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第55話 それから (悪女がお姫さまになるとき 完)
それから、心が身体になじむまで心にも体にも時間が必要だった。
一年半という長きに渡り、寝たきりの状態だったこの身体からは筋肉がそぎ落ち、立ったり座ったりも含めて些細な日常生活を送るために、栄養豊富な食事とリハビリが必要だった。食べ物を咀嚼するだけで、顔じゅうが筋肉痛になった。
この頭に中に詰まった記憶だけがジュリアだったことを示すものである。それさえも自在に引き出せるものではない。目覚めたとはいえ、いまだに助けなしには歩けないので世話をしてれる侍女や訪問者たちの名前と自分(ジュリア)との関係を記憶の混沌の中から引き出そうと苦労する。
名前がでないでがっかりする侍女の三人目の顔を見たときに、わたしは記憶がところどころ、ごっそりと落ちてしまったことにしたのである。
「ジュリア、珍しい植物を見つけてきたんだ」
手に鉢を抱えたルシルス王子が満面の笑みでベッド近づいてくる。
部屋の中のジャングルと化していた観葉植物は八割方、王城の庭の温室の方に移動させたのに、彼はまた増やそうとしていた。
「ほらみてごらん」
肉厚の葉からすらりと頸を伸ばし、ぷっくりとつぼみを付けている。
白い肌につぼみの先はほんのり桃色をしている。
「この胡蝶蘭の開いた花をお茶にして飲むと元気になるそうだよ。一日でも早く起き上がれるようになって、わたしと共に歩んでいこう」
その言葉にはただ歩く以上の意味が込められている。
わたしの手をうやうやしくとり、唇で触れようと顔をちかずけていく。
わたしは溺愛の末に監禁されたり幽閉されたり、凌辱されたりして人生を過ごすつもりはない。
効果的な撃退方法があった。
「お兄さま、くさいです」
心底嫌そうに顔を背けた。ルシルス王子の手から抜きさった。
露骨だと思うが、わからないやつにはこれぐらいはっきりと伝えなければならない。
「ええ?そうなのですか?今朝は二度も身体を清めてきたのですが、匂いますか?」
不安げに袖口を嗅いでいる。香水をつけてきても、くさいと言い続けている。申し訳ないと思うけれど、この体は実の妹なのだ。ルシルス王子があきらめるまで、その欲望に火が付かないように、水を差し続けるつもりだ。
「自分の匂いは気が付かないといいますけれど、お兄さまのはちょっと。どうも、アレです。目覚めてから匂いに敏感になったようです」
「アレ?か?す、すまない……」
また顔を見に来るよ、と言い残してルシルス王子は退散していく。
新月の儀式から15日後。
この世界に召還されたのとおなじ満月の夜が巡る。
扉を叩く者がいた。
出入口すべてに防御の魔術はかけられたままだけれど、わたしの許可があれば扉は開く。
侍女が水をもってきたのか、明日の準備なのか、と部屋に入るのに任せた。
植物がないとこの部屋は無防備だった。
ガラスの壁にはベランダに続く扉がついていて、ベランダに出ると城下の港町の民家の明かりと、月光を反射してきらめく海が見える。静かに耳をすませると遠くの波の音が聞こえてきそうだった。海に浮かぶ船なのか、瞬く小さな光がいくつもあった。
「……異世界から召還された娘は召還した魔術師の手によって、満月の夜に海に流され丁重に葬られたよ」
ベランダのすぐそばまで来たものは侍女ではなかった。
箝口令が厳しくしかれ、異世界の娘の話をするものは一人もいない。
人々が口の端に上ることが許されない樹里は、やがてそのうちにフェルドやマグナー、アリサの記憶からもきれいさっぱりと忘れ去られていくのだろう。
わたしは、ここに、ジュリアの身体の中に納まって生きているのに。
「……あいつを生け贄にし、命を食らい生き延びるというのはどういう気持なんだ?お姫さまは」
人を見下す傲慢な口調。
わたしは振り返った。
グリーリッシュ皇子だ。
彼は、こちらの方が素なのかもしれないと思う。
「わたくしが望んだものではないわ」
「はッ。お姫さまは自分ではなんにもできないくせに、すべて人にやらせておいてお気楽なものだな。あの娘に入れあげていた魔術師は当分立ち直れそうにないというのに」
「それこそ、彼女が望んでいたことかもしれないでしょう?」
わたしがいう彼女というのは、ジュリア姫のことだ。
あの入れ替わりをした時のことをわたしは何度も何度も思い返していた。
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