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「知ってる? 梓ちゃん、ここ辞めたって」
安田さんがそう耳打ちしてきて、わたしは、えっ、と驚いた。料理教室での一幕である。
料理教室といっても家庭料理を習うための教室ではなく、アスリート向けの料理を習う教室だ。素人のわたしにはハードルが高いけれど、どのみち家庭料理もつくれないのだからどっちからはじめても同じだろうと、半年前にこの教室の門を叩いた。
「そんな急に……どうしてだろう。野球やってる彼氏を支えたいって、あんなにはりきってたのに」
「それがさ、別れちゃったんだって。その彼と」
「えっ。そうだったんだ……」
「ほら、野球だとさ、いるじゃん? チアっていうの?」
「ああ」
「一緒にいる時間が長くなっちゃったみたいでさ。そっちの子と彼が。それで、彼がそっちを好きになっちゃって。梓ちゃんのほうがフラれちゃったんだって。まったく、男も見る目ないよねー。梓ちゃん、彼のこと支えようって、お料理以外にもいろいろ頑張ってたのに」
距離に勝てないっていうのは、ほんと、よくある。どっちのほうが頑張ってる、頑張ってないとかではなく、ただのタイミング。グラスを割って落ち込んでいるときに一緒に欠片を拾ってくれるひとがすぐそばにいたら、だれだってそっちに寄りかかりたくなる。そういうこと。
「優衣ちゃんは? 彼とちゃんと会ってる?」
「……はい。まあ」
「そうよねえ。やっぱり、会って話すって大事なことよねえ。料理習うより大事」
えぐるじゃん安田さん。オーバーキルですよ安田さん。
わたしが純平のために自己満でしていることといえば、この料理教室だけ。ほかになにをしたらいいか、なにをしていれば純平の彼女でいられるのか、わからない。そもそもこの料理教室だって、意味があるのか。純平にごはんをつくったことなんてないし、求められたこともない。安田さんは運動部に入っている息子さんのためだし、梓ちゃんも、いずれ来るであろう結婚生活に備えて、と言っていた。ほかの生徒さんだって、わざわざアスリート向けの料理教室に来るくらいだから、きっとちゃんとした目的がある。
わたし、なにしてるんだろう。なんのために、必死でバイトして稼いだお金を料理教室の月謝に遣っているんだろう。純平に食べてもらえるわけでもないのに。
わたし、ほんと。
ずっと、なにしてるんだろう。
「あっ」
スマホをいじっていたお母さんが声をあげる。ほらほら、とわたしに画面を見せてきた。
「なに?」
「映ってる! 純平くん!」
「げっ」
しまった。油断した。せっかく見ないようにしてたのに。
「げってなによ。げって。幼なじみでしょー」
「……たいして連絡取ってないし」
「でも幼なじみでしょー」
言いながらお母さんはその投稿にいいねをする。純平の、おそらくクラスメイトのインスタだ。一瞬見えた画面に、外国の公園で撮られた集合写真が映っていた。
「純平くんはあんまりこういうの更新しないのねー」
「え、お母さん、純平のことフォローしてんの?」
「え、あんたしてないの? 幼なじみなのに?」
「べつに幼なじみだからって……まあ、してるけど」
「純平くんもわたしのことフォローしてくれてるもーん」
「まじか」
「ちゃんといいねもくれるもーん」
「まじか」
もしかしてわたしより交流してるんじゃないか。
「純平くんもやっぱり、アナウンサーとかモデルとかインスタグラマーとつき合ってるのかな?」
「……さあ」
「純平くん、そういう子たちにたくさんフォローされてるもんねえ」
げっ。
声には出さなかったけど顔には出る。
へえ。そうなんだ。へえ。
だからSNSって苦手。知りたくもない情報が勝手に入ってくるから。
「やっぱりあっちで結婚とかしちゃうのかしらねー」
「……かしらねー」
ふとしたとき。そっと、落とすように。
わたしは純平を、あきらめてしまいそうになる。
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