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「どうしたの?」
「ん?」
「それ。膝。右の」
「……あー」
口元だけ曖昧に笑う。気づいてほしいけど気づかれたくないこと、を気づかれたときの顔だ。
「言いたくないの?」
「いや。たいしたことない。ちょっと壊してるだけ」
「壊してる? 治るの?」
「うん。手術で」
「手術? え、いつ?」
「決めてない」
「え?」
「決めてない」
淡々と答えて、淡々とボールを修理する。表情と声に感情がない。
「決めてないってなに? 受けるんでしょ?」
「手術したら、一ヶ月くらい入院しなきゃなんない」
「……でも治るんでしょ?」
「治る。たぶん」
「たぶん?」
「まあ、わりと高い確率で」
「じゃあさっさと受けたらいいじゃない」
正体不明の苛立ちと焦燥で、語気が強まる。純平がなにを考えていて、なにを言おうとしているのか。わからなくて、怖い。
「退院まで一ヶ月、歩行できるようになるまで数週間、そのあとだってリハビリしなきゃなんない。そんなに長い期間バスケしなかったら、きっとあっというまに置いてかれる」
「でも、だからって……手術しなかったらどうなるの?」
しゅー、しゅー。ボールに空気を入れる音だけがしばらく響く。
「このままごまかしながらプレイしてたら、取り返しのつかないとこまで悪くなって、きっと一生、バスケできなくなる」
「……はあ?」
「だけど……やっとここまできたのに。いま前線離れたら、戻れるまで相当時間かかる。へたすると、戻れないかもしれない」
「そんなこと言ってる場合? 一生できなくなるんだよ?」
「…………」
「あんたそれでいいの?」
「…………」
純平はなにも言わない。光の宿らない瞳で、ぼおっとボールを見ている。
そのボールを、無意識に弾いていた。ぼんっ、と音を立てて転がっていく。空気入れも、がしゃんと床に落ちた。
感情の抜け落ちた目がわたしを射貫く。
「あんた、アメリカでバスケットがしたいの? ちがうでしょ。バスケットがしたいんでしょ? アメリカだろうと日本だろうと体育館だろうと近くの公園だろうと。そうでしょ? アメリカでできなくなったら日本でやればいいじゃない。それをあんた、」
表情がすんとも変わらない純平を見て、かっとなる。胸ぐらを掴んで強く揺さぶった。
「置いていかれたくないから手術しない? この先バスケできなくてもいい? あんたそれ本気で言ってんの? バカじゃないの? あんたからバスケットとったらね、なにも残らないの。あんたはそうなの。手術しなさいよ。ぜったい。そしたらまたできるんでしょ。手術しな、ぜったい。それで治るんでしょ。バスケできるんでしょ。それでいいじゃない。それを、あんた、──っ」
わたしはバスケットがきらいだ。いまだってちゃんと好きになれない。純平が、バスケットよりわたしに夢中になってくれたら。いまも昔も、ずっとそう思ってる。
だけど、ほんとうに純平がバスケットよりわたしを大事にするようになってしまったら。わたしはきっと、死ぬほど悔しい。想像だけで、気が狂うほどさみしい。ここにひとり取り残されるより、ずっとずっと。
純平の口が開く。
「うん。おれ、手術受ける」
「……へ?」
「受けようって、ちゃんと決めてきた」
「…………」
「いつにするかだけ、まだ決めてないけど」
「そっ、それをっ、先に、言ってよ……」
純平のパーカーから手を放す。さっきまで興奮していたのがとてつもなく恥ずかしい。
「受けようって、ちゃんと決めたんだけど」
「…………」
「なんとなく、踏ん切りつかなくて」
「…………」
「やっぱり、怖くて」
「…………」
「だから、怒られにきた。優衣に」
「…………」
「優衣ならたぶん、めちゃくちゃ怒ってくれるだろうって」
「…………」
「まさか胸ぐら掴まれるとは思ってなかったけど」
くく、とうれしそうに笑う。
なんなの、それ。むかつく。なんなの。なんだ。よかった。
だばだば涙があふれ出る。なんだ。よかった。なんだよ、もう。
なにかが頭に触れた。純平の大きな手が、粉雪に触れるような柔さでわたしをなでる。遠慮がちに引き寄せられて、さっきまでわたしが鷲掴みしていたパーカーに顔が埋まった。
「泣かせてごめん」
「ゆるさん」
「まじか。どうしたらゆるしてくれる?」
「……わたしが大事にしてるグラスを」
「ん? グラス?」
「わしゃーんって割ってしまって」
「わしゃーん?」
「すっごい、もうすっごいこなごなになってしまっても」
「うん」
「一緒に拾ってくれる?」
なかなか答えが返ってこない。顔を上げると、純平はむずかしそうに眉を寄せてうなっていた。
「優衣が大事にしてるものなんだろ?」
「え? うん」
「じゃあ、」ふ、と笑う。「割れるまえに、おれがキャッチするよ」
また泣きそうになって、しわの寄ったパーカーに顔を戻す。純平が抱きしめてくる。折れそう。骨。
「優衣」
「ん?」
「いまおれたち、いい感じだな」
「いい感じ?」
「うん。このままラブラブー、って。チュー、って。したくなるな」
「ラブラブ……」
「そんないい雰囲気をあえてぶち壊して、あえて蒸し返していい?」
「……は?」
純平を見上げると、彫りの深い両目がじっとわたしを見下ろしてくる。
「優衣ちゃん」
「は、はい」
「ゆーいちゃん」
「なに?」
にっと口の端が上がる。目がぜんぜん笑ってない。こわ。こんな顔、初めて見るかも。
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