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序章
ガラガラと音を立てて、古びた旅館の引き戸が開いた。
磨かれた木の上がり框(かまち)は、代理石のように静かに光っていた。
「すみません。予約は無いのですが泊めてもらえますか」
風にのった桜の花びらと一緒にやってきたのは、十六歳ほどの青年だった。
いかにも学生らしく、ワイシャツの上に着物着て、袴をはいている。右手に大きなトランクを持ち、肩に帆布の肩掛けカバンをかけていた。
切りに行くのをめんどうくさがって、伸びてしまったようなボサボサの髪。どこか仮面めいていて、だからこそ整って見える顔。
なかなか恰好いい旅人さんじゃないの、と若い中居(なかい)はにんまりした。
「なくても大丈夫ですよ。では宿帳にお名前をお書き下さい」
客は下駄を脱ぎ、受付の台で名前を書く。
なかなかキレイな文字だった。
「ウツロさんですね」
変な名前、と思ったが、もちろん顔にも口にも出したりはしない。
「ではお部屋までご案内いたします」
中居は、ウツロの荷物をあずかろうと手を伸ばした。
(それにしても、重そうなトランク)
そう思ってトランクを受け取ったが、意外にも軽くてついよろけてしまった。
幸い、荷物を落としたりぶつけたりしなかった。
「ああ、もうしわけありません」
中居の謝罪にウツロは答えず、曖昧な笑みを浮かべた。
そのまま二人は階段を登っていく。
「しかし、こんな田舎にご旅行ですか? 夏は海水浴に来る人もいますが、今は見るものはそうありませんよ」
まあ、客が来るのはありがたいけど、と中居は心の中で付け加えた。
「ええ、別に観光名所でなくても良いのです。若いうちに色々なものを見て、色々な経験をしてみたいだけで」
どこぞの金持ちのおぼっちゃまだろうか。勉学にも励まず旅行とは、いい御身分だ。
「実は、少し小説を書いているんですよ。新しい環境のほうが、筆が進むもので」
「まぁ、それはよろしゅうございますね」
階段を真ん中まで登った時トランクがガタンと鳴った気がした。
(壁にでもぶつけたかしら)
お客様の荷物を傷つけたらまずい。もしクビになったりしたら大変だ。旦那の稼ぎが悪いし、娘を育ていかなければならないのだから。
さりげなく見てみるが、壁にもトランクにも傷はないようでほっとした。
それにしても大きなトランクだ。体を胎児のように膝を抱え丸めれば小柄な女性くらいなら入れるだろう。
そんな気味の悪いことを考えを、頭を振って追い出した。
ごとりとトランクが動いた。まるで中に生き物でも入っているように。
「ひっ!」
今さっき、不穏な想像をしていたこともあり、中居は驚いて思わずトランクを落とした。階段にぶつかった衝撃でフタが開く。
中から死体が飛び出し、転がり落ちていく。段を落ちるたびに、手と足がめちゃくちゃに跳ねまわり、奇妙な踊りを踊っているようだ。
床まで落ちきってしまうと、その死体は止まって動かなくなった。
中居は、上下する胸を抑え、落ちている塊を見下ろした。
真っ白い肌。むちむちとした腹の肉。
この青年は殺人鬼? その死体を持ち歩いている?
「ああ驚かせてしまいましたか」
客はのんびりと言う。そして階段を降りるとそれを抱きかかえた。
よく見るとそれは死体でがなく人形だった。大きな綿の塊(かたまり)を、太い紐でぐるぐると巻いて人の形にしたもの。
死体ではなかったものの、異常であることには変わりない。
傍で開いたままになっているトランクは、内側にびっしりと札のようなものが貼られている。
中居の足元には、一枚の紙が落ちていた。だいぶ古く、折り目がついている。そこには
一人目――綾子(あやこ) 事故死
二人目――信篤(のぶあつ)刺殺
と番号付けされた人名が並んでいた。最後の
九十四人目――花 毒殺
は、まだ最近に書かれたもののようだ。
「いったいそれは……」
その言葉に逆は露骨に不機嫌な視線を向けてきた。
そして階段を下りると、人形を持ち上げしまいはじめる。
「この旅館は客の持ち物を詮索(せんさく)するんですか」
「い、いやそういうわけでは」
その言葉に満足したのか、人形をトランクにしまうとお客は何事もなかったかのように微笑んだ。
「さあ、部屋に案内してください」
触らぬ神に祟りなし。この客にはできる限り深入りしないようにしよう。中居はそう心に誓った。
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