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「置いてけぼりだって思ってたのよ。
あなたと別れた頃の私も」
「え?」
隣を見るが、彼女の横顔は川を見たままだ。
「今思えばホームシックだったんでしょうね。精神的に疲れてて、それでもあなたは研究を黙々と続けてるし、勝手に取り残された劣等感を感じて……だから別れたの。気を使わせて、あなたの負担になりたくなかった」
瞬間、よりを戻したい衝動に駆られたが、可能性は微塵もなかった。
「……そうか。今はどう?」
「平気。たぶん都会が合わなかったのね、私」
「幸せそうで、よかった」
「健一さんは今、恋人はいるの?」
「……」
見得をはって嘘をつこうかと思ったが、田舎の朝の空気は冷たく澄んで、自分を脚色するのがはばかられた。白い息まじりに本音を吐き出す。
「いないよ。仕事と結婚してるようなもんでさ」
「きっといい人見つかるよ」という返しを予測した。何百回と言われた言葉だ。慣れても心には微細な傷がつく。その覚悟をした。
「ずっと同じ仕事に打ち込むなんて、すごいね」
僕は目をぱちくりさせた。
「そうかな」
「そうよ。
『仕事と結婚した』って言うと、結婚できないネガティブな言い訳みたいだけど、あなたはずっと研究を続けて、仕事にして、一本の筋を通している。
素晴らしいことだよ。
変わるのも素敵だけど、変わらないひたむきさとか情熱とか、それも素敵だと私は思う。
昔のことも、気にしないでね。
私とあなたは合わなかった、それだけのことだよ」
僕は圧倒されていた。
久しぶりに人の言葉をまともに聞いた気がした。仕事とか関係なく、素の人間の言葉を。
1人で生きてきた気になってたけど、うらやましがったり、その逆もあったり、恋をしたりすれ違ったり、そんなふうに周りと影響し合って生きてきて、これからもそうだと、目からウロコが落ちた気になった。
「ありがとう。気持ちが楽になった。
彩……さんは先生みたいだな」
彩さんは微笑んだ。相変わらず、人の良さが内面からにじみ出てくるような笑顔だった。
「なんて、私も落ち込んだときに周りに声かけてもらってね、その受け売り。
あなたに渡せてよかった」
「うん」
そろそろ朝ごはんの支度を手伝わなきゃ、と彩さんは立ち上げる。一緒に帰るのもなんだから、僕は時間を置いて戻ることになった。
「ちなみに、私が言うことでもないけどね……お正月、親戚の子とくれば、やることがあるんじゃないの?
実香ちゃん、期待してるみたいよ」
そう言って、また彼女は笑った。
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