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さて、これからが楢崎の本番。背後にいる子熊ちゃんを振り返り、にこりと優しく笑いかける。
「大丈夫だったかな?」
「あ……はい。ありがとうございました」
青年は大きな身体を縮こまらせて、ぺこりと頭を下げた。声も柔らかくて低くて、とても素敵だった。
「あ、あの……怪我とか、ないですか? 殴られそうになって、たので……」
「ああ、あの時ね。昔柔道をやってたから、あのくらい平気だよ」
「そうですか……よかった……」
安心したようで、青年はホッと息を吐いた。昔は母親に嫌々やらされていた柔道だったが、こんな風に役に立つのならやっていて良かった。
「な、何かお礼を……!」
「えっ、お礼なんて、いいよそんな」
——君みたいな可愛い子と話ができただけで充分だ。
そんな気障なことは死んでも言えないので、心の中にしまっておく。
見た目はいかにも今時の若者、という感じなのに、ずいぶんと礼儀正しい青年だ。
「それより、君は大丈夫? 終電終わってるけど、帰れる?」
「はい、歩いて帰ります」
「家はこのへん?」
「えっと……こっから2駅、歩いたところです」
「えっ、2駅?! 遠いな……俺が払うから、タクシーで帰りな」
襲われたばかりの子を、真夜中に2駅も歩かせるなんて楢崎には出来ない。
そこまでしてもらうのは悪い、と遠慮する青年を無視して、ちょうど通ったタクシーに向かって手を挙げて停めた。
無理やり青年をタクシーに押し込み、財布から1万円札を出して渡した。
「えっ、お、多すぎます!」
「いいっていいって。気を付けて帰ってね」
「でも……!」
最近の若い子はがめついと聞くが、この子はなんて奥ゆかしい子なのだろうか。感動しつつ、しかしこのままではいつまでもタクシーを止めることになると思った楢崎は、遠慮する青年に無理やり札を握らせて、タクシーのドアを閉めようと手を掛けた。
すると、
「あっ、待って……待ってください」
閉めようとしたドアを、車内から青年が抑えた。
「せめて、名前だけ……!」
「えっ、名前? 楢崎、だけど……」
なんで名前を、と思いながら答える。
名前を聞いた青年は、楢崎の目をしっかり見ながら言った。
「楢崎さん、ありがとうございました」
その瞬間、稲妻に打たれたような衝撃が、楢崎の頭のてっぺんから足先まで走った。
とってもタイプの子から、楢崎好みの低くて柔らかい声で名前を呼ばれて、じっと目を見つめられて。楢崎の心臓は、爆発しそうなほどバクバクと音を立てていた。
気付いたときには、タクシーはもう目の前から消え、遠くの角を曲がろうとしているところだった。
——ああ、まつげ長かったなあ……。
バクバクと鳴り止まない心臓を服の上から両手で抑えつけた。そんなことをしても意味がないのは分かっている。分かっているが、抑えながら何度も何度も鳴り止めと心の中で唱えた。
異性愛者ばかりのこの世の中、二丁目とマッチングアプリ以外で出会う人はすべてノンケだと思うべきだ。
だから、さっきの子熊ちゃんもノンケだ。ノンケに違いない、のに。
『ノンケは好きになっちゃ駄目』と、数時間前に話した加賀美の声を思い出す。思い出すが、無理だった。
恋はするものではなく、落ちるもの。
人を好きになるのに、場所も出会い方も選ぶことなんて出来ないのだ。
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