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第54話 目覚める
指さす方向には二つの死が横たわっていた。
一つは肉体の死で、それはわたしの身体。
もうひとつは精神の死、目覚めることをかたくなに拒絶しているジュリア姫のことだ。
この意識だってこの世界にとどまっているのだけれど、肉体が朽ちれば宙に放たれた磁力のように薄れていくのだろう。今は幽体離脱した精神体のようなものだ。
川で溺れたとき、嫌な咳が治らないとき、何度も死を身近に感じていたのに、こうしてあらためてベッドに横たわる「藤崎樹里の死」を突きつけられたら、これ以上「死にたくない」とあがいても、無駄のような気がした。
ただひとつ、心残りなのは、焦がれてもだえるような恋をしたことも、互いに激しく求めあい自他が混ざり合うような感覚も、まだ経験していない。性愛を越えたところにある家族のような穏やかな愛情だって、誰かと共有したかったこと。ひとつじゃないか、こんなときでも、笑えてしまう。
人生は所詮負け戦なのだ。
所詮人は不慮の事故で、病で、老いて死ぬのだから、ここで死んでしまうのもわたしの運命だったのだ。
ボールを頭に受けて川に落ち流されたときに「藤崎樹里」は生を終えたと考えるのが自然で、この世界の樹里はご褒美のような、おまけのようなものだったのかもしれない。走馬灯のように、アストリアで過ごした日々が走りすぎる。シャディーンとあんなことになったけれど、彼しか頼る人がいないような状況でもなく彼と出会っていたら、今度こそまともな恋愛ができたのだろうか。シャディーンよりも、グリーのほうがありえそうだった。帝国の皇子で、婚約者候補がほかにもいるようだから、わたしと恋愛などあり得ないのだろうけれど。
「ご褒美?おまけ?うふふ。きらきら美しい文様を見せる魔術文様のような人ね。わたしも、そんな風にお気楽にきらきらと生きたかったわ!苦痛にしかなかったあまたの未来も、あなたならひたむきに立ち向かって、いえがむしゃらにしがみついて?たくましく生き抜けるんじゃないかと思えるわ。周りを巻き込んでいくところ、わたしは心底気に入っているの。シャディーンが誰かを抱くなんてこと想像もつかなかったんだから。冷血なグリーリッシュだって、あきれるほど別人で年相応の顔をしてあなたをデートに誘うし」
……まさか、あんな時もこんな時も、ジュリアはわたしと一緒だったの?
くっきりと明確に目鼻立ちが見て取れるようになってきたジュリアの精神体に対して、わたしは次第に形をとるのがむつかしくなる。同時に、死にゆく肉体へ引き寄せられそうになるのを踏ん張り耐えた。
「あなたとわたしとはずっとつながっていたっていったでしょ。今日は三回目だから、命があなたから流れ出す力が強い。ほら、見えるでしょう?あなたの命のきらめきがわたしの身体に流れ込んでいく……」
線香花火の残りの炎が、ぽつりぽつりと落ちていくように、まぶしくきらめく光が死を迎えるわたしの身体から、つないだ手を通してジュリアへと流れていく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
光の間隔が次第に空いていく。
はちみつの瓶をさかさまにして落ちてくる蜜を待つような。
本当に本当に、残り少ないのだ。
「わたしたちの願いは相反していない。だから、わたしたち双方の願いをかなえる方法がある」
……それは何?
しぼりだされた最期の一滴がだらしなく開かれた口からきらめく玉となってこぼれ出た。のろりのろりとジュリアに向かうのを目で追う。命の粒が横たわるジュリアの口に入ると、大きく胸が膨らんだ。
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