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「……随分と自己主張が激しいやつが湧いたじゃないの。まだえーと、昼の一時だぜ。こういうのはさぁ、深夜零時すぎにやってもらわんと、しらけちゃってよくないよ」
「…………え、あの、なんだか……移動、してませんか、この音……」
「してるね。きっちりと廊下を移動してる。なんの音だこれ? 普通に力いっぱい足を振り下ろしても、こんな音は出ないでしょうよ。……床になんか、叩きつけてんのか?」
天井が抜けそうなくらいの音。音が鳴るたびに、心なしか家も揺れているような気がする。
栖さんが大変嫌そうに立ち上がる。その奥でローテーブルの下から覗く男の顔が見え、そして廊下をいつもの黒い女が走るような速さで奥のキッチンの方へ移動していくさまが見える。……本当に、昼間は異常に騒がしい。
「しっかたねーな、もうマジで夜に出てこいって話なんだけどなぁ……こまどちゃん、お札どこにしまったっけぇ?」
「そちらの書類ケースの中です。指示された通り、一枚ずつ和紙に包んでジップロックで密封してありますけど……和紙はともかく、ジップロックは、その、なんで……」
「そりゃ湿気避けだよ。水ってやつは本当によろしくない。お仏壇にお祈りする時にはろうそくに火をつけるし、お焚き上げだって火を使う。水に流すのは悪いものをそのまま流す時だけだ。浄化ってやつに、湿気は大敵なんじゃない? 知らんけど。ぼくは専門家じゃないからさ。まあとにかくお札に湿気は厳禁、現代の主婦の友ビニールバックさんは現代の霊能者も救っちゃうんだよ。えーと、このあたりにすっかなー……いやでもたけーかなぁ……」
「あの、命がかかってそうなので、経費を考えて威力を落とすのは愚策かと……死んでしまったら経費も何もないので……」
「お。それもそうか。まあこの案件急だったし、結構給料良いみたいだしなぁ。ぼくはまだしも、こまどちゃんになんかあったらさゆりんちゃんにぼこぼこにされちゃうだろうし何よりなんかあったらとか想像すんのも嫌だね。うん。ここは一発大盤振る舞いだ」
本当は■■がいる時間帯に湧いてほしいんだけどね、と、栖さんが漏らした苦笑を、私は見ないふりをする。
だって、アレを引っ張り出すのはダメだから。そんなことをしたら、栖さんの命が削れてしまうことを、私は知ってしまったから。
だから栖さんの言葉の裏には一切気が付かないふりをして、私はただ、二階の廊下を移動する音に集中した。
ドン、バタン、ガタン。とにかく、すごい音だ。
その合間になんだか……人が、唸るような音が聞こえてくる。
ぐ……ゥ…………ゥゥ………ぐぅう………。
耳を澄まして、自分の心臓の音の合間にその声を聞く。女、のような気がする。男よりも少しだけ上ずった、軽くて掠れた唸り声。
ジップロックから一枚のお札を取り出した栖さんは、相変わらず面倒臭そうに首の後ろをぼりぼりと掻いた後、仕方ないねぇと部屋を出た。
私は少しだけ迷ってから、栖さんの後を追う。
どこにいても怖い。心もとない。私は霊能者ではないし、なんの能力もない――栖さんに言わせれば、見えるだけの普通の人だ。それなら、栖さんに付き添っていた方が、少しくらいは安心できる。
玄関までだるそうに歩いた栖さんは、玄関の扉を塞ぐように立っている中年女性(よく浴室に出る人だ)をきれいに無視して、階段の奥を見上げる。
まっすぐ伸びた階段は、二階につながると九十度曲がって二階の廊下につながっていく。
その廊下から、何かがぬう……と顔を出した。
「……っひ……」
悲鳴は私の喉の奥から出た。
二階から顔を突き出したのは、妙に首の長い女だった。にやにやと笑い、目が異様に離れている。それは『人の顔を知らない何かが適当に配置した福笑い』のようで、理由もなくシンプルにおぞましい。
ドン! という音と共に、女が首を壁に打ち付ける。笑う。打ち付ける。笑う。ドン、ドン、ドン、笑う、笑う、笑う、にたりと笑う、そして唸る。
そして、床すれすれの場所に顔を出した女は、細長い手を前に出すと、四つん這いの姿勢のまま、恐ろしいほどの速さで階段を駆け下りてきた。
「……………ッ!」
もう声も出ない。思わず栖さんのスウェットを掴む。栖さんがにたりと笑う気配がする。私が苦手な、にやにやとした、感情の想像が難しい笑い方だ。
「うはは、ばけもの湧いたじゃん。こっわ。はい、たいさーん」
へらりとした声と共に、栖さんは手にしていたお札を階段の一番下の段に貼った。
その瞬間に起こったことは、何度思い出そうとしてもよくわからない。私はしっかりと目を開いていたはずなのに、いつのまにか首の長い女は消えていたのだ。
「…………え。え? え!? あの、え……い、いまの、女のひと、はどこに……」
「あ、消えたわけじゃないよ。札一枚でばちこーんって除霊できんなら、ぼくだってね、こんな手間取ってないからね。これはうーん、わかりやすく言うと結界かな。ほら、上見てみ?」
「うえ? …………ひえっ」
促されて見上げた階段の上では、先ほどの女が壁から顔半分を覗かせてこちらを見下ろしていた。
「めっちゃいるじゃないですか……」
「そらいるよ。浄化なんかできない、こっから降りてこれないだけだもの。あのままなぁ、夜まで上でうろうろしててくれたら、せめてあいつだけは喰っちゃえるんだけど。ま、それは様子見だね」
「…………あの、私の部屋、二階なんですが……」
「残念だけどあいつがどうにかなるまでは封印だね。全力で襲ってくるタイプはちょっとぼくでもあんまり嬉しくない相手だ。こまどちゃんの部屋って、布団と充電器以外になんかおいてある?」
「いえ……貴重品は、栖さんのお部屋に置いてありますし……部屋と言っても、寝るだけの場所です、けど」
「じゃあみっちゃんに布団と充電器ワンセット追加発注してもらって、今日のところは一階で寝よう。あと着替えもないか? また服買ってきたらいいよ。スカートを増やすいい機会だ。うん、そうだそうだ。というわけで――」
昼飯にしよう。
けろりと笑う栖さんに言いたいことは山ほどあったが、とりあえず幽霊にこのひとの命を削られなかったことだけは、僥倖だった。
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