1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

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1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

「ハァ、ハァ……ッ」  僕は息を切らして走り続け、倒れそうになりながら神社の中へと逃げ込んだ。  走るのは苦手だけれど、逃げなければなにをされるかわからない。もしかしたら、食われてしまうかもしれないのだから。  いつものように、道端で奇妙な化け物と遭遇した。角が生えた小さな鬼たちが数匹、キーキーと耳障りな声で喚きながら僕を追ってくる。  あれは一体なんなのだろう。  どうしていつもあんなものに出くわすんだろう。  僕以外の誰にも見えていないのに――  逃げ込んだ先は、祖父母の家の近くにある天星(あまほし)稲荷神社だ。  小さな森の中にひっそりと建つその神社は、近所の人たちから『天星様』と呼ばれている。  鳥居をくぐったら、不思議と気持ちが落ち着いた。  小鬼たちはここまで追いかけて来ないはず。なぜかそう思った。  でも、鳥居の外にはまだ小鬼たちがいるかもしれない。僕はしばらく神社の浜縁(はまえん)の下に潜り込んで息をひそめていた。  社を囲む森の中に蝉の声が鳴り響き、夏らしい湿った土と草木の匂いがたちこめている。僕の家がある都会の町にはない空気だ。  いつまでここに隠れていればいいんだろう。  小鬼たちが消えても、どうせすぐにまた別の化け物に出くわすのだ。小鬼だけでなく、もっと大きくて奇妙な化け物や、掌サイズの虫みたいなものもいる。いつでもどこでもやつらは現れて、僕に悪戯をしかけてきた。  怖い! もう見たくない!  どうして僕にだけあんなものが見えるんだ?  不安でたまらなくなって涙ぐんだとき、誰かが傍に立つ気配がした。 「もう心配いりませんよ。あやかしたちは去りました」  そう言って手を差し伸べてくれたのは、見たこともないような綺麗な男の人だ。  (まばゆ)い銀色の長い髪と、銀色の瞳。身にまとっているのは光沢がある真っ白な狩衣(かりぎぬ)だ。  神主のようだけれど、こんなに煌びやかな神主は見たことがない。  彼はどこから現れたのだろう。歩いてくる足音も、どこかから飛び降りたような音もしなかったのに。 「ここは私の結界内ですから、他のあやかしは近づくこともできません。安心して出ていらっしゃい」  彼の微笑はとても綺麗で、そして背筋がぞくりとするほど妖しかった。  それなのに、どうしてなのか僕は惹きつけられるように、少しひんやりとしたその手を握り返す。 「怪我をしていますね」  言われて見下ろすと、半ズボンから出た膝小僧から血が滲んでいた。さっき逃げる途中で転んだのだ。  怖かったせいで感じていなかった痛みを、今になって感じる。僕は痛みにも血にもめっぽう弱い。  ふたたび泣きそうになったとき、その人が僕の膝に手を翳した。すると驚いたことに、滲んでいた血やこびりついた泥までがみるみる消えていく。 「今、なにをしたの?」 「君の怪我を治しました」 「どうやって……?」  彼を見上げて僕はギョッとした。 「耳がある……尻尾も!」  その人の頭には三角に尖った獣の耳が、腰の後ろにはふさふさの大きな尻尾が生えていた。なんの動物なのか、どちらもつやつやした銀色の毛並みで、しかも本物みたいに動いている。  もしかすると、この人も化け物なのか!?  恐怖でごくりと唾を飲み込んだ僕に、その人が笑いかけた。 「これは、いわゆるファッションアイテムのようなものですから、お気になさらず」 「ファッションアイテム……?」  そうなのか?  言われてみれば、巷では猫耳のアクセサリーなんかもあるからそうなのかもしれない。これはまるで本物のようにすごく良く出来ている。  それにしても、狩衣を着て獣の耳と尻尾を付けているなんて、どういうファッションセンスだろう。でも、なぜかとても似合っている。 「おじさんは、この神社の神主さんなんですか?」  その人は綺麗な笑顔のまま、こめかみのあたりだけを器用にぴくりと引きつらせた。 「?」  なんか怒ってる!?  妙な貫禄があるからついそう呼んでしまったけれど、こんなに綺麗な人にそれはマズかったのかもしれない。  慌てて『お兄さん』と言い直そうとしたら、その人は頬に手を当てて軽く溜め息をついた。 「これでも若く見えると、それに結構イケているという自負があったのですが、私は確かに『おじさん』と呼ばれても仕方がない年齢ではあります。それどころか、本当なら君のお祖父さんよりはるかに年上なわけですから。たとえ『おじいさん』と呼ばれたとしても文句は言えません」  やたらと『おじさん』とか『おじいさん』と強調するあたり、かなり気分を害していそうだけれど。それよりも引っかかったのは―― 「お祖父ちゃんよりも年上……?」 「これでも千年は生きていますからね」 「千年!?」 「ちなみに、私は神主ではありません。この神社に祀られているもの……つまり、君たちが言うところの神様です」  この神社の神様。ということは、天星様だ。  いくら子供でも、「私は神様です」と言われて信じられるはずがない。そんなヤバい人からは、普通ならすぐに逃げるところだ。  けれど、この人は目の前で僕の怪我を治してくれたし、動く獣の耳と尻尾を持っている。なにより、ずっと不思議な化け物が見えていた僕には、彼が人でないことが本能的に感じられた。そして、僕に危害を加える悪いものではないことも。 「お兄さんは、天星様なんですか?」 「人からはそのように呼ばれています」  今度は『お兄さん』と呼んだからか、天星様はにっこりと微笑んだ。
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