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私の引っ越し荷物は、割合少ない。それでも栖さんのようにリュック一つというわけにはいかないし、さっさと部屋を決めてキッチンを使えるようにしないといけないし。引っ越しというものは、案外大変だ。
午後から会社に戻る、というシノミツさんもお昼のチャイムを聞いて、ハッとした様子で封筒を私に渡してくださった。
「簡単な住居の説明と、荊禍さんに頼まれていたお札です。間取りはそちらの通り。特別危険な場所や特記事項はない、と伺っていますが、これに関しては確証がありません。申し訳ありませんが、お二人のカンを信じるよりない。古嵜さん、どうか荊禍さんの指示に従い、くれぐれも気を付けて行動してください」
「……はい。えっと、あの、もしかしてちょっと危険な仕事ですか……? これ」
「ははは、何をいまさら。正直あなたが関わっている穢饌の仕事はどれも最上級に危険ですよ」
爽やかに笑ったシノミツさんが本当はどういう顔をしていたのか、やっぱりわからないけれど、うん、きっと眉を落とした時の栖さんと似たような顔だったんじゃないかな、と思う。
冷や汗とビビる気持ちをぐっと飲み込み、私はとりあえず目の前の作業に没頭することにする。この家に何が出るとしても、まずは物理的に住めるようにしないとまずい。
嫌がる栖さんを追い立て、シノミツさんの車に積んだ段ボール箱を持ってもらう。三人で家を出た瞬間、……あーうん、なんだろうこれは。視線? かな? ……とても強い、視線を感じた。
「うーん。……いやぁ、やっぱぼくはあんまわかんないなぁ、禍々しい雰囲気はあるけどねぇ、そんなこと言ったら大体の心霊屋敷はユウレイデマスって言われただけでちょっと禍々しく感じちゃうしねぇ。こまどちゃんどう? なんか見える? あ、二階の窓から覗いてるなんか黒い人影以外で」
「見えてるんじゃないですか禍々しいもの……」
「あんなのジャブでしょうよ。安楽川さんの方がこえーくらいよ。みっちゃんはー? なんか感じないのー?」
「私の霊感なんぞお二人に比べたらもやしどころかサヤエンドウの筋のようなものですよ。ですが残念ながら二階の方はばっちり見えておりますね。……ジャブでしょうかね? あれが穢れの本体なのでは?」
「どうかねぇ。つかこの看板なによ。この家、民家じゃなかったの?」
栖さんがこんこん、と軽く拳をぶつけるのは、玄関の横に立てかけてある一メートル程度の板だった。
そこにはうすぼんやりとした字で、何かが書いてある。公民館とか何かの集会場とか、そういうものの前に掲げてある看板に似ていた。
「えーと、なんだこれ、読めねーな……〇〇えりハウス……?」
「し、じゃないですか? ほら、この長いの、字ですよ」
「じゃあ『ししえり』か? なんだそりゃ、ぼくはそんな日本語聞いたことないねぇ。こまどちゃんは?」
「私も知りません。ていうかこれ、らくがきもひどいし、たぶん本当は別の字だと思いますよ。なんて文字だったのかはわかりませんけど」
「古嵜さんのおっしゃるとおりでしょうね。この家に関しては私が責任をもって調べておきます。ああ、それと、今のお話で思い出しましたが」
「え、何よみっちゃん」
「この家は、どうも、『ししえりさん』という何かが出るそうです」
「……それ最初に言うべき情報じゃないの?」
珍しく呆れたような顔で人様につっこむ栖さんを見て、私は少しだけ息を吐いて笑った。
緊張が少し溶ける。けれど、私の首の後ろあたりに感じる気持ちの悪い視線は、一向に消えてくれない。
二階の人影じゃない。アレは私にも見えているけれど、でも、違う、私は一体、どこから視られているのだろう。
ざわざわと広がる悪寒を飲み込み、息を吸う。
四月。まだうっすらと肌寒い季節に私は、あの家――ししえりさんの家に住むことになったのだ。
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