6 背のむこう

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6 背のむこう

 古い本は、なんというかとても独特で、少し懐かしいにおいがする。  埃とか、防虫剤のにおいなのかもしれない。懐かしい、と感じるのは私の育った家がとても古かったからだろうか。凝り固まった筋肉を伸ばし、ゆっくりと息を吐いてから吸いこむ空気は乾燥していて、冬の名残を感じる。ほんの少しだけどうでもいいことを考えた後、私は右手側に積んだB5サイズの小冊子を手に取り、破れないように丁寧に開いた。  いきいきなだまち広報という小冊子は、ししえりの家がある灘町近辺の町内会誌だ。最初は新聞の地方欄を調べていたのだけれど、土地の歴史が知りたいなら、と司書さんがわざわざ書庫から出してくださった。  この図書館は公共施設ではなく、個人資産家が趣味で経営しているものだ。町内の広報誌や祭りのポスター、掲示物など様々なものを『町の歴史』として保管しているらしい。いまの私には、とてもありがたいけれど……正直誰が使うんだろう、と、ちょっとだけ疑問に思わなくもない。  小ぢんまりとした館内は、当たり前のように人気がない。シノミツさんの名刺を出した私はすぐに閲覧スペースに案内され、好きなように使ってくれていいから、と大量の資料とノートを手渡された。写真も可、コピーも可。さすが謎の組織穢土調整課だ。待遇がよすぎてちょっとだけ引いた。  ……でも、近所の事件とかオカルトな記事なんか、広報誌に書くだろうか?  高校生グループが囲碁の大会で入賞した記事。長寿グランプリ受賞の記事。福祉ネットワークの紹介記事。新しいパン屋と若店主のインタビュー。そんな和気あいあいとした、小さな記事が続く。  図書館に通い出して、えーと……四日、くらいだろうか。  私はまだししえりさんというものが何か、あの家が何か、見当もついていないし、栖さんは相変わらず夜は静かな怪異たちに気をもんでいた。  ……二階は結局封印されたままになってしまった。  あの首の長い女も夜に襲ってくることはなく、月曜日の朝にはまるで何事もなかったかのように消えた。  私は二階に戻ってもよかったのだけれど――一階の方が、あの嫌な視線がすこしだけ和らぐ、と言ったら、そのまま居間に寝泊まりすればいいじゃないの、と引き留められてしまった。  確かに、あの首の長い女がいつ出るかわからない場所で寝起きをするのは、ちょっとどころか、かなりの勇気が必要だ。……あれが、ししえりさんなのだろうか。私は一応疑問を栖さんにぶつけたけれど、見ることしかできない呪われ代行屋は『わっかんない』と、いつも通りすぎる言葉を吐くだけだった。  刻々と日は過ぎる。  穢土調整課が栖さんに課した期限は、一か月。  その間に穢れの浄化ができなくても、栖さんが怒られることはない、らしい。でも、あの視線に目をつけられている私はもしかしたら、もう後戻りはできないのかもしれない。 「…………あれ……?」  余計なことをだらだらと考えながらページをめくっていたので、最初はその写真を見過ごしていた。記事を一周し、関係ないかな、と思ってもう一度写真を見て、私は目を見張る。  関係ないどころではない。  ……そこに映っている写真は、ししえりの家の外観だ。  見覚えのある家の前に、数人の男女が緊張した面持ちで並ぶ。記事のタイトルに目を滑らそうとした時――誰かが私の足を掴んだ。 「え、……ヒッ……!?」  思わず飛び上がり、立ち上がって後ずさる。椅子を派手に倒してしまったがそれどころではない。  幸いなことに手はすぐに離れたが、机の下から私を見上げる男と完璧に目が合った。  真っ黒い目。ぽっかりと開いた口。どうみても生きている人間じゃない、ぬっとりとした粘土のような白い肌が、何故かうごうごと動いていた。肌の下に虫でも這っているみたいに。 「…………っ、!」  人間は驚くと本気の悲鳴なんてでない。ということを、荊禍栖という人に出会ってから本当に痛感した。息を飲むくらいが精いっぱいなのだ。  机の下の粘土のような男は、ぬるっと溶けるように消える。けれど途端にひどい耳鳴りがして、私の首の後ろからのっぺりとした声が響いた。 「みつけた」  ……何が、とか、何を、とか、何で、とか、そんなことを考えている暇も余裕もなかった。  私は鳥肌をびっしりと立てたまま乱雑に資料をカバンにつっこみ、上着も羽織らずに図書館から逃げ出した。  なんだいまの。なんだいまの。……なんだ、いまの。ていうか、なんで、悪寒が消えないの。  図書館からししえりの家までは、徒歩で十分。走れば五分強でつきそうだけれど、私はすぐに息が切れて目の前がちかちかしてくる。  呼吸をするたびに、器官がひゅうひゅう鳴って、空気が擦れるみたいに痛い。肺が冷たい。手足が震える。鳥肌が収まらない。  首の後ろに、刺すような視線が突き刺さる。  後ろにいる。私の後ろから、何かが追いかけてきている。振り返る勇気も余裕もないけれど、それだけはわかる。わかってしまう。  みすぼらしい自分の呼吸音しか聞こえない。涙がにじみそうになって、足がもつれそうになって、それでも走る。もう少し。もう少しで家が見える。栖さんが居る家が見える――と、安堵しかけた時。  私の腕を何かが強く掴んだ。
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