第10話 結界

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第10話 結界

 今夜は夜が長く感じる。  娘が長いドレスを引きずり姫の部屋から出ていくのを見計らい、シャディーンは眠れる姫の部屋に入っていく。  一日の最後にジュリアを見守るのはこの自分であると思うと独占欲が充足していくのを感じる。  観葉植物の育成状況を見回るのはシャディーンの仕事だった。  ジュリアの侍女たちは植物に水をやりすぎたり、奥まったところの鉢に水を差すのを忘れたりするのだ。  色とりどりの花は芳香で部屋を見たし、緑つややかな熱帯の植物は密閉されこもりがちな空気を浄化してくれる。  人は緑あふれる森の中でまどろめば、心穏やかになると思うのだ。  白い天蓋の中をうかがった。  たった一度の儀式で姫の呼吸は大きく深くなっている。  氷の人形のようだったひと月前と比べると、目覚ましく回復している。  いまにも寝返りでも打ちそうな気がした。  眠っている娘を凝視するのもはばかられてしまう。  シャディーンは紗幕を戻した。  扉へと向かいながら呪文を口ずさむ。  一足ごとに、魔術紋様(クルアーン)が生まれては大気にしみこんでいく。  幾重にも張り巡らせた結界だ。  この結界を許可なくくぐれるものはシャディーンがあらかじめ許したジュリアの侍女数人と、異世界の娘だけ……。 「わたしも中にいれてくれないか?シャディーン、中にいるんだろ?」  扉外で憤慨を隠せない声がする。  誰何しなくても誰かわかる。  シャディーンは舌打ちするが、結局のところ、せっかくかけ直した結界をすべて解除し、この部屋の主の実兄が入るに任せた。 「わたしもいつでも入れるようにしていてくれ。まさかジュリアの部屋に入れず弾き飛ばされるとは思わなかったよ」 「それは、申し訳なかった」 「ははッ。おざなりの謝罪はいらない」  シャディーンとルシルスはにらみあった。  ルシルスからは会食でみせたにこやかさはそぎ落とされている。  一緒に育った二人は幼馴染でもあり、いろんな場面で張り合うライバルでもあった。  そして彼らの間にはいつも美しい娘がいた。   「報告の通り、ジュリアの容態は、本当によくなったんだろうな」 「自分の目で確認したらいいだろ」  ルシルスは先ほどシャディーンがしたように天幕の紗幕の間から姫の具合を確かめる。  ふうとため息をつくと離れた。 「確かに、動き出しそうだ。光り輝く者の光が、ジュリアの内側で輝き、命を与えているのか」 「たっぷり時間をかけ二人をなじませ準備を整えたからな」 「異世界から見つけてきたあの哀れで貧相な娘、お前がしていることの本当の意味を知っているのか?」 「助け手として姫の心を修復するのを助けてほしいと伝えている」 「そうかもしれないが、それだけじゃないだろ?」  シャディーンはだまった。  本当のところ、彼女にすべてを伝えていない。  ジュリアの心を癒すのに使っているのは、あの娘の命の輝きそのものである。  一度に大量に注ぎ入れることも可能な新月の儀式は、普通の人間では一度で命を落とすこともある危険な儀式でもある。 「彼女の光は、姫に移行させても余りあるぐらい強い」 「だが、確実に弱っていくだろうに」 「おれが都度補ってやる」 「失われた寿命は補えないだろ。できるのは疲労回復程度か?お前ができるぐらいなら、異世界から娘を引き寄せる必要などなかっただろうに」  ルシルスは皮肉な笑みを浮かべた。 「彼女を特別扱いしているのは、彼女の寿命を縮めることに対しての罪悪感か?堅物のお前が先ほどわたしから奪うように抱きかかえた姿に驚いたよ」  シャディーンは不快げに眉を寄せた。 「彼女はまさしく特別な存在だからだ」 「それはジュリアにとって、だけか?」 「ジュリアにとって以外にないだろ?だから樹里には最後までここにいてもらわなければならないのだから。ジュリアが目を開くとき、樹里は生きているよ」 「じ、じゅり?ああ、ジュリのことか。ジュリアが目を覚まし、ジュリが生きている未来を覗いたのか」 「未来は不確定だから、見ても意味がない」 「はたしてそうなのか?」    樹里とジュリでは発音が微妙に違う。  正確に発音できるのは自分だけだ。  あちらの世界の音を再現するのに、300回はつぶやき人知れず練習した。  シャジャーンはルシルスの問いかけに応えない。  このアストリア国はいにしえには大魔術師が誕生した国。  どの大陸で生まれるよりもはるかに強力な力をもった魔術師が誕生している。  古き血筋のアストリア王家は、時折、そういう魔力を持った者が生まれている。  今生では、二人の美しき兄妹、ルシルスとジュリア。  数世代さかのぼれば王家の傍流につながる、自分もそうだ。  ふたりが王家に生まれず幼少期から適切な師につくことができていれば、自分ほどではないがそこそこ使える魔術師になれただろうと思う。  魔力を持った者は、正確にクルアーンを読み解くことができるし、目に宿る魔力の光、命の輝きといったものを見ることができる。    「ジュリアとの相性が重要だった。共通するものがたくさんあればいい。命の光の色、質、熱さ、輝き。名前も似ている。樹里とジュリア」 「すごいな。そこまでして探し当てたお前の原動力は、ジュリアを暴漢から守れなかった後悔からか?」 「後悔はしても、彼女は元に戻らない。そんな無意味なことにかける時間はない」 「それもそうだな。だが、空いた時間は遊んでいたのか?一年もたつのに暴漢は捕まらないのはなぜだ。いつまでたってもお前から朗報が届かない。いったいどういうことだ?」 「相手も呪術を使い、痕跡を全く残さなかった。犯人捜しは正直行き詰っている」 「痕跡を残さずやってのけられる者を、探せばいいだろう?わたしはわたしの最愛のジュリアを、氷の人形のようにしたものを八つ裂きにしたくてたまらない。このまま亡くなることになれば、ジュリアを守れなかったお前は同罪だ」  再び二人はぎりぎりとにらみ合った。  互いが互いの仇敵のように。    だが、先に緊張をほどいたのはルシルス。  その顔には疲れがにじむ。  ジュリアに変化があったと鳥を飛ばして伝えたのは早朝。  王子はすぐさま帝都をでて商船に乗り付け、海峡を越え、長旅を終えたばかりなのだ。   正直、こんなに早く帰国するとは思いもしなかった。 「いや、お前はよくやってくれている。わたしの戯言を真に受けてくれるな。なんとしてでもジュリアを元に戻してくれ。それからどれだけ時間がかかってもいいから暴漢を捕まえてくれ」    ルシルスの足音が遠ざかるのを、魔術師は確認する。  ルシルスのジュリアへの愛は兄妹愛をはるかに越えている。  自分のジュリアへの愛も、彼女を一日延命するのに平気で人ひとり殺すことができるぐらいの強いもの。  ルシルスの妹への愛と、自分の姫への愛と、どちらが強いのだろう。  それから暴漢は捕まることはないだろう。  なぜなら、その暴漢は……。    乾いた口の中を舌を回して湿らせ、ごくりと飲み込んだ。  再び呪文をつむぎだす。  今までの呪文に、ルシルスを加えなければならない。  その分、空中に現れた銀の光の紋様は微妙に変化している。  この扉を破ろうする者に死を与えよ。  わたしの愛する姫を守り給え。    
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