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1.癖ある理想を持つ男
2月14日。
朝の通勤列車の中は、数週間前からきらびやかなチョコレートの広告だらけ。電車のドア上のモニターでも、テレビで見るのと同じようなチョレートのCMが流れている。
——あ、そうか。バレンタインか。
通勤中の電車の中、その広告や乗り合わせた若い学生のどこか浮き足だった雰囲気で、今日がバレンタインデーであることに気が付いた。
しかも本日、金曜日。華金だ。きっと夜の街は熱々のカップルで溢れかえるのだろう。
まあ、自分には関係ないか。と、サラリーマン——楢崎龍一は、こっそりとため息を吐いた。
関係ないと思っていたが、案外そうでもなかった。世間は無理矢理にでも、楢崎をイベント事に巻き込もうとしてくる。
いつも通り出社して自席に座ると、なんだかいつもと社内の雰囲気が違うことに気が付いた。普段は別のフロアで仕事をしているはずの他部署の女性社員たちが、楢崎のいる営業部のフロアにたくさんいるのだ。
「おはようございます、楢崎課長!」
「ああ、おはよう」
普段顔を合わせない女性社員たちが楢崎の元へやってきた。彼女たちの手には、可愛らしくラッピングされた小さな箱が。
「これっ、総務部の女子社員からです……!」
「これも貰ってください! 経理部の女子社員からです!」
「あの、こっちも! これは広報部の女子社員から……!」
ああ、そんな風習があったなあ。そんなことを思いながら、女性社員たちからチョコレートの入った箱を受け取った。
「ああ、ありがとう。頂くよ」
そう言ってにこりと笑いかけると、どこからとなくきゃあ、と黄色い声が上がった。
「ねえ、今の見た?! 楢崎課長の笑顔、超かっこいい〜!」
「見た見た。渋いイケメンって最高! 目の保養になる〜」
「年々カッコよくなっていってるのヤバいよね?!」
「あー、俺も楢崎課長みたいな男になりたいよ」
——聞こえてる、聞こえてるって……。
本人たちはこそこそやっているつもりだが、楢崎の耳にはしっかり届いている。悪口だったら嫌だが、聞こえてくるのは賞賛ばかりなので悪い気はしない。聞こえてるのがバレたら少し気不味いので、聞こえていないふりをして仕事にとりかかる。
「でもさあ、あんなにイケメンだし優しいのに、今独身なんだよね」
「そうそう、信じられない!」
「彼女いないのかな〜?」
彼女、結婚。
そんな単語が聞こえ始めたあたりから居た堪れなくなり、静かに自席を立って、こっそりフロアを抜け出した。
非常階段をのぼり、ひとつ上のフロアにある喫煙ルームに向かと、始業したばかりの時間のせいか、そこには誰もいなかった。
ホッとして中に入ると、ジャケットの内ポケットから煙草の箱とライターを取り出した。今時紙煙草なんて、と思われてしまうかもしれないが、紙じゃないと吸った気がしなくて落ち着かない。
慣れた手つきで箱を叩き、飛び出たフィルターを咥えて火をつけた。ゆっくり煙を吸い込み、またゆっくりと吐き出した。
「見た目はいいのに独身」と言われるのは、中身に難ありだと言われているように聞こえて、良い気がしない。
そんな楢崎が、もうすぐ40歳になる今でも独身でいるのには、理由があった。
それは、楢崎がゲイだからである。
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