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明日実とはじめて出会ったのもバスの中だった。
その日、駅から大学へ向かうバスは空いていた。講義直前の時間帯はいつも混むので少し早めに家を出ているようにしているのだ。
僕は悠々と空いている座席を選んで座ると、斜め前の席に座る一人の女性が目に留まった。彼女の座る姿勢がとてもよかったからだ。背筋がまっすぐに伸びていて、美しかった。
平日にこの路線のバスに乗る人はほとんどが大学に向かう学生か教授なので、きっとこの人も僕と同じ大学に通っているのだろう。
「いや待て。それどころじゃない」
そこで僕は彼女について考えるのをやめた。
これからの講義で課題のプレゼンをしなければならないのだ。練習せねば。事前に準備は整えているため不安はほとんどないが、精度をより高めておくに越したことはない。
発表原稿を読み返しながらイメージトレーニングを重ねている間にバスは大学に到着した。
「あれ?」
僕がバスを降りるためICカードをリーダーに近づけると、普段と違う音が鳴った。アラートのような妙に心がざわつく音だ。
「残高不足ですね。現金でお願いできますか?」
「あ、はい」
運転手にそう言われ、僕は財布を取り出す。しかし中身を見て愕然とした。
札入れに一万円札しか入っていなかったのだ。
「えっと、一万円札って両替できましたっけ」
「いえできません」
「残高にチャージとかも」
「できませんね」
僕と運転手の間に気まずい沈黙が流れた。お互い打つ手が見つからなかった。万札一枚でバスに乗ろうなんて世間知らずのお嬢様かと我ながら思う。
バスの運賃箱はお釣りが出ない。両替も千円札のみだ。もちろんお釣りなんて気にせず万札を突っ込めば降車はできる。
しかし運賃280円に対して一万円を支払えるほど僕はお嬢様ではなかった。だが構内のコンビニで両替をしてくる間、バスを止めておくわけにもいかない。
「……あの」
万策尽きた、と諦めかけていたとき、後ろから声が聞こえた。
そこには斜め前に座っていた彼女が立っている。それが明日実だった。
「とりあえずここは私がお支払いしますよ」
「え、大丈夫なんですか」
「私まだ残高ありますから。それに命のほうが大事ですし」
「命?」
彼女が手でそっと促した先を見ると、これからこのバスへ乗り込もうとしている大勢の乗客が僕の方を睨みつけていた。バスが到着したのに扉が開かない不満が殺気となり僕に向けられている。これはやばい。
「本当にありがとうございました。助かりました」
「いえ。無事にバスを降りられてよかったですね」
「本当に、あなたは命の恩人です」
大袈裟ですよ、と彼女は笑う。その笑顔に射抜かれた。
気付いたときには僕は「あの、恩返しがしたいんですが」と口にしている。
「え、鶴の?」
「僕は機織りはできないので代わりといってはなんですが」
こんなに何の考えもなく話すのは久しぶりだった。
彼女に何を伝えたいのか、自分でもよくわかっていない。頭で考えるよりも先に口を動かしている。
僕の頭にあったのは、彼女との関係をここで終わらせたくないということだけだった。
「良かったら一緒にフレンチを食べに行きませんか?」
フレンチ、と口から咄嗟に出たのは、女の子はたぶんフレンチが好きだろうという人生経験の少なかった僕の偏見に過ぎない。
今思えば恥ずかしい限りだけれど、彼女は「なんでフレンチ」と笑ってくれた。
「じゃあ、フレンチトーストなら」
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