3 赤い部屋と黒い女

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 栖さんはあんまり乗り気じゃないみたいだけど、私は少し、外の世界を見てみたい。実は、旅行というものを知らない。学校行事は不参加だったし、長じてからは友達を作ることを避けていたので、個人的にどこか遠出をしたことがないのだ。  どうせなら、いままでやれなかったことをしたい。そしてどうせなら私は、いつも引きこもっているこの人を、私の思い出に組み込みたい。そう思うから今度旅行雑誌を買ってきてプレゼンしようと心に決め、荷物を片付けるために立った。 「あ。ちょっとちょっと、こまどちゃん、ちょっとそのまま立っててよ。写真撮ろう、写真」 「…………そこまでされるほどのものでも……あの、本当に親戚のおじさんみたいなのでちょっと……」 「親戚のおじさんにぼくなんかが居たら困るでしょうが。ちょっとその辺の近所のおにーさんくらいがちょうどいいし、ちょっとその辺の近所のおにーさんだって推しのご近所さんの晴れ着を写真に収めたいわけだよ。いいね、似合うね、よしよし、後でみっちゃんに送り付けよう」 「やめてください……」 「ハイチーズ、はもう古いのか? 今なんていうの、こういう時。まあいいか」  パシャパシャ、と何度かシャッター音が響く。  スマホを掲げた栖さんが満足そうに頷いた後、画面を見てから『うん?』と口の端を曲げた。 「……どうかしましたか?」 「うん。どうかした、っていうか、心霊写真が撮れちまった」 「え」 「見る? なかなかばっちりだぜー」  大変軽い感じで手渡されたスマホの画面には、硬い表情で立つ私が一人。そしてその右隣にべっとりと黒い人影が張り付き、足首は二本の手が絡まるように掴んでいる。後ろの引き戸の隙間には、こちらを覗く顔がしっかりと映り込んでいた。 「…………大盛況、ですね」 「うはは。まったくだ! こんなに簡単に心霊写真が撮れちまうなんて、心霊ユーチューバーも悔しいだろうよ。撮れ高すごいねこまどちゃん。つかこの黒い女、さっき二階にいなかった?」  ししえりさんの家。この家には、とにかく家の中を徘徊している黒い女がいる。気が付くと扉の向こうを横切る。ふと視線の端を通り過ぎる。  せわしなく動く女は、確かに先ほどギシギシと嫌な音を立てて二階に上がっていった。 「……別の人、でしょうか」 「いやぁ、ぼくには同一個体に見えるけどね。なんだろうな、背格好? が似てる感じだよ。台所の方によく出るよぼよぼした女は、もうちょい背が低い。この覗いてる奴は初見か……? 男だね。この家、男もいたのかよ」 「足首のところの、手は……」 「いやぁ、手だけじゃどうにも。子供じゃないっぽいけどね。とりあえず最低三人はいるわけだ、ししえりさんの家には。この中の誰がししえりさんなのかはわからんけどなぁ」 「昨晩の、除霊は、どうだったんですか?」 「うん? うん。まあ、喰ったけど、雑魚って感じだったね。こういうヤバいところは、周りのヤバいもんをとにかく寄せ付けるもんだから、ボスにたどり着くまでにちょっと時間がかかっちゃうもんなんだよ。ま、早急に、とは言われたけど一か月は猶予があるみたいだしさ」  一か月。それが穢饌の仕事として長いのか短いのか、私にはまだわからない。  わからないが、それでもこの家に一か月も住むことを考えるとほんの少し、気が滅入る。 「…………部屋、やっぱ変える?」  栖さんが上目遣いに私を伺う。その視線を振り払うように、私は息を吸って吐く。 「大丈夫です。とりあえず、今は。黒い女は歩き回っているだけで、変なことはしてこないし、いただいたお札を貼っていると部屋にも入ってきませんから。気持ち悪いのはどちらかと言うと――」 「隣の家の視線かぁ」  うーん、と唸る。私が始終感じている気味の悪い視線のことは、初日にすでに栖さんに報告済だった。  何かあったらすぐに言うこと。我慢は絶対にしないこと。これが、栖さんが私に言った『助手の心得』だったからだ。 「こまどちゃんの部屋の窓にも、お札貼ってあるんでしょ?」 「はい。でも、それでも、ものすごい視線を感じます。なんだかむかむかするような、気持ち悪い感じの……」 「ふーむ。隣の家にすいませーんって話聞きに行くわけにもなぁ。そういうことしていいのか、みっちゃんに聞いてからじゃないとダメだろうし。ぼくはいつも無人アパートばっかり割り振られてたから、ご近所付き合いとかわっかんねーのよなぁ。二階の、あの窓でしょ? なんかたまに、小太りの男がこっち覗いてるよね?」 「ああ。栖さんにも見えるんですね。じゃあ、あれ、人間なのかな……」 「いやぁ、わからんぞ。ぼくとこまどちゃんは、見えすぎるきらいがあるし。まあ、ご近所情報はみっちゃんに任せよ。こまどちゃんはとりあえず無理せず、我慢せず、やべーって思ったらすぐに逃げること。これだけ守ってくれたらそれでいい」  栖さんも危なくなったら絶対に逃げてください、と、結局言えなかった私はあいまいに笑って階段を上がり、一昨日から自室になった六畳間に逃げ込んで息を吐いた。  私物と言っても、たいしたものはない。折り畳みの簡易クローゼットに服をかけて、私は布団の上で膝を抱える。  危ない仕事はしないでください、と言える権利は、私にはない。私は栖さんにとっては他人だし、栖さんも私も、その危ない仕事で生活している身だ。  栖さんはことあるごとに、こまどちゃんは逃げるようにと言い含める。でも、一緒に逃げようとは言わないのが、とても怖い。  ぼくだって見えるだけの、ただの人だ。そう言った彼の言葉は、今でも私に不安を抱かせる。確かに荊禍栖は穢れを祓う。でも、祓っているのは彼に憑いている■■であって、彼自身は無力な人間なのだ。  冷たい部屋で、膝を抱えながら。やはり首の後ろに刺さる視線に耐え兼ね、私はそっと窓にかけてあるカーテンの隙間に手を入れた。  昼間は柔らかい曇天だったけれど、今は月明りがうっすらと世界を照らしている。その鈍く暗い夜の向こう、隣の横山家の二階の窓。  ……窓辺にべったりと張り付くように立っていた誰かが、サッと身を潜めた気がした。それに、何故か……。 「……へやが、あかい……」  横山家の二階の部屋は、うすぼんやりと赤く光っているように見えた。  あの赤はなんだろう。とても禍々しい色に見える。  あまり眺めていては障りがあるかもしれない。私は思い切って目をそらし、そして部屋の前の廊下をタタタタタッ……と小走りに通り過ぎていく黒い女の足音を聞いた。
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