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第51話 最後の儀式②
黒いマントを翻し突然現れた魔術師に、部屋から出ようとしていた侍女は腰を抜かさんばかりに驚いた。
花火が終わり、初日を終えた祭りの後の王城は、生ぬるい静寂に満ちていた。
「開けろ」
「魔術師さま、そ、そちらは……?」
シャディーンが夜遅くに訪れ、何を抱きかかえているのかいぶかしんだのは一瞬で、顔色が変わる。
利発な侍女らしく事態の緊急性を察した。
「怪我をなされたのですか!一体何がおこったのですか!すぐに医者を、」
「医者は不要だ」
「でも……」
これ以上時間を無駄にはできない。
ベッドに寝かせ、侍女があわてて用意したぬれタオルを奪うようにして取り、血に汚れた顔をぬぐう。
髪が冷や汗で濡れ頬に張り付いていた。口の端にこびりついた血の塊に、心臓が締め付けられた。
失われた血をすぐさま補わねばならなかった。
左手首を切り、その血を樹里の唇に注ぐ。
意識がなくても本能なのか、ごくりと何度か飲み下された。あふれ、あえぎ、むせ込み、はき出されても、己の命を樹里に注ぎ込みつづけなければならない。
右手で冷たい手を取り指を絡めてつなぎ合わせた。
目を閉じ樹里の体内に意識を走らせ、治癒のクルアーンをつぶやく。
ほどけてしまった体内組織を再び繋ぎあわさなくてはならない。それも手当たり次第に。
だが、寄せ集めつないでも、粒子こまやかな浜辺の砂のように、指の間からこぼれ落ち続ける。
樹里の修復が必要な細胞に合わせ、己の意識を万の糸に分けなければならなかった。
絶望にとらわれそうになる。
だがあきらめたら、樹里はその時から緩慢に死んでいく。
漆黒の闇の、必死で生きようとする美しい瞳を再び己に向けることなしに。
もう一度見たかった。
約束したのだ。無事に帰してやると。
侍女が側で泣き続けていた。
おやめください、シャディーンさまも出血多量で倒れてしまいます。
ジュリさまはわたしが身体を清めますので、どうか、その場を空けてください……。
「……シャディーン、今すぐやめろ、戻ってこい。これは、一体どういうことなのか」
ルシルス王子の命令が、樹里から魔術師を無理やり引き離した。
ルシルス王子は強くひねりあげるようにして血を流し続ける手首を圧迫する。
不思議と肉体の痛みは感じない。
身体の内側の、冷たく打ち続ける心臓が痛いだけだ。
「……生きているのか?」
「生きている。なんとか自力で呼吸をできるようにしてやらないと。一晩、治療魔術を施せば一命はとりとめられるかもしれない」
「……何のために?」
「この世界は樹里にとっては毒の海に浸っているようなもの。もとの世界に帰還させるために」
わかりきったことをきくルシルス王子に腹が立った。
ルシルス王子は笑みを浮かべていた。
いつもの王子の笑みは陽光を思わせるのに、娘を見下ろす笑みは背筋を凍らせた。
「そうであるのならば、急いだ方がいいね。新月にはまだ早いけれど」
振り返り、部屋の外に待機していたものに儀式の準備を指示する。
「樹里が瀕死の状態なのに儀式をするつもりなのか?」
「この娘が瀕死の状態だから今すぐしなければならないんだろう?」
「何……」
「早くしなければその娘だけじゃなくお前も冥界へ旅立ちそうな状態だ。お前という儀式を執り行う要も欠き、光輝く命の輝きを持つ娘も喪失してしまえば、わたしのジュリアは永遠に目覚めないことになってしまう」
わたしのジュリア。
ルシルス王子の言葉にシャディーンは唇を噛んだ。
歯の間からしぼりだすようにして言う。
「儀式をすれば樹里は確実に死んでしまう」
「だからこそじゃないか!せっかく呼びよせたのにむざむざ死なせるのは惜しい!命の輝きがはかなく消えてしまわないうちに、娘に残されたありったけのものをジュリアに注ぎ込む!その娘は肉体は死ぬが、ジュリアの命の燃料として生きることになるだろう!わたしのジュリアがようやく目覚めるには、完全なる輝きの移管が必要だったのだ」
ルシルス王子の鼻腔は広がり、興奮を隠しきれない。
その目はどこか遠くを見ていた。目覚めたジュリアをまざまざと見ているのだ。
だがすぐに戻ってきてシャディーンを見下ろした。
「まさか、わたしに刃向かうなんてことはないだろう?お前を見つけ、居場所を与え、存分に知識を与えたのはわたしだ。兄弟のように思っている。弟のようなお前が、誰よりも美しく愛らしいわたしのジュリアよりも、その散切り頭の取るにたりない娘を優先するなんてことはないだろう?」
わたしのジュリアと連呼するルシルス王子にそこはかとない嫌悪感が沸き上がる。
「いい加減、目を覚まさなければならないのは俺たちの方だ」
「何だって?」
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