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人柱
そこの堂はうち捨てられて長いらしく、天井には蜘蛛(クモ)の巣が薄衣(うすぎぬ)のように垂れ下がっていた。床はかなり傷んでいて、穴が開いている所もある。
その真ん中に、雪路は陣取っていた。目の前に立てた燭台が、手元の闇をかろうじて追い払っている。
半ば影のように浮かび上がった仏像を背後に、雪路は床に地図を広げていた。
その古い紙の真ん中には縫(ぬ)い針が立てられ、その穴に糸が結びつけられている。その糸の先は、紙でできた人形の頭に貼りつけられていた。人形の背には墨で『うつろ』と名が記されている。
糸は人形を吊り上げるほど短くなく、普通なら糸をたるませ倒れているはずの紙人形は、生きているようにふらふらと地図の上をさまよっている。まるで繋がれている犬のように。だがその足取りは、酔ったようにおぼつかない。
(おかしい)
雪路は、切れ長の目でじっとその人形を見つめた。
まんまと逃げられてから、雪路はウツロの行方を追っていた。何もしてやられた屈辱だけではない。用があって村を出ている妄族が、繭佳かその子供を見つけたら、最優先してとらえるように言い渡されている。
目的の人物の居場所を知る妄一族の術。
本当なら、人形はもっとしっかりした足どりで、本人がいる場所で立って動かなくなるはずだった。
それが、あちこち歩き回って落ち着かない。
(こんなにあいまいな結果しか出ないなんて、今までなかったぞ)
紙人形に書かれている名前が間違っていると術の効果が薄くなることがある。ウツロが、自分たち一族から見を隠すため偽名を使っている可能性はあった。
だが、それにしても術の効きが悪すぎる。
(やはり……)
この異変。それに花畑でウツロが迷い花が平気だった理由。
あの人形は、ただの依り代ではない。
それは――
雪路の、女のように形のよい唇から密かな溜息が漏れた。
(ん?)
ふいに視界に黒い染みが浮かんだ気がして、雪路は目をすがめた。
いつの間にか、地図に墨を落としたような染みが浮かび上がっている。ついさっき見たときにはなかったはずなのに。
そして、ホコリ臭さに混じり始める、すえたような悪臭。
「これは……」
悪い印だった。ざわざわと背中の産毛が立つ感覚がする。
この術は特定の人物を探すための物だが、ほかに大きな気があるとそれを拾ってしまうことがある。
どうやら、この近くに陰気を放つ場所があるようだ。腐敗や穢(けがれ)、不幸を呼ぶものが。
人が感じる恨みつらみ、あるいは腐ったものや大量の血、死体。そういった穢れは普通ならば腐臭のように自然に散ってしまい害はない。しかし、たまに地形や地面を流れる気の関係で、陰気がわだかまることがある。
そしてそれは凝り固まり、陰気となって周り生き物に悪影響をおよぼす。
術に影響があるほどの陰気なら、その影響で動物は子を産まなくなり、木は枯れやすくなっているはずだ。人でも住んでいたら、田畑を捨ててさ迷わなければならなくなっているに違いない。
「放っておくわけにはいかないな」
こういった物や、浮かばれない魂を浄化するのも妄一族の役目だ。
(はっきりとした場所は分からないが……ウツロもそばにいるようだ。行かないわけには行かないだろう)
詳しい場所を確認しようと、雪路は腐臭のする地図を手に取った。
山の木々はすっかり葉を落とし、なんだか寒々しい景色だ。というか、実際に寒い。風が吹くたびに、体温が奪われていく。ウツロは着物の下のワイシャツのボタンを上まで閉めた。
坂道は落ち葉に覆われていたが、その下には石がゴロゴロしていて、歩きづらい。
「ずいぶん寂しい所に来ちゃったなあ……」
呟いた声が白い息になって灰色の空に立ち上っていく。
(ふもとの人によると、この先に村があるはずなんだけど)
一応、細い道はあるけれど、ずっと景色は変わらない。このまま永遠に山をさまようはめになるんじゃないかと思い始めたとき、遠くにぽつぽつワラぶきの屋根が見え始めてほっとした。
村の少し離れた場所には小さな畑があって、こんな岩がちの坂をここまでにするのは大変だっただろうな、とウツロは感心した。
遠目には木々の間に埋もれているように見えた村でも、近づいてみると家々の間はキチンと雑草が抜かれて土が見えている。
(なんだか……おかしいな)
何が変なのだろう?
しばらく考えて、その違和感の正体に気がついた。
誰もいない。
そこそこ広い村なのに、あぜ道を歩いている者も、道のすみに出された長イスに腰掛けている者もいない。
それに気づいた途端、ぞわっと背筋に寒気が走った。
垣根で囲われた、大きな屋敷が目に入った。母屋の手前は庭になっていて、鶏が寒そうに何羽かうずくまっている。どこかで牛の鳴き声も聞こえる。ということは世話をするものがいないとおかしいのに。
家の中をのぞいてみても、囲炉裏に火こそ無いものの、床や家具には使われているあとがある。
なんだか、この村にくる山道を歩いている間、何かがあって、ウツロ以外すべての人間が消えてしまったんじゃないか、なんて変なことを考えてしまう。
そんなふうに少しおびえている時、ぽつっと雨粒が首元に落ちて、「ひっ」と思わず悲鳴を上げた。氷の混じった雨はみるみる勢いを増していく。
(うわ、最低だ!)
もう手はかじかみ、体が震える。肩を両手でこすったみたが、全然温かくならない。
どこかに雨宿りできる場所はないかと辺りを見回す。このまま外で夜を迎えることになったら本気で命が危ない。
母屋に入り込もうかと思ったけれど、他人の家だし、なにせこの状況だ。
まさか村人を食べてしまった何者かに襲われることはないだろうが、なんとなく上がりこむのははばかられた。
そこで庭の隅に、小さな物置を見つけた。
(あそこなら、とりあえず雨風はしのげる……)
ウツロは、そっと辺りをうかがう。やはり誰もいない。
(ごめんなさい!)
ウツロは心の中で謝って、身を低くして庭を横ぎる。
物置小屋の戸に手をかけると、鍵はかかっていないようであっさりと開いた。
中にはいり、乾いた床に座り込む。
冷たい雨にチクチクと刺されることもなくなり、ほっと溜息をついた。
小さな窓が一つあるだけの物置は暗く、目が慣れるまで時間がかかった。周りにはとぐろを巻く蛇のように束ねられたロープ。クワやスキのような農具。壁一面を覆う大きな棚があり、ハシゴが立て掛けられていた。
中は湿っぽく、ほこりっぽくて、濡れた木の臭いがする。
ますます強くなった雨が、屋根を叩く音がする。
出来る限り音を立てたくないのと、寒いので、ウツロは床に座って縮こまっていた。なんに使っていたのか、床に布が敷いてあるのがありがたい。
一体、村の人達はどこにいったんだろう?
薄気味悪さを感じていたけれど、疲れのせいで、だんだんと眠くなってきた。
まぶたが重くなって、視界が暗くなり始めたとき。
「あーあー、あーああー」
(歌声?)
ウツロの眠気は一気に覚めた。
その歌声は、なぜか外からではなく、すぐそばから聞こえてくる。
慌てて辺りを見回したが、雑多な荷物があるだけだ。
(まさか、幽霊?)
とっさにそばに置いた荷物を確認するけれど、人形に反応はない。
「あーあーあー」
子供の声だった。
ちゃんとした節(ふし)もなく、子供が感情のままに即興で歌っているような、そんな感じだ。
(床下……?)
耳を澄ますと、確かに床下から聞こえる。
(なんで、こんなところから……)
殺され、床下に埋められた子供が、土中で歌を歌っている。
そんな妄想に、首を振る。
そっと、床の上に広げられたぼろ布を捲り上げてみる。
木の床に、鉄の板が現れた。よく見ると、その鉄板にはコの字の取っ手がついている。
(地下室……)
入っちゃいけない。
ウツロの心の隅で良心がささやいた。
雨宿りのためとはいえ、勝手に人の物置に入り込んでいるだけでも失礼なのに、勝手に地下室に入るなんて。
「あーうーうー」
まるで誘うように歌声は続いている。
誰もいないと分かっていながらも、ウツロは左右を確認した。そしてゆっくりと取っ手に手をかけた。
奥は階段のようだった。その先から、オレンジ色の光がにじんでいる。ぬるい空気が吹きあがってくる。
ここまできたら、見なかったことなんてできない。
ウツロは、土をそのまま掘ったような壁に手をつき、そろそろと階段を降りていく。
階段をおり切ると、硬い地面に足がついた。
そのとき、すっとつま先の近くに、黒い物が広がっていた。
人の影だ。そしてその影は、何か棒のような物を振り上げている。
(まずい!)
とっさにしゃがみこみながら頭をかばう。
肘にしびれるほどの衝撃が走る。
棒を構えた若い男が、目を吊り上げ、歯をむき出しにしていた。
野良仕事で鍛えられているのか、ガタイがいい。
「なにモンだ、お前!」
村人の口調には、怯えと驚きが混じっていた。
ウツロは武術の心得なんてない。武器を持った男に勝てる気はしない。
思いながら、ウツロはもと来た階段を登り始めた。
「待て!」
男は後を追ってくるが、それは予想通りの展開だ。
肩に手を駆けられたところで、ウツロはわざと後ろに倒れ込んだ。当然、手で後頭部をかばいながら。
「うう!」
ウツロの巻き添えになった男は、うめき声をあげて一緒になって階段を転げ落ちていく。
ウツロの後頭部に硬い、でも岩よりはやわらかい物が当たった。
「痛ててて」
ウツロはゆっくりと体を起こした。
自分の下に倒れているのは、当然追ってきた男だ。それが布団がわりになったおかげで、ウツロにケガはなかった。
「なんなんだ、一体……見張りがいるなんて」
とりあえず見張りが生きているのを確かめてから、周りを見渡す。。
土を直接掘って、柱で補強した壁。そこに穴があり、火のついた皿が置かれていた。
(火が灯っているってことはどこか通風孔があるんだろうけど……)
そこに、分厚い木でできた檻があった。
(地下牢だ……)
「松吉!」
慌てた声がした。
格子の奥にはむしろが敷かれ、小さな影がうずくまっている。
十六歳くらいの少女が、見開いた目をこっちに向けていた。黒い髪はぼさぼさで、腰まで伸びている。暗い中に閉じ込められているせいか、黒目がちの目をしていた。赤い着物の裾は擦り切れている。
指先に粥の米粒がべったりとついている。その前に置かれた盆の上で、木の器が転がっていた。
「わっ」
歌声が聞こえたのだから、誰かがいることは予測はしていたものの、暗闇の中のその姿は見慣れない獣のようで、ウツロは思わず声を上げた。
驚いたのは向こうも同じらしい。
うう、とうめき声をあげ、威嚇するように歯をむき出しにする。
(いったい、なんでこんなところに……)
閉じ込められているけれど、こんな女の子がなにか罪でも犯したのだろうか?
「ああ、大丈夫。あの見張り、松吉っていうの? 大丈夫、ちょっと気を失っているだけだから」
相手を刺激しないように、穏やかに話しかける。
「驚かないで。ただ、ちょっと話をしたいだけなんだ」
大声を出されたら大変だ。落ち付かせるためにウツロは微笑んでみせた。
「僕はウツロ。君の名前は?」
「ニエ」
まだ警戒をといてはくれないものの、女性はうなるのはやめてくれた
「ニエ? 変わった名前だね」
「ニエ、私、祭りのニエ」
どこか、たどたどしい発音だった。
「贄って……」
笑顔になったニエと反比例して、ウツロの表情がこわばっていく。
「お祭りの日、極楽行くの。鬼の花嫁になる!」
少女は自分を指さすと、誇らしげに言った。
吐き気がする。
(この子は洗脳されてるんだ……)
きっと、小さいときからここに閉じ込められているのだろう。そして、祭りに贄となって殺されること、それは幸せなことだと教え込まれているのだ。
「嘘だよ!」
思わずウツロは叫んでいた。
本当に贄として殺されたものが極楽に行くのかどうか、ウツロは知らない。この子にそう教え込んだ者たちも分からないはずだ。
それを、騙すように命を絶つなんて。
「僕の兄も同じだった」
ウツロはしゃがみ込んで、格子越しに女の子の顔をのぞき込んだ。
「僕の兄も、生贄になったんだ」
ウツロの言葉がわかっているのかいないのか、ニエはきょとんとしている。
「僕の母は、妄一族という、術をなりわい……ええっと、人におまじないとかしてお金をもらって暮らしていたんだ。僕が生まれる前にね」
「一緒、あんたの兄、ニエと一緒! ニエの先に極楽いった!」
ニエは嬉しそうに行った。
(だめだ、伝わっていない)
「とにかく、ここから出るよ!」
「イヤ!」
駄々っ子のようにニエは言った。
「ニエ、極楽に行く!」
(そんなことさせられない!)
さいわい、牢は木でできている。素手では無理だが、のこぎりがあれば切れるだろう。
(上にあるかな……)
まだ気絶をしている男をまたぎ越し、階段を上がりかけた時だった。
物置で、戸を開けるような物音がする。
「まずい!」
逃げ道がないか、忙しく視線をさ迷わせる。
壁に大きな穴が開いているのに気付く。おそらく、空気穴だろう。
ほかに選択肢はない。
ウツロはその中に入り込んだ。
草履の階段を下りる、擦れる音がした。
「ああ、おい、どうした、松吉!」
穴はウツロが入るとみっちりとつまる大きさだった。
流れる込む雨で、着物が濡れる。
もそもそと芋虫のように体を動かし、ウツロは穴の中を登っていった。
まるでモグラになったようだ。
「あのね、あのね、今ウツロがいたの」
足元から、声が聞こえてくる。
「ウツロ? そいつがやったのか!」
(なにもきちんと報告をしなくても! まずいまずい)
幸い、穴は短いらしく、先から光が漏れてきている。
穴を出ると、そこは物置の裏手だった。
雨が降り、もう暗くなっているはずなのに、妙に明るい。
遠くの空が、一部赤く染まっている。そして黒い煙が立ち上っている。
どこかで、大きな火が燃えているのだ。
(あれは……いったい?)
とりあえずそこに行ってみよう、と足を一歩踏み出したとき。
頭に衝撃が走った。その衝撃は瞬間で激痛に変わる。
(見張りが、ほかにもいたのか)
殴られたんだ、と気づいたと同時に、ウツロは濡れた地面に倒れ込んだ。
雪路は、雨が落ちてくる空を見上げた。
(何か、燃えているな)
嫌な予感がする。
バサバサと草をかき分ける音と、獣の唸り声がした。
闇の中に目が二つ浮かんでいる。周りが暗いので白目の部分が浮かび上がって見えた。
一見、それは茶色の子熊のようだった。
(だが、ただの熊、ではないな)
そのノドは大きく裂けていて、明らかに致命傷だ。それが傷口からだらだらと血をこぼしながら、ふらりと茂みからさ迷い歩いている。
(というか、当たり前の生き物ですらないか)
化け物はまだ雪路には気が付いていないようだが、今にもこちらに気づきそうだ。
「う、うわ!」
雪路のものではない悲鳴が上がる。
いつの間に近づいてきていたのか、十八歳ほどの青年が、足を震わせ立ちすくんでいた。
ちぎれかけた首をがくがくと揺らしながら、化け物は男の方へ駆け寄っていく。
雪路は弓を引いた。呪(まじな)いをかけた矢は、魔物にも効果があるだろう。
爪の生えた前足を振り上げる。
放った矢が胸に突き刺さった。
驚いたように、死にぞこないの熊は動きを止めた。
その間に、次々と雪路に矢を放つ。
うめき声をたてて、熊はどうっと倒れた。
熊の口と鼻から、黒い煙のような物が吹きあがる。熊は、まるで絞られた雑巾のようにねじれ、よじれて行った。
助けられた青年は、自分が置かれた状況がよくわかっていない、というようにしばらく呆然としていたが、やがて「あ、あ、あんがとな」とお礼を言った。
「あんた、旅人さんかい? すげえな、あの化け物を一撃で……」
青年は綾目と名乗った。
「い、一体あれはなんなんだ? たしかに最近化け物を見たって奴はいた。けど、まさか本当だなんて……」
化け物を倒したことで、専門家と分かったのだろう。勢いよく色々と疑問をぶつけてきた。
「この周りを見てよ。よそから来た人には分かりづらいかもしれないけど、ここで生まれた僕にはわかる。二年前はこんなんじゃなかった」
ところどころ転がる岩は、茶色く枯れたこけでまだらになっており、ひょろ長い木々に取り付いたキノコやこけが、宿主の生命力を吸い取って殺そうとしている。中には倒れ、自分を蝕んだモノもろとも朽ちていく木もあった。
「この森は、死にかけてる。獣も取れなくなったし、もともとちょっとばかしの作物もできなくなった。年寄りに言わせれば、まあ言い伝えにないってほど珍しいことではないらしいけど」
(この地にわだかまる陰気のせいだ……)
やはり、居場所を占ったときに感じたとおり、異変が起きているらしい。
「それで、君はなんでこんな所に?」
その瞬間、綾目の表情が強ばった。
「に、逃げて来たんだ」
「逃げて来た?」
不穏な言葉だ。
「この村はイかれてるんだ。俺、聞いちまったんだ。大人達が内緒で話し合っているのを」
綾目の目には、恐怖が宿っていた。
「今夜のお祭りで生贄を捧げるって……伝承にあるんだって。それで俺、こ、怖くなって」
(なるほど)
この陰気を弱めるのに、生贄を捧げるのは確かに効果的だ。村人達はそれを経験則で知っていたのだろう。
(ひょっとしたら、定期的に生贄を捧げていたのかもしれないな)
もっとも、陰気が溜まるのには長い年月がかかる。一度やればその子や孫の代はやる必要はなく、見て覚えるというより、やりかたを記した記録をもとに行っているといったところか。
もっとも、それは一時しのぎで、そんなことをしても状況は悪化するだけなのだが。
「その、儀式とやらはどこで行われるんだ?」
綾目は顔を強ばらせた。
「あそこだよ。まさか、行くのかい?」
「ああ。こういったものを解決するのが私の仕事だ」
雪路は、空を見上げた。
ますます辺りは暗くなり、空を焦がす赤色が勢いを増している。
目の前が真っ赤だった。周りに人が大勢いる気配がする。頭は、まだ痛かった。おまけに体まで痛い。ひどい煙の臭いがした。
気がついたら、ウツロは冷たい地面に横たわっていた。雨でぬれた背中が冷たい。石が頬に食い込んで痛い。おまけに、腕が動かない。縄が肩から腰のあたりまでぐるぐると巻きつけられていた。
背中をそらせるようにして、むりやり顔をあげる。
雨は、もう止んでいた。
赤々と燃えるやぐらの手前に、白装束の村人がひざまずいている。炎がゆれるたび、影がいびつに伸び縮みした。皆、少し離れているウツロには気づいているのか、無視しているのか、こちらに目をむけもしない。
その村人を従えるように、奇妙な装束の男の唱える呪文が、唸り声のように響いている。
あんまり異常な状況で、なんでこんな所になっているのか理解するのに時間がかかった。
(なるほど。だから村に誰もいなかったのか)
小さな子供や、こんな山の中腹まで行けない老人たちは、どこか一か所に集められているのかも知れない。
(それでなんだ、あれは!)
やぐらの向こう側に、まるで巨人が山をえぐり取ったようにいびつで大きな穴があった。
隕石でも落ちたのか、湖でも枯れたのか、地面がお椀上にえぐれている。その穴の縁に、この祭場はあるらしい。
穴の底には、煙のような黒いモヤが溜まっていた。そして、その穴の斜面に、大きな柱が二本並べて立てられている。
(あれは……)
人を、生贄を縛り付けるためのものだ。
笑顔でそこに括りつけられているニエの姿を、ウツロほとんど見た気がした。
「悪いな、若いの」
急に後ろから声をかけられ、ウツロは思わず悲鳴をあげた。
いつの間にか、老人が近くに立っていた。
「こうでもしないと、この村に住めなくなるでの」
村人の一人が、ウツロの荷物を穴の中に放り投げた。おそらく、のちのち自分達が殺した男の持ち物が村にあったら寝覚めが悪いからだろう。
着物や水筒、薬入れの箱などがばらばらと穴に広がる。そして、布の人形が地面に大の字になって転がった。
「ああ! 俺の荷物!」
ウツロの非難の声を上げる。
「来い!」
白い着物を着た男が二人、祭壇のそばから離れ、ウツロを両端から抱えて無理に立たせる。
「お、おい! なにすんだ、やめろ!」
村人達が、短い呪文を全員で唱和する。嵐に梢が揺れるような、海鳴りのような響きだった。
斜面を半分転げ落とされようにして柱の一本の根元まで運ばれた。
村人は、ウツロを柱に縛り付けた。
チリーン、チリーン……
穴の縁の方から鈴の音が聞こえてくる。
さっきのように、白い衣装を着た者が半分転げるようにして連れてこられた。
無表情の仮面をかぶっているが、ウツロにはそれがニエだということが分かった。
「あ! さっき会った人」
ちょっと怒ったような声で、自分の予想があっているのを知る。
ニエは、嫌がる素振りも見えず、柱に縛り付けられていく。
「なんで! なんであなたも極楽にいくの?」
「そんなわけない!」
穴の底にたまる黒い陰気が、ざわざわと波立った。
おそらくは村長なのだろう。書物を片手で呪文を唱えている男が一際大きく声を上げた。
「この贄を受け取り給え」
煙がツルのように伸び、ウツロの足首に触れる。
まるで氷に触れられたように、その部分が冷たくなる。しかしそれは一瞬で、すぐにその場所の感覚はなくなった。
「ひっ」
まるで大きな波のように、黒いモヤが背後でウツロを包もうと布のように広がった。大波が崩れるように、覆いかぶさろうとする。
「受け取り給え」
村長が繰り返した。
ゆるりと黒いモヤがウツロを包み込もうとする。
その時、モヤが一瞬動きを止めた。まるで時が止まったように。
弾かれたように矢の飛んできた方向を見ると、弓を構える雪路の姿があった。
(僕を殺そうとして外したのか?)
「痛い!」
かん高い悲鳴が上がる。
ニエの肩から細い血が流れていた。ニエが痛がったのか、体をくねらせると、その勢いで仮面が外れ、縄が切れる。
雪路の矢が縄をちぎったのだ。
「は、はやく!、逃げるんだ」
縛られたまま、ウツロは叫んだ。
とりあえずニエには助かってほしい。
だが、肝心のニエは首を振る。
「いや! 私はここにいる! ニエになって極楽に行く!」
「ちょ、ちょっと!」
ニエはダダをこねる子供のように座り込んでしまった。
その時、頭上から驚愕の声があがった。
若い男が、砂を蹴立てる勢いで駆け下りてくる。
「綾目だ!」
「いつの間に!」
綾目というらしい男は、転ぶようにしてウツロ達の横に立ち止まった。
ようやく我に返ったらしい祭司が声を上げる。
「は、はやく! このままでは儀式が!」
村人達の何人かが穴に向かって降りてくる。
「あのやろう!」
その中の一人がどなった。
頭を押さえながら駆けてくるのは松吉だ。
(牢屋でぶん殴ったときは当分起きないと思っていたのに、もう復活したなんて)
松吉の目を見るに、牢屋の恨みを晴らすつもりなのだろう。手に山刀をしている。
「ひいっ!」
思わず体を揺さぶったが、縄は外れない。
「さあ、くるんだ!」
綾目は、ニエに手を差し出した。
「無理なんだよ! 全然言うこと聞いてくれないんだ!」
綾目に八つ当たりするように、ウツロは怒鳴った。
ニエの大きな瞳が、綾目をとらえる。そのまま、二、三階瞬きした。そのたびに、目の輝きが増していく。
(は?)
なにか、とんでもないことが起こり始めている気がする。
その短い間、ニエの頬に赤みが刺す。その色は耳にまで広がった。
もしも、人が恋に落ちる音、なんていうものがあったら今高らかに鳴り響いていることだろう。
「……行く! この人と行く!」
ニエは綾目の手を取って立ち上がった。
「えええ!」
思わず声を出さずにはいられなかった。
(そうか……)
おそらく、ニエは生贄にするために一部の村人達には内緒であの地下室で育てられたのだろう。
それで今綾目を初めて見て、一目ぼれをしたのだ。
あれほど説得してもダメだったのに、ほんの一言で手の平を返すなんて。
女心が変わりやすいとはいうけれど。それとも、恋の力というわけか。
そうこうしているうちに黒い煙はふくれあがり、穴の斜面をはい上がってくる。
「げ、やばいぞ」
ウツロを捕まえようと降りてきた男たちが、慌てて戻り始める。
黒いモヤは、触れそうなほどそばに迫ってくる。
綾目は、小さなウツロの縄を切った。
どさりと斜面に倒れ込む。転がり落ちないように木の柱にしがみついた。立ち上がろうとして、倒れ込む。無様にきつく縛られていたせいで、体中がしびれている。これではしばらくマトモに動けない。
綾目は、ちらりとウツロを見た。
助け起こす時間はない。そう目で謝ってから、ニエの手を引いて走りはじめる。
責める気にはならなかった。誰だって、自分の命が一番だろう。
「じゃまだ、どけ!」
男達の一人が、松吉の肩をつかみ後ろにどかす。
「うわ!」
松吉は、ウツロの横を転がり、穴の底に向かって転がり落ちる。
黒い煙に、男が包まれる。
「うあああああ!」
その悲鳴は、後半に行くにつれ、しわがれていく。
ヒモノのように、男の皮膚にシワがより、縮んでいく。目玉が小さくちぢみ、見えなくなり、眼窩(がんか)は虚ろな穴となる。茶色の着物は何年も時を経(へ)たように、くさり、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
「ひっ!」
ウツロが体を揺するが、縄はびくともしない。
黒いモヤが、とうとうウツロの体を包んだ。
「ごめん、ごめんなさい! もう、ああなったら助けられない」
綾目が、涙を流しながら繰り返す。
視界が濃い陰気で真っ黒に染まる。
きっと離れた所から見れば、柱とウツロの姿は、致死性の煙に覆い隠されているだろう。
咳き込んでいると強い風が吹き、もやの間に隙間からかすかに煙の外の様子がみえた。
穴の縁に立つ雪路が、複雑な表情でこちらを見下ろしている。
「やはり……あの迷い花のように、この陰気も平気なのか」
ウツロは無言で雪路をにらみつけた。
「お、おい。この男はなんなんだ。あの煙にまかれたら死ぬんじゃないのか!」
村人が怯えたように雪路に聞く。
「これではっきりした。あいつはもともとただの綿の塊(かたまり)。術を使って作られたまがい者の命」
まがい者。
その一言に斬りつけられたように心が痛んだ。
母が作り方を遺した人形。あれはただの依り代ではない。
依りついた魂は、その残滓(ざんし)を人形に遺していく。例えば生き別れた者への恋慕。例えば自分を殺した者への恨み。
百の魂を出し入れし、その残滓に染められた人形は一人の人間となる。それが人形の本来の使い方。
もっとも、しゃべれるようになり、自我も芽生えるとはいえ、術で作られた以上、完全な人間というわけではないようだ。
ウツロ自体毒の花の香を嗅ぐまで知らなかったが、生き物の証である呼吸が浅く、毒を吸い込んでも体に影響はないようだ。
年齢も、人形の大きさが影響するのか、母が数年かけて魂を入れ、人間になったときにはもうこの年齢の外見をしていた。
「そうだよ、僕はまがい物だ」
目の奥が熱い。鼻の奥が痛んだ。
「母は自分の一人息子が殺されて、一族の下から逃げ出した。そして、持ち出した本から人形を作り、それに命を吹き込んだ。『新しく兄さん』を作り出そうとしたんだ。そうして生まれたのが、この僕だよ」
怒りにも似た衝動が、胸に湧きあがった。
「わかってるんだ。僕が兄の身代わりだったって! 母は、いつも僕の後ろの兄を見ていた!」
ウツロの叫びに、村人達が静まり返る。
「わかってるんだよ、母が愛していたのは、僕じゃなくて、僕に重ねた兄なんだって!」
地面のヒビから紫がかった黒い光が噴き上がった。焚かれた赤い炎に照らし出され、無数の、苦悶(くもん)する人の顔が泡のように浮かび、歪(ゆが)み、薄れ、消えて、また生まれていく。
「だから、僕は欲しかった。僕を見てくれる、僕と『同じ』存在が! だから、母さんと同じように、人形を持って旅を……」
ウツロの言葉は、「うぎゃあ!」という村人の悲鳴にかき消された。
やせた男が一人、地面に腰を抜かし、空を指さしている。
薄暗い空で、立ち昇る火の粉と煙が混ざり合い、渦を巻いていた。
その渦模様が、無数の人面の形になっていた。
「お、おい、あれ!」
まだ穴の縁に残っていた者が、今度こそ悲鳴を上げて逃げ出した。
「あれは、幽鬼……」
雪路が呟く。
「浮かばれない魂が、陰気に呼び寄せられ濁流のようにうねっているんだ』
雪路にしては珍しく、焦った声だった。
幽鬼は、縁に並ぶ人間を見下ろした。
「ひ、ひいい!」
幽鬼は素早い蛇のように、人々の間を縫うようにすり抜けていく。
鬼に触れられ、魂を持っていかれた者達が、木乃伊(ミイラ)のような姿になって倒れて行った。
「あんちゃん!」
「うああああ!」
あちこちで悲鳴が上がる。
「くっ!」
雪路が鬼にむかって弓矢を放った。銀色の光が、まるで流れ星が空に駆け登る。だが、その矢は鬼をすり抜けていく。
「やはりだめだ!……」
めずらしく雪路が悪態をついた。
「な、なにやってるんだよ! 早くやっつけてくれよ!」
かばうようにニエを傍らに立たせながら、綾目が叫んだ。
「あれは陰気と魂の塊だ! 物体でないから刀や弓矢で傷つけることはできない!」
ウツロは、漂う黒い霧をかき分けながら斜面を駆け下りる。
縛られていたシビレもほとんどなくなった。
トランクは、だいぶ下に滑り落ちていた。
駆け寄り留め具を外し、折りたたまれた人形を幽鬼に向かって放り投げる。
(この作戦に気づいて!)
雪路に目をむける。
当然、等身大の人形を穴の底から投げたところで、穴上を飛ぶ鬼には届かない。人形は、ぼてっと地面に落ちた。
だが、それだけでも雪路にはウツロが何をしようとしたのか分かったようだ。
ウツロには意味がわからない、雪路の凛とした呪文が風に響いた。
雷のような、大きな鉄の球が転がるような音が空気を揺らす。
黒いモヤが渦を巻き、人形に吸い込まれていく。小さな竜巻か、渦潮のようだった。
砂が目に入りそうで、ウツロは目を細める。
「おお」
村人達が声を上げる。
もともと、あの人形は魂を入れるために作られたものだ。雪路ならば、この人形に封じ込めることができると踏んだとおりだった。
「仮の肉体に封じこめたこの状態ならば……!」
雪路が弓矢を構える。
銀色の光が夜の空に流れた。
ぼすぼすと音をたて、布の体に弓矢が突き刺さる。
獣の鳴き声が、人形の口からあふれ出した。やわらかい体が身もだえした。
血の代わり、とでもいうように、穴から黒いモヤが立ち昇っていく。
雪路は、今までとは違う矢羽根の矢を取り出した。
それは火矢だったのだろう。雪路が祭壇の火に近づけると火が燃え移る。
放たれた火矢は、人形に突き刺さった。
ウツロに詳しいことはわからないが、炎は悪しき者を浄化するという。今幽鬼が憑いている状態で人形を燃やせば、浄化できるのだろう。
火がチリチリと綿の繊維(せんい)を赤く染めていく。そして一気に炎となって燃え上がった。
ウツロや雪路、村の人々が赤く照らし出された。
この世のものでは無いうめき声が、雨に逆らうように煙と共に空へと立ち登り消えていった。
黒こげになった人形は膝をついて倒れた。
消え残った炎が揺らめいた。
「はあああああ」
ウツロは大きくため息をついた。
(今までの苦労が、無駄になってしまったな)
ショックというよりも、ひどい虚無感があった。
結局、自分には誰もいない。見つめてくれる母親も、同じ『人ならぬ者』の仲間も。
「でもこれで、一応幽鬼は……」
退治できたんだよね、と言おうとして雪路の顔を見上げた。
無表情だった雪路の顔に、驚愕の表情に浮かんだ。
「え?」
背中で、かすかに風が揺れた。
振り返ると、そこには松吉が、いや、松吉だったモノが立っていた。
口から、黒いモヤが細く立ち昇っていた。
(まさか、幽鬼が操って……)
幽鬼の本流は浄化できても、その飛沫(しぶき)が残って、松吉に取り付いたらしい。
松吉はどこに隠していたのか、細い手にナイフが握りしめられていた。
刃が閃(ひらめ)く。
「なっ」
手で顔を覆う暇もない。
反射的に目を閉じる。
だが、覚悟した痛みは襲ってこなかった。
そろそろと目をあける。
燃える人形が、吉松を羽交い絞めにしていた。
立ち昇る火の粉の本流に覆われ、人形の姿ははっきりと分からない。だが、その輪郭は丸めた綿のような無骨なものではなかった。それは、確かに女の姿だった。
「ああ、あなたは……」
ウツロは目を凝らしたが、炎のまぶしさが邪魔で輪郭がはっきりしない。
(あれは……)
炎が風にたなびき、女性の口元が露わに見える。
『うつろ』
「あなたは……」
ウツロの呼びかけに相手が気づいたかどうかも分からぬうち、その人影は光に飲み込まれていった。
少しずつ、光の束が細くなっていく。まるで綿が水を吸い込むように、人影は光を吸い込ませているようだった。
再び現れたときあったのは、焼け焦げた人形の姿だった。
「じゃあ、本当にもう生贄を捧げなくていいんだな」
雪路の説明に、取り囲む村人たちの間に笑顔と安堵のため息が広がっていった。
「ああ、もう大丈夫だ」
どこか苦々しく雪路は言った。
自分の力でできなかったことを、ウツロがやり遂げたことが気に入らないのだろう。
ウツロは柱の跡地に残った人形の残骸(さんがい)を見つめた。燃え尽きた人形はただの黒い塊になっている。
よろよろと、ウツロは坂を登り始めた。
綾目が穴をおりてきて、手を貸してくれた。
あとからニエもぴったりとついて来る。
「さっきは、ごめん。見捨てて」
「いや、無理もないことだよ」
溜息交じりにウツロは言った。
縁にたどり着くと、雪路が独り言のように呟くのが聞こえた。
「しかし、こんなことが起きるとは」
「あ、あの、雪路さん」
綾目が、落ちつかなげに雪路に話しかけた。
「あ、ありがとうございます」
どうにもそわそわ落ち着かない綾目の様子が気になって、ウツロは聞いてみる。
「なに、どうかしたの?」
ウツロの言葉に、綾目は『なに言っているんだ』という表情をした。
「こんな状況で、俺が今まで通りこの村に住めると思う?」
言われてみれば、綾目は生贄になるはずのニエを助けようとしたのだ。結果論として贄を捧げなくてもすんだが、裏切ったのには変わりない。
「絶対、なんかこのあと厄介なことになるだろ? 村の皆が混乱しているこのスキに逃げ出すのさ」
「ニエも一緒に行く!」
ニエが綾目に抱きついた。
「ええ?!」
綾目は驚いたようだが、まんざらでも無い様子だ。
その時、ウツロの隣から、雪路の気配が離れるのを感じた。
見ると背をむけて、広場から立ち去ろうとしている。
「僕のことはほっといていいの?」
皮肉な気持ちで声をかけてみた。
雪路は背をむけて立ち止まったままだったが、しばらくしてこちらに顔をむけた。その横顔が燃え残った炎に照らし出されている。
「……よかったじゃないか」
唐突に雪路が言った。
「なにが?」
今さらながら疲れが沸いてきて、ウツロはどさっと座り込んだ。無理に動かした足が痛い。
「あの人形……最後、お前に何か微笑んでいただろう。あれはきっと……」
小さく首を振って、ウツロはその言葉を遮った。
「ウツロ、お前はまだ人間を作りたいと思うか?」
ウツロは首を振った。
「いや、もう、そうだな、気がすんだ」
あの人形は、入り込んだ母の魂だったのだろうか。それとも、幽鬼を百人目に、新しい『人間』が生まれたのだろうか。
ウツロには分からない。
だが、命がけで助けてくれた。心の底から名を呼んでくれた。それだけで十分だ。
自分のために誰かが命を差し出してくれる所を、どれだけの人間が見ることができるだろう?
「本来だったら人形に戻すところだが、村を救ったことに免じて許してやる」
その上から目線の物言いにお礼を言う気にはならず、ウツロはフンと鼻を鳴らした。
「ただ、あの本は返せよ」
ジロリとにらまれる。
「えー、どうしようかなあ」
ウツロと雪路は、顔を見合わせほんの少し笑った。
百人目――?
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