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なんなんだあれはっ!?
たった今起こったことがまだ理解できないけれど、体は本能で動いているらしかった。
これが火事場のバカ力というやつか。走ることは苦手なのに、これまで出したことがないようなスピードで僕は走り続ける。それでも、他人から見たらかなりの鈍足なのだろうが。
自分がどこへ向かっているのかわからない。
舗装された小道を外れて、整備されていない暗い森の中をめちゃくちゃに走っているのだ。神社のほうへ向かっているのか、反対方向なのかそれすらもわからなかった。
それほど大きくはない森のはずなのに、夜なのであたりがまるで見通せない。道標となりそうな人家の光もなく、明かりといえば背の高い木々の上に星が瞬いているだけ。
足元が見えないせいで、木の根っこに躓いて派手に転んだ。
「……痛ぅ」
腕を擦りむいたような痛みが走った。幸いそれ以外に怪我はないらしく、よろよろと立ち上がる。
天狗が飛んで追いかけてくるのではないかと不安だったが、今のところその気配はない。僕はほっと息を吐いた。
なんなんだよ、これは! なんでこんなことになってるんだ!?
この世に天狗など実在するわけがない。それに追いかけられているなんて、悪い夢なんじゃないか?
それとも、さっきの天狗はいつもの幻覚の一種だとか。
きっとそうだ。
暗闇に対する不安が天狗となって現れただけなんだ。
そう考えるのが一番納得できる。幻覚を相手に会話をしていたということは、病がそこまで悪化しているということかもしれないが。
ともかく、あれが幻覚ならば焦って逃げる必要はない。そう考えると少しは落ち着いた。
しかし、もうひとつ問題がある。僕は今、近所の森で遭難しかけていた。
この季節、もしもここで夜を明かしても凍死することはないだろう。下手に動かず、朝まで待つほうがいいのかもしれない。それも辛いけど。
途方に暮れて顔を上げると、前方に光が見えた。まるで闇の中に現れた救世主のように、建物の明かりが輝いている。
助かった!
藁にも縋る思いで、そのこじんまりとした平屋の木造建築に駆け寄った。
それは黒っぽい古民家風の造りで、格子付きの窓から暖かそうな光が漏れている。なにかの店なのか、入り口のほうへ回ると、ドアに『OPEN』と書かれた札が下がっていた。
そのドアを、僕は勢いよく開けた。
「すみません……っ!」
倒れそうになりながら、最後の力を振り絞って叫んだ。
整然とテーブルや椅子が並ぶそこは、飲食店のようだった。中は思ったよりも広く、左側にはいくつかのテーブル席、右側には長いカウンターが設えてある。煤けた色合いの木柱や梁、白い土壁を、ランプ照明の光がやわらかく包んでいた。
ゆるやかに流れるジャズピアノのBGMに、僕の激しい呼吸音が重なる。カウンター内の店員や客たちの視線が、一斉に僕へと向けられた。
「いらっしゃいませ。お客様、どうされました?」
「えっと、その……天……っ」
天狗に追われて道に迷いました。助けてください。
……そうじゃなくて!
この小洒落た空間が僕の理性を呼び覚ます。
そうだ。天狗は幻覚なんだった。助けなど乞わなくても、森を出る道さえわかれば自力で帰れる。
「大丈夫ですか、お客様?」
黒い襟付きベストに黒いパンツ、腰から下に黒のロングエプロンを巻いた長身の男性が、僕を上から覗き込んでいた。
ほのかな照明の下でもわかる、美しい銀色の髪に神秘的な銀の瞳。英国貴族のような気品漂うイケメンだが、きれいな日本語を話している。
あれ? この人、どこかで会ったことがあるような……?
なぜかふとそんな気がした。
けれど、こんな煌びやかな人物に会っていれば忘れるはずはない。テレビや映画で見た俳優に似ているだけだろう。
「お顔が汚れていますよ。これをお使いください」
「あ……すみません!」
イケメンがタオルを差し出してくれたので、僕は恐縮してそれを受け取る。転んだ時に泥がついたらしい。
「お怪我はありませんか?」
「あ、はい……大丈夫です。タオル、ありがとうございます」
「ならば良いのですが。お好きなお席へどうぞ」
「……はい」
道を聞いて帰るつもりだったのに、なんとなく断れない雰囲気になる。僕は言われるがまま奥のテーブル席についた。
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