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「ごめんな優衣。バイトで疲れてるとこつき合ってもらって」
買ったばかりのTOEIC対策の参考書をくいと持ち上げて牧村は言う。
「ううん。ちょうど上がりの時間だったし、わたしも本屋さん行きたかったから」
今日発売の漫画があって本屋に寄って帰ろうとスマホを見たら、牧村からLINEが入っていた。おすすめの参考書教えて、という内容だったので、ちょうど本屋に用があるから買ってこようか? と返したら、おれもバイト終わったから一緒に行く、と返ってきた。
「優衣、めし食った?」
「あ、うん。バイト先で賄い」
「そっか。じゃあ、お茶でもする? お礼に奢るよ」
「え? ……あー」
さすがにふたりきりでお茶はNGでは。というか、いまさらだけどバイト終わりに待ち合わせして一緒に本屋に行くのもどうなんだろう。飲み会の帰りにバス停まで一緒に歩くのとはわけがちがう。
わたしの逡巡ですべてを察したのか、
「やっぱり帰って勉強すっかなー。せっかく優衣に選んでもらったし」
わざとらしいくらい大きな声で言って、わたしの返事を待たずにバス停のほうへ歩き出す。
牧村に気づかれないよう安堵の息をもらす。
わたし、もしかしてもしかしなくても、けっこう最低なことしてるんじゃないだろうか。
牧村と別れてバスに乗る。ぼんやりと揺られていたら、ふと涙が出てきた。つーって。となりに座ったサラリーマンらしき男性が、わたしの様子をちらちらと窺う。その視線が気になって、すっと涙がひいた。
純平は一度にふたつのことを考えられない。わたしが目の前にいるときは好きだの愛してるだの臆面もなく言うくせに、バスケットボールが目の前にあるとわたしのことなんかすぽーんと忘れてしまう。
純平が好きだ。好きで好きで好きでたまらない。だけど、わたしはどうも、こころ穏やかには彼を愛せない。いつもぐるぐる、洗濯機でかき回されているようにこころが乱れる。息つくひまがない。凪いだ海のような気持ちで思っていたいのに。どうしてこんな恋をしてるんだろう。しあわせって思うことのほうがすくないのに。
逃げたい。もっと穏やかな恋に。牧村ならそうなれる。きっとしあわせのほうが多い。そう思う。思うのに。
目をつむったらうとうとしてきた。最近眠りが浅い。油断して、純平の顔なんて見てしまったからだ。会えもしないのに。
波ひとつ立たない海の上で、こころもとないボートに揺られる夢をみた。だれかとぴったり寄り添って、わたしたちはなにも話さない。
なんだかしあわせな気分がしたけど、となりにいたのは牧村じゃなかった。
ぼおっとした頭で玄関を開けると、どだだっとお母さんが走ってきた。まえにもこんなことなかったっけ?
「優衣っ。純平くん帰ってきてるよっ」
興奮に鼻の穴を膨らませたお母さんがそう叫ぶ。
「……え?」
「さっき挨拶に来てくれてねっ。また一段とかっこよくなってたわあ。やっぱり写真より実物よ実物! 髪なんてね、こう、なんていうの? ここ、ここ。ここらへんがこう、刈りあげっていうの? それで、このへんがこう、いい感じにこう流れてて──」
「さっぱりわからん」
平静を装うも、わたしはひどく動揺していた。
信じられない。アメリカにいるはずの純平が、いま、となりの家にいる。まだ夢でもみてるんだろうか。いやしかし、なんつータイミング。ついさっき、ほかの男の子に逃げたいとか考えた矢先に。タイミングこわ。どうして連絡ひとつ入れてくれないの。どうしてこんな、大学とバイト帰りでめためたの髪とメイクのときに。会えるってわかってたら、このまえ買った服着てた。どうしてこういつもいつも自分本位で──。
いや。そもそも純平、事前に連絡するタイプじゃないか。へたするとじぶんの親にも言ってなかったのでは。
深呼吸をしてから階段を上がる。じぶんの部屋に向かうのにこんなに緊張するとは。
部屋の前にたどり着いて、再度深呼吸をする。扉を開けると、窓の外から煌々と明かりがもれていた。すぐとなりの、純平の部屋に電気が点いているからだ。そこに人影がぬぼおっと立っていて、ぎくりとする。わたしに気づいた人影が、ぶんぶんと大きく手を振った。
三度深呼吸をしてから、部屋の電気を点ける。
純平がレースカーテンを開けたので、わたしも窓に向かってレースカーテンを開いた。
およそ1年2ヶ月ぶりの純平がそこにいた。髪が、たしかになんかこう、刈りあげとふつうのとこがあって、ふつうのところは、なんかこう、ふぁっとなっている。顔の造形はもちろん変わらないけれど、幼さが抜けて全体的に引き締まって見えた。え、うそ。また背伸びた?
うちのサッシは古い。窓を開くと、きゅいきゅいと耳障りな音がする。純平も窓を開けた。
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