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7 笑う家
お母さんが笑っていた。おばあちゃんも笑っている。
とても朗らかな家。とても優しい家族。でも、空々しくてひどく悲しい気持ちになるのは、居るべき人たちがそこに居ないからだろうか?
私はお茶碗を持ったまま、制服のしわを気にしながら声を出すタイミングを窺っている。まだだ。まだダメだ。お母さんは、向かいのおうちの奥さんの話をしている。人様の家の話をしている時は、とても楽しそうにしている割に機嫌が悪い。
会話が静かに途切れ、数秒間の静寂が訪れた。おばあちゃんがお茶を飲む。お母さんはお漬物を口に運ぶ。二人がしっかりと口を閉ざしたタイミングで私は口を開けたのに。
声が、出ない。
水の中で叫んでいるように声が出ない。ひゅう、ひゅう、と喉が鳴る。音は零れるのに、それは決して言葉にならない。
ねえ、お父さんと菱華はどこ?
そう訊きたいだけなのに。私の喉はひゅうひゅう鳴るばかりで、そのうち当たり前のように日が暮れてきた。母は明かりをつけない。祖母も気にしている様子はない。いつの間にか部屋は真っ暗になり、嗅いだことのあるとても嫌なにおいが鼻をつく。
これは、あの窓のない部屋に満ちていた死臭だ。
ずるっ……ずるっ……と、部屋の角で何かがうごめく。べったりいと身体を地面に横たえて、手だけで這いずるような。重い体をずりずりと引きずるような。そんな嫌な音が近づいてくる。
私は目を瞑る。真っ暗で何も見えないけれど、怖くて、怖くて、とても瞳を空気に晒していられない。
生ぬるい気配を背中に感じる。首の後ろに、ぞわりとした息が吐きかけられて、湿った声が私の耳元で笑った。
――おねいちゃん、まだ、いきてたの?
「こまど、ちゃん!」
けれど菱華の幻聴は、ぱりっとした男性の声で打ち消された。
思わず飛び起きる。心臓がばくばくとうるさく、耳まで脈打って気持ち悪い。体を起こしたものの、あまりのだるさに耐えられずにもう一度、私はゆっくりと仰向けになった。
……どうやら私は、和室の隅に寝かされていたらしい。眉を落とした栖さんが、大げさに息を吐く。
「あー……よかった、まったく、人間ね、急に倒れんのはよくないよ。つーかひっでえ声で唸ってたけど、正気? だいじょうぶ? ちゃんとぼくが誰かわかる?」
「……昔の夢を、見ていて……」
「あー。そりゃ悪夢だ。紛れもない悪夢一択だね。でもそいつは夢だから、こまどちゃんは覚えてなくていいやつだ。幸いなことに夢ってやつは現実じゃない。だから嫌な夢は忘れるに限る――んだけど、ふはは。……ちょっと、現実があんまりにも悪夢めいてて、笑えない状況だ」
「栖さん、私は――あのあと、倒れて?」
「ん? ああ、うん、ばたーんとぶったおれて意識失ってたからさ、とりあえず運んで酒と塩ぶっかけて覚えてる祝詞かたっぱしから試してたらどれがよかったのかさっぱりわからんけど見事覚醒したってわけよ。……笑ってる場合じゃねーな、うん。最初からゆっくり確認しようか」
ほんの少しだけ真面目な顔をした栖さんは、私の横にしゃがみこみ、とても嫌そうに言葉を吐く。
「まず現状だ。どうやらこまどちゃんにくっついて、何かが家に入り込んだらしい。つっても、それが何かまではわからない。こまどちゃんはみっちゃんを連れて帰ってきたと思ったんだよな?」
「はい。図書館で、男? のようなものに、『みつけた』と、声をかけられて追いかけられて――その、帰りにシノミツさんに助けていただいたんです。……あれは、シノミツさんじゃ、なかったんでしょうか……」
「みっちゃんじゃないだろうねぇ。みっちゃんに擬態した何かだろう。その何かが、図書館の男と同一のものかはわからんけどね。そんで、招き入れちまったそいつのせいかわからんけども、最悪に面倒なことに、ぼくたちはこの家から出られなくなった」
「………………聞き間違えでしょうか。すごく、いやな、ことを言われた気がします」
「ふふ、何度でも言うぞ? ぼくとこまどちゃんは閉じ込められた。窓も玄関もありとあらゆる下界との境界が閉ざされている。完璧に囲われた。勿論電話もネットもダメだ。こいつは結構まずい。正直なところ、みっちゃんかご近所の誰かが異変に気付いてくれるまで、どうにもならない」
異変に気が付いたところでどうにもならないのかもしれないけど、と、小さく添えられた声こそ聞かなかったことにする。今のは栖さんの予測のうちの一つであって、現状の確認とは関係のない言葉だったから、うん、聞いていなくても大丈夫だ。うん。
「つーわけで籠城戦だ。ぼくらが奴らのしっぽを掴んで引き摺り出すか、奴らがぼくらを取り込んじまうか。たぶんそのどっちかなんだろうよ。ネットまで切られちゃったのがほんとキツいけど、幸いみっちゃんが送ってくれたファイルはダウンロードしてある。この辺一帯の地図とかそういうやつね。なんかの足しになるかわかんないけど、まあ、無いよりましでしょうよ」
寝ている場合ではない。
ようやくそのことに気が付き、私はゆっくりと身体を起こす。……シノミツさんではない何かが作った飲み物は、一体何だったのか、こわくて確認できないけれど、とりあえず吐きそうだ。
胸を押さえながら頭をもたげ、よろよろと私は体を支える。
そして私の横に放り投げてあったカバンを掴むと、緩慢すぎる動作でどうにかその中から古い小冊子を引っ張りだした。
「こまどちゃん、もうちょい寝てた方がよくない? あ、畳硬かった? ぼくの万年床は嫌かなぁと思って避けたんだけど、やっぱ布団の方が――」
「栖さん、ししえりさんの家の正体が、わかりました」
「はえ?」
とても間の抜けた声を出した栖さんは、私が差し出した『いきいきなだまち広報』に目を落として、そこに印刷されているひとつの写真を凝視した。
疲れた現代人を癒す魔法の家。
そんな見出しの横には、一軒家の前で満面の笑みを浮かべる四人の男女がぎこちなく並んでいる。
中央に、エプロンをした中年女性。彼女を囲むように、隈のういた背の高い男性と、白いシャツを着た鼻が高い女性と、黒いワンピースの目の細い女性。
中央の中年女性は、見覚えのある縦長の木の板を大切そうに、両腕で抱えていた。今は、汚れや落書きで『ししえり』としか読めなくなったあの看板。
栖さんが、ゆっくりと、看板の文字を読み上げる。
「――ほほえみハウス」
ほ、の右半分がすっかり消えて『し』に。
み、の横の線が掠れてしまって『り』に。
そうやって元のひらがなが意味の分からない文字へと変わってしまった。ししえりさんの家は、『ほほえみハウス』だったのだ。
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