洞窟

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洞窟

 空はどこまでも広がり、木々の海もどこまでも続いていた。そう、どこまでも、どこまでも…… 「鷹村ってどこ……」  山道の見晴らしのいい場所で麓を見下ろしながら、ウツロはぼそりと呟いた。  地図によると、この辺に村があるはずだった。けれど、見えるのは衰えてきた日がさらに陰るほど密集して生える木々と、シダ系の下生えの続く地面だけだ。ジワジワとセミがうるさいほどに鳴いている。  午後も遅くなって、そろそろ日が傾き始める時間帯だ。こんな山の中で迷子だなんてシャレにならない。 「迷った、完全に……」  村からそう遠くないのは確かだとしても、明らかにこの辺にあまり立ち入る人はいないようだ。このまま夜になってしまったらと思うといい気分はしない。  いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。ウツロは木々の間を歩き始めた。  ケーッ、ケーッ、と不気味な鳥の鳴き声がして、ウツロはびくっと体をすくませた。 「もしかして、このまま遭難死してしまうかも……」  人形の入ったトランクを持つ手が緊張と暑さで汗ばむ。  それに、夕方の涼しい山の中といっても、夏にこんなに歩きまわったら撹乱(かくらん:熱中症)しそうだ。  また、セミの声を貫くように、変な鳥が鳴いた。 「エ……エ……」 (?)  なんだかその鳴き声に違和感を覚えた。何か、鳥にしては妙に人間っぽいような。 「エッ……エッ……エッ……」 (いや、これ人の声じゃないか?)  しかも、女の子のような。  なんだか、嫌な予感がした。 「でも、こんな山の奥に子供なんて」  怖さを紛らわせたいのもあって、わざと口に出す。 「エッ……エッ……エッ……」  聞けば聞くほど泣き声としか聞こえない。 「ま、まさか、幽霊?」  子供そっくりの泣き声で人間を呼び寄せ、食べてしまう。そんな妖怪がいたような。 (い、いますぐここから離れた方がいいかも……)  でも、怖いもの見たさというか好奇心が止められない。  ウツロは、恐る恐る声のする方へ歩いて行った。できるかぎり足音を忍ばせてはいるけれど、足元の草がガサガサいうのが心臓に悪い。  少しずつ、確実に声が大きくなっていく。 (ここだ)  だいぶ泣き声が近づいてきて、ウツロはツバを飲み込んだ。  誰もいない。  相変わらず、ツタの絡んだ木々と、下生えがあるだけの景色に、泣き声だけが響いている。  半ば返事が返ってこないのを期待しつつ、ウツロは呼びかけた。 「そ、そこに誰かいるのか?」 「……あい」  返ってきたのは、弱々しい返事だった。  声の方をみると、茂みがかすかに揺れている。泣き声はそこから響いてくるらしい。   恐る恐る近寄ってみる。枝の隙間から、何か丸い物がうごめいているのが見えた。  このまま逃げた方がいいか? でも泣き声の正体が気になる。  大きく息を吸って勢いをつけ、葉をかき分けた。ムッと土の匂いがした。冷たい風が吹き付けてくる。  大人がしゃがめば入れるような穴が、斜面に開いていた。その入り口に六歳ほどの女の子が、膝を抱えてうずくまっている。  湿っぽい土の上にしゃがみ込んでいるせいで、足と着物の裾は泥で汚れていた。というか胸や腹、つまり全身に泥がついている。 「子供! なんでこんなところに」  ウツロの顔を見ることもなく、子供はうつむいたまま泣いている。 (それとも、子供に化けたバケモノか?)  ここが滅多に人が来ない場所だというのは周りの様子から分かる。しかも、まだその子は山仕事を手伝えるような年齢ではない。 「君、どうしてここに? お父さんやお母さんは?」  そろそろと声をかけてみる。  女の子は顔を上げ、フルフルと首を振った。  彼女は全体的にかなりやせていた。顔色も血の気がない。頬の、涙でぬれた所だけが荒れて赤くなっているのが痛々しかった。黒い髪もぼさぼさだ。  また風が吹いてきて、ウツロの視線は自然と少女の後ろの洞穴にむいた。  真っ暗で穴がどこまで続いているかわからない。けれど風が吹いてきているのを考えれば、ただ大きめの穴と言うより、どこかに別の入り口がある大きめの洞窟のようだ。  今にも闇の中からこちらを見つめる、何者かの目が現れそうで、ウツロは一つ体を震わせた。  まあ、今はこんな洞窟より目の前の子をなんとかしなければ。 「困ったなあ。ここに置いていくわけにもいかないし。歩ける?」  また女の子は首を振った。  ウツロはトランクをその場に置いて、女の子に背を向けた。 「ほら」  しゃがみこんで背をみせて、おぶさるようにうながした。  背中に覆いかぶさるその体が冷え切っていて、ウツロは少し驚いた。 「さあ、行こう。といっても、僕も迷子なんだけれど」 「あっち」  肩越しに小さな指が一方を指差す。 「君は村の場所がわかるんだ」  背中でこくりと女の子はうなずいた。  どうやら、遭難死しないで済むようだ。 「助かったよ。じゃあ行こう」  置きっぱなしのトランクの方を少し振り返る。 (後で迎えに来るからな)  心の中で、中人形に声をかけた。  迎えに行くとき迷わないよう、枝を折って目印にしていくことにする。  背中では、ずっと少女がぐずぐずと鼻をすする音が続いている。  何か、彼女の気を紛らわすことを話さないと。 「あのね、僕はウツロ。日本中を旅してるんだ。お嬢さんは?」 「……松葉(まつば)」  すすり泣きの間から、小さな声が返ってきた。 「そう。いい名前だね。松葉ちゃんはなんでこんなところに? お父さんとお母さんは?」  松葉はふるふると首を振った。 (みなしごなのかな? 病気とか事故で、両親を亡くしちゃう子って多いし……)  気になるけれど、深く聞いたら傷つけてしまいそうだ。  松葉の先導で、ウツロは山を降りていった。 ダラダラとこめかみを汗が流れる。  幼い松葉は軽かったけれど、それでもきつい山道を行く時はけっこうな負担だ。  それにしても、道も険しいし、もう結構歩いているのに村の影もみえない。これでは松葉一人では帰ることはできなかっただろう。 (まったく。親は何やってるんだ、親は!)  いらいらしながら歩くうち、踏み分けられた草だったり、捨てられた草履の片方だったりが目に入るようになってきた。  そしてとうとう斜面の下に村の屋根が見えてきた。わらぶきの、素朴な感じの物が木々の間からのぞいている。   山の木々を背に立つ家々の前には、半円を描くように畑が広がっているのが見えた。   鷹村にたどり着いた時、ウツロは汗びっしょりになっていた。人里に無事たどり着けたことで、心のそこから安堵が湧いてくる。疲れ切って、その場所にしゃがみこんでしまった。  放し飼いをされている鶏が、珍しそうにウツロを覗き込んでくる。 「おや、松坊じゃないか」  松葉の知り合いだろうか。籠を背負ったおばさんが駆け寄ってきた。ふくよかな体つきをしている。  松葉はウツロの背中から離れると、ひしっとおばさんに抱きついた。 「おばさん! スズおばさん!」  スズは、松葉の背中をさすった。  おばさん、ということは母親ではないようだが、松葉はだいぶなついているようだ。 「いったい、何があったんだい?」  スズが、ウツロに聞いた。 「ええと、あの、山道で……」  ノドがカラカラで、言葉がつっかえる。 「ああ、はいこれ」  スズは竹の水筒を差し出してくれた。これから村を離れて仕事をするためのものだろう。  遠慮なくウツロはがぶ飲みする。ようやく人心地ついた気分だった。  ウツロが落ち付いたのを見計らって、スズが声をかけてきた。 「それで、あなたは旅人さん?」 「ええ、はい。山で迷子になっていたの松葉ちゃんに助けてもらって」 「大人のあんたが迷って、松坊に助けられたのかい」 「ええ、まあ」  恥ずかしいが、事実なんだから仕方ない。 「山で泣き声が聞こえて……」 「松葉!」  突然叫び声がする。  やせた女性が小走りにやってきた。キリッと目じりのつりあがり、畑仕事をしている者の中では色が白い。もし、新しい着物に着替えさせ、髪を整えればかなり美しいといえるだろう。  その姿を見た、スズの表情が緩んだ。 「ああ、よかった。お母さんが来てくれたよ、松坊」  母が来たことに気づいたはずなのに、松葉はスズの腹に顔をうずめたままで動かない。それが妙にウツロには気にかかった。 「ウツロさん、あの人が松坊のお母さん、珠(たま)さん」  スズは、にこにこ顔で続けている。 「いい人だよぉ、前の旦那が死んで、今は新しい旦那の康兵(やすべい)と暮らしているんだけどね。ほら、新しい男ができると前の男の子供をいじめるってよくあるだろう? でも変わらず娘を可愛がって」  ウツロを弾き飛ばすかという勢いで、珠が駆け寄る。そして娘の両肩に手を置く。  松葉は、棒のように立ち尽くしている。 「いったい何があったの? あの男の人は誰?」  不審な視線を向けられて、ウツロは慌てて頭を下げた。 「どうも。ウツロって言います。松葉ちゃんとはあっちの山の中で会いまして」  ウツロは、今来た方向を指さした。  しかめっつらでウツロを見ていた珠は、山の方へ視線をむけ、それからまた松葉へ戻す。 「そうなの?」  珠はしゃがみこんで松葉の顔をのぞき込んだ。  自分の娘を探し回っていたのか、珠の踵(かかと)と草履(ぞうり)は土とシダの葉のかけらで汚れていた。 「は、はい」  松葉は、両手を組み合わせもじもじさせながらうなずく。  珠は頭をなでる。  珠の手が頭にふれた瞬間、松葉が体を強張らせた。 「かわいそうに。あんな暗くて寒いところで迷子になっていたなんて」 (今の言葉、何かおかしい)  反射的にそう思った。 (でも、何が?)  それは自分でも分からない。 「でも、なんだって松葉ちゃんはあんなところに?」  ウツロは聞いてみた。  実は帰り道に、同じ質問をしてみたのだけれど、松葉は答えてくれなかった。今なら答えてくれるかなと思ったのだ。  珠が笑い声をあげた。 「『なんで』って。この辺の子はみんなあの山で遊ぶのよ。たぶん、友達と追いかけっこしているうちに、みんなとはぐれちゃったんでしょ」 「は、はあ」  そういう物なのだろうか。その辺りの生活について何も知らないウツロには、珠の言葉が自然なのか不自然なのか、判断がつかない。  『この話はおしまい』、というように、珠は娘の手をとった。 「さあ、家に帰りましょう」  遠ざかる二人の背中を見送りながら、ウツロは何か嫌な予感にとらわれていた。 (でも、まあきっと気のせいだよね)  そう自分に言い聞かせる。 「旅人さん、どうです。疲れたでしょ、少しウチで休んでったら」  スズが愛想よく言ってくれた。 「いえ、その申し出はありがたいんですけど、荷物を森に置いてきちゃった物で……」 (ううう、ゆっくりしたいのは山々だけど……おいてけぼりにした人形を迎えに行かなくちゃ) 「そうかい? じゃあ荷物を取ってきたらうちに寄るといいや」 「は、はい、ありがとうございます!」  そのままおじゃましたい誘惑をなんとか振り切って、ウツロはまた山の中へ分け入って行った。  家の木戸がしまった瞬間、珠の笑顔が消え失せた。まなじりを釣り上げ、獣のように唇がまくりあがる。 「まったく、あんたはしぶとい子だね!」  さっき松葉の頭をなでていた手が、頬をひっぱたいた。その勢いで床に転がる。もう少しで部屋の真ん中にある囲炉裏に落ちる所だった。  松葉は、泣きもせずぼんやりと倒れたままだった。何もかも諦めたような虚ろな目をしている。  娘の口を、分厚い珠の手がふさいだ。そこでようやく松葉の見開いた目に涙がにじみ始める。 「まさか、洞窟に捨ててきたのに帰ってくるなんて! 生き意地の汚い子だね!」  周りの者に聞こえないよう、小さく発せられたその声は、まるで呪詛(じゅそ)のような響きがあった。  珠は松葉の胸を殴った。ぼす、っと鈍い音がする。  松葉は泣きわめくこともできず、くぐもった声を上げることしかできない。  その様子がまた、珠を苛立たせた。 「あんたがいなければ、あの人は私をもっと好いてくれるんだよ! なんて忌々しい子だろう!」  男というのは、前の旦那の子供を嫌う物だ。それに…… (そのうち、松葉も成長するだろう。私より若く美しい娘になる。そうしたら、きっと康兵さんは……)  その時、荒々しく木の引き戸が開いた。  クワを土間に置きながら、ガタイのいい男が入って来る。 「ああ、あんた」  珠は媚びるような笑みを浮かべた。  珠の今の夫、康兵は床に転がっている松葉を見ると舌打ちをした。 「なんでテメエがここにいるんだよ。珠、ちゃんと『夜の洞窟』に捨ててきたって言ったじゃねえか。ったく、使えねえなぁ、お前は!」  康兵は、珠の腹を蹴り飛ばした。鈍い痛みに、体が丸まる。 「ご、ごめんなさい!」  珠はよろけ、尻餅をついた。  康兵はさらに数度珠を蹴りつける。もう、どこが痛むのか分からないくらいだ。  珠は形のいい唇をかみしめた。 (松葉のせいで……松葉が大人しく死なないから。康兵さんは、本当は優しい人なのに!)  珠はその場に土下座をする。 「ごめんなさい、あなた!」  やがて疲れたのか、康兵は足を止め、ハアハアと荒い息をした。  相手の怒りが収まったとみて、珠はこびるように康兵の肩にしなだれかかった。 「ごめんなさい。今度はちゃんとやるから」  その言葉に、康兵は満足したような笑みを浮かべた。  そして珠の両肩を抱く。 「ああ、分かってくれればいいんだ。俺も、蹴ったりして悪かった」  珠は、ネコのように頭を康兵の肩にすりつける。 「次はうまくやるから。昨晩も、ちゃんと洞窟に捨ててきたんだけどねえ」 「きちんと奥の方へ捨ててきたのかよ」  康兵の言葉は舌打ち混じりだった。 「だ、だってあんな暗い所、あたしも怖くてさあ」  言い訳がましく珠は続ける。 「あまり奥に行くのは怖かったんだよ。相手はどうせ子供だから、とば口(くち:出入り口近くのこと)でも大丈夫だと思って。まさか自力で帰って来るなんて」  康兵はもう一度舌打ちをした。 「仕方ねえなあ。今度は俺もついて行ってやる」 「ほ、本当? ありがとう。今度こそ、うまくやるから」  そう言うと、珠は指先で康兵の頬をなでた。  大人たちがそんなことを話している間も、松葉はただ無表情で座り込んでいた。  もうすっかり日は傾いている。早いところ、トランクを回収して村まで戻らなければ。  ウツロは、一人山道を歩いていた。目印をつけてきたから、幸い洞窟まで迷う事はなかった。  洞窟の入り口は西日に照らされていた。葉の隙間から漏れた光が、洞窟の中が照らし出されているのが見える。さすがに最奥までは見えず、広がる闇からかなり深い洞窟だと予想がついた。おそらく詳しくない者が入ったら迷って出られなくなるような。  でもまあ、中に入る必要はない。トランクは洞窟の外に置いてきたのだから。 「ええっと。この辺りにあるはずなんだけど」  茂った夏草に、トランクは埋もれてしまっているようだ。がさがさと草をかき分ける。  日が沈みかけているというのに、暑くて汗が流れてくる。 「おっと」  草の中にある、腰ほどもある高さの何かにぶつかりそうになって足を止める。  松葉と会った時には気づかなかったが、なんのために使ったのか、入口近くに杭が一本打ち込まれていた。ぶつかっても倒れない所、結構強く打ち込まれている。  その杭の根元で、キラリと何かが光った。  なんとなく気になって見てみると、土の間から金属製の何かがのぞいている。しゃがみ込んで指先で掘り出してみる。  かけたサンゴ珠のかんざしだった。先が折れ、色がくすんでいるのを見ると、かなり古いものらしい。サンゴ珠も、よく表面を見てみると木目が見えて、色を塗ってそれっぽく見せた安物だった。 (なんでこんな所にこんな物が)  なんだか、小石だと思って人の骨をうっかり持ち上げてしまったような、落ちているハンカチにべったりと血がついているのに気づいたような、不吉な物に触れてしまったような気がして、かんざしを地面に置く。  ごしごしと袴(はかま)で手を拭く。  なぜか、ここから一刻も早く離れたくなった。 (とっととトランクを回収して帰ろう……)  ウツロはまたトランク探しを再開した。 「あ」  洞窟から少し離れた所に、探していた物があった。 「!」  閉めていたはずのトランクが、開けっ放しになっている。  中の人形は、ない。 (ああ、何か嫌なことが起きる)  それは予感と言うより、確信だった。  スズに、ウツロはペコペコと頭を下げた。 「いや、本っ当に助かります」  スズの家のいろりの前で、ウツロは夕食にありついていた。  ウツロは、お言葉に甘えて彼女の家にオジャマすることにしたのだ。 「でも、トランクが見つかってよかったねぇ」  スズが囲炉裏にかけられた鍋から味噌汁を器によそってくれる。  味噌汁に菜っ葉の漬物に飯、と言うシンプルなものだけれど、宿もないこの状況では本当にありがたい。 「ええ、本当に……」  本当は人形がなくなってしまったのだが、それを語ると長くなる。  明日また探してみて、もし見つからなかったら、一緒に探してもらえるよう村の人に頼んでみよう。 「でも、泊まってくれて嬉しいよぉ。なんも代わり映えのしない田舎暮らしだからね。遠くからのお客さんは格好の暇つぶし、退屈しのぎになる」  スズの旦那さん、金五郎が笑った。中肉中背の、明るい男だ。 「最悪、野宿しないといけないかと思いましたよ」 「ハハハ、野宿なんてしたら、この季節でも虫に食われて大変だよ。狼やイノシシもうろついてるしな」  最悪、山で野宿すればよかったと思っていたウツロは、自分の認識の甘さにぞっとした。 「そういえば、山の奥に洞窟があったんですが、あれは何ですか?」  そう言ったとたん、少しスズの顔が曇った。 「ああ、あれは夜の洞窟だよ」 「夜の洞窟?」 「もとは黄泉(よみ)の洞窟と言われていたらしいけどね。それがなまって夜。道がいくつもいくつも枝分かれしていて、奥に入り込んだら二度と出て来られないって言い伝えられてるのさ」  誰かの悪い噂をするように、小声でスズは言う。 「でも、昔は働けなくなった者や、食べさせられない子供を口減らしとして奥に捨ててきたって話でね」  ウツロはぶるりと身を震わせた。  トランクを拾いに行ったあの時、すぐ近くに、人の死んだ場所があるなんて。ひょっとしたらあの洞窟の中に白骨でもあったかも知れない。 「は、はぁ、怖いですねえ。でも、奥に誰かを置いたとしても、自分も迷っちゃうんじゃ?」 「そこのところはちゃんとやり方があってね」  金五郎が口をはさんだ。 「入口に杭を立て、そこに縄の端(はし)を結んでおくんだよ。そしてもう片方の縄を持って洞窟へ入るんだ。眠らせるか、気絶させるかした者をかついでな。そして、道しるべがないと戻れない奥へその者を置いてくる。自分は縄を巻き取りながら戻ればいい」 「な、なるほど」  昼間見た杭を思い出し、ウツロは背筋が寒くなった。  それに、あのかんざし。 (もしかして、あれはひょっとして……捨てられた人の……) 「そうすれば死体は見つからない。殺人ではなく行方不明、となるからな。もっとも、狭い村の中じゃ、皆薄々は気付いただろうけどね。それを責められないくらい、ひどい時期があったってこった」  ウツロは、ゴクリと飲み込んだ。 「で、でもそれって大昔のことですよね?」 「ははは、もちろん。最近は誰も行方不明になんてなっていないさ」 (でも……)  そこで、ウツロはとんでもないことを思いだした。 (見た感じ、あの杭は新しかった) 「ちょっとあんた」  そこでスズが金五郎の肩をとんとんと叩いた。 「あったじゃない、神隠しみたいなのが、結構最近。そう、ニ十年前くらいに、おみよちゃんの事件が」 「なんです、それ」  ウツロが聞くと、スズは耳に口を近づけてきて囁いた。 「流行病(はやりやまい)にかかった娘がいなくなところがあってなぁ。その子のおやじは都会の病院にやったって言ってたけど、夜の洞窟に捨てたって噂だ。なんせ、あのウチは治療費どころか娘に食わすモノもなかったからなあ」 (……)  きっと、なんとかうまいことお金を手に入れられたんだ。それで、娘を言葉通り都会にやったんだ。  そうウツロは思い込もうとした。  スズさん達の勘違いだ。そうであってほしい。 「あの洞窟の奥は、夏でも凍え死ぬほど寒いって話だよ。むごいね」  その時、ふいに、撃たれたように衝撃が走った。  昼間、珠と話していたとき感じた違和感の正体が、今、この瞬間に分かったのだ。 『どうも。ウツロって言います。松葉ちゃんとは山の中で会いまして』  珠に会った時、確か自分はそう言ったはずだ。「洞窟」ではなく「山の中」と。  それを聞いた珠は、松葉にこう語りかけた。 『かわいそうに。あんな暗くて寒いところで迷子になっていたなんて』  『暗くて寒いところ』?   確かに森は日が直接あたらず涼しいが、この季節に『寒い』と表現するだろうか? まるで森の中よりも日の当たらない場所にいたのを知っていたように。  それに、松葉の顔をのぞき込もうと珠がしゃがみ込んだ時、彼女の草履にシダの欠片がついていた。村の近くではなく、山の奥で多く生えていた植物だ。  あのときは、娘をあちこち探し回っていたのだと思ったけれど。 (たぶん……いや、絶対……)  珠は、松葉を洞窟に捨てたのだ。  スズが、『新しい旦那』と言っていたから、新しい男と松葉がうまくいっていないのかも知れない。  どうやって松葉が一人で戻ってきたのかは分からない。けれど計画が失敗したと知った珠が、また珠が松葉を洞窟に捨てようとしたら?   ウツロは手に持ったお椀を床に置き、立ち上がった。 「おお。突然どうしたんだ」 「ちょっと、夜の洞窟に!」 「今からかい? 危ないよ」  スズはウツロの着物の裾をとらえた。 「待ちなって。こんな夜に山道を行こうなんて、土地の者がいないと迷っちまうよ」  そしてスズも立ち上がる。  金五郎が妻に驚いた顔を向けた。 「おいおい、お前まさか」 「一緒に行ってあげるよ。何か理由があるんだろう?」  ウツロの様子に、ただ事ではない状況なのをさっしてくれたのだえろう。  スズがちょうちんの準備を始めた。 「あ、ありがとうございます!」  準備ができるのを待って、ウツロはトランクをつかむと家を飛び出した。  昼に鳴くものとは違う鳥の鳴き声がする。夜になり、いくぶん数は減ったものの、まだセミが鳴いていた。  麻の大きな袋を担いで、康兵は山道を歩いていた。その袋の中には、さるぐつわをされ、 手足を縛られた松葉。もうすっかり諦(あきら)めたのか、袋はぴくりとも動かない。  前を歩く珠の手にはランプが光り、草と小石で覆われた地面を照らしている。肩には、輪の形に束ねた縄。 「今度こそ、ちゃんと帰って来られない奥に置いて行くからな」  康兵が誰にともなく呟いた。  二人の目の前に、夜の洞窟の入口が見えた。  杭の先端に、珠はロープをしっかりと縛りつけた。これが外れたら、自分達も永遠に穴の中をさまようことになる。  二人は背をかがめるように、闇の中に足を踏み入れた。  中に入るにつれ、肌寒さを覚えるほどになる。ランプの光で、足元こそは照らし出されても、光の輪から外れた所はより闇が深くなる感じだった。  自分の影が凸凹とした壁に揺らめく。薄く張った水を踏むべちゃりべちゃりという音。天井からは、竜の牙のような石が無数に生えている。  不意に、康兵が足を止めた。 「ど、どうしたの?」  訪ねる珠の声が、恐怖で不自然に裏返っていた。 「いや、あ、あそこに何かいないか」  康兵は震える指で前を指差す。  珠は目を凝らした。  なにせ闇の中の事だ。何を指しているのか分かるまでだいぶ時間がかかった。  ランプの光が届くギリギリの所にある岩の横。黒い塊(かたまり)がわだかまっていた。最初、珠は岩の影かと思ったが、それにしては黒い獣がうずくまっているように丸みがあり、立体的だ。  二人はしばらくその奇妙な物を見つめ続けた。だが、その視線を受けても、塊は動かない。  ようやく珠が口を開く。 「な、なによぅ、やっぱりただの岩の影よ。こんな所にあんな大きな生き物がいるわけないもの」  その言葉に対する無言の反論のように、影がふいに伸びた。水あめのように不定形なそれは、少しずつくぼみが生まれ、膨らみが増え、何かの形になっていく。  明らかに異様な現象が起きているのに、二人はその場を動けなかった。  そうしているあいだに、それが何になろうとしているのか、だんだんとはっきりとしてくる。  だらりとうつむいた頭と、着物をまとった体。だらりと垂れた袖と手に、長い足。  間違いなく、人の形。明るさが足りず、顔は分からないが、格好からして女性のようだ。  女は、すうっと片足を動かす。  吹き付ける風に、足音が混じった。前に立つ何者かが、ゆっくりとこちらに向かって歩きだした。  光の輪に近づくにつれ、闇からにじみ出るようにその姿が明らかになってくる。  乱れた髪は、肩まで覆っている。青ざめた唇と頬。目は髪で隠れ見えない。  珠は悲鳴をあげた。  康兵はずるりと松葉の入った袋をすべり落とす。  二人は、争うように女に背を向け、走りだした。  珠が石につまずいて転ぶ。音を立てランプが割れた。  倒れた珠に、また康兵かつまずき、二人は重なるように転がった。  二人の悲鳴が木魂(こだま)する。  骨まで闇に染まりそうな暗闇が二人に押し寄せてきた。  昼間の再現のように、泣き声がどこからか聞こえる。いや、どこからかではない。出所の見当は付いている。夜の洞窟からだ。 (早くいかないと……)  そう思うものの、息は切れ、汗びっしょりでもう足を速めることはできなかった。  洞窟に近づくと、柔らかそうで大きな塊が入り口でもぞもぞと動いていた。  松葉が、布の人形に堅く抱きついたまま座り込んでいる。そして、いやいやをするように、涙で濡れた頬を人形の胸にこすりつけていた。  松葉の着物と人形は、所々水で濡れ、土でまだらになっていた。 「ああ、松坊。なんであんな所に」  火が消えないように提灯を気にしながらも、スズが走って行った。  松葉は人形から離れスズに抱きつく。 「松坊、大丈夫かい?」  スズは、優しくその背中をなでてやる。  松葉は、スズのふっくらした肩に顔をうずめている。 「松葉ちゃん、何があったの?」  ウツロの言葉に、松葉は首を振った。 「わ、私……お父さんとお母さんに縛られて、袋に入れられて……」  顔をスズに引っ付けているせいで松葉の声はくぐもっていたが、なんと言っているのかは分かった。 「そしたらお母さんの悲鳴が聞こえて……地面に落っこちて……」  しゃくりあげながら松葉は続ける。 「袋が開いて、女の人がいて……」 (女の人? つまりその女の人が袋を開けてくれた?) 「お、女の人? 女の人がこんな時間にこの辺をうろついていて、助けてくれたってのかい?」  ウツロと同じ疑問をスズが抱くのも当然だろう。 「う、うん。その人が、手を繋いでここから連れ出してくれたの。でも、お父さんとお母さん、どこにもいなくて……」  ウツロには、その女性の正体が誰だかなんとなく予想がついた。 (二十年くらい前、この洞窟に捨てられた人がいるってスズさんは言っていたけど。たしか、名前はおみよさん)  その人の魂が、まだこの洞窟内をさまよっていたら。  自分の時と同じように、子を捨てようとしている者が現れたら。  そして肉体を得ることができる人形がそばにあったら。  子を捨てようとした者に、恨みを晴らそうとするだろう。  ウツロは、草に埋もれて寝ている人形に駆け寄った。  人形のそばに、泥だらけの縄が絡まるままにぐちゃぐちゃと置かれていた。  人形に乗り移ったおみよは、洞窟内で松葉を助けたとき、ご丁寧に縄を回収しながら外へと戻ってきたのだろう。  ウツロは、人形を抱え上げ泥を叩き落とした。 (つまり、松葉のお父さんとお母さんはまだ洞窟の中に……)  ウツロは思わず洞窟の方へ目をやった。  闇へと続く穴の横で、スズが松葉を立ちあがらせた。 「ああ、ああ。こんなに泥だらけになって」  スズが、松葉の泥を手で落とし始めた。 「あら……」  そして、手を広げたまま動きを止める。  何事かとその様子を見たウツロは息を飲んだ。  今まで粗(あら)い麻の袋の中で揺さぶられたせいで、着物がはだけている。青白い肌に青や赤、治りかけて黄色になったアザが色とりどりに咲いていた。 (これは……)  間違いない。松葉は虐待をされていたのだ。 「ああ、かわいそうにねえ、松坊。気づいてあげられなくてごめんね」  スズがしっかりと松葉を抱きしめた。  少女も小さな腕を伸ばし、スズにしがみついた。  スズの着物をつかむ松葉の手には、あちこち細かい擦り傷があった。荒い縄を必死で手繰り寄せたような。  確かに、袋から出したのはみよの魂が乗り移った人形だったに違いない。でも。 (確か、女の人が手を引いてくれたって……)  だとしたら、松葉が縄をたぐる必要はない。みよの手を握ってさえいればいいのだから。  それなのに、松葉の手には縄を手繰った後がある。 (……。外に出るとき、両親が戻ってこれないように縄を回収してきたのは人形じゃなく……)  もしそうだとしても何の証拠もないことだ。  ウツロは、大きく呼吸を繰り返して心を落ち着かせた。   スズは、松葉の着物を直し、アザだらけの肌を隠している。  ウツロが気付いたことを、スズは気付いただろうか? 松葉の手の傷を。  仮に気付いているとしても、彼女はその様子をいっさい見せなかった。 (それに、その推測が当たっていたとしても、誰も責められないんじゃないか?)  半分呆然としながら、ウツロはスズと松葉を眺めていた。 「よし、もう今日は帰ろうね」  スズは松葉を放すと、手を繋いだ。 「ほら、ウツロさんも帰りましょう。あの夫婦を探すのは、明日明るくならないと」 「あ、あの、スズさん。ちょっとお願いがあるんですが」  ウツロは提灯を受け取ると、縄が縛り付けられた杭の根元を照らし出した。  そこには、昼と同じように古いかんざしが落ちたままになっていた。  昼間は気味が悪いと感じたそれが、今はそんなに不気味に思えなかった。 「これ、あとで鷹村で供養してくれませんか」 「これは……?」 「たぶん、昔口減らしで洞窟に捨てられた者の形見です」  スズは、ウツロの言葉に眉を潜めた。  多分、憐れみと恐怖がごっちゃになっているのだろう。 「え、ええ。分かったわ」  スズは両手で丁寧にかんざしを手に取る。  村へ戻ろうと歩き始めたとき、松葉は少し洞窟を振り返った。  両親がいるはずの場所を、心配そうに、あるいは無表情に見つめていたのだろうか。それとも、口の端(は)を持ち上げ、目を見開き、あざけりの表情を浮かべていただろうか。   松葉の顔は影になり、ウツロにはその表情は見えなかった。  太陽が昇るとすぐさま、スズの話を聞いた村の男たちが洞窟にむかった。手には、ロープとタイマツを持っている。  なぜ康兵達は夜中あんなところに松葉を連れて行ったのか。  村のみんなはなんとなく感づいたらしいが、口に出す事はなかった。余計なことを詮索しないのは、田舎の中で暮らす知恵と言うよりは、死者を、松葉の両親を責めない優しさと言うべきだろう。  探索は昼すぎには終わった。  洞窟は広く複雑で、どうせ隅々まで探すことはできないということで、探索は適当に行われたらしい。それに、洞窟の中を深く探ると、助けに行った者が迷う可能性ある。 「ひー、寒かった寒かった」  そう言いながら帰ってきた金五郎と昼食を終えたあと、ウツロは荷物をまとめ、スズに頭を下げる。 「では、そろそろ僕は行きますね」 「おう、気をつけてな」  金五郎は気さくに手を振った。 「松葉ちゃんもバイバイ」  スズの背に隠れるようにして、もじもじとしている松葉にウツロは手を振った。  まさか誰もいない家に松葉を一人で寝かせることはできず、スズの家に泊めることにしたのだ。 「ねえ、松坊」  少し改まった口調で、スズは松坊の顔をのぞきこんだ。 「もしよければ、このままこの家で暮らさないかい? 私たちと一緒にさ」  一瞬なにを言われたのか分からないように、松葉はじっとスズを見つめていた。  思いもよらない幸運が降ってきたときは、喜ぶよりもまず呆然としてしまう物だ。  松葉は、パアッと顔をほころばせると、こくりとうなずいた。  こうして松葉は、スズの家で暮らすことになった。 「これからよろしくね、松坊」  スズの言葉に松葉はにっこりとほほ笑んだ。 「はい、よろしくお願いします!」  今まで泣きじゃくるだけで言葉を発しなかった松葉が、意外なほど元気にそう言った。 (けどまあ、一応丸く収まった、ということでいいのかな)  色々と思う所はあるけれど、とりあえずはそういうことにしておこう。  ウツロは、鷹村を後にした。  九十七人目――みよ 餓死
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