第一章 満月と新月の夜  第1話 月夜酒

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第一章 満月と新月の夜  第1話 月夜酒

 ゆうらりと満月が揺れる。  杯にまん丸な月を映して、家からとっておきの吟醸酒を持ち出して、貴文と肩を寄せ合い飲んだのは18歳の誕生日だった。  ちびりと舐めた酒はおいしい。  それも当然だった。  父が丹精こめて昔ながらの製法を頑なに守って代々作り続けている酒なのだから。  頬にニキビができたことをやたら気にしている貴文が、わたしを選んでくれたから。  その後のキスは、酒とたばこの味がして、気持ち悪いが先行してとても良いとは思えなかったけれど。    同じ満月でも違う。  あの時見た満月は、ぜんざいのもちのようではなかったか?  今夜の月は血のような赤味を帯びている。  まるでわたしを狙う、大きく顎をひらいた獣の口のようだ。  そう思ったとたん、わたしは大きな口を開けたその中へ落ち込みそうになって、ばたついた。  水の中に全身、それこそ頭までつかっていたことを知る。  袖口から染みた水が肌着と肌を貼りつかせた。  気が付いたとたんに、口にも鼻にも水がなだれ込んだ。  おぼれ死んでしまう!  恐慌をきたし、水面に顔を出した。  頭を振り、ぷはっと息を吸った。  わずかに鼻に水がなだれ込み、せき込んだ。  あわてたわりに水が浅くて安堵する。  うつ伏せにならなければ水死することはないだろう。  手のひらがみな底の粒の細かな砂を握る。 「水がしょっぱい。海水?どうして……」  背中に寄せた波の圧が体を揺らした。  海は月や星を映してキラキラと輝いている。  波の行き先が浜辺なのか。  目をこらすと黒々とした中にいくつか明かりが瞬いていた。    マリンススポーツで訪れる若者たち用の民宿かなにかがあるのかもしれない。  浜辺に寝ていたわたしは、海水が満ちてきて頭まで水につかることになったのか。  そもそも今は夏だったか。  冬だったら、こんなことをしていたら冷たい水で凍死していたかもしれなかった。  再び戻ってきた波が、沖へと体を引きずりこもうとする。 「どうして、わたしはここにいるんだっけ?」    かすれてはいるが、自分の声だった。  声が水面をすべり、同時に満天の夜空に飲み込まれた。  わたしは立ち上がり、どぼどぼと水を滴らせるジャケットを脱いで絞った。  次いでにスカートからシャツを引き出し、裾を絞った。  ジャケットの生地は厚い。  冬用で、シャツの下にきている肌着も長袖の極暖シャツ。  膝上のスカートも、間違って履くとダサいので夏にはしまいこんでいるものだ。  だがここは、真夏の太陽の熱をたっぷりため込んだぬるい海水、ぬるい大気。  夏の海。  赤い満月の夜。    誰と一緒に海に遊びにきたのだろう。  浜辺で満ち潮に飲まれるまで、どうして一人で寝ていたのか。  置き去りにされたのか。友人たちは近くにいるのか。  酒を飲んで、皆ねむってしまったのか。  ここは夏なのに、どうしてわたしは冬の制服なのか。  不可解で、不可思議で、混乱する。  そうしているうちに、ふくらはぎの半ばまで海水面が上がってきている。  このままここで立ち続けることは、自殺するようなものだ。 「自殺!?」  いきなり心臓を握りつぶされるような痛みに、胸を押さえて呻いた。  とたんに記憶が映像となって流れこんできた。 ※  あんたの元彼氏が向こう岸にいるわよ。  真冬の川の中にあんたがおぼれているのを見たら、まだあんたが好きだったら助けてくれるんじゃないの?  足を滑らせたふりして、自分から飛び込んでみたら?  はやし立てる友人たち。  猫っ毛のふわ髪の美奈は、顔を真っ青にして水辺からにじり下がった。  美奈の彼氏だった貴文は、先月の、わたしの誕生日の夜からわたしの彼氏になっていた。  自己主張せずわたしたちの仲間の隅にいて、いつも困ったような顔をしている美奈は、どうしてなのか男子にもてた。  美奈に話しかける男子に貴文もいた。  美奈が貴文と付き合うのは許せなかった。  彼をかっこいいと言ったのはわたしが先だ。  だから、貴文を酒で誘い出してキスした。  略奪愛だ。  彼氏を奪われた美奈は、つきあい始めたことを知っているのにどうしてそんなことをするの、とわたしを責めた。  貴文は本当はわたしのことが好きだったのよ、わたしに近づくためにあんたを足掛かりにしたのよ、勝ち誇ったようにいうと美奈はひどく悲しい顔をして口をつぐんだ。  友人の彼氏を奪うなんて、まるで悪役令嬢だね。  女友達は、わたしの勝利を祝福する。  世間ではジェンダー男子や草食男子といわれて久しい。  わたしたちの世界も、生物界の法則と同じ、弱肉強食。  強い女が欲しい男を得て何が悪い。  美奈は貴文の気持ちはまだ自分のところにあると女々しく信じているに違いなかった。  わたしが貴文に飽きるのをじっと貝のように待っている。  はっきり言えることがある。  わたしが貴文に飽きても、美奈のところに貴文がいくことはない。  だって、貴文はわたしにめろめろなのだから。  その時、川べりの運動公園でサッカーをする少年たちのグループがあった。  大人のコーチがついた真剣なヤツだ。  危ないっという叫びに、わたしたちは状況がわからず身を固くした。  振り返ったわたしのこめかみに何かが直撃する。  衝撃でわたしは背後に吹っ飛んだ。  何が起ったかわからないまま、川に落ちた。  おぼれるのは美奈ではなくて、わたしだった。  真冬の水の中に飲み込まれて、悲鳴を上げることもできなかった。  生活排水も流れこんだ不衛生な水を飲み込みたくなかったが、空気の代りにたっぷりと飲んでしまった。  そのうちの一部が肺になだれ込む。 「ああ!樹里!樹里!」  美奈が、友人たちが、必死に叫んでいる。  対岸でも、貴文たちが騒いでいるのが途切れ途切れに見えたような気がする。  そうだ、おぼれても、多少流されても、わたしには貴文がいる。  貴文はもうやめてしまったけれどかつて水泳部員だったのだから。  そして苦しくなって気を失ったのだった。  貴文はわたしを助けられなかったのだろうか。  あのまま流されたとして、海にたどり着くには別の県をまたがなければならない。  何十キロも流されて、はたして冬の水の中で生きていることなどできるのだろうか。  ついでに季節もまたぐこともあるのだろうか?  不可思議さに笑い出しそうになる。  まだ夢の中なのかもしれない。  それとも、もう死んで、あの世に流れついたのか。  目覚めれば、冬ではなくて夏。  満月が口を開く夜の海。  ようやく浅瀬から上がり、乾いた砂を踏む。  口の中がざらつき、何度か咳をするとすっきりとした。  三途の川の水は、海水だっけ?  わたしは誰だっけ?  藤崎樹里。  高校三年。  一か月前に処女喪失した。  皆がうらやむ都会の大学に、推薦入試で早々に合格を決めた。  わたしたちのグループには、イケていない女子は入れない。  自他ともに認める悪女である。  
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