻かれ、なんだか大げさな感じになっていた。 「いえいえ、傷自体は大したことないんですよ」  ウツロは慌ててフォローする。 「そんなことより、春潟さんのお友達ですよね? なんでも、春潟さんと鈴音さんはご結婚なさるとか」  話のネタに振ってみると、咲朗はぱっと顔を明るくした。 「ああ、そうなんだ! きっと鳴美(ゆきね)も喜んでくれるだろう」  咲朗がそう言った途端、春潟と鈴音の間に少し緊張した空気が流れたように思えた。 「鳴美さん?」 「ええ、私の妹です」  鈴音は笑顔を作った。  そして襖を開け、隣の部屋にむかった。そしてごそごそ何かやっていたかと思うと、小さな四角いお菓子の缶を持ってきた。  卓の端(はし)に缶を置く。中を開けると、写真が束になって入っていた。  鈴音は、その中の一枚を手渡してくれた。  大きな木の下で、四人の男女が並んで笑っている。  なんとなく今の面影があるので、男の子二人が誰なのか分かった。幼い時の春潟と咲朗。  そして女の子が二人。その女の子は―― 「鈴音さんが二人?」  ウツロが思わずそう言うほど二人はよく似ていた。  真っ黒な髪も、丸い輪郭も小さな唇も一緒。ただ、よく見ると目の形は一人が少しきつく賢そうで、もう一人は大きく優しそうな感じだ。  鈴音は、きつい目の方の女の子を指さした。 「私の双子の妹、鳴美(なるみ)です。妹は数年前に、亡くなってしまって」 「あ、ああ……」 (だから鳴美さんの名前が出たとき、鈴音さん達の空気がおかしかったのか……) 「これは無神経なことを聞いてしまって……」  慌てて謝るウツロに、鈴音は「大丈夫ですよ」と笑ってくれた。 「それにしても、本当にそっくりですねえ」  ウツロの言葉に、鈴音は「ふふ」っとかすかに笑い声をあげた。 「見分けるのは簡単ですよ。右目の下に泣きぼくろがあるのが鳴美です」  目を細めてよく見ると、たしかに少女には泣きぼくろがあった。 「でも、妹の死体が見つかったときは、警察もびっくりしたみたい。『私か妹か、どっちなんだ』って」 「警察って……妹さんは事故で?」  病気でなくなったなら、事件になることはないだろう。  あまりつっこんで聞くのも失礼かと思ったけれど、つい気になって聞いてしまった。 「いえ、殺人事件に巻き込まれて……」 (思った以上に深刻な話だった)  さすがに少し気まずさを感じる。 「あ、ああ、そうなんですか。犯人は……」 「まだ見つかっていません。犯人も、凶器も」 「……」  一体どんな事件だったのか、詳しく知りたい気はしたけれど、さすがにウツロもそこを根掘り葉掘り聞けるほど無神経ではない。  そこで少しだけ、会話が途切れた。  まるでこの場にいるのが耐えられないと言うように、春潟はすっと立ち上がった。そしてぶらぶらと庭に出ていった。  その背を見送る鈴音と咲朗は、少し心配そうだった。  気を取り直したように、鈴音は缶のフタを手にとった。 「では、これはもうしまってしまいますね」  鈴音がフタを閉めようとした時、缶に入っている写真の一枚に目がとまった。  なにかお祭りでもあった日の物だろうか。よそ行きの着物を着た人々が行きかう参道で、今よりも少し若い春潟と鳴美が並んで立っていた。身を寄せ合って、何か語り合っている。  その二人の表情や、絡み合う視線、鳴美の肘にそえられる咲朗の手。そのどれもが、お互い愛し合っているのを告げていた。 (え……)  それがどういう意味なのか頭の中で消化する前に、フタが閉じられた。  なんだか、見てはいけないものを見てしまった気がした。   さっきの直感が正しければ、春潟さんは妹の鳴美が死んで姉の鈴音と婚約した。  だとすると鳴美の話になったとき、春潟が出て行った理由がわかる。前の恋人を思い出して思うところがあったのだろう。 (いや、でも……)  春潟と鳴美が想い合っていた、というのもウツロが勝手に思っただけだ。  人のことをあれこれ勘繰(かんぐ)るのはやめた方がいいだろう。  それにそろそろ、痛みも落ち着いてきた。 「さてと。長居をしてしまいまして」  ウツロは宿に戻ることにして、鈴音と咲朗と別れのあいさつを交わした。  家を出ると、春潟は広い庭の隅にたたずんでいた。  ウツロに気づくと、無表情だった顔に愛想笑いを浮かべる。 「ああウツロさん、もう大丈夫ですか」 「ありがとうございます。もう血も止まったので帰りたいと思います。本当にお世話になりました」  春潟は軽く頭を下げた。  あいさつを返し庭を通り過ぎ、通りへ出る。  不幸なことがあったようだけれど、春潟さんと鈴音さんが幸せになってくれればいいと、ウツロは密かに願った。  ウツロが去り、鈴音と咲朗は部屋に残された。  大きな窓から、こちらに背を向け庭を歩いている春潟が見える。どうやらすぐに帰ってくるつもりは無いようだ。  鈴音は、その姿をじっと見つめている。  咲朗が、そっと彼女に声をかけた。 「まだ気に病んでいるのか、鳴美のこと」  後ろめたいことがあるかのように、鈴音は顔をそむけた。 「二人とも仲がよかったもんなぁ! 鳴美になんでも欲しがる物をあげて」 「……」 「優しい鈴音のことだ。妹が怒るんじゃないかと思ってるんだろう?」  鈴音は答えない。 「確かに、春潟は鳴美に惚れていたんだと思う。でも、鳴美は亡くなってしまったんだ。もう、幸せになってもいいと思うよ」 「……うん」  返事はしたけれど、咲朗の言葉は鈴音に届いていないようだった。  鈴音は庭に立つ春潟を見つめ続けている。  春潟は一見、庭の花に見とれているように見えた。  それともそう見えるだけで、遠い目をして考え事をしているのかも知れない。 「それに、きっと鳴美も喜んでくれると思うよ。大好きなお姉さんが幸せになるのなら」 「そうかしら」  鈴音は咲朗に振り返った。  静かな笑みを浮かべているだろうと知らずに予想していた咲朗は、少し驚いた。  鈴音の眉はわずかにしかめられ、どこかしらすさんだ、軽い嘲笑が浮かんでいた。  意外な表情を見て動揺したのをごまかすように、咲朗はことさら明るくいった。 「だって、鈴音も鳴美も仲がよかったじゃないか。鈴音は、色々な物を鳴美にあげたり……」 「ええ、そうね」  そう答える鈴音の表情は浮かないままだ。  庭にいた春潟が振り返った。  鈴音が軽く手を振って応える。しかし、その笑みにはどこか疲れたようだった。  ウツロの夢の中で、誰かが泣いていた。  周りは真っ暗で、空や大地も見えない。闇の中、女性のすすり泣きだけがどこからともなく聞こえてくる。初めて聞いた、それでいてどこかで聞いたような声だ。 (誰? 誰が泣いてるの?)  パチン、パチンと枕元で固く小さな音がする。トランクの留め金が外れる音。  自分が眠っていて、その枕元のトランクが動いているのだと分かっていた。  けれど、意識の半分は夢の世界の中だ。  何がおこっているかは分かっているが、目を開けることはできなかった。  だからトランクからむっくりと上体が持ち上げ、伸ばした足で畳を踏んだ人形の顔を見ることはできなかった。けれど、それがなぜか鳴美の魂だと分かった。 (ああ、お姉さんにおめでとうを言いに行くのかな)  さらさらと衣擦れの音がする。枕のすぐ上を、誰かが横切っていった。ふすまが開く気配がする。ふんわりと香の香りをかいだ気がした。  いつの間にか、すすり泣きは止まっていた。 (久しぶりに死んだ妹に会ったら、鈴音さん驚くだろうなぁ)  ぼんやりした頭で考えた。  廊下を踏むきしみが遠ざかっていく。 (それとも、春潟さんのもとに行くのかな。どちらにしても、仲良く過ごしてね)  ウツロは、もそもそと寝返りを打つと、そのまま深い眠りに沈んでいった。  寝付けないのは、久しぶりに写真で鳴美の顔を見たからだろう。  春潟は、布団の中で一人物思いにふけっていた。 (自分は、鈴音を愛してるのだろうか)  今まで密かに何度も繰り返していた疑問だ。そして、その後はいつも同じ答えにたどり着く。 (もちろん、愛している)  でも、すぐに「本当に?」と聞き返される。 (本当に、鈴音を愛しているのか? 鈴音自身を。鳴美の身代わりではなく?)  胸を張ってうんと言えなかった。鈴音が微笑む時、うつむいているとき、そうしたふとした時に、鳴美のことを思い出す。 (私は鈴音に鳴美を重ねているだけでは無いのか。そんな気持ちで結婚するのは鈴音にも鳴美にも失礼なんじゃないか)  鈴音はどうなんだろう。こんな僕のためらいを知っているのだろうか。  廊下をきしんだ音がして、考えは中断された。 (誰だ?)  夜中、家族はこの廊下を通ることはない。 (泥棒か? それとも気のせいか?)  心臓が大きく跳ね始めた。ツバを飲み込む音が、やたらと大きく聞こえた。  いい歳をした男だが、得体の知れないものがそばにいるとなると怖ろしい。  横になったまま、様子をうかがう。  障子に人影が映る。着物の女性のシルエットだった。  なぜか恐怖が少しずつ薄らいでいき、心が落ち着いてきた。どこかでこの人影は自分を傷つけたりしないと思える。  障子が開けられるかすかな音。  すでに闇になれていた春潟の目が、浮かび上がる白い着物の女性をとらえた。 「鈴音……?」  入ってきた顔を見たとき、思わずつぶやいていた。  真っ黒な髪も、輪郭も、鈴音と同じだ。いや、鈴音では無い。右目の下にほくろがある。 「鳴美」  そんなはずはない。鳴美は亡くなった。だから、ここを訪れるはずはない。  そう頭の中で分かってはいたが、それほど異常とは思わなかった。闇の中に浮かぶ姿が神秘的で、夢の中にいるようだったかもしれない。  真っ白い着物を着た鳴美は微笑みを浮かべていた。  亡くなった時と同じ年齢で、よく見ると今の鈴音より少し若い。  なにか声をかけたいが、なにを言っていいのか分からない。春潟はただ黙って彼女を見つめ続けた。  鳴美は静かに春潟が寝ている布団の横に正座した。  つられるように、春潟は体を起こした。鳴美と向かい合って座る。  真っ白な顔をしているほかは、目の輝きも唇も、記憶にあるものと全く一緒だった。  殺されたとき、胸に突き立てられた刃物の跡もない。 「ああ」  涙が流れた。春潟は震える手を伸ばす。そっと鳴美の頬を撫でた。ひんやりとして、柔らかい。 「本当に鳴美なのかい?」  鳴美はそっと手を重ねてきた。互いの手を片頬に重ねたまま、小さな額を春潟の肩にのせる。  少しでも動いてしまったら、この奇跡のような状況が崩れてしまいそうで、春潟は動けなかった。温かな蜜の霧が頭にかかったように、現実が遠くなっていく。  布越しの柔らかな感触は、ぬくもりこそないものの生き物のそれで、幽霊とは思えなかった。  どれぐらいそうしていたか、肩に乗っていた頭が浮き、鳴美は春潟を見つめてきた。そして今度は鳴美が両手で春潟の顔を挟む。       口づけをしようとするように、鳴美は顔を近づける。  その、血のような赤の鮮やかさが、春潟を現実に引き戻した。 「やめてくれ!」  細い肩を押し返して身を引いた。  なぜか一ぺんに、魔法が解けたようだった。  死者が生き返る。そんなことはあり得ない。いや、あってはいけないことだ。不自然だ。  驚いたように、傷ついたように、鳴美は目を見開いて春潟を見つめる。 「ごめん、でも…」  いつの間にか流れていた涙を、子供のように無造作に袖でぬぐう。  しばらく呼吸を繰り返し、心を落ち着かせる間、鳴美は静かに待っていてくれた。 「ゆ、鳴美……」  震える唇を開き、目の前にいる死者を呼ぶ。 「鳴美、時間は進むんだ。君が亡くなってから、いろんなことが変わったよ」  自分自身の心を確認するかのように、春潟は語り始めた。 「僕は、鈴音と婚約をした」  鳴美の表情に驚きがなかったのは、予想していたのか、それともよく言われるように空の上から見てすでに知っていたのか。 「確かに、昔は君のことを愛していた。でも、でも今は違う」  一言発するごとに迷いが晴れていくようだった。 「今は鈴音を愛しているんだ。だから……」  成仏してほしい。その言葉は涙でかすれてしまった。  鳴美は、しばらくじっと生前の婚約者を見つめていた。  やがて、わかったと言うように鳴美は黙ってなずいた。 「ありがとう、鳴美」  心の底に重くわだかまっていた物が、少しずつ溶けてなくなっていく。  鳴美は、きっとこのために会いに来てくれたんだろう。春潟はそう思った。  僕の本当の気持ちに気づかせるために。鳴美への迷いをふっきるように。  春潟はしっかりと鳴美の瞳をみつめた。 「もう迷わない。鈴音を幸せにするから」  鳴美は沈黙したままだ。  そして、ゆっくりと立ち上がる。そして春潟の手を引いた。まるで最後の散歩に出ましょう、と誘うように。 「どこか、連れて行きたいところがあるのか?」  鳴美は応えない。  その手を振り解くことができず、春潟はゆっくりと立ち上がった。  玄関を開け、外に出ると、ひんやりとした空気が体を包む。  空は星であふれていた。月は明るい。白い鳴美の着物が、自らぼんやりと光を放っているようだった。 (これは現実のことなのか)  前をいく鳴美の小さな足音。地面には彼女の影が伸びている。  でも、前をいく少女は確かに死者だ。 (このまま、黄泉(よみ)の国に連れていかれるのだろうか)  少し前なら、「それもいい」というどころか、嬉しいとすら思ったかも知れない。でも、鈴音と共に生きると決めた今、それは恐怖だった。  見慣れた道を通り、たどりついたのは幼い時よく鳴美と鈴音、それに咲朗と遊んだ神社。  石畳は月明りで濡れているようにつやつやと光り、参道の両脇にある灯篭(とうろう)には火が入っていない。神社を包む木々が、ざわざわと風に揺れた。  鳴美は、社殿の横を通りすぎて裏へとまわった。 一本の木の前で、鳴美は足を止めた。どうやら、あの世や異界へ連れてこられたというわけではないらしく、春潟はほっとした。  鳴美は、うつむいてじっと木の根元を見つめている。 「そこに……何かあるのか?」  鳴美の細く白い指が一点を示した。  朝になりウツロは空っぽのトランクを抱えうろうろしていた。 「おーい、どこ行った?」  不思議なことに、魂が入って動き出した人形は、そう遠くにいくことはない。それに気づかなかった最初の方は、憑いている間列車にでも乗って遠出をしていたらどうしようとビクビクしていたものだが。  その場に執着を遺した霊が入りやすく、離れることを望まないのかも知れない。  いつの間にか、ウツロは神社にたどりついていた。  参道の奥に、大きな社殿が見える。  賽銭箱の前まで来ると、誰かがぼそぼそと話をしている声が聞こえる。  どうやら社殿の裏から聞こえてくるようだ。 (誰か、秘密の話でもしているのかな? あまり、ぬすみ聴きしない方がいいけど……でも、ほら、人形がいるかも知れないし!)  人形探しもそうだけど、何を話しているのか気になって仕方ない。社殿の壁に貼りつくようにして声の方へにじり寄っていく。  鈴音と春潟が立っていた。  ウツロは、社殿に貼り付いて様子をうかがった。  何か言い争っている途中なのだろうか。春潟が鈴音の手首をつかんでいる。  鈴音は春潟の手を振りほどこうとしているが、逃れられないようだ。 (何やってるんだろう)  鈴音は、強い口調で言った。 「分かりました、どこにも行きませんから、そんなに手首をつかまないで。痛い!」  春潟は応えない。硬く口を閉ざし、怒りを抑えているように見えた。 「ねえ、何か放してくださらない?」  鈴音は軽く手を振り払おうとするが、春潟は動かない。  その異様な雰囲気に、鈴音は少しおびえているようだった。 「おーい、春潟どこだー」  異様な空気を和ませるような、呑気な声がした。  ウツロが隠れている社殿の反対側から、ひょっこりと人影が現れた。  なんだか眠そうな様子で現れたのは咲朗だった。 (あ、あぶなー、もしこっち側からこられたらバレる所だった)  ウツロは思わず胸を押さえた。 「咲朗さん」  鈴音は少しほっとしたようだった。 「なんだよこんな所に呼び出すなんて。お前ら何? 痴話げんかでもしてるのか?」  場を和ませようとしているのか、おどけた様子で咲朗が言った。  でも春潟は表情を緩めることもなく、無言で咲朗を見つめた。いや、にらみつけた。 「お、おい、どうしたんだよ。何とか言えよ」  さすがに様子がおかしいのに気づいたのだろう。咲朗の言葉にほんのわずかにいらだちとおびえが混ざっている。  春潟が無言で懐に手を突っ込んだ。 「これを見つけたんだよ」  取り出されたのは、白い布の包みだった。布を外すと、そこには何か茶色い、細長い物が乗っている。  少し離れた場所にいるウツロは、目を凝らして初めてそれが何か分かった。さびて、所々に土がついた、大き目の包丁。 「あそこから掘り出したんだ」  春潟は、近くの木の根元を指さした。確かに落ち葉に埋もれた地面には掘り起こされ、また埋め戻されたような跡がある。 「こ、これは」  咲朗の声が、少し裏返っていた。  鈴音は不思議そうに包丁を眺めている。いったいこの錆びた刃物がなんなんだ、というように。 「鳴美を殺した凶器だよ」  包丁を見ていた鈴音は、怯えたように身を引いた。 「ま、まさか。どうやって見つけ出したんだ」  咲朗は、こめかみの汗を手でぬぐった。  恐怖と緊張を緩めようとするように、大きく息を吸い、吐く。 「鳴美が家に来たんだよ」  春潟は、無表情で言った。 (ああ、やっぱり人形に入ったのは鳴美さんの魂だったのか)  ウツロは特に驚かなかったが、咲郎は大きく息を吸って体をのけぞらせた。  それからハハハ、とわざとらしい笑い声をあげる。 「おいおい、幽霊でも出たって言うのか。タチの悪い冗談はやめろよ」  春潟は、咲朗に合わせて笑ったりはしなかった。ただ、まっすぐに咲朗を見据えた。 「ああ、そうだよ。夜に鳴美が会いに来てくれたんだ」  鈴音が息を呑んだのだろう。体を強ばらせたのが遠目からにも分かった。  残酷なほど淡々と春潟は続ける。 「そして、凶器の有りかを教えてくれた。犯人の名前も地面に書いて教えてくれたよ」 「ばかな、そんなこと、ありえない」  薄い着物に覆われた咲朗の背が、じっとりと汗に濡れていく。 「鳴美を殺したのは、お前だな」  まるで仇(かたき)同士のように春潟と咲朗は睨み合った。いや、もし春潟の言うことが本当なら、咲朗は春潟の婚約者を殺した仇か。  そして、ようやく咲朗が口を開く。  片方の口角を吊り上げ、歯をむき出しにして微笑んだ。 「ああ、そうだよ」 (えええええ!)  驚きの声をあげそうになって、ウツロは口を押さえた。 (この人、鳴美さんを殺しておいて、平気な顔でそのお姉さんや友人と付き合ってたのか!)  開き直ったように咲朗は叫んだ。 「ずっとずっと、鳴美の事を愛していたんだ!」  決壊したように、咲朗の口から言葉があふれだす。 「鳴美だって、俺のことを好きだって言ってくれたんだ!」  春潟は、信じられないというように目を見開いた。 (つまり、生きてるとき鳴美さんは二股かけていたのか)  ちらりと盗み見た写真。あの時、鳴美と咲朗が想い合っていると思ったのは間違いではなかったということだ。  鈴音は軽蔑の混ざった苦々しい視線を咲朗にむけている。  興奮した咲朗は、言葉があふれるのを止めることができないらしい。 「そうさ、俺のことを好きだって! お前よりもな! それなのに、お前と結婚するとか言い出して!」  そして哄笑(こうしょう)した。 「だから、だから殺してやったんだ!」  その言葉を聞いたとき、無表情だった春潟の顔が変わった。  威嚇する獣のように歯をむき出しになり、目がつり上がる。血がのぼった顔が真っ赤を通り越しどす黒く染まっているようすは、別人のようだった。  春潟が包丁をつかんだ。柄をつかむ手は震え、甲には血管が浮かび上がっている。  鈴音が悲鳴をあげた。  サビた刃が、咲朗の腹に埋もれる。自身が愛した女性を殺した男の腹に。  痰を吐くような声をたて、咲朗は両膝をついて体を折る。彼の着物が赤く染まった。あふれた血がぼたぼたと地面に落ちる。  春潟は、右手に包丁を持ったまま、ぶらりと両手を下げる。両肩を激しく上下させ、荒い呼吸を繰り返した。  まるで幽鬼のようにゆらりと顔をあげ、恐怖で動けない鈴音をみやる。 「ごめんね、鈴音」 「あ、あ……」  鈴音は、像になったように動かない。 「君と結婚することはできないみたいだ」  そして、血に濡れた刃先を自分の喉元に向けた。 「うあああ!」  もう盗み聞きがばれるばれないどころではない。大声を上げ、ウツロは社殿の影から飛び出した。  遅かった。  春潟は血だまりの中に倒れた。  ウツロは、すぐに方向を変え、通りにむかい参道をかけた。 「警察! 警察!」  通りには、人がちらほらと行きかっている。  必死の形相で神社から出てきたウツロに、通行にはぎょっとした顔をした。 「誰か、警察を……」  通行人の一人が、警察を呼びに行ってくれた。  それから数十分後。  散歩途中の老人や、仕事に向かう途中に足を止める勤め人。倒れた春潟と咲朗の周りには、遠巻きに人が集まっていた。  朝食の準備の途中に抜け出してきたらしい主婦がひそひそと話し合っている。 「怖い話よねー、殺人事件ですって」 「春潟と咲朗だろ? あの二人、仲よかったんじゃないのか?」 「春潟も、結婚を控えてたってのに、何考えてるんだろうね……鈴音さんかわいそうに」  社殿後ろの砂地には血がしみ込み、さびた鉄のような臭いが辺りに漂っていた。  警官が何人か遺体を取り囲み、なにか話しあっている。  立ち尽くしたまま、鈴音は静かに涙を流している。 「あの……」  話しかけては見たものの、なんと慰めていいのかわからず、声に出たのはこんな言葉だった。 「酷いですね、咲朗さんは。妹さんを殺害するなんて」  ウツロに気づいているのかいないのか、鈴音は黙ってハンカチで涙を押さえている。  そして、独り言をいうように口を開く。 「本当に……本当に悪いのは咲朗さんかしら」 「え……」 「私は、妹が嫌いだったわ。妹も、私が嫌いだった」  写真の二人は、そんなに仲が悪くは見えなかった。少なくとも表面的には。  戸惑っているウツロをよそに、鈴音は話し始めた。 「『なんでも欲しがる物をあげて、仲が良かった』? 違う。いつも奪われていたのよ」  薄い笑みが、鈴音の顔に浮かんだ。それは、だんだんと狂気をおび、大きくなっていく。 「前にね、鳴美と父と、三人で買い物に行ったことがあるの」  ウツロは、黙ってその続きを待った。  この事件とは関係がなくとも、それはきっと言わずにはいられない彼女の訴えだろうから。 「そこでかわいい人形を見つけてね、私はそれが欲しくなった。父に買ってくれって頼んだら、高価だからダメだって。  そしたら、鳴美まで欲しいってねだり始めた。もちろん父は許さなかった。  私はそこで諦めたけど、鳴美はあきらめなかった。何度も何度もおねだりをして、ついに人形を買ってもらったの。それで、妹はその人形どうしたと思う?」  鈴音は目を巡らせて、ウツロをながめた。  ウツロは少したじろいた。 「た、大切にしたんじゃないですか? そんなに必死にお願いして買ってもらったんだから」 (まあ、そんなありきたりな答えならわざわざ鈴音もきかないだろうけど……)  違っているのは分かっているが、それしか思いつかなかった。  案の定、鈴音は首を振った。 「あの子は、その人形を壊したの。私の目の前で。私に嫌がらせをするためだけにね。あの子は私が欲しかったもの、大切にしているものを奪うの。私を憎んでる」 (なんでそこまで……)  ウツロには二人が憎しみあう理由が分からない。同じ顔、同じ女性、同じ歳なら、はり合うなというのが無理なのだろうか。  いや、仲のいい双子だっているはずだ。この姉妹の場合はそうだった、というだけだろう。 (僕は……)  ウツロにも、兄がいた。月郎(つきろう)という名だったという。ウツロがまれたときには亡くなっていて、姿も見たこともない兄。  もしも、月郎が生きていたなら、仲良くしていただろうか? それとも、憎み合っていただろうか。この姉妹のように。 「利用されたのよ、咲朗さんは。私への嫌がらせとして」  鈴音の言葉に、ウツロは漂わせていた意識を現実に引き戻した。 (じゃあ、鳴美さんは、嫌がらせのために咲朗さんと恋人関係になったのか)  低い、かすかな笑い声がした。  野次馬の間に、目深(まぶか)に頭巾をかぶった女性が立っていた。  その女性はウツロ達が見ているのに気づくと、頭巾の縁を少し持ち上げる。  鈴音とよく似ているが、それより細い目と、片方にある泣きぼくろ。 「あ……」  ウツロが思わず声をあげたことで、鈴音もそこに立つ人に気づいたのだろう。「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。  周りの人間は、鈴音の異変にも、鳴美にも気づいていない。  ウツロと鈴音は、動けずにただ立ち尽くしている。  その間に、どこからか戸板が二枚持ちこまれ春潟と咲朗の遺体が乗せられた。  運び出される二人から興味をなくしたように、鳴美は遺体から背を向けた。そして神社の外にむけて歩き始める。 「待って!」  着物の裾が乱れるのも構わず、鈴音は妹に走りよった。  ウツロもその後を追う。  人形を回収しなければならないし、なにより、この騒動の顛末(てんまつ)を見届けたい。  運ばれていく遺体に気を取られている野次馬達は、突然走り出した鈴音にむけた視線をまた戸板の上の者にもどす。  野次馬から離れた木々の下で、鳴美は足を止め、振り返った。  鈴音は、鳴美の肩をこづいた。 「そんなに私が憎いの! 私のものをいつもいつも奪ってばかり!」  振り返った鳴美は、薄い笑みを浮かべている。  その表情が、鈴音の気持ちを逆撫でしたのだろう。鈴音は、鳴美の細い首に指を巻きつけた。  彼女を恨むのは無理もないだろう。  結局のところ、春潟が選んだのは鈴音ではなく鳴美だった。春潟は鈴音との結婚を捨て、鳴美の仇討ちのために咲朗を殺し、自分の命まで捧げたのだから。  そして今回、鳴美は咲朗だけでなく春潟までも奪い取ったのだ。春潟に咲朗を殺させるという形で。  目を見開き、歯をむきだし、鈴音は細い指を鳴美のノドに食い込ませていく。その顔は、咲朗を刺殺した時の春潟と驚くほどよく似ていた。  鳴美の、赤い唇の端が孤を描いた。それは、勝者が敗者をさげすむ時のような笑みだった。  突然鳴美の首がむくむくと太くなり、鈴音の細い指は、すっかりうまってしまった。首だけでなく顔の輪郭も膨らみ、白い肌を持った体が、布と綿の塊になる。 「……!」  驚いた鈴音は手を放した。  ぼとっと音をたて、人形は地面に落ちる。  着物が溶けるように消え失せ、はらはらと頭巾が地面に落ちて消えた。 「こ、これは……」  今ごろになって異常な事態に気がついたと言うように、鈴音は恐怖の表情浮かべた。  ついさっきまで、殺そうとした死者がただの人形になったのだから、驚きを通り越して恐怖になるのも不思議ではない。 「に、人形?」  はあはあと肩を上下させ、鈴音は荒い息を繰り返した。 「その人形には、今まで妹さんの魂が入り込んでいたのです」  ウツロは拾い上げた人形をパタパタ叩いて砂を落とす。 「妹の魂……」  その言葉を理解するのに、鈴音は少し時間をかけた。。 「妹の魂。じゃあ、私はやっぱり妹を殺したのね」  その言葉に込められていたのは、後悔や悲しみではなく強い喜び。 「ははは、私、ずっと妹を殺したいと思っていたの! それなのに、勝手に殺されちゃって! 今ようやく夢を叶えられた!」 「……」  この人形は、死んだ魂の寄り代(よりしろ)だ。  首をしめたからといって、もともと黄泉の国から来た魂をまた戻しただけで、生者を殺したと言えないのではないか。  ウツロはそう思ったけれど、黙っておくことにした。この人形について詳しいことは、持ち主であるウツロも知らないのだから。 「ねえ、その人形はあなたのもの?」  鈴音はウツロが抱える人形を見つめていた。 「うん、そうだよ」  人形をトランクの中にしまいながらウツロはうなずいた。 「母がなくなった時、押し入れから出てきたんだ。つづらに入っていてね。一緒に旅をしているんだ」 「そうなんだ」  自分で聞いてきたわりに、それほどウツロの言葉に興味はないようだ。もっとも今の状況では人形の出所なんてどうでもいいだろう。それがもたらした結果に比べれば…… 「ごめんね、この人形がなければ春潟と幸せになれただろうに」  鈴音は首を振った。 「これでよかったのよ。春潟の気持ちが分かったんだもの。彼は私を愛しているわけじゃなかった」  そしてウツロに背を向け、神社を去って行こうとした。  ふと、思いついたように足を止める。 「そんな人形、はやくどうにかした方がいいわ。一時的にでも死人を生き返らせるなんて、罰が当たるわよ」 「そうかもね」  ウツロは苦笑した。 (本当にそうだ。僕がこの人形でやろうとしていることは、八百万の神々の怒りをかうと思うよ)  自嘲気味にウツロは笑った。  ウツロは広げた原稿用紙を前にペンを手に取った。  九十六人目――鳴美 刺殺・のち絞殺
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