誘拐

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誘拐

 きしりと木がきしむ音がして、ウツロは目を覚ました。  障子の下にはめこまれた擦りガラスから廊下の灯りが差し込み、部屋の中をぼんやりと照らし出している。  いつもの通り、前に広がるのは旅の宿の見慣れない天井。布団の横には、急須や湯飲みが置かれたままの小さな卓。この体勢では見えないが、トランクは足元に置いてある。 (そうだ、今晩泊っているのは碧露荘(りょくろそう)だっけ)  昼間、女将に部屋まで案内してもらったときの事が頭にぼんやり浮かんでくる。  ウツロを従え、廊下を歩きながら宿の女将は言った。 『まあまあ、今の時期にご旅行ですか。どこにいかれるんです?』  幸い、ここ数日雨は降っていないけれど、今は梅雨の肌寒い時期だ。確かに旅行にはむかない時期かも知れない。 『いえ、特にどこというわけではないんです。ただ、あてもなくふらふらと』 『まあ、それはそれは。お客様のような方がたくさんいればいいんですけど。今この旅館はあなた様の他は女性の方が一人いらっしゃるだけで』  そこで、なぜか女将は声を落とした。 『篤代(あつよ)さんという名前でね、少し心配なことがあって……』 『は、はあ……』  いきなりお客さんのうわさ話だなんて。どうもここの女将は口が軽いらしい。 (ひょっとして、客が来ないのは時期が悪いんじゃなくて、女将のこの性質なんじゃないか?)  そんなことが頭に浮かぶ。 『篤代さんは、最近恋人に死なれたらしくて』  戸惑うウツロをよそに、女将はべらべらとしゃべり続けた。  なんでも、篤代さんは前にこの町に住んでいた事があるらしい。  数年前、よそからやってきた男と恋に落ちた。両親の反対を押し切り、駆け落ち同然で町を飛び出したのはいいけれど、最近になってその男が亡くなってしまったらしい。  そうしてこの町に戻って来たものの、家に帰りづらいのでこの旅館に泊っているという。 『後でも追うんじゃないかと心配で心配で。お客さんにこんなことを頼むのもなんなんですけど、もしも篤代さんが変なことをしそうだったら教えてくださいな。気づいたらいいので』  なるほど。女将さんはただ単に好きで噂話をした、というわけではないらしい。  たしかにそんなことが勤め先の旅館であったらたまったものではないし、そもそもあいさつを交わしただけの人間でも亡くなってしまったら寝覚めが悪いだろう。  それにウツロだって、人が亡くなるのを防げるならその方がいい。 (なんとなく、気にかけておいてあげるか……) (そうだ……そんなことがあったんだっけ)  再び木のきしむ音がした。  廊下を誰かが歩いている。 (誰だろ……しかもこんな時間に)  もしも篤代さんだったら? 深夜に一人で外へ出て行くなんて、穏やかじゃない。  もそもそとウツロは起き上がった。半分は篤代が心配で、もう半分は単純な好奇心から。気配をひそめて、布団を抜け出す。  ふすまを開けて薄暗い廊下をのぞくと、小さな背中が見えた。いちど昼に廊下ですれ違っただけだが、間違いない。篤代だった。  どこに行くつもりなのか、寝間着ではなく着物姿で、小さなカバンを持っている。 (まさか……どこかの木に首くくり用の縄をかけに、とか崖を探しに、とか?)  衣紋かけ(えもんかけ・ハンガーのこと)にかけてある外套を羽織る。大き目のコートなので、ボタンをかけてしまえば寝間着は見えない。  足音を忍ばせ、廊下へ出ていく。  その時、自室の隅で闇に沈んでいるトランクが、ぱっくりと開いているのにウツロは気づかなかった。  篤代は、ふらつきながら玄関の扉をくぐって出て行った。何かに操られているのではないかと思うほど、危うい足取りだ。  ウツロは、篤代から少し離れた壁の影から、彼女の背を見守っていた。  傍目(はため)から見れば、見守っているというより襲う機会をうかがっているように見えるだろうが、時間が時間なので、とがめる者は誰もいない。ただ月と星だけが道を照らしている。両端に並んでいる家には明かりもなく、戸を全て閉まっていた。  さわさわと揺れる木々の音と、どこかの犬の鳴き声が、静寂をかえって引き立たせているようだった。  誰もいない道路を篤代は進んでいく。  ふうっと冷たい風が吹いた。  篤代の前のわき道から、人影がヌッと現れた。  距離があるからはっきりとは見えないが、細身の男のようだった。  篤代がのけぞるように立ちすくむ。そしてその体が震えているのが見えていた。その手からカバンがぽとりと落ちる。 「まさか……陣一(じんいち)さん!」  篤代の問いに、人影は答えない。 「陣一さん……どうして私を置いて逝ってしまったんです?」  篤代の声は涙で揺らいでいた。 (亡くなったという恋人か)  その会話で、ウツロはだいたいのことを察した。  またあの人形が死人(しびと)の魂を取り込んだようだ。 「私、私、これからあなたの元へ行こうと」 (やっぱり、死のうとしていたんだ、篤代さん……)  男は、ゆっくりと重々しく首を振った。そして白い両手を伸ばし、力づけるように篤代の肩を包む。  篤代は、ネコが甘えるように額を恋人の肩に乗せた。彼女のすすり泣きが闇に流れる。  ようやく篤代が顔をあげたのは、しばらく時間がたってからだった。 「ありがとう。もう大丈夫。あなたの分まで幸せになる」  その声は明るく、背中しか見えないウツロにも微笑んでいるのが分かった。  篤代は涙を拭った。  次にその声が聞こえたとき、その口調は今までとは別人のように明るかった。 「幸せになって、あなたのもとに行くのはおばあちゃんになってからにするわ。おばあちゃんになっても、極楽で」  陣一は微笑んだ。そしてふっと体の力を抜いたように膝をつく。  その体が地面に倒れたときには、彼の姿はもう人形に変わっていた。  篤代は茫然と立ち尽くしている。弱い風が吹いて、その髪を揺らす。 「これは、夢?」  塀の影から、ウツロは姿を現した。  「いや、現実ですよ」  いきなり声を掛けられ、篤代は少し驚いたようだった。 「あなたは……たしか、私と同じ宿に泊まっていた旅人さん」  ウツロは人形に歩み寄ると、拾ってぱたぱたと埃を払った。 「この人形には、人の魂を取り憑かせる力があるんです」 「まあ、そうなの」  篤代は倒れた人形と握手をするように布製の右手をつかんだ。人の魂を取り込む人形なんて、不気味に思って当然なのに。 「ありがとう、人形さん。あなたのおかげで、陣一さんとお別れができたわ」  彼女にとって大事なのは、死者と再会し、生きる希望をもらったと言うことで、それがどんな方法でもたらされたかは、あまり関係がないのかもしれない。  微笑みながらウツロは人形を抱き上げた。 「そうだ。旅人さん。あなたにこれをあげるわ」  篤代は拾い上げたバッグのポケットから小さな紙を取り出した。切符だった。  迷い込んだら二度と出られないと言う森がある、北の大地へ向かうもの。 「本当はそこへ行って死ぬつもりだったの。でも、もういらないわ。払い戻しもめんどくさいし。あなたにあげる」 「あ、ありがとうございます」  どうせあてのない旅だ。こういった縁に乗っかるのも良いだろう。ウツロはそれをありがたくいただくことにした。 「さて、体が冷えちゃったな。篤代さん、宿に戻りましょう」  返事の代わりに、篤代は微笑んだ。  宿につくまで、二人とも一言もしゃべらなかったけれど、不思議と気まずさは無かった。 「おやすみなさい」  玄関に入ると、二人は挨拶をしてそれぞれの部屋へと帰っていった。  民家の庭に隠れていた力蔵(りきぞう)は、二人が宿に入ったのを見届けそっと通りに出てきた。  闇に紛れる黒い長袖、黒いズボン姿。腰のベルトには鍵開けの道具を入れた小さな革のケースがつけてある。異様に鋭い目が、男がまっとうな人間でないのを告げていた。 「死者の魂をとり憑かせる人形だと? まさか本当なのか?」  人形に死霊が入る。普通なら考えられないことだ。  けれど自分はさっき確かに人間が人形に戻るところを見た。  ありえない驚きと期待に高鳴った鼓動は、まだ収まっていなかった。 「ありがたい! これは神の助けだ!」  まさか、こんな奇跡が起きるなんて。  俺みたいな悪人に、神々が力をかしてくれるわけがない。なら、悪魔が誘惑をしてきているのか?  それならそれでかまわない。今のクソみたいな状況から抜け出せるなら。 (とにかく、今すぐ松秀(まつひで)と遠子(とおこ)に連絡を取らないと)  何が何でも、あのウツロとか言うやつを協力させるのだ。  にんまりとした笑みが口元に浮かぶのが分かる。宿に背を向け、力蔵は走り出した。  朝になり、さっそくウツロはご機嫌で駅に向かっていた。  今度向かうのは、北の土地だ。  新しい場所に向かう時は、いつでも胸が高鳴る。特に今回は片道分の切符代も浮いたし。  次は、どんな人や風景に出会えるのだろう。  今にも降り出しそうな曇り空も気にならない。旅用の荷物と、人形の入ったトランクも軽く感じる。 (もっとも、観光だけじゃなくて、目的のために頑張らないといけないけれど)  そう、ウツロには目的がある。それは…… 「うう……」  何か小さな声を聞いた気がして、ウツロは足を止めた。  気のせいかと思ったが、耳を澄ますと、やっぱり聞こえる。  家と家の隙間に、誰かがしゃがみ込んでいた。  紺の着物を着た、中年の男。痛むのか、腹を抑えてうずくまっている。 「あの、どうかしましたか?」  様子を見てあげたほうがいいだろう。  ほとんど土に戻った紙や落ち葉の山、むかでの死体、ひょろひょろの雑草をまたぎながら男の近くへ歩いていく。  だが、男はだいぶ具合が悪いのか、ウツロに気づく余裕もないようにうつむいているだけだ。 「あ、あの、大丈夫ですか」  ウツロは手を男の肩に乗せた。 (触った感じ、別に熱があるようには思えないけれど)  軽く揺さぶってみた。けれど男はうつむいたまま動かない。 「あの……?」  本格的に心配になり始めたころ、男がようやく顔を上げた。  短い髪、太い眉、こずるそうな目。  苦しそうな表情どころか、企みが成功したことをほくそ笑むような悪い顔だった。 「え?」 (なんかヤバい!)  後ずさろうしたウツロは、男に手をつかまれた。 「何? 何?」  ウツロが状況を理解する前に、手をつかまれたまま男に後ろへまわられる。  冷たく湿った布で鼻と口を覆われた。凍えるような感覚に、器官から肺まで塗りつぶされる。  「ちょっと」と叫んだはずだけど、くぐもった声しかでなかった。  もがいても、男の腕は離れない。  頭に白い霧が湧き上がる。急速に体から力が抜けていく。 (まずい!)  助けを求めて、塀の間に目を向けた。細い隙間から大通りが見えるが、行きかう人は全くこっちに気づかない。  伸ばした自分の手が、ぼやけて見える。 (誰か……)  霧はますます濃くなり、意識を白く塗りつぶした。  ほこりっぽい空気に、ウツロは一つくしゃみをした。そして、自分が硬い板の床に転がされているのに気がついた。ここに来るまでの間、結構手荒く扱われたようで、体中があちこち痛い。  立ち上がろうとしたけれど、体が動かず、頬を床から少し浮かせられただけだ。なぜか手足が縛られていた。 (誘拐、された? というか、ここどこ?)  動かせる限り顔を動かし、辺りを見回す。  棚には埃のつもったロープやカゴ、床には何が入っているのかわからない木箱。どこかの納屋(なや)のようだった。他にろくにモノがなく、ホコリがあちこち積もっているところをみると、今は使われていないようだ。 「よう、目が覚めたか」  床がきしみ、そばに誰かが来たのに気づく。  顔をのぞき込んできたのは、目つきの鋭い見知らぬ男だった。その後ろに、痩せた男と、黄色い着物の女性が立っている。  二人の着物にはド派手な模様が入っていて、マトモな職についていないのがわかる。 「き、君は……」  かがされた薬のせいか、声が枯れている。喉がひどく乾いていた。 「どうも。俺は力蔵って言うんだ」  目つきの鋭い男が言った。あっさりと名乗った誘拐犯に、ウツロは拍子抜けした。 (普通、犯罪者なら顔とか名前とか隠すものじゃないのか?) 「あ、あの、なんで僕を誘拐したんですか? 身代金とか無理ですよ。僕は天外孤独だし、旅の途中だから知り合いもいないので……」  力蔵の口は笑っているが、目が笑っていない。 「なあに、身代金が欲しいんじゃないんだ。ちょっと協力して欲しいことがあるだけだ」 「きょ、協力ってなにを……」 (たぶん、絶対ろくなことじゃない!)  力蔵は、ウツロの顔の真横にどすんとトランクを落とした。  ビクッとした拍子に変な咳が出る。 「この中に入っている人形、霊を憑かせることができるんだろ」  なんでそれを、と思ったけれど考えてみればウツロは人形に魂が乗り移ることを言いふらしはしなかったものの、人に隠したりもしなかった。  あの現象を見ていない人には夢物語だと思われるだろうし、見られてしまったのなら説明しないと収まらないと思っていたからだ。  きっと力蔵は誰かからこの人形の話を聞くか、人に変わる瞬間を見たのだろう。 それが、まさかこんなことになるなんて。 「それを使って死者を生き返らせて欲しいんだ」  力蔵は気味の悪い猫なで声でいう。 「お願いを聞いてくれたら殺したりしないから」  女性まで猫なで声だ。 (死者を蘇らせて、と言われたって、その辺をうろついている魂が勝手に入り込むだけで、僕が選べるわけじゃないんだけど)  そのことを言おうか言うまいか迷ったけれど、結局口を閉ざすことにした。もしそのことがバレたら、役立たずとして消されてしまうかもしれない。  緊張してツバを飲み込もうとしても、喉がからからだ。ウツロはゴホゴホと咳をした。 「す、すみません、水を……」  いらだったように力蔵は舌打ちする。 「まあまあ、力蔵。ほらよ」  痩せた男が、竹筒の栓を抜いて、口元に近付けてくれる。遠慮なく飲みほした。 「あ、ありがとうございます。ええと……」  お礼を言いたくとも名前がわからない。 「松秀(まつひで)だ」  黄色い着物の女が、松秀の後ろからひょいっと顔出した。 「あたしは遠子(とうこ)」 「で、でも、蘇らすって言っても、どこの誰を?」 「勘七(かんしち)という男だ」  力蔵が言った。 「それだけわかれば充分だろう。さっさとやってくれ」  力蔵はトランクを開け人形を取り出した。 「ちょ、ちょと! 勝手に触らないでよ!」 (これは大切なものなんだ!)  思わずウツロは叫んでいた。  力蔵が不快そうに顔をゆがめる。  (しまった!)  この状態で、誘拐犯を怒らせても得はない。 「へ、変に触ると、祟られるかもしれないよ」  ウツロは慌てて言った。  まあ、実際は触ったところで何もないのだけれど、さっき怒鳴ったのは力蔵のため、としておいた方がいいだろう。  力蔵は少し怒りを解いたようだ。 「……それに、霊を呼び寄せるには時間が必要だよ」  ウツロは真顔で嘘をついた。 「なに?」  力蔵はぴくりと右眉を上げる。 「あのね、死者を生き返らせるんだよ? そんなにホイホイできるわけないでしょ!」  何とかして時間を稼がなければ。  ウツロは必至に頭を巡らせた。 「いろいろと準備が必要なの。陣一さんを呼んだときだって大変だったんだから」  その言葉が本当かどうか見極めようと言うように、力蔵はウツロの目をじっと見つめた。  嘘がばれないように、ウツロは必死で無表情を装った。 「……いいじゃないの、信じてあげれば」  遠子が口を挟んだ。 「今さら、一日二日待ったって同じよ。もう三年も待ったんだもん」 と、意味ありげに笑う。 (三年?) 「余計なことを言うな!」  力蔵に叱られ、遠子は肩をすくめる。  「三年」が気になったけれど、今聞くことはできないようだ。  でも、とりあえず話をさせて、少しでも何か逃げ出すヒントを引き出さないと。 「ええと、その勘七さんと言うのは、どんな人だったんですか?」 「なんでそんなことをお前に教えないといけないんだ」  松秀が不愉快そうな顔をする。  ウツロは一つ咳払いをした。 「あのね、人の魂を呼び戻すには、その人のことをよく知ってないといけないんだよ」  誘拐犯達は、その言葉が嘘か本当か決めかねているような顔をしている。  ウツロは必死でそれらしい理由を考えた。 「人形に魂を入れるには、あの世にいる死者にこっちの世界に来てくださいって頼む術をしないといけないんだ。その時に、術者が生き返らせる対象のことをよく知っている方がいいんだよ。なんせ、あの世にはたくさん人がいるんだから」  力蔵はしばらく疑うような視線を向けていたが、やがて口を開いた。 「……。そうか。じゃあ教えてやる」  力蔵は物置の隅に置いてあった木箱に腰を下ろした。 「俺たちは、ある街で強盗したんだよ」  聞くんじゃなかったとウツロは後悔した。こんなことを知ってしまったら、口封じに殺されるに違いない。もっとも、誘拐されて、犯人の名前を聞かされた時点でそれは決まっていたかも知れないけど。 「それで、うまいことを大金を奪ったんだ。もちろん店に警察がやってくる。それはこっちも予測ずみよ。三人ともバラバラになって逃げる計画だった。そして一番足の速い勘七が金をどこかに隠し、ほとぼりが冷めた時に分けるって寸法よ」  なんとなく話が見えた気がする。 「でも、勘七のやろう、金の隠し場所を俺たちに伝える前に事故でおっ死(ち)んじまったんだよ」 (あー、やっぱり) 「それで、勘七さんの魂を呼び出して、そのありかを聞こうと……」 「そういうことだ」  力蔵がバシバシと肩を叩いてくる。 「ま、うまくいったらお前にも分け前をやるからさ」  松秀がへらへらと言う。 (嘘だ! 絶対嘘だ! 口封じに殺される!)  そう思ったけれど、ここはだまされたふりをしておいた方が良いだろう。 「ほ、ほんと?」  戸惑いながら喜んでます、という顔をしてみると、「もちろんさ」と松秀ニヤついた。 「じゃあ、僕の言う通りの物を用意して」  チョークで床に星型を描きながら、ウツロはため息をつきたくなるのをぐっとこらえた。それらしいものを床に描いてはいるが、どれくらいの間ごまかせるだろう。  この魔法陣もどきを描くために、三人に手伝わせて床に置いてあった木箱どかし、軽く掃除している。時間稼ぎのための一手間だったが、本来必要のない作業だと知れたら本当に殺されるかもしれない  でも、少し収穫はあった。力蔵たちが戸を開けたとき、隙間から外をのぞく機会があったのだ。  といっても、見えるのは木々だけで、助けを求められる人が通りそうもなかった。この物置小屋は、山の真ん中にあるようだ。おそらく炭焼き小屋かなにかに付属しているのだろう。  外は雨が降っていて、屋根に雨の当たる音がする。雨漏りをしているらしく、入口近くに小さな水溜りができていた。  柱から伸びた縄が、しっかりとウツロの腰に巻かれている。両手もしばられていて、腕を使って床に線を描くことはできても動きは制限されていた。  そもそも、そばでは松秀がナイフをこちらにむけて見張っているし、その隣では、遠子がしげしげとニセの魔法陣を眺めていた。自由に動けたとしても逃げ切れるかはあやしい。 「それにしても」  松秀は、何か恐ろしい動物を見る目を作業をするウツロに向けた。 「こんなものを描けるとは。ひょっとしてお前は妄一族(もういちぞく)の者か」  ほんの一瞬、思わず手をとめる。まさか松秀が一族の名を知っているとは思わなかった。 「妄一族? 何それ」  遠子が言った。 「怪しい術を使う一族の事だ。占いで未来を予想したり、金をもらって人を呪殺したり、権力者を裏で支えていたらしい」 「ええ? そんな一族なんて本当にいるの?」  そう聞き返した遠子の声には笑いが混じっている。 「本当だよ。俺は実際に会ったことがあるんだ」 (え?)  ウツロの手は今度こそ本当に止まってしまった。  なぜか得意げに松秀は言った。 「やたらキレイな顔をした男だったよ。なんだか、自分の里から宝を盗んだ女を追いかけていると言っていたな」  ただでさえこの非常時で動揺しているのに、よけいに鼓動が早くなった。 (母さんのことだ!)  母が里を逃げ出したのは、もう数年も前なのに、まだ探していたなんて。 「何ぼーっとしてるんだ!」  声をかけられ、現実に引き戻される。 「あ、ああごめんごめん」  慌ててウツロは最後の一本を書き終えた。立ちあがって、魔法陣を確認するふりをしてうなずいた。 「うん、後はこの真ん中に人形を寝かせておけばいい」 「寝かせておくって、あとどれくらいだ?」 「三日くらいかな」  本当はもっと日数が長くかかる設定したいけれど、長すぎたら「そんなに待てるか」とこの作戦を諦められてしまうかも知れない。  そうしたら色々と知りすぎたウツロは口を封じられてしまう。 「そんなにかかるのか」  松秀はうんざりしているようだった。 「仕方ないだろ。死者を呼びよせるのは大変なことなんだ」  その時、がたつく木戸が開いた。 「おい、準備はできたのか」  力蔵が片手に傘、片手に何か小さな布の包みを持ってやってきた。 「ほら、食い物だ」  力蔵は包みを掲げてみせる。  透子が水溜まりをまたいで力蔵のそばへ行く。  彼女のふとももが水面に映った。そこについたほくろまでも。  なんだか見てはいけない物を見てしまったような気がして顔を背けた。かあっと頬が熱くなる。 「はい、あなたの分」  透子の声がして、背けた顔を戻す。目の前に竹の皮で包まれたおにぎりが二個置かれる。  縛られた手首のまま、腕を伸ばしておにぎりをつかむ。腹が減っていたので、素直にありがたい。  ちらりとうかがうと、松秀は相変わらずナイフをこちらに向けている。  食事中に、何とか隙をついて逃げることができないかと密かに期待していたのだが、どうも無理のようだ。  おにぎりはありがたいが、見張られていてはゆっくり味わうどころではない。 「で、あとどれくらいかかるって?」  力蔵が松秀に聞いた。 「大体三日くらいだそうだ」 「ああ? そんなにかかるのか」  力蔵の言葉は明らかにいらだっている。 「まあ、いいじゃない。今まで何年も待ったんだから、いまさら。三日経ったら、大金手にして旅の空よ」  遠子がなだめるように言って、力蔵にしなだれかかる。 「ああ、行く先は海か温泉か……」  力蔵は遠子の頭をなでる。 (この二人は恋人同士なのか)  こっちは殺されないように必死なのにいちゃつくなんて呑気なものだ。 「じゃあ、あとは頼む。交代だ」  ナイフを力蔵に渡し、松秀は戸口にむかった。  遠子も後に続く。  静かにウツロはため息をついた。  次の日、ウツロはやることもなく焦っていた。  明日には人形に勘七の魂を呼ぶという、できもしない約束を果たさなければ命はない。  相変わらず、食事のときも用足しのときすらも力蔵か松秀、どちらかがいて逃げるスキはない。かといって、目当ての魂を呼び込むあてもない。  ハッキリ言って、絶体絶命という奴だ。 「おい、準備は進んでいるか?」  力蔵が小屋に入ると腕を組み、偉そうにウツロを見下ろした。 「準備も何も、見守っているだけだけどね」  ウツロは、大の字になって横たわっている人形を目で指した。一応、今この人形はせっせと日と月の精気を吸っているということになっている。 「これで明日儀式をすれば、勘七さんの魂が入ってくるはずです」 (なんてまさか、そんなことが起きるわけがない!)  背中に汗が滴る。 「早いところ金を掘り出して、勘七と合流したいもんだぜ」  力蔵は酒に酔い、ひどく上機嫌に見えた。他の場所で、金が手に入る前祝いでもやっていたのかもしれない。 「力蔵さんと勘七さんは、どこで知り合ったんですか? 一緒に強盗をしようなんて」  半分好奇心、半分打開策のヒントを求めてウツロは聞いてみた。 「学生の頃からの付き合いだよ」 (その割に、昔の友人に会うのを少しも楽しみにしていないみたいだな。金の場所しか気にしていないみたいで)  その想いは顔に出ていたようだ。 「そんな顔するなよ。これでも勘七が死んだって聞いた時は悲しかったんだぜ。もっとも、遠子のことじゃ安心したがな」  そういうと、力蔵はにやにやと笑った。 「遠子の奴、勘七にも色目使ってたからな。アイツは男好きでな。しかも上玉だろ? つらいよ全く」 (別に遠子は別に男好きってようには見えなかったけれど)  少し力蔵の被害妄想が入っているんじゃないだろうか。  まあ、遠子とは少し話しただけだし、勘七がどんな奴かも知らないけれど。 「じゃあ、まあ、がんばってくれよ」  バンバンとウツロの肩を叩いて力蔵は出ていった。  あの力蔵の性質は、後で使えるかもしれない。忘れないように頭に入れておこう。  ウツロは密かにそう思った。 (とにかく、明日のうちに誰かの魂が入ってくれれば……)  祈るような、というか、実際に祈りながらウツロは綿でできた人形を見つめた。  約束の日が来て、ウツロはこめかみに汗をかいていた。何とかして、ここから逃げ出さなければ。  一応、この二日間の間脱出の計画は立ててみたが、うまくいくかどうか自信がない。まあ結局、イチかバチか、やってみるしかないだろう。  小屋の中は、誘拐犯三人組が勢ぞろいしていた。魔方陣を避けると狭い小屋の中はほとんどゆったり座る余裕もない。皆、隅に立っている。 「さあ、始めてくれ」  力蔵にそう言われても、何をすればいいのかわからない。  心底逃げ出したくなったが、相変わらず力蔵のナイフはこっちに向けられているし、腰には相変わらず縄が巻かれ、柱と繋がれている。 「わかった」  なんだか緊張しすぎて心臓が痛い。  ウツロは一つ咳払いをした。そして呪文に聞こえるよう、むにゃむにゃと適当に意味のない音を言う。  緊張で呼吸が浅く速くなっているせいか、発声しづらかった。  それでもそれっぽくはなっているようで、松秀は何やら神妙な顔をしてる。  その様子に、なんだか無償に笑いたくなってしまった。 「これできっとうまくいくわね」  遠子が小声で力蔵に話しかけたのが聞こえる。  葬式の時に、退屈のあまり我慢できず兄弟か親戚に話しかける子供のように。 「そしたらきれいな着物を買ってくれる?」 「ああ、もちろんさ」  力蔵は、そう言って少し頬を遠子に寄せた。  脱出計画を実行するには、今しかない。直感的にそう思った。  覚悟を決め、ウツロは大きく息を吸った。 「ははは!」  思わずといった感じが出るように、ウツロは笑った。 「なんだ?」  めざとく力蔵が声かけてくる。  いや何でもないよ、というように手を振って、ごまかすふりをする。 「貴様、何か隠してやがるのか?」  思いっきり襟をつかまれ、ウツロは咳込んだ。  松秀が力蔵に「お、おい」と遠慮がちに声をかけるが、あまり意味はなかった。 「い、いや、別に隠してなんか……」  わざとらしく視線をそらす。 「何を考えている!」  力蔵に思い切り頬を殴られた。 「ああ、もう。いいよ、教えてあげるよ。空々しすぎて笑えてきたんだ!」  怒りのあまり隠すのが無理になった、というようにウツロは叫んだ。  実際、殴られてむかっ腹が立っていたから、怒りの演技は苦労しなかった。 「どういうことだ」  力蔵はウツロの着物を放し、怪訝(けげん)そうな顔をした。  ウツロは咳をしながら着物を正す 「ゲホ……あのね。遠子さんはね、力蔵さんを裏切って松秀さんと逃げるつもりだよ」 「は?」  驚いたのは、力蔵よりも遠子と松秀だった。それも当たり前だ。これはすべてウツロのでっち上げなのだから。 「まさか。俺が裏切るなんて。そんなバカなことがあるわけない」  その言葉には笑いが混じっていた。 「そうよ。何を言ってんだか」  遠子はあきれているようだ。  力蔵は、信じていい物かどうか決めかねているようで、。 「あのね、力蔵さん。松秀さんは遠子さんと浮気してるよ」 「何?」  力蔵のこめかみがピクリと動いた。  力蔵は嫉妬深い正確のようだ。この言葉を無視できないだろう。 「そして、力蔵さんを嫌っている。とってもね」 「は?」  心あたりのない松秀はきょとんとしている。 「それに、『金が入ったら、力蔵さんを殺して北の方へ逃げる』って言ってたよ。遠子さんと一緒にね。あなたの事を、『遠子さんを寝取られたのに気づかない馬鹿な奴』って言ってたかな」  さすがの松秀も怒ったようで、ウツロの襟首をひねりあげた。 「何を馬鹿なこと!」  ウツロは、わざと下品な笑みを浮かべる。 「だって、浮気したときのこと教えてくれたじゃない。『遠子さんの太ももにほくろがあって、それがかわいい』って」 「はひ?」  変な声を上げて、遠子は着物の裾を抑える。 「いっとくけど、僕が遠子さんと何とかしてそれを見たっていうのはありえないからね。遠子さんと僕が二人きりになったことはないんだから」  そのことは、力蔵が一番知っているだろう。  実際、ほくろの事を知ったのは遠子が水たまりをまたいだから見えただけだし。  それでも、遠子が進んで言うはずもなく、松秀が口を滑らせたとしか思えない内容をウツロが知っているという事実は、はったりとして効果は抜群だったようだ。  力蔵は松秀のことをにらみつけた。握りしめている拳の震えといい、ドス赤く変色した顔といい、暗く深く怒っているのがわかる。  ウツロはにらみつけられているのが自分ではなくて本当によかったと思った。  松秀は、しばらくあっけに取られたようにその顔を見た。  そして、ウツロにむきなおると、その襟元につかみかかった。おかげでウツロの襟元はもうよれよれだ。 「いい加減にしろよテメエは!」  力蔵は短気で、怒ったら本気で殺されかねない。なんとかして誤解をとかなければと必死なのだろう。 「撤回しろ、テメエ!」  殴られたどさくさに、ウツロが懐から取り出したのは篤代からもらった北に行く切符だった。それをバレないよう、そっと床に落とす。 「何か落としたよ、松秀さん」  素知らぬ顔で、自分で落とした切符を顎(あご)で指す。 「これは……」  力蔵はそれを拾いあげた。 「A森行きの切符じゃないか」  松秀と遠子に、初めて焦りが浮かんだ。  なにか変なことに巻き込まれているのに初めて気が付いたのだろう。でも、もう遅い。 「ね、言ったでしょ? 『北に逃げるつもりだ』って言ってたって」  力蔵は、体ごとゆっくりとウツロから松秀に向き直った。その目には、怪しい光がたたえられていた。  ウツロは、その視線を向けられたのが自分ではなくてよかったと心底思った。  ナイフの柄を握る力蔵の手に力がはいる。  自分に向けられた殺気を察して、松秀はあとずさった。  不穏な空気を感じ取ったのか、遠子も小さく悲鳴をあげる。  力蔵はナイフを振り上げ、松秀の方にかけだした。  足が床板を踏むたび、耳障りな音がなる。しかし、その音が急に途切れた。  怒りで目に入らなかったのだろう、力蔵はやわらかい人形の腕を踏んでよろけた。  とっさに身を縮めた松秀の頭上で、的を外れた刃が木製の棚に食い込む。上に置かれた物から、ホコリが舞った。  ナイフをもぎ取ろうと、松秀は力蔵の手首をつかむ。ナイフを奪い合い、もみ合う様(さま)は、奇妙なダンスを踊っているようだった。  最終的に刃を手にしたのは、松秀だった。 ナイフが力蔵の腹に突き立った。血ナイフの柄を、松秀の手を伝っていく。  周りの空気はさびた鉄のような臭いで汚されていく。 「ぐ!」  引き抜かれたナイフと、傷口の間に血の帯が流れる。  生身の人間を手にかける、というのは大きな衝撃なのだろう。松秀はまるで自分が刺されたかのように、ふらふらとよろめいた。 「くそっ」  力蔵は棚に寄り掛かるようにして床に座り込んだ。  松秀は背を丸め、震えながら力蔵を見下ろした。  床をきしませ、松秀の前に遠子が歩み寄る。  目はつりあがり、顔が赤くそまり、まるで化け物のようだった。 「よくも、よくも力蔵さんを!」  華奢(きゃしゃ)なその両手には、大きな壺。 「や、やめ……」  自分の身をかばうように、松秀は両手を上げようとした。  その手の間を通り抜けて、壺が松秀の頭に叩きつけられる。  血しぶきが舞った。  ごとりと、男の体が崩れ落ちた。  壺が遠子の手から滑り落ち、派手な音をたてて床で割れた。 「はあ、はあ……」  遠子は、両肩を大きく上下に動かしていた。 「うう……」  力蔵が小さくうめく。  遠子がその声に我に返り、力蔵に駆け寄った。 「起きて、力蔵さん!」  腹から血を流しながら、力蔵は閉じていた目を開けた。その目は白い膜が張ったようにどんよりとしている。 「力蔵さん」  遠子は力蔵の横にしゃがみ込み、彼の肩に両手をかけて揺さぶる。 「遠子……」 「しっかりして。今、医者を……」  力蔵は、歯をむき出して笑みを浮かべた。そして「もう無理だ」というように首を振った。 「誰にも……渡さない……」  死にかけている者とは思えない力強さで、力蔵はぐいっと遠子を引き寄せた。 「ひっ」  遠子は小さく悲鳴をあげた。  いくら愛する者とはいえ、力蔵の表情は遠子が恐怖を感じるほどだったようだ。 「一緒に来てくれ」  何を言われたのか分からない、というように遠子は目を円(まる)くした。  力蔵が傷口からナイフを引き抜く。そのまま体を伸ばし、しゃがみこんでいる遠子に手を伸ばした。  血を飛び散らせながら、ナイフが銀色の弧を描いた。  遠子の細い首筋に、赤い筋がつく。  傷口を抑えた遠子の細い指が、あふれた血で真っ赤に染まる。頬から赤味がみるみるあせていく。 「あ、あ」  遠子は無意味に唇を開閉させた。そして胴を、手足を床に投げ出した。 「へへ……遠、一緒に……」  力蔵も、遠子の最期を見届けたかのように目を閉じた。  血の臭いに鼻がなれてしまったのだろう。もう気にならなくなってしまった。  外で、小さく小鳥が鳴く。葉が風で揺れる音も、木戸越しに聞こえてきた。  倒れた者達は、もううめき声すらあげない。 「な、なんだか、すごいことになっちゃったなあ」  三つの遺体を眺めながら、ウツロはつぶやいた。正直、ここまでひどいことになるとは思わなかったのだけれど。  ハンカチを取り出し、なるべく触らないようにしてナイフの柄を握ると、自身を縛る腰の縄を切る。そしてナイフをもとあった場所にそっと置いた。ハンカチは、あとでどこかに捨ててしまえばいい。  床に落ちたままだった切符を懐に入れる。そして人形を拾い上げると、パタパタとほこりを払った。  目も鼻も口もない、真っ白な顔を見つめる。 「今回は、君の出番がなかったね。お疲れ様」  棚に置かれていたトランクを降ろす。  そっと優しく中に人形を詰め込んだ。 「さて、こんな所に長居は無用だ」  ウツロは、小屋の戸を開けた。  ひんやりとした新鮮な空気がなだれ込んでくる。ウツロは、大きく息を吸い込んだ。  雨は止み、空は紙のように白くほの明るい。周りは、杉の木が見渡す限り広がっている。  用足しのために見張り付きで小屋の外へは出たことはあるけど、その時とは解放感が違う。  ウツロは、とぼとぼと森の道を人気(ひとけ)のありそうな方へと歩いて行った。 「ああ。結局、お金の隠し場所は分からず仕舞いか。まあいいけどね」  幸い、細い道が草地に通っている。ここをたどっていけば、人のいる所に出るだろう。  縛られていたからか体がこわばっていたが、それも歩いていくうちに治っていった。  道は時々草に埋もれて分かりづらくなっていたが、それでも途切れず続いていた。 (今が昼でよかった……夜だったら絶対に遭難していた……)  見覚えのある道に出ると、安心したせいかどっと疲れを感じた。  人家の多くなった道を、ウツロは歩き続けた。  宿に戻ると、女将は驚いた様子を隠そうともしなかった。 「まあ、ウツロさん。どうなさったのです?」  ほんの一瞬、不愉快そうな顔をした。 「もう出立されたのかと思いましたよ。数日、お食事の時も姿をお見せにならないし」  女将は口に出さなかったものの、だいぶ迷惑だったに違いない。  いつ帰ってくるか分からないから、客がいなくても食事を用意しないわけにはいけないし。  そう言えば、今日までの宿泊費しか払っていないことを思い出した。脱出が遅くなったら、おきっぱなしの荷物を処分されても文句はいえない所だ。帰ってこられてよかった。 「あ、ああ、ちょっと用事ができまして」 「それにしても、そんなに疲れたご様子で、どうしたんです?」 (どうしたって言われても……)  まさか誘拐され、逃げてきたとは言えない。 「いえ、ちょっと色々ありまして…… とりあえず、すっごく疲れました。できればこれからも何泊かお世話になりたいんですけど。お風呂沸いてます?」  とりあえず、ゆっくりお風呂に入って寝たい。今願うのはそれだけだった。 「はあ、かまいませんけど、追加のお代はいただきますよ?」 「わかってまぁす」  とりあえずこのトランクと荷物を置かなければ。ふらふらとウツロは自分の部屋に戻っていった。 『廃墟で三人の遺体発見』  そんな見出しがでかでかと踊った新聞をウツロが読んだのは、汽車の中だった。  当然篤代からもらった切符の期限は過ぎてしまい、同じ行先の物を自腹で買った。別に他の場所にしてもよかったのだけれど、なんとなくそうした。  話をする相手もいない旅なので、窓から外を眺めるか、寝るか、新聞を読むしかない。  見出しの続き、山小屋で男二人、女一人の死体が見つかったことが書かれている。  形跡から三人は互いに殺しあったようだ。無理心中しようとした男女を、もう一人の男が止めようとした結果の悲劇ではないか、といった内容だ。  床に描かれていたはずの魔法陣については、なぜか書かれていなかった。逃げ出すときは必死で床を見る余裕がなく分からなかったが、三人がどたばたしたときに消えてしまったのかも知れない。それとも、魔術だなんて荒唐無稽だから、誰か子供のいたずらと思われたのかも。  証拠の一つであるハンカチは、人目につかない所で焼き捨てた。  じゃあ、目撃者は? 例の小屋に出入りしたとき、誰かに見られていたらまずい。  けれど行きは誘拐で連れてこられた身だ。誘拐犯たちもウツロを他人の目にさらされないよう注意しただろう。出たときに見られた覚えもない。誘拐犯から人間関係をたどってウツロにたどり着くことも不可能だ。  きっと、警察に追われることはない。 (まあ、見つかったとしても僕は手を下してないからね)  ウツロは、これ以上この件について心配するのをやめた。  次は、どんな場所にたどり着くのだろう。 (今回は、人形に魂が入らなかったなあ)  活字から目を放し、ウツロは物思いに没頭した。  母である繭佳は、今ウツロが持っているのとは別の人形を持って旅に出ていた。きっと、兄の魂が入るのを期待していたのだろう。それは叶わなかったようだけれど。  『やたらキレイな顔をした男だったよ。なんだか、自分の里から宝を盗んだ女を追いかけていると言っていたな』  松秀の言葉が、脳裏によぎった。 (ひょっとしたら、会ったりするだろうか)  嫌な予感に、ウツロはぶるぶると首を振った。  面倒ごとはまっぴらだ。今まで追手の存在に気づかないくらい逃げきれていたのだから、多分大丈夫だろう。ウツロはそう思い込むことにした。
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