6 背のむこう

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「っ、…………!?」  もうだめだ。そう思ったのに。 「古嵜さん、大丈夫ですか!?」  強い力で私を抱きとめたのは幽霊ではなく、顔に四角い紙を張り付けたスーツの男性だった。 「し、しのみつ、さん……?」 「ああ、古嵜さんにお怪我はないようですね。とんでもない形相で走っていたので、何事かと……まさか緊急事態ですか?」 「え、いや、あの……な、何かに、追いかけられて、図書館から、逃げてきて……」 「……もう、その何かとやらはいらっしゃらないようですが」  言われてようやく、私はあたりを見渡す。確かに、何もない。誰もいない。そこには当たり前のように閑静な住宅街が広がるだけだ。 「…………本当、ですね。もう、いない。諦めて、くれたのかな……」 「わかりませんが、とりあえずおうちまで送りましょう。といっても、すぐそこですが」  私はいつの間にか、ししえりの家の目と鼻の先まで走っていたようだ。急に安心したせいか、足に力が入らない。結局シノミツさんに支えられるようにして、ようやく私はししえりの家に辿り着いた。 「ありがとうございます……あの、本当にすいませんでした」 「いえいえ。私なんぞ何もしておりませんよ。しかし――、うん、改めて拝見すると、やはりなんとも気持ちの悪い家ですね」 「そう、ですか? 私はもう慣れちゃったのかな……あ、栖さん呼んできましょうか? 最近は、昼間は寝ていますけど。というか、何か御用だったんじゃ……」 「ああ、いえ、大したことではないのですが、……実は室内の写真が必要になりまして」 「はぁ。言ってくだされば、送ったのに」 「まあ、雑用は私の仕事ですから。失礼しても?」 「あ、はい、どうぞ。入っても大丈夫なんですか?」 「一瞬ですから、ノーカウントにしていただきましょう。私のことよりも、古嵜さんの方が心配です。少し、椅子に掛けたほうがいい。まだ足が笑っているでしょう」 「……久しぶりに、全力疾走したので」  栖さんのお仕事を手伝うようになって、びっくりしたり恐怖に固まったり、そういうことはかなり経験したけれど、物理的に走って逃げる、という体験は初めてだった。  なんといっても彼の仕事場は自宅で、ほとんど安楽椅子探偵のようにその場から動かないからだ。走れ! 逃げろ! なんて指示をもらったことは一度もない。  体育は苦手だったし、スポーツの趣味もない。……ストレッチくらいは日課にした方がいいかもしれない。いくら普段必要がないとはいえ、ちょっと走ったくらいでこの体たらくでは、仕事云々は置いておいて普通に健康的にもダメだと思う。 「座っていてください。お茶は私が淹れましょう。このココアを拝借しても?」 「あ、どうぞ。ええと、いや、やっぱり私が……」 「お湯を沸かしてココアの粉をとくくらい、私にもできますよ」 「……じゃあ、お言葉に甘えて……」  なんとなく気恥ずかしいのは、私は誰かにもてなされた経験があまりないからだ、と気が付く。栖さんは『ぼくだって皿洗いくらいはできる』と豪語して掃除くらいは手伝ってくださるけれど、調理全般はお茶すら無理だと手を挙げて首を振る。  別に珈琲を淹れて労え、などとは微塵も思っていないので、それでいいのだけれど。他人が淹れてくれた飲み物、というものを、お店と実家以外で、初めて口にするかもしれない。  マグカップにたっぷりと注がれた滑らかなココア。熱いですよ、と渡されるとき、私はちゃんとありがとうございますと口に出していただろうか。なんだか夢の中にいるようで、うまくお礼が言えていたか、わからない。  だめだ、ココアを飲んで落ち着こう。  キッチンのダイニングチェアに腰かけた私は、息を深く吸い込んで、シノミツさんが淹れてくれたココアを一口飲み込む。  甘くて優しい味の後に、……なぜか、少し砂っぽいざらつきが残る。私が頭をかしげてココアに目を落とそうとした時。 「――こまどちゃん」  いつのまにか、キッチンの入り口に栖さんが立っていた。  声が固い。顔も険しい。とても珍しい。  だから私は一瞬で背筋を伸ばして、とても嫌な予感に供える。 「……さっきから、ひとりで何喋ってんの?」 「え。……ひ、ひとり、じゃないです。今、そこでシノミツさんと――」 「一人だよ。こまどちゃん、いまここには、きみとぼくしかいないじゃないか」  そんなわけがない。だって私はシノミツさんに助けてもらった。一緒に帰ってきて、会話をして、ココアを淹れてもらったばかりだ。  それなのに、そこに座っていたはずのシノミツさんがいない。どこに消えてしまったのだろう。ああ、いやだ、見たくない。聴きたくない。現実を直視したくない。 「一体きみは、?」  息が浅くなる。冷たい汗がじわじわと噴き出る。 「みっちゃんは今日は朝から出張だって話だ。こんなところにいるはずがないし、あの真面目野郎はこの家の中に入ってくるはずがない。ついさっき、きみが帰ってきた音でぼくは目が覚めた。それからなんとなく伺っていたけど、こまどちゃんは、最初からずっと一人で喋ってたよ」 「じゃあ……じゃあ、私が、連れてきたのは――」  誰。  と、思った瞬間、目の前が一気に暗くなった。 「こまどちゃん……!」  私は誰を招き入れたの?  私は何を口にしたの?  私は――。  ああ、だめだ。何もかもが黒くなっていった。
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