画家

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 昼の大通りは、馬車や自動車が行き交っていて、だいぶほこりっぽい。帽子をかぶった着物姿の紳士、着物を着たおばあさん。お使い中なのだろう、大きな荷物を持った子供などが、大きな声で歌っている。  馬車や人力車が行き交い、ときおり自動車も走っている。 「でも、都会にもだいぶ慣れたなぁ!」  ウツロは少し誇らしい気分だった。  田舎から出て来たときは、人ごみにおたおたしていたけれど、周りの景色を楽しむ余裕も出てきた。  とりあえず、新しい街を散策してみよう。  その時、大きなエンジン音がして振り返った。後ろから黒塗りの、ずんぐりとした自動車が結構なスピードをあげて近づいてきている。 (人がこんなにたくさんいるのに、危ないな)  けどまあ、あの距離なら充分避ける余裕がある。他の通行人も文句をいいながらも小走りに道を開ける。大きな通りの真ん中は、あっという間に人がいなくなる。ウツロは道の端に避けた。一人をのぞいて。  車の行く手をふさぐように、女性が突っ立っていた。  白いワンピースを来たその女性は、ちょっと驚いた、というように軽く目を見開いている。黒い長い髪がなびいた。 「危ない!」  ウツロはとっさに女性の腕を引き寄せた。勢い余って、彼女抱き止めるようにして道に倒れ込む。  今まで二人が立っていた所を自動車が通り過ぎて行った。 「危なかった! 大丈夫ですか?」 「え、ええ」  ウツロに抱きしめられたままの女性は、ぼんやりと返事をした。  女性の軽い重みと体温を今さらながら感じて、ウツロは慌てて手を離した。  だが、女性は何があったのか分かりかねているように、ウツロの胸に寄り掛かるように地面に座り込んだままだ。 「あ、あの、悪いんですけど、どいてくれません?」  少し照れながらウツロが言った。 「ああ、すみません」  女性はのろのろと立ち上がった。  ウツロは立ち上がり、尻についた砂を払う。 「だめですよ、ぼーっとしてちゃ」  彼女は無言でうなずき、そのまま立ち去ろうとする。  無意識にお礼を期待していたウツロは肩透かしをくった気分だった。 (ぼんやりしてる女性だなぁ、普通なら避けられるだろあの車……)  女性の背を見送っていると、女性に駆け寄る者がいる。白髪頭の、いかにも使用人という姿の男だ。 「紗枝(さえ)お嬢様!」  立ち止まった紗枝お嬢様は、無言で顔を使用人にむけた。  使用人は、息を切らしながら言う。 「いきなりお家(うち)を抜け出して、どちらへ行かれるつもりだったのですか。お母様が心配なさっていますよ」 「すみません、少しお散歩に」  戸惑っているように紗枝は応えた。 「お嬢様、さきほどなにか騒ぎが起こったようですが、大丈夫ですか」 「ええ、通りすがりの方が助けてくれましたので」  自分のことが話題に出て、なんだかちょっと照れた。 「お嬢様みたいな格好をしていると思ったら、本当にお嬢さんだったんですね。使用人さんがいるなんて」  ウツロは思わずまた紗枝に近づいていった。  使用人が不審そうな視線を向けてくる。 「えーと、こちらは?」 「さっき言ったでしょう? 私が車にひかれそうになった所を助けていただいたの」  ウツロが答える前に、淡々と紗枝は言った。 「ああ、どうも。ウツロと申します」  ウツロはぺこりと頭をさげた。  使用人も礼を返す。 「お嬢様が危ない所を助けていただいたようで。お嬢様、ウツロ様を館にお招きになり、一度正式にお礼をされてはいかがでしょうか。むくいることなく恩人を帰すなど、お父上がお怒りになるでしょう」 「ええ、そうですね」  対して考える間をおかず紗枝は答えた。 「本当ですか! ありがとうございます!」  ウツロはパアッと表情を明るくした。  お茶の一杯ならありつけるだろう。ひょっとしたら夕ご飯、運がよければ今日の宿。! 「まあ、お礼でお呼びしたことに対してお礼だなんて。なんだかキリがありませんわね」  ウツロと出会ってから、初めて彼女は笑顔を見せた。  ハハハ、とウツロもつられて笑った時だった。 (あれ?)  何か視線を感じる。  そっちに目をやると、一人の男が立っていた。中年の男で、地味な着物にくたびれたハンチングをかぶっている。  ウツロの視線に気がつくと、男は隠れるように横道へ消えて行った。 (なんだ、あの人。まあいいか)  ウツロは、今まで見たこともない豪華な応接室に通され、少し緊張してしまった。  床は木のようだけれど、黒光りしていて黒曜石でできているようだ。花の模様が散ったブルーの壁紙に、質の良さそうな木のテーブル。セットの椅子が何脚か。  紗枝と彼女の母親澄香(すみか)が、テーブルの向かいに座り丁寧なお礼をしてくれた。  話をしているうちに分かったのだが、紗枝はピアニストの伊三郎(いさぶろう)氏の娘さんらしい。音楽に興味のないウツロでも名前を知っているくらい、有名な演奏家だ。  今も彼はどこかへコンサートに行っているらしく、澄香は娘で留守を守っているらしい。 「ウツロさんは若いのに色々旅をしていらっしゃるのね。今のうちに経験を積んでおく事は良いことだわ」  にっこりと澄香は微笑んだ。 「色々と旅の話をよ聞かせてくださいな。新聞やラジオもいいですけど、やっぱりした実際に体験した人から直接聞くのとはまた違いますもの」 「ええ」  旅で出会った変わった人、荷物をなくして焦ったこと。そういった話は娯楽の乏しい田舎で喜ばれそうな印象があるけれど、都会の人もこうして喜んでくれることが多い。  ウツロは宿や食事を世話してもらったときに、お礼がわりに話をすることにしていた。  そのとき、螺鈿(らでん)模様の小さな置き時計が、五時を打った。 「まあ、こんな時間。紗枝さん、夕食前にピアノの練習をしなくては」  その言葉に、ウツロは少し驚いた  普通、娘に面白い話を聞かせるものじゃないか? そもそも、紗枝を助けたお礼なのだから、本人が先に席を外すなんて。 「分かりました、お母様」  澄香の言葉に逆らうでもなく、機械じかけの人形のように紗枝は立ち上がった。 「あの、奥様」  恐る恐るといった感じで、使用人が声をかけた。 「差し出がましくも申し上げます。今日はお客様が来ております。お嬢様もお客様のお話をお聞きになりたいでしょう。今日ぐらい練習をお休みにして差し上げては」 「お黙り、源蔵(げんぞう)」  今までの気さくな雰囲気が嘘のように、澄香はぴしゃりと言った。  その勢いに、ウツロはつい体をすくめる。 「あの子が立派なピアニストになるには、男以上の努力が必要なのです。娘には、お父様を超えるピアニストになってもらわなくては」 (紗枝さんは演奏家になりたいのか)  これからどうなるかは分からないが、まだプロの演奏家は男の世界だ。夢を叶えるには相当な努力が必要だろう。  その割には本人にやる気というか覇気が感じられないけれど。 「はい」  紗枝は虚ろにつぶやくと部屋を出て行った。 「これはお客様にお見苦しいところを。それで……」  澄香は何事もなかったかのように話の続きを始めた。  しばらくして、どこからかクラシックらしい、ピアノの旋律が聞こえてきた。 「どうです、紗枝も結構上手でしょう」  話を澄香が誇らしげに言った。 「ええ」  うなずきながらも、ウツロは内心首をかしげていた。  確かに、演奏はうまい。よくこれほど流れるように鍵盤を叩けるものだと思う。 (でも、なんだろう……)  心に、グッとくるものがない。  体を揺らしたくなったり、景色が頭に浮かんだり、胸がドキドキしたりしないのだ。  こう言ってはなんだが、これではコンクールで良い成績を収める事はできないだろう。  もちろん、そんなことを口には出さず、ウツロは愛想笑いを浮かべた。  なんだか結局、帰り損ねたという感じでウツロはそのまま紗枝の家に泊まることになった。 (でも、紗枝さんも大変だったなあ)  昼の話の端々から分かったのは、澄香は紗枝をプロのピアニストにすることになみなみならぬ執着を持っている。  なんでも、澄香は養母に跡取りの息子を産むように散々圧力をかけられていたようだ。だからこそ、紗枝を夫と同じピアニストにさせようとしているらしい。 (だからあんなに熱心にレッスンさせてたんだ。でも、それって紗枝さんのためじゃないよなあ。あれじゃ、紗枝さんも家にいても安らげないだろ)  そう思ったところで、よそ者のウツロに何かできるはずもない。  ウツロにあてがわれた客室は、窓から庭が見える素敵な位置にあった。しかも布団でなくてベッドだ。 「なんだか、王様にでもなった気分だ」  そのふわふわしたベッドが原因と言うわけではないだろうが、ウツロは真夜中に目を覚ました。  カーテン越しに、窓から星明かりがぼんやりと差し込んでくる。  淡い光に、豪華なテーブルやスタンドを浮かび上がらせている。 「あれ」  視界の隅に映るトランクが開いているのに気づく。人形は外にいるのだろうか? 嫌な予感が胸に広がった。  ウツロはベッドから降りてげたを履くと、カーテンを開けて庭を見下ろした。  人影が庭の木々の間を門に向かって歩いている。服装からして女性のようだ。虚ろは目をこらす。 「あれは……紗枝さん?」  こんな夜中に一人で外出するのを、あの母親が許したとは思えない。でも紗枝さんは、内緒で家を抜け出すタイプには見えなかったけれど。  ウツロは急いで寝巻を脱いで外出用の着物に着替える。  昼間紗枝が車にひかれそうになったことを思い出した。育ちがいい副作用か、あのお嬢さんはぼんやりしているところがある。 (もし、また何かあったら……)  心配半分、そして好奇心半分で、ウツロは後をつけることにした。  紗枝は大通りから離れた住宅街の小さな道へ入っていった。  ウツロは壁に背をつけて、その後を追う。  道がだんだんと狭くなり、家も小さくなっていく。高級住宅街から、どちらかというと貧しい地区に入っていったようだった。  紗枝は一件の家の前で立ちどまった。  どこにでもある一戸建てだが、庭には雑草が茂り、壁にはツタがはっている。どうやら長い間誰も住んでいないらしい。  紗枝は手燭(てしょく)に火をつけると立て付けの悪い引き戸に隙間を作り、紗枝は体を滑り込ませた。 (なんであんなところに)  人の秘密を知ってしまったようで、なんだかドキドキして来る。ウツロは戸の隙間から中を覗き込む。  闇に沈んだ窓には、薄い板がはめられているらしい。紗枝の持つ手燭の明かりだけが闇をすべっていく。  しばらくして中の明かりも灯されたようだが、漏れる光は線状の微かなものだった。  ウツロは恐る恐る中に忍び込んだ。すぐにツンと変な匂いがする。  小さな玄関を通り、引き戸を開け人の気配のある部屋をのぞく。 「うわー」  つんとした臭いに、忍び込んできたのも忘れウツロは思わず声を上げた。  ちゃぶ台の上に置かれたランプがオレンジ色の光を放っていた。その近くに油絵の道具が広げられている。独特の匂いの原因はこれだろう。  ここは前の住人が居間として使っていた部屋のようだ。タンスや壁の棚がそのまま残っていて、上に置かれた犬の置物や四角い木箱が埃をかぶっていた。古びたストーブには火は入っていない。  ウツロは、棚の上に湯飲みが二つ置いているのに目がとまった。そのそばにやかん。誰か紗枝の他にも時々誰かがここに忍び込んで来るのだろうか?  砂壁にはキャンバスが何枚も立てかけられていた。河原の風景、大きく描かれたトンボ、餌をつつくスズメ。  テーブルには、手燭とそこから火が移されただろうランプ。畳の上に置かれた椅子に紗枝の姿があった。絵筆やパレットを持って絵を描くでもなく、描きかけの青年の絵が乗ったイーゼルにただ向かっている。  暗闇の中、その部屋だけが暖かく照らされているせいか、小さな別世界が広がっているようだった。一部屋分の聖域。 「あら」  紗枝の目がとらえられ、ウツロはドキリとする。 「ウツロさん、どうしてここに?」  その口調に責める響きはなかった。ただ、意外な人にあったのが本当に不思議だ、という感じだ。 「い、いえ、あなたが家を出るのが見えて、なんだか心配になって」 「そう」  ウツロは、沙耶の前に置かれた描きかけの絵をのぞきこんだ。  誠実そうな顔をした青年が、右下だけ下書きの線を残してこちらに微笑んでいる。 「すごいですね、ピアノだけでなく絵もお描きになるなんて」  ちょうどピアノの演奏と正反対のイメージを、ウツロはその絵に感じだ。  線は不自然に歪み、どこが拙(つたな)い感じだけれど、妙に魅力的。画家が本当に楽しんで描いていることが伝わってくるような。  ほめられたのがうれしかったのか、ほんのかすかに紗枝は微笑んだ。 「ピアノは親に言われてやっているだけですから」  なんで家で描かないかとは聞かなかった。  あの母親なら、「そんなことする暇があったらピアノの練習をしなさい」と言うに決まっている。 「私、本当は絵を描きたいの。ピアノでなく」  ぽつりぽつりと、独り言のように紗枝は語りだした。 「両親は、小さい時から私を外に出すのを嫌がっていました。あまり体が強い方ではなかったし、父親が高名だと、良からぬ者に狙われやすいからと」  ほんの少し、その口調には怒りがにじんでいた。  母親が言った理由は嘘っぱちで自分を支配しようとしているのだ、と言いたげだった。  おそらく、小さいときからピアノを仕込まれたのだろう。半分監禁されるようにして。 「部屋にいる私に、窓の向こうの世界を見せてくれたのが絵本の絵でした。お城や、海や、現実にない国々まで」 「なるほど。だから自分も『世界』を描いてみたいと思ったんですね。それで夜な夜なここで……」  ウツロの言葉に彼女はうなずいた。 「それで、この絵のモデルさんは?」  そう聞いたとき、少し紗枝の体が痛みを感じたように一瞬こわばったのは気のせいだろうか? 「直人(なおと)さん……」  静かに紗枝は語り始めた。 「彼は私の家に仕事に来た庭師だった。話をするうちに仲良くなって。私は自分の夢を話したの。本当は絵を描きたいってこと……」  紗枝は部屋をゆっくりと見渡した。 「彼は私の願いを知って、この空き家を教えてくれた。私のお小遣いで道具を買って、両親に内緒でここに運び込んでくれて」 「あそこにがありますけど、ひょっとして、その人が直人さん?」 「ええ」  その時の様子が目に浮かぶようだった。  二人でワイワイと荷物を運びいれ、一緒に絵を描く。お互いの出来を褒め合い、紗枝は直人に絵を習ったのだろう。  ウツロは視線を棚の上にむける。そこにあるのは二個の湯呑。二人は、そこで仲良くお茶でも飲んでいたのだろう。  紗枝の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。 「え、ど、どうしたんですか?」 「そ、それが……」  小さい、けれど確かな音に、ウツロと紗枝は口を閉ざして様子をうかがう。  裏口から忍び込んできたのだろう、玄関とは逆の方向から、何者かがこっちに向かってきている。  ウツロは手招きで紗枝を呼び寄せた。そして「あそこから逃げましょう」と玄関を指差す。  やって来た者が誰であれ、こんな所に入り込んでいるのがバレたらろくなことにならないだろう。  ウツロはそっと玄関に続く戸を開けた。 「やあ」  その行く手を遮るように、大柄の男が立っていた。ぎょろりとした目がこちらを見下ろしている。  どこかで見たことのある顔だ。 「あ!」  通りで紗枝と会ったとき、こちらを見ていた帽子の男。  男の歯をむき出しにした笑いから敵意を感じ取り、ウツロは声をあげた。つかんだ紗枝の手を引いて逃げようとする。 「うわ!」  だが、何か筒状のものを踏んで無様にすっ転んだ。  睡眠薬の茶色い瓶が、音をたてて床に転がった。  このわずかな時間に、玄関からまた新しい男が押し行ってきた。黒い布を巻いて覆面にしている。  ウツロたちはまんまと挟み撃ちにされてしまったようだ。 「おいおい……女をさらいに来たのに、変な野郎が居るじゃねーか」  覆面の男がウツロを見て言う。 「何、どう見てもひ弱じゃないか。ええ?」  大柄の男がポケットから黒いモノを取り出した。  それは拳銃だった。小さいけれど、大の大人を殺すことができる武器。 「ひっ!」  立ち上がりかけた格好のまま、ウツロは固まってしまった。  大柄の男は、笑いながら紗枝に近づいた。  紗枝は怯える様子もなく、ただ突っ立っている。 「全くついてたぜ。お金持ちのお嬢さんとなんとかお近づきになりたいと思って見張ってたら、夜な夜なこんな廃屋(はいおく)でお絵かきごっこしているんだから」  男は荒っぽく紗枝を引き寄せた。  紗枝は悲鳴をあげることもなく、されるがままだ。 「今まではジャマな男がいたから下手に動けなかったからな。殺すにしてもこいつのような旅ガラスと土地のものじゃ違うからな。もう直人が消えたほとぼりも冷めたし……」  男の短剣が娘の首元に突き付けられる。 「後は、こいつをさらって身代金をもらうだけだ」  大柄の男が、ずるずると紗枝を引きずっていこうとする。 「じゃあ、こいつは口を封じとくか」  覆面の男はかちゃりと小さく銃が音をたてた。 「やめたほうがいいよ」  低い声でウツロは警告した。  男達は怪訝(けげん)な顔をした。それはこんな時にありがちな恐怖と怒りの叫びではなく、冷静な声だったからかもしれない。 「何を余裕ぶってやがる!」  男は引き金を引こうとした。 「がっ!」  その瞬間大きく声を上げ、冗談のように覆面はつんのめった。  狙いを外した銃が床に穴を空ける。  背後から第二撃を食らい、覆面の男は倒れた。  落ちた銃が床で跳ねる。 「なんだ、貴様!」  紗枝を押さえつけたまま、大柄の男が声を上げる。  覆面の背後に立っている男を見て、紗枝が叫んだ。 「直人さん!」  絵にあった青年が、そこに立っていた。  頑丈な体つきの青年だった。髪は日に焼け、茶色に変色して見える。力仕事をしているのか、粗末な着物から見える手足にはしっかりとした筋肉がついていた。  青年の目が紗枝を見つめる。 「く、くそ!」  紗枝から手を放し、大柄の男が直人に殴りかかろうとした。  直人は相手の腕を払いのけ、勢いあまってそのまま突き飛ばす。よろめいた男の腕に触れたのかテーブルが揺れ、上に載った湯呑や画材ががちゃがちゃと音をたてた。  壁に頭をぶつけ、大柄の男はそのまま気絶したらしく倒れ込んだ。持っていたナイフは床に転がる。  覆面がゆっくりと立ち上がろうとする。 「や、やめろ!」  ウツロが拾い上げた銃を男に向ける。 「う、く!」  そのまま賊二人は背中を向けて逃げ出した。  深追いする必要はない。駆け去る男達の足音を聞きながら、ウツロは銃を投げ捨てた。 「直人、さん」  無表情だった紗枝の顔に強い感情が表れた。  口は何か言いたげに薄く開き、眉根を寄せた。  紗枝は片手で自分の口もとを覆う。 「ごめんなさい……ごめんなさい……」  なんに対して謝っているのか、ウツロには見当がついていた。 「この睡眠薬のビン。その人と心中でもしようとした?」  思えば車にひかれそうになったとき、紗枝は避けるそぶりを見せなかった。  普通ならたとえ避ける余裕がなくても、せめて腕を前に突き出したり、手で顔を覆ったり、反射的に何か命を守る行動をするところなのに、それさえもなかった。  むしろ紗枝は、死のうとしていたのだ。消極的で、遠まわしな自殺。 「どうして……どうして直人さんがここに」  モノを言えない人形の代わりに、ウツロが紗枝の質問に答える。 「僕の人形に魂が取り憑いているんです。僕の特別な人形に……」 「そうだったんですね」  よろよろと紗枝は直人のもとに近づいていった。 「二人で絵を描くうち、ううん、たぶんきっとその前から、私たちは想い合うようになっていたんです」  珍しく冗舌に紗枝は言った。おそらくずっと誰かに聞いてもらいたいと思っていたのだろう。 「一緒にこの廃屋ですごす間だけは、本当に幸せでした。けれど、こんなこと、いつまでも続かない。いつかこの場所を誰かに知られてしまったら、直人さんと引き離されてしまう。だから……」 「それで一緒に死んでしまおうと……」 「でも、私は約束を破ってしまった!」  両手で抑えられた紗枝の口から、震える声が漏れた。 「ああ、ごめんなさい直人さん。あの時二人で薬を飲んだのに、私だけが生き残って……」 (やっぱり……)  紗枝は直人の顔を見上げた。  直人はただ優しく紗枝を見下ろしている。 「直人さんは、冥土で自分は私に愛されていなかったのだと勘違いしていたに違いありません。私は、早く後を追わなければならなかったのに。でも、そこまで心が強くなかった……死が近づいた、あの苦しさや心細さは……」  紗枝はうつむいて小さく首を振った。 「でも、それは間違いだって分かったじゃないか!」  ウツロは家の中を示すように右手を振った。  盗賊の一人は逃げ去り、もう一人は床で気を失っている。ちゃぶ台から落ちた絵の具が散らばり、油と絵具が辺りにシミを作っていた。  突きつけられた短剣から、直人が紗枝を守ろうとした跡。 「直人さんはあなたを助けようとしていた。あなたに生きてほしいと思っているんだよ」  クスクスと紗枝は笑った。 「分かっていませんね、ウツロさん」  憐れむような視線をウツロに向けてきた。 「彼は私を迎えに来てくれたのですわ。ねえ、直人さん」  涙で濡れた瞳で紗枝は微笑んだ。  直人の右手で何かが輝いた。賊から奪い取った短剣だった。 「え……?」 「ねえ、直人さん。極楽から私のことを見ていてくれたわよね。だから、知っていたでしょう?」  泣き笑いの顔で紗枝は言った。 「母は……ええ、そうね、名前を出すのはやめましょうか、私は母に、とある男性の家に、行くように言われましたわ。誰も供(とも)をつけずに。そんなの私、嫌。それに、」  それがどういう意味を持つのか、ウツロには分かった。  その誰かに体を任せろというのだろう。きっと、ピアニストになるのに、有利になるように。  紗枝は、憑かれたような笑い声を立てた。 「あなたには分からないでしょう、ウツロさん。愛する者のいない世界で生きる辛さ。自分の生き方を自分で決められない辛さ。死にたくても死ぬ勇気がない辛さが」  直人は、紗枝の腰に左手を回した。 「ちょ……」  嫌な予感がした。 「ああ、直人さん、早く私を連れて行って!」  直人は静かに短剣を振り降ろした。  ウツロの物ではない悲鳴が上がった。ちょうどその時に飛び込んできた、若い警官が上げたものだった。  ウツロと警官が駆けだそうとしたが、遅かった。  銀色の刃が降り降ろされる。  紗枝の胸に刺さった短剣の根元から、血が滲み出し、淡い緑の外套(がいとう)に赤いシミを広げる。  細い手が直人の頬を愛しげになでた。  紗枝のその顔は、満足げな笑みを浮かべていた。 「ああ、よかった。これで……やっと、私もあなたの……下へ」  若い警官が、崩れ落ちる紗枝に駆け寄った。 「廃屋から妖しい奴が飛び出してきたから、何があったのかと思ったら……なんてことだ」  突っ立ったままの直人を、椅子に座らせ、背もたれに縛り付けた。 「早く医者を!」  ウツロの声に、慌てて若い警察が走り去った。  不意に直人は綿の人形に戻る。  走り去る警官の足音を遠くに聞きながら、ウツロはそこに立ち尽くしていた。  それから、ウツロは警察署で事情を聞かれることになった。もちろん、死者を生き返らせる人形のことなんて言えるわけがない。それだけを除き、紗枝の後を追って廃屋で話していたら、賊が襲い掛かってきたと告げておいた。  結局、ウツロは紗枝殺害を疑われることがなかった。  なにせ、警官は直人と容貌の『よく似た』真犯人を目撃しているのだから。  警官が医者を連れて来た時には、ウツロはもう人形を解放して隠していた。 『犯人は、縄を解いて逃げたんです』  ウツロはそう嘘をついた。  常識で考えると、人が人形になるわけがない。『犯人は目下逃走中』となるのも至極当然のことだった。  ウツロが犯人を逃がしたのではないか、と疑われることも覚悟していたのだが、幸いそんなことはなかった。もっとも、旅ガラスであるウツロと、『犯人』と深い関わり合いがあるわけがないから、当然かも知れない。  警察は、『死んだ直人とよく似た男』を探しているが、きっと犯人は見つからないだろう。  紗枝は、しばらくはあの世とこの世の境をさまよっていたが、結局亡くなったようだ。 彼女自身、この世に居たいと思っていなかったのだから無理もない。 「疫病神が!」  荷物を取りに紗枝の家に戻ったウツロの顔を見るなり、澄香そう罵(ののし)った。  娘が自殺をしたとき、同じ空き家にウツロはいた。娘の死に何かしらの関係があると思われたのだろう。実際、その通りなのだが。 (それなら、あなたはどうなんだ)  ウツロはそんなことを言いたくなったが、口をつぐんだ。いくらなんでも娘を亡くした母親に言うべき言葉ではない (自分が娘の、絵を描きたいと言うささやかな願いを踏み潰したから、この悲劇が起こったんじゃないか?)などと。  かわいそうなのは使用人の源蔵だった。涙をこらえ、二回りも小さくなったように見えた。  かける言葉もなくただ一礼して、ウツロは源蔵と澄香に背を向け歩き出した。  今、紗枝と直人はあの世で二人一緒に過ごしているのだろうか。人形に取り憑き、蘇った死者はしゃべれない。だからそれを確認しようがない。ただ、一緒になっていればいいと思う。  九十九人目――直人 病死
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