11 穢れを喰うもの

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「……こまどちゃんは、全部が家の記憶なんじゃないか、って仮説も立ててたね」 「あ、はい……特に何か根拠があるわけではないんですが。残留思念、という言葉がなんとなく、思い浮かんで」 「もしかしたら、みんな、家じゃなくて柳原瑠理子の残留思念なんじゃないの?」 「……柳原さんの、記憶?」 「そう、全部彼女の妄想。彼女の記憶。彼女の考えた幽霊。そう考えると、隣の家の男にも説明がつく。ほら、ごらんよ、ぼくたちがみっちゃんにもらった当初の地図は、相当古い二十年前から更新されていない地図だ。隣の横山家は両親と息子の名前が記載されているが、この息子って奴は当時小学高学年。そして今は引っ越していて、横山家の後には横川家が入居している。ここは壮年の夫婦の二人暮らしだ。ぼくたちが見た二階の窓はそもそも存在していないし、そこに男なんか住んでいない」 「隣の家の窓自体が、霊障、ってことですか?」 「まあ、そうだろうよ。なんつってもぼくもこまどちゃんも、笑えるほどに目が良い。みっちゃんの顔が微塵も見えないほどにね、そういうものをびしっと見ちまう」  隣の家に見えていたものは、霊が見せた幻覚だとしたら、それを見せているのはやはりこの家に棲みついている何かのしわざ、ということになるのだろうか。 「隣に男なんか住んでいない。この家で大量殺人事件も集団自殺事件も起こっちゃいない。ただ、柳原瑠理子が自殺しただけだ。だがこの家は現実におかしなことになっている。隣の家からの視線、大量の幽霊、そして何かに怯えて逃げる柳原瑠理子。……柳原瑠理子は、何かから逃げていた。そして今も逃げている。ただ、その何かって奴はたぶん――彼女の妄想だ」 「……もうそう」 「妄想だよ、こまどちゃん。だって誰も死んでいないんだ。隣の家には男なんかいないんだ。これは柳原瑠理子の妄想による霊障だ。あの黒い女はひとりでずーっと、隣の家の男から逃げ続けている。ほほえみハウスの仲間と一緒に怯えている。この家に住もうと思った住人やお祓いしようとした霊能者も巻き込んで、ずっとずっと自分が考えた最強のシナリオを演じてんだ」  最強のシナリオ。……私はぶちまけられた資料の紙に目を落とす。それは簡素な掲示板のスレッドを印刷したものだ。私はあまり、ネット掲示板を利用しないけれど、オカルト系のログはたまに覗くから、これが一体どういうものかくらいは知っている。  どう見てもストーカーである男の書き込み。日付はやはり、二十年前だ。 「ああ、うん、……いやだね、まったく。ぼくは、こういう人間臭いごたごたは苦手なんだ。それでも勝手に知らんところでやってくれたらどうでもいいってのに、今回はこまどちゃんが見事に巻き込まれちまった。……そういえばぼくが、大切な人間を作らなかった理由をすっかり忘れてたよ。まあ、家から出ないからね、人間との縁をそもそも繋ぎにくいってのもあるんだけどね」 「栖さん……?」 「言っておくけどこれは、ぼくのせいじゃない。だれのせいでもない。ぼくの意図するところでもない。しいて言うなら柳原瑠理子の自業自得だ。被害者ぶって悪意を全部他人に肩代わりさせて、新でもまだ人様を巻き込んで被害者ぶる。そういう馬鹿のせいだ」  私はやっと、その異変に気が付いた。栖さんの後ろの窓に、べたり、と黒い手形がついた。  顔を上げた私は息を飲む。  その手形のぬるりとした気持ちの悪い黒さに、見覚えがあるのだ。  栖さんの名前を呼んだつもりなのに、声が出ない。喉の奥に何かが詰まったように、ひゅうひゅうと掠れが息の音が鳴るだけだ。……まるで、声が出ない悪夢を見ている時のように。私の言葉は、何かに邪魔をされてせき止められてしまう。  べたり、べたり、べた、べた、べたべたべたべたべた。  窓が、下から黒い手形で埋め尽くされていく。その黒い闇の中に、うっすらと浮かんでいるのは、■■(イバラマ)だ。  うそだ。だって、今は二時じゃない。この部屋は、ずっと昼間だった。時計の針はぐるぐると回っていて、今が何時か正確にはわからないけれど……まさか、現実世界では今、深夜の二時なの?  いや、だとしても……やっぱりおかしい。閉じ込められてからもう二十四時間経ったはずだ。その間、現実の深夜二時は最低一回は訪れている。でも、■■は出なかった。  この昼間の世界では、深夜の二時は存在しないはずなのに。  私のすがるような視線を受けて、栖さんは少しだけ眉を落とす。その後にへらりと笑って、ごめんね、と零した。 「……ぼくはね、本当はこまどちゃん以上に凪いでないといけなかったんだよね。でも、うっかり本気でイラっとしちまった。ぼくは怒っちゃいけない。悲しんでもいけない。憎しみなんかもってのほかで、憎悪は一番遠いところにいないといけないんだ。そうじゃなきゃ、■■が出てきちまう。なんといってもこいつはぼくに取り憑いていて、そんでもって穢れが大好物だ」  謝らないで。笑わないで。。悲しい顔でごめんなんて言わないで。そう思う私の言葉は、何ひとつ声にならない。 「負の感情、っていうだろ? そういうのってさぁ、つまりは感情を穢しちまうんだよ。ぼくは怒っちゃいけない。感情を穢しちゃいけない。穢れた感情は、■■に喰われてなくなっちまうから」  いつの間にか明るかった部屋は、ぬるりとした質感の黒に覆われて真っ暗になっていた。  廊下でドタン、と、何かが床に倒れたような音がする。きっと、たぶん、あの黒い女が、■■に捕まったのだ。 「柳原瑠理子は被害妄想の達人だった。誰よりも自分が可哀そうで、誰よりも被害者だと思い込んでいた。そしてたまたま見かけた男性と、たまたま見つけたネットの書き込みを好き勝手につなぎ合わせて、誰よりも可哀そうな悲劇のヒロインになった。つっても勿論そんなもん、周りから見たらどう見たっておかしいし、滑稽だし、もっと言っちまえば迷惑行為でしかない。いかに優しいほほえみハウスだって、彼女を排除しようとしたんじゃない? ストーカーなんかいないわよ、ほら見て、隣の横山さんのおうちは小学生の息子さんしかいないじゃない――そんな正論、柳原瑠理子は聞きたくもなかっただろうね。そして死んだ。私は可哀そう、可哀そう、可哀そう、みんな助けてくれない、ひどい、ひどい、ひどいと思いながら命を絶った。最後まで全部人のせいにして。死んでからも、この家を縄張りにして勝手に被害妄想を繰り返している。その妄想に付き合わされて、何人の女が死んだ? 可哀そうな被害者を演じるためだけに、何人の傍観者を殺した? いやもう、この際過去はいい。どうでもいい。でも、こまどちゃんを殺そうとしたのはだめだ」  絶叫が響く。  私でも、栖さんでもない、知らない女の声だ。  女は叫ぶ。断末魔のように、いやだいやだいやだいやだと叫ぶ。合間に何かが折れるような、擦れるような、音が聞こえる。ぼき、ばき、ぐしゃ。そんな音。誰かが生きたまま食べられる時は、こんな音がするのだろうか?  こわい。こわくてこわくて、仕方がないのに、私は目の前の栖さんの言葉の方がこわい。 「ぼくはね、こまどちゃんには生きてもらうって決めたんだよ。おまえなんかに渡すか、ばーか」  にたり、ととても嫌な笑いを浮かべた後、栖さんは頭の上から■■にすっぽりと食べられた。  後に残ったのは、薄暗い部屋で呆然と座り込む私と、紙の上に倒れた栖さんだけだった。
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