野犬

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野犬

 夜の山は薄暗く、伊彦(いひこ)と喜助(きすけ)意外に人はいなかった。ただただ、周りに立っているのは木だけだ。  夏とはいえ、この時間になるとだいぶ涼しくなってくる。日は落ちているのものの、まだ空は青白い光を湛(たた)えていた。木や足元の草の影は、夜の闇と混じり合い始めてそろそろ形を失い始めていた。。  うるさいくらいにツクツクボウシの鳴き声が辺りからふってくる。 「なあ、考え直してくれ、喜助!」  伊彦は縋りつきそうな勢いで喜助に訴えた。 「こんなの、間違っている。そうだろ?」  喜助は、何も言わず腕組みをしたままだ。 「分かっているんだ。『アレ』がなければ村は貧しくなる。でも、知っているだろう? ゆいが……俺の娘がどうなったか!」 「……」  ザワザワと木々が風に揺れる音が妙に大きく聞こえた。 「罰があたったんだよ。喜助!」  なおも黙り込んでいる喜助に、伊彦は詰め寄った。 「……そうだな」  ようやく、喜助は口を開いた。 「お前の言うとおりだ。こんなこと続けてはいられない」  その言葉を聞いて、伊彦はパアッと顔を明るくした。 「ああ、よかった、分かってくれて」 「でも、俺達二人が訴えたところで、他のみんなが納得してくれるとは思えないぞ」  一度は笑顔になった伊彦の表情が、またしおれるように暗くなっていく。。 「なにも、納得してもらう必要はないさ」  押し殺したような、低い声で伊彦は続けた。 「町に出て、警察にでも言えばいい。そうすれば、しかるべき処置をしてもらえる。ひょっとしたら、俺たちも罪に問われるかも知れないが、それは仕方がない」   迷いをふっ切るように、伊彦は喜助に背をむけた。無防備に。もう一通り話は終わったと思ったようで、そのまま村に向かって歩き出す。  喜助は、懐からそっと匕首(あいくち)を取り出した。 (冗談じゃない)  荒くなる呼吸を押さえながら、伊彦に忍び寄る。  そして急に強く地面をけり、一気に伊彦の背に匕首を突き立てた。  薄闇の中でも鮮烈な赤い血がだらだらと柄と喜助の甲を濡らす。 「あ、あ、」  喜助は、奇妙にかすれた声をあげ、首を曲げて喜助の方を見ようとしている。血走ったその目は、驚きに見開かれていた。 「すまないな、そんなことはできるわけないだろ」  「なんで」と聞きたいのだろう、ぱくぱくと伊彦の口が動く。 「今までのは、話を合わせていたんだよ、あんたを油断させるためにな。今頃引き返せるわけないだろう」  支えを失ったように伊彦は地面を崩れ落ちた。  まるで伊彦の背中から生えているような匕首を引き抜いた。もう完全にこと切れているらしくピクリとも動かない。  喜助は、腰に下げていた筒を取り、栓を抜くと中の液体を伊助の体を振りかけた。むかつくような臭いが周囲に漂う。 「中身は動物の脂だよ」  聞こえていないとは知りながら、伊助に語り掛ける。 「こうしておけば、あとは犬が勝手に始末してくれるさ」  ほんの少し、喜助は憐れむように伊彦をながめ、そしてその場を去っていった。  並べられたのは、こんな山奥の村にはめったにないほどのごちそうだった。何種類かの干した果物と、塩漬けの魚。それに菜っ葉のつけものに、具沢山の汁物。保存食が多いけど、場所を考えれば豪華な昼飯と言っていい。 「おお、すごいですね!」  ウツロは心の底からそう思った。 (まさか、こんな山の奥でこんなごちそうにありつけるなんて)  相変らずウツロはさすらったすえ、この岩越村に流れ着いたのだった。  そこで出会った喜助(いしすけ)と意気投合して、ありがたくも夕食をごちそうになることになった、というわけ。  この村に来たとき、畑の作物のできが悪かったのは見てきている。だから村に入ったときは、最悪水だけでもいいと思っていたのだけれど。 「ま、畑の作物だけじゃなくて、色々と他の村と特産品をやりとりしているからな」  喜助がどこか得意げに言った。  今までした話によると、喜助は親の残してくれた家で一人暮らしをしているそうだ。 『なに、話し相手ができていいさ』  と喜助は言ってくれた。 「でも、すみません。食べ物どころか今晩寝る場所まで貸してくれて」  囲炉裏を前に、喜助とウツロは並んで座っていた。板張りの家の隅には、人形の入ったトランクと荷物がおいてある。  ウツロがいうと、喜助は「いやいや」と照れくさそうに笑った。 「いいんだよ。どうせ一人暮らしで夜になると暇だしな。客用の布団なんてないけど、ハンテン貸してやるから。それくるまって寝ろ」  その言葉に、ウツロは改めてお礼を言った。 「それに、厠(かわや)は外にあるからな。夜行くときは声をかけろ」 「い、いや、ははは……」 (子供じゃないんだから、ついてきてもらわなくても大丈夫だよ)  ウツロの旅の話や、喜助の山での暮らしの話で盛り上がっていた時だった。  外の方で甲高い悲鳴が上がった。子供、いや、女性の悲鳴だ。  思わず二人は顔を見合わせた。  もう一回、またもう一回。悲鳴は何度も上がり、なかなか止まらない。  遠くから、「なんだそりゃ!」といった男の驚く声まで増えた。  この村の日常がどんな物かは知らないけれど、明らかに異様な雰囲気だ。  なにか、非常事態が起こっている。  ウツロはなんだか不安になってきた。 「なんだ、さわがしいな」  喜助が箸をおく。 「ちょっと見てくる」 「あ、僕も!」  一人で残されるのもなにか怖いし、何が起きているのかも気になる。  ウツロは料理を置き、慌てて喜助の後を追った。  家の外に出ると、一人の男が数人の村人に必死に何かを訴えていた。興奮していて、かなり声が大きくなっているせいで、言葉の内容が聞こえてくる。 「治兵衛(じべえ)が……野犬に……」 「山の入り口で? 本当に野犬の仕業なのか?」 「ああ、間違いない。治兵衛はもうだめだ。ひでえもんだ」  人が集まっているところから少し離れた場所に、呆然と座り込んでいる女性がいる。きっと、その治兵衛の知り合いなのだろう。さっきウツロ達が聞いた悲鳴は、彼女が訃報を聞いてあげたものに違いない。  男の報告を受け、慌てた様子で何人かの村人が山に向かう。  ウツロ達もその後に続いた。  村を完全に出て、山に差し掛かったころ。木々の間で、人が輪を描くようにして集まっているのが見えた。そのほとんどが男性だ。  野良着の肩をかきわけ、背伸びをして、輪の中央を覗き込む。  それは、男の死体だった。歳はまだ若く、二十歳前後だろうか。農作業で鍛えられたがっしりとした体格をしている。  死ぬまでに相当抵抗したらしく、着物は半分脱げかけ、肌は血と泥に汚れている。喉笛や腕の傷が特にひどく、醜くえぐれていた。その痕からやはり下手人は野犬のようだった。血の臭いが、ツンと風にのって流れてくる。早くもハエがたかり始めていた。  横にそむけられた顔は、苦痛にゆがめられている。 「うわ……」  ウツロは慌てて男から視界から外し、大きく深呼吸して息を整える。 (たまたま滞在していた村でこんな事件が起きるなんて……) 「リキのしわざか?」  隣で喜助が呟いた。 「リキ?」  聞き返すと、彼は落ち着かなげに視線を走らせた。 「狂暴な野犬だよ。仲間を何匹か連れて、この辺りをうろついているらしい」  そこで、喜助は声を落とした。 「最初は、大した事じゃなかったんだけどな。大きな足跡があったり、影を見た者がいたり。それがだんだんと酷くなってきて、最近はとうとう伊彦(いひこ)が喰い殺された」 (ああ、そういえば……)  確かに、この村についた時、「よくここまで無事で」とか言われた。  旅とはもともと危険な物だから、ありきたりのあいさつだと思っていたけれど、どうやら「野犬に襲われなくてよかった」という意味だったのだろう。  運が悪ければ、この村にたどり着く前に喰い殺されていたかもしれない。今さらながらゾッとする。 「嘘だろ、あんた!」  太ったおばさんがこちらにかけてくる。 「待て、あんたは見ない方がいい!」  そのおばさんの襟首をつかむようにして、その動きを止める。 「ほら、女子供は家に引っ込んでいろ」  男の一人が、おばさんを村まで送っていった。 「とにかく、こいつをこのままにしておくわけにはいけないだろう」  喜助が渋い声で言った。  犠牲者の遺体は戸板に乗せられ、むしろで隠された。 「これから、忌屋(いみや)にこいつを運ぶ」  喜助が教えてくれた。 「あ、よければ僕も一緒に……」  気が付いたら、ウツロはそう言っていた。  会話をしたことはなくても、こんな事件に巻き込まれたのはきっと何かの縁だろう。弔ってあげても罰は当たらないと思った。それに、好奇心があるのも事実だ。  喜助は特に文句を言わなかったし、ウツロはついていくことにした。  病人や妊婦など、村人から隔離するために作られた小屋は、当然村から少し離れた所にあるそうだ。  死体を運ぶものを先頭に、男達が列をなして山道を行く。皆、一言も口を開かない。草を踏みつけられる音だけが規則正しく繰り返された。  昼すぎのことで、木々の葉がちらちらと光を振りまいていた。小鳥がのん気にさえずっている。のどかな雰囲気と、村人たちの暗い沈黙が、妙に対照的だった。  やがて、ほったて小屋が草の間から見えてきた。  戸板を運ぶ者達が、忌屋の中へ入って行く。  忌屋に同行した者すべては入れず、ウツロや喜助はその前にたむろった。  沈黙に耐えかねたのか、ぽつぽつと村人達は話し始める。 「まさか、治兵衛が……」 「伊彦に続いて……」 「これ以上放っておくわけには……」 「でも、かと言ってどうするよ?」  旅人であるウツロは、村人の話に加わることはできず、半ば放っておかれる形になった。  かといって一人で村に戻る気にはならず、ウツロはその辺りをふらふらしてみることにした。  そっと小屋の後ろに回ってみた。そこは、墓場になっているようだった。土まんじゅうの上に、大きな石を乗せた墓がいくつか並んでいる。 (うわあ)  ウツロは内心でうめき声をあげた。  この事故といい、たどり着いた墓場といい、なんだか今日は不吉なことばかりだ。  その墓の一つに、若い女性がしゃがみこんで手を合わせているのに気がついた。身ぎれいにはしているけれど、長く悩みを抱え続けているように顔色が悪くやつれていた。  声をかけることもできず、ウツロはそっとその姿を見守る。  祈り終わった後も、彼女はその姿勢のままぼんやりと墓の石を眺めていた。 「リキが、そんなことするはずがない」  ウツロに気がついていないのか、彼女は呟いた。低く、何かに対する憎しみのこもった声だった。 「あの……」  ウツロはそっと声をかけた。  いきなり声をかけてきたよそ者に、彼女は振り返った。  正面からその目を見て、ウツロはぞっとした。すべてをあきらめた、いっそ穏やかすぎる目。人形に乗り移った死者よりも死んだような。  似たような目を、以前旅の中でウツロは見たことがあった。  どこかで見た、大きなお屋敷につかえていた幼い女中さん。二、三日滞在しただけでも、その子が酷く虐(しいた)げられているのがわかった。こき使われ、周りからいじめられても、そこを逃げ出したら生きてはいけない。  自分の心を殺して生きている者の目。 「リキって、今日人を襲った野犬ですよね」 「ええ。でも、あの子は悪くありませんわ」 「え? 悪くないって……」  ついさっき見たばかりの無残な死体が頭に浮かぶ。あんなことをした犬が悪くないなんて。 「でもあの犬って、今回の人だけでなく伊彦って人も……」 「それはありません。リキはそんなことしたりしない!」  死んだような彼女の目の中に、かすかに怒りがひらめいた。 「リキは、本当に亭主にかわいがられていました。そのリキが伊彦を噛み殺すはずがない!」 (この人は伊彦さんの奥さん……そしてリキは、一番最初の犠牲者、伊彦さんの飼い犬だったのか)  というか、人を襲う犬がもとは飼われていたなんて。なんとなく、生粋(きっすい)の野良という気がしていたウツロには少し意外だった。  話しているうちに段々と興奮をしてきたようで、彼女の口調が荒くなっていく。 「リキじゃない! 亭主は村の皆に殺されたんだ!」 (ええ?)  村の皆、ということは村人が寄ってたかってその伊彦さんを殺したということだろうか?  村人全員から反感をかうようなそんな発言をしたら、村で暮らしにくくなるだろう。  怒りに任せて失言をしてしまったことに気づいたらしく、その女性はハッと口を押えた。そして他に聞いていない者がいないか辺りを見回す。  その時だった。 「おい、ウツロさん」  喜助が、少し焦ったようにウツロの名を呼ぶのが聞こえてきた。  その声に驚いたように、女性はそのまま早足にその場を立ち去っていった。  喜助が忌屋の角から姿を現した。 「あ、ああ。よかった、ウツロさん。ここにいましたか」  ウツロの顔を見ると、明らかに喜助はほっとした顔をした。 (なんだか大げさだなあ。まさかこんな人がいる所で野犬に襲われることもないだろうに)  苦笑して、ウツロは忌屋の前に引き返した。  相変らず、小屋の外に集まった者たちは、狂暴な野犬をどうするか話し合っていた。ウツロはそっとその輪の中に入りこんだ。  狩りに出る、とか毒の餌をまく、とか様々な意見が出たが、結局具体的な方法は決まらなかった。  忌屋の中からは、人が床を踏む音が聞こえてくる。遺体を清め、棺に収めているのだろう。 「あ、あの……」  村の方の茂みから、女性が一人やってきた。  その場にいた者が、いっせいに振り向いた。 「どうした、おみよさん」  男の一人が聞く。  普通、病人などを住まわせる忌屋近くにはあまり来たがる者はいない。村にちょっとした非常事態が起こったのに違いない。 「あの、旅の人がやってきて……」  女性の後に、明らかに村の者ではない青年が立っていた。  黒い髪を一つにまとめた、ほっそりとした優男だった。中性的で整った顔をしている。  旅で日にやけているものの、きめの細かい肌。着ている着物は旅に耐えられるように丁寧に作られていて、豪華なものだ。  その袖に縫われた文様を見て、ウツロは心臓が止まりそうになった。 (あれは……妄一族の文様!)  ウツロはそっと身を近くの木の影に隠した。  いつだったか、誘拐されたとき、誘拐犯の松秀から妄一族の誰かが母を探していたのは聞いていた。だから自分の目の前に現れるかも、という予感はあった。  けれど、まさかこんな近くまで追ってくるなんて。 (見つかるわけにはいかない)  すぐにも背をむけて逃げたくなるのをぐっとこらえる。そんな派手な動きをしたらすぐに見つかってしまう。 「私は雪路(ゆきじ)。旅をしている」  青年は礼儀正しく村人達の一番前にいた男にあいさつをした。  ウツロはゆっくりと後ずさり始めた。村の皆が雪路とかいう青年と話に夢中になっているうちに、この場から離れられればいいのだが。  今の所、雪路はこちらの動きに気づかず会話を続けている。 「なんでも野犬になやまされているとか」 「え、ええ」  喜助は、旅人が持っている弓と矢をちらちらと見た。相手が頼れる相手なのか値踏みする目だ。  雪路は、切れ長の目をスッと細めた。 「私は多少弓矢の覚えがあります。お役にたてるかも知れません」 「ほ、本当ですか?」  喜助は、嬉しそうに言った。 村人達の間から「本当か?」とか「ありがてえ」とか声があがった。  もしもこの旅人が野犬を倒してくれればよし、例え雪路が失敗して殺されても村に被害はない、といった所だろう。 「それにしても、最近は本当にどうしたんだろうなあ」  喜助が言った。 「犬が出たり、旅人が二人も来たりなあ」  その言葉を聞いた瞬間、雪路の気配が鋭くなった。 (まずい、まずい)  どんどんと鼓動が早くなる。  早いところこの場から離れたいけれど、まだこの距離では走ったら雪路の注意を引いてしまうだろう。 「旅人? それは一体どんな人ですか?」  雪路は、かすかに眉をしかめた。 「十六ほどの少年ですが」  雪路の様子が変わったのに男も気づいたのだろう。ためらいながらそう答えた。 「そいつは、人形を持っていましたか?」 「さあ、大きな荷物を持っていましたが。彼がどうかしましたか?」  雪路は、どこまでこの村人に話をいいものか、少し考えたようだった。 「いえ、私達の村から宝を盗みだした者がいましてね。そいつを探しているんです」  ざわざわと男達がざわつく。確かに泥棒が村にいるのはいい気がしないだろう。 「いえ、そんなことをする奴には見えませんでしたが……」 (当たり前だ! 理由もないのに泥棒なんてしないよ! したのは母さんだ!)  それはそれで問題だけども。それに、母だって理由がなくてそんなことをしたわけではない。  もっとも、弁解をする余裕はないようだ。  妄一族の勘のよさなのだろうか。ゆっくり動いたはずなのに、雪路は顔をめぐらせ、ウツロの姿をとらえた。  思わずビクッと体が跳ね上がる。 「お前! 待て!」  もう気配を消す必要はなくなって、ウツロは背を向けて走り出した。 「おい、どうした」 「あいつ、泥棒だったのか?」  男達のざわざわとした囁きが遠ざかる。  一つの足音が、しつこくついてきた。 「貴様、霊力を感じるぞ! それに、その顔つき……繭佳とそっくりだ」  母親の名前を聞き、動揺した。自分では分からないけれど、自分は母とそっくりなのだろうか。  若いころの母の話を聞いてみたい気はするけれど、知っていたとしても応えてくれる親切な奴ではないだろう。  木の根を飛び越え、土の塊(かたまり)を踏みつぶし、ウツロはかけた。  その背に声が飛んでくる。 「そうやって逃げるということは、お前の母が我々一族に何をしたか、知っているのだろう!」  走りながらどうやったものか、外れた矢が肩の上を通り過ぎ、近くの木の幹に突き刺さった。  殺そうというより、肩なり足なりを射って足を止めるつもりだ。そして本の場所を聞き出す気に違いない。  さらに雪路の声が追ってくる。 「あの本を返せ! あれは里から持ち出していい物ではない! あの人形はただの依り代ではないのだぞ!」  勝手な言い分だ。ウツロはそう思った。  走っているのとは違う熱さが、カッと頬に登った。  振り返らないまま叫ぶ。 「ふざけるな! 母さんから先に奪ったのはお前達だろ!」  知らず山の奥に入り込んできたようで、足を覆う草の丈が高くなってくる。 「お前は、母さんの子を――僕の兄を――殺したんだ!」   母の日記によると、数十年前に妄一族の間に病が流行した。  妄に対立する他の一族が呪いをかけたという説が出ていたらしいが、結局原因は不明。  その時祓いの贄なったのは、体が弱かったというウツロの兄の命だった。  母は、自分の子供を殺した者達と共に暮らすことが耐えられなくなった。そして、自分の里を出た。繭佳はウツロが生まれる前に村を出ている。なのでウツロはそこにあった事を実際見たわけではない。  だが少なくとも、母の日記にはそう書いてあった。ウツロの兄は里の者に殺されたと。  記憶にある母は、ときおり魂が抜けてしまったような、他の世界を見つめているような表情をすることがあった。幼いウツロが呼びかけても生返事を返すだけで、自分が、でなければ目の前の母が、消えてしまったような恐怖を感じたものだ。  その時は、どうして母がそんな風になるのか不思議だったけれど、その手記を見て分かった気がした。きっと、亡き兄のことを思い出していたのだ。母が遠い目をするとき、彼女は目の前にいるウツロではなく、過去の兄の思い出を見つめていたのだろう。 「……」  反論をしてこない所を見ると、雪路はウツロの母に過去何があったのか、知っているのだろう。  言い訳がましく、雪路は言った。 「あの時は、病がはやり、村が滅ぶ危険があったのだ。どうしても祓いに失敗するわけにはいかなかったのだよ。術を確実にするために、生贄が必要だったのだ」  その生贄に選ばれたのが、産まれたばかりのウツロの兄だったというわけか。 「ふざけるな!」  ウツロは振り返って相手に殴りかかりたくなった。  けれど相手は弓矢を持っている。そんなことをしても殺されるだけだ。ウツロは、歯を食いしばって走り続けた。  また矢の放たれる音がして、ウツロは少し振り返った。  その瞬間、目まいがして空が揺れる。倒れないように踏ん張ろうとしたとき、足下には地面がなかった。 「え?」  本能的な恐怖が背中に走る。  視界に、青い空と白い雲が映る。  茂みの向こうに崖があったのに気付かず、足をすべらせ落ちたのだと気づく前に、視界が暗くなった。  視界からウツロの姿がかき消えるのを目撃して、雪路は思わず足を止めた。 「なに……?」  慎重に茂みをぬけると、生い茂る雑草と木で分かり辛いが、地面がぶっつりと途切れている。  構えた弓と矢を下ろす。  どうやらこの先は崖になっているようだ。 「落ちたか」  この辺りはだいぶ麓から高い所にある。おそらく助からないだろう。確かめるまでもない。村人達の話によれば、この辺には野犬が出るという。生きていたとしても、動けないうちに喰われるに違いない。  こうなってはあの青年より、本を何とかする方が先決だ。  話からすると、あの青年は大きな荷物を持っていたという。その中に人形がある可能性は十分にある。  問題の荷物は村にあるのだろう。それをすぐに確認しなければ。。  雪路はもと来た道を引き返し始めた。  一瞬、視界が真っ暗になった。ひょっとしたら、一瞬じゃなくて数秒間気を失っていたのかも知れない。 「いって!」  強く打ったらしくて体のあちこちが痛い。  頭を押さえて起き上がった時、ウツロは自分が死んでしまったのかと思った。なにせ、一面のお花畑なのだから。  周りで揺れているのは、毒々しいほど赤い花だった。焦げたような、不快な臭いがする。  ウツロは、口の中に入った土を吐き出した。  土の湿気と、つぶれた花の汁を吸って、着物の背中がじっとりと濡れてしまった。 「いてててて……」  起き上がり、体を調べてみると腕やスネに擦り傷が出来ている。 「なんだここ、あの世?」  よく見ると、花は等間隔に並べられているし、雑草はない。明らかに人の手が入っている。 (実際あの世に行ったことはないから分からないけれど、そういう所に生えている花ってこんな人口的な感じじゃないんじゃ?) 「なんと……」  少し離れた所で、くぐもった声がした。  痩せた男が、離れた場所に立っていた。はだけた着物から、あばらの浮く茶色い肌が見えている。  そして不思議なのは、その老人がまるで強盗でもするかのように顔に巻いた手ぬぐいで鼻と口を覆っていることだ。怯えと驚きで見開かれたその男の目に、ぽかんとしているウツロの姿が映っていた。 「ええっと、ここは、どこです?」 (確か、僕はどっかから落ちたはず……)  ウツロは周りを見回した。  三方は空に囲まれていて、後ろには土の壁があった。そこには縄はしごがかけられ、ずっと上まで続いている。  ここは、崖の途中に突き出た棚のような場所らしい。  そこで初めて、自分が高い所にいることに気が付いて、背筋がゾッとした。落ちる場所がずれていたら、本当にあの世行きだった。 「あんた……なんでここで生きていられるんだい」  ウツロの質問には答えず、男は、幽霊を見たような震え声で聞いてくる。 (? なんでそんなに怯えているんだ?) 「ええっと……」  不思議に思いながら、話しやすい距離まで近づこうと一歩進んだ。  反発する磁石ように男はあとずさる。 「こ、この花は、目に見えない毒をばらまくんだ。鼻と口を毒消しの葉で覆っていないと死んじまうのに」  ウツロは、その時老人が口に巻いている手ぬぐいが不自然にでこぼこしているのに気づいた。その毒消しの葉とやらを包んで顔に巻いているのだろう。 「あ、あんた何者だい」  危険な薬効や毒のある薬草が国に管理されているのは、ウツロも知っている。  そして、もちろんそういった物が御法を無視して作られることがあるのも、高く売買されていることも。  こんな所で隠れるように、というか明らかに隠れて栽培しているのだから、つまりはそういうことなのだろう。そして、そんなものが人の役にたつ真っ当な物として使われるとは思えない。 「くそう!」  カマをかまえ、男は叫んだ。 「この場所をよそ者に知られるなんて! せっかく伊彦を片づけたというのに!」 「伊彦さんは獣に喰われたんじゃなかったの?」  そう聞きながらも、ウツロはもう見当はついていた。 『亭主は村の皆に殺されたんだ!』  さっきの女性が言い放った言葉とこの男の様子から察するに、伊彦はここの秘密の花畑の事を告発するつもりだったのだろう。そして、口封じに村人の手によって殺されたのだ。 『厠は外にあるから。夜になって行きたくなったら声をかけろ。ついてってやる』  あの過保護な喜助の言葉も今なら納得できる。よそ者が万一ここにたどり着かないよう、二十四時間見張りたかったに違いない。  そして出された、ちょっと贅沢な料理。 (畑の作物のできが悪いのに、豊富な食糧の理由がこれか)  伊彦は、きっと優しい人だったのだろう。そして、愚かなくらい善良だったのだ。他人を苦しめ、自分がいい生活をすることに耐えられなかったのだろうから。  墓場で祈りをささげていた、名前も知らない彼の奥さんの姿が思い浮かんだ。そして、その諦めきった目。 (旦那さんと違って、奥さんはすべてに口をつぐんで生きることを選んだんだ……)  多分、それは賢いことなのだろう。この村を追い出され、女一人新しい場所で生活を立て直すのはそう簡単なことではない。秘密を守ってさえいれば、そんな苦労をしないですむのだから。  ウツロは男を見据えた。  男の、カマを持つ手が震えている。 (こいつ、僕に怯えてる……)  その事実が、ウツロを妙に残酷な気分にさせた。 (嗜虐(しぎゃく)心っていうんだっけ、こういうの) 「なんで僕が無事か、教えてあげようか」  にぃ、っと唇の端がつりあがるのを止められない。まるで劇に出てくる悪役になった気分だった。 「僕が人間じゃないからさ」 「くっ!」  恐怖に耐えかねたように、男は斬りかかってくる。  ウツロは男の右腕を両手でつかみ、壁に押し付ける。  相手はやせている老人だ。あっさりとカマを奪い取って放り投げる。弧を描く刃が地面に突き刺さった。  ウツロを振りほどき、カマを拾い上げようと男はもがいたが、ウツロはそれをさせなかった。 「この花は毒を発散させているんだろ? あまり息を荒くしない方がいいんじゃない?」  ウツロのその言葉に、完全にやる気をなくしたのか、老人はずるずるとその場に座り込んだ。  ウツロは格闘と落ちた衝撃で乱れた着物と息を整えながら、考えをまとめる。 (リキは、飼い主にかわいがられたと言っていた……)  だとしたら、この騒動の原因も見当がつく。  主人の仇を取ろうとしているのだ。おそらく、村人全員を噛み殺すつもりなのだろう。 (ひょっとしたら、伊彦さんは人形に乗り移るかも知れない)  死者が、現世を見ているのかウツロは知らない。けれど、もし今の村の様子を見ていたとしたら、リキなり、村人なりに何か言いたいと思うだろう。  とりあえず、村に置いてきたトランクを確認しないと。 「ん?」  縄ハシゴに向かっていたウツロは、何か硬い物を踏んだのに気づいて足を止めた。 「これは……」  拾い上げると、指先ほどの小さな木彫りだった。泥にまぎれてよく見えなかったが、よく見るとうさぎの形をしている。子供が喜びそうなものだ。 (なんだこれ)  なんだか、このまま捨ててはいけないような気がする。どういうわけか、そう感じた。懐にしまいこむ。 (早く村に戻った方がいいかも知れない)  何かに急かされているように、焦りが沸いて来る。  ウツロは急いで縄バシゴを登り始めた。  偵察に出た又二郎が息を切らせて戻ってくると、忌屋の前で待っていた村人たちは色めき立った。 「どうなった! あの旅人さんは?」  喜助の言葉に又二郎は首を振った。 「ま、まずいことになった」  苦しそうな息の間から、喜助は話し始めた。 「あの、ウツロとかいう小僧っ子に、あの色男が矢を射ってな。そんで崖から小僧が落ちたんだ。ひょっとしたら、あの畑が……」 「馬鹿が! あの場所がバレないように後をつけさせたんだろうが!」  喜助は又二郎の襟首をつかんだ。 「で、でもよう……」 「シー! 色男が戻ってきたぜ!」  忌屋に続く道の向こうから、雪路の姿が現れた。  忌屋に着く前に、彼は不自然に足を止める。  なぜ急に彼が立ち止まったのか、村人達にもその理由が分かった。  空気がざわめき始めている。風にうめき声、いや、唸り声が混じっている。そして、鼻を覆いたくなるような獣の臭いも。  四方からがさがさと、草をかき分ける音。一つではない。雪路と村の男達を囲むようにいくつも。  村人達も皆そこで足を止め、お互いの様子をうかがうように互いの目を見かわしている。  草を分ける音は、じわじわと包囲を狭めてきた。木々の間から、何匹もの野犬が姿を現す。黒に茶色、白、灰色。どれも、毛並みが乱れ、枯葉がくっついている。  そして皆、口からよだれを垂らし、歯をむき出しにして、唸り声をあげている。  その群れに一匹、ひときわ大きく、立派な白い犬がいた。  茶色い眼の輝きは賢そうで、人の言葉くらいならしゃべりそうだ。  明らかに、この群れの頭(かしら)だった。 「やっぱり、リキか! こいつの仕業か!」  喜助が叫んだ。  一匹の犬が、威嚇(いかく)するように吠えた。  それをきっかけに強い恐怖がざわざわと広がっていく。  犬といえど、獣だ。首筋を、太ももを、太い血管の通る場所を噛まれたら、人間は簡単に死ぬ。 「リキ!」  喜助が声をあげた。 「伊彦は俺達を裏切ったんだぞ! 殺されるのも当然だろう!」  喜助の言葉にも、唸り声はやまない。  じりじりと獣達は輪を狭めてくる。 「助けてくれ、雪路さん」  呼びかける村人の声は震えていた。 「こいつは伊彦の飼い主なんだ。主人の仇(かたき)を討とうと……」 「仇?」  そこで雪路の、形のいい眉がしかめられる。 「それでは、村の者が伊彦が殺したということになるが」  しまった、というように男は息をのんだ。 「う、うう……」  緊張に耐えられなくなったのか、又二郎が小さくうめき声を上げた。  それはだんだんと大きくなり、最後には叫び声になる。 「うわあああ!」  又二郎は急に走り出し、逃げ出そうとする。 「お、おい!」  雪路は止めようと手を伸ばす。  急に動いて野犬を刺激したらまずい。  だが、遅かった。  駆けだした男の裾に、野犬の一匹が噛みつく。又二郎は無様にひっくり返った。鋭い牙がノドに喰い込む。 「ああああ!」  又二郎が悲鳴を上げて、体をよじる。血が垂れ、鉄の臭いが立ち込める。  その臭いに興奮した野犬たちは一斉に村人に襲いかかった。 「うぎゃああ!」  ある者は腕に喰いつかれ、ある者はスネに喰いつかれ、ある者は飛び掛かられて地面に倒れた。  悲鳴があちこちで湧きあがった。 「くっ」  ここまで至近距離では矢を射ることができず、雪路が護身用の刀を抜く。  それをジャマするように、リキが、正面から雪路に飛び掛かかってきた。  身を護るため、雪路が刀を振り上げようとした時だった。  刀の前に、人影が滑り込んできた。  人を斬るわけにはいかない。とっさに手から力を抜いた。  リキは目の前に現れた人物を攻撃しまいとしたのだろう。軽く雪路にぶつかっただけで、地面に落ち、そのまま勢い余って転がる。  リキはすぐに起き上がると、まるで甘えるように高い声で鳴いた。  それを合図に、人を襲っていた犬達が獲物から離れ、口の周りについた血をなめる。 「ひ、ひいいい」 「お、おい、大丈夫か!」  怪我をした者達が、かばうように体を寄せあっていく。  雪路の前に、現れたのは、緑色の着物の男だった。  男がゆっくりと村人の方を振り向く。  ほっそりとした顔に、やせた体。まるで子供のように純粋な目が、雪路に何かを訴えようとしているように細められている。意志の強そうな唇は、真一文字に結ばれていた。 「お前は、伊彦!」 「嘘だ、まさか……」  村人が悲鳴に似た声を次々と上げた。 「伊彦! 確かに殺したはずなのに!」  喜助が叫ぶ。  諦めたような、呆れたような表情が青年の顔に浮かぶ。  伊彦は、野犬達の方に向き直った。そして、死者とは思えない明るい笑みを浮かべた。頑丈そうな手が、犬の頭をなでた。  リキは、今までの唸り声と同じ口から出ているとは思えない、甘えたような声をあげ続けている。  頭(かしら)の喜びが伝わってきたのか、いかにも血に飢えた感じだった他の犬達も、明らかに緊張を解いている。 「伊彦さんは、別に村人を恨んではいないんだよ」  どこかで聞いた声がした。  さっき崖から落ちたはずのウツロが、しれっと近くに立っていた。 「お前、生きていたのか」  雪路の言葉に答えず、ウツロはリキに語り掛ける。 「だから、復讐なんてしないでいいんだ。そうだよね、伊彦さん」  そして、伊彦――正確に言えば人形に乗り移った伊彦――の方をむいた。  伊彦は、ゆっくりとうなずいた。  その時、女の悲鳴とも呻きともつかない声が上がった。  ウツロの後ろから、中年の女性が現れた。 「ああ、あなた」  彼女は伊彦の姿を見ると、ぼろぼろと涙をこぼした。  そして、弾かれたように伊彦に駆け寄った。 「あなた」  女は夫の胸に縋りついた。 「あの……」  ウツロがそっと声をかけた。 「これ、花畑で拾ったんですけど」  ウツロは懐から小さな木のうさぎを取り出した。 「これ……娘の、ゆいの……」  かすれた声で、ゆいの母親は言った。  伊彦は、そのうさぎを受け取ると、震えた両手で包み、祈るように額にあてた。  ウツロは胸の痛みを感じながら話し始める。 「ゆいさんは、たまたまあの岩棚に迷い込んで、そのまま亡くなってしまったのですね。花の毒で」 「あ、ああ、そうなんです」  今は語れぬ夫の代わりに、妻が言う。 「それから、夫は花の栽培をやめるよう、皆に訴えるようになりました。妹が死んだのは、薬で多くの人達を苦しめているのだと。そうやって生きていったところで、本当に幸せになれないと」 「迷い花か」  雪路が呟いた。薬草や毒草に詳しい妄一族の出だ。その花がどういうものなのかは知っている。  もちろん、村の皆も薬を作る事で他人が不幸になることなんて知識としては知っていたに違いない。  しかし伊彦は、娘の死で自分達のやっている罪深さを急に実感したのだ。 「だからね。別に伊助さんは村人達を憎んでいたわけじゃないんだ、リキ」  ウツロは、伊彦の前にお座りしているリキに、やさしく声をかけた。 「ただ、村の人達にあの花を売りさばくのをやめてほしいだけなんだから」  ウツロの視線につられ、雪路は伊彦の顔を見た。  伊彦は、肯定の微笑みを浮かべている。 「あの畑の秘密は、もう僕にバレてしまった。それに」  ウツロの茶色い眼が、不快そうに雪路を見た。 「あの人にもバレたしね。少なくとも、僕は後で役所に報告をするよ。そうしたら、もうあの花の栽培も続けられない」  もしウツロが通報したら、きっとあの花畑は焼き払われるだろう。 「お、おい! だ、だめだ、やめてくれ!」 「嘘だろ、おい!」  村人達が口々に悲鳴のような声を上げる。  そんな彼らをしり目にこりと伊彦は微笑んだ。  そして、顔が、腕が、胴がむくむくと膨れあがり、色という色が落ちていく。伊彦は綿の人形に姿を変えた。  雪路が走り出すより早く、ウツロが走り出し、人形を抱きしめた。 「待て! それは我々の物だ!」  雪路は、ウツロに矢をむける。  ウツロはにやりと笑みを浮かべた。そして懐に手を突っ込み、何かを取り出した。それを思い切り雪路に投げつける。 「な!」  ウツロの胸になにかがぶつかった。それは、ワラで束ねた花束だった。  毒々しいほど赤い花、焦げたような、不快な臭い。   迷い花!  雪路はとっさに袖で口と鼻を押さえた。  まるで粉状の針を吸ったように、鼻といいノドといい、肺の奥まで体内を空気が通る所が焼けたように熱くなる。  げほげほと咳が込み上げる。 (まずい……)  大量ではないから、死ぬことはないけれど無害ではない。  頭が熱くなり、目まいがする。立ち上がれなくなって、雪路はそのまま膝をついた。  かすんだ視界の後ろで、ウツロの後ろ姿が見える。  ぼやけた絵具で描かれたようににじんでいるウツロが、手を振っているのが見えた。  伊彦の家に駆け戻ったウツロは、自分の荷物を回収して村を飛び出した。家に留守番をしている女性や子供達は、慌ただしいウツロの様子に驚いていたが、説明をしている場合ではなかった。  ウツロが村から出てから数日後。  とある町の食堂で、ウツロは食事をとっていた。  人の多い町に出ると、あの田舎の村で起きたことがまるで嘘のようだった。  今は昼の時間で、仕事中の男達が食事を取っている。  席には、暇そうな書生さんや会社周りのサラリーマンなんかが食事を採っている。  話し声や食器の触れ合う音の中で、ウツロは一人頼んだ料理が来るのをぼんやりと待っていた。  玄関がガラガラと音を立てて開き、二人づれの男がやかましく話しながら入ってきた。銀行ででも働いているのか、二人ともカッチリとしたスーツを着ている。  彼らがウツロの横を通ったとき、聞くともなくその話が耳に入ってきた。 「きいたか、あの村の話」 「ああ、違法な花を栽培していたって」  背もたれにもたれかかっていたウツロは、思わず体を起こした。  男の一人が席につくと同時に、テーブルにバサリと新聞を置く。 「最後、あの花畑は焼き払われたらしいぜ。酷い煙があがったってさ」 「ひゃあ、風向き考えないとやばいことになりそうだなあ。なんでも、村人のほとんどが裁判にかけられるそうだ」  ウツロは、知らずに自分が微笑んでいるのに気づいた。  どうやら、伊彦の願いは叶えられたようだ。  墓の前で祈っていた伊彦の奥さんの姿が浮かぶ。 (彼女はあれからどうしたろうか……)  きちんと調べれば、彼女の夫が違法な行為を告発しようとし、命を落としたことが分かるだろう。その妻である彼女には温情がかけられるに違いない。 (そういえば、あの男……)  雪路の、端正な顔が頭に浮かぶ。  母を不幸にした一族の男だ。 (おまけに、僕の人形を狙っている……)  もう会いたくはないけれど、多分また会うことになるだろう。  どういうわけか、それは予想ではなく確信だった。 九十八人目――伊彦 刺殺
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